【特集 こころを支えるお仕事】森林(シンリン)は考える──今はないところから|森岡正芳


森岡正芳(立命館大学)

シンリンラボ 第1号(2023年4月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.1 (2023, Apr.)

ひとは世界内に存在するのではない。ひとは世界とともに生成するのだ。
ドゥルーズ=ガタリ1991

シンリンラボ,このネーミングからすぐさま,環境エコロジーとの連想をうっかり? 読み取った。どう考えても「森林」という言葉が連想される。心の生態学的なラボラトリーがネット上で立ち上がる。面白い。実際,心に関わる仕事は,エコロジーと切っても切れない縁があると思う。その辺りをめぐって,以下思いついたことを書き留めてみたい。

人間の外から人間を考える

人類学者エドゥアルド・コーンの『森は考える──人間的なものを超えた人類学』(原著:How forests think)という本を手に取っていた。書名はまさに字義通りシンリンラボである。アマゾンの密林の奥に暮らす人々の生活,生態から得た着想は,心理の仕事において,私たちがどこかでは気づきながら,見えていなかったことに光を当ててくれる。森そして生き物たちはみな考えている。人間のみが思考するのではない。ちょっと驚くが,ここに留まってみよう。森と大地,水の流れ,大気の変化,そこに生息するさまざまな生き物が,人と共にそして,人を超え一つの環境を作っている。これは何もアマゾンの奥地に限らない。私たちはそれぞれにおいて環境世界に暮らしている。

森林が考える。その環境からあるものが足らなかったり,欠けたりするとそれを補い埋めるようにして動き出す。欠如という穴。これを察知すると生命体が動く,このことから著者は生命体と生態系は,不在と差異がつくるある種の記号過程であるととらえる。腹が減ると食を摂る。それが満たされると平衡状態を得る。安心して眠りにつく。欠如と欲求の関係。このバランスが時たま何かの異変によって壊れる。生命体単体ではバランス回復は困難だが,群れが動く。環境生態系が変動する。その結果,圏域の回復に至る。このような生態学的発想は,人間の外から人間を考えることにもつながる。心理臨床(シンリン)の仕事は,人間そして,人間と人間の関わりに重点が置かれるが,たまには,人間の外から人間を考えることがあってよいだろう。

赤ちゃんは考える

赤ちゃんが,空腹や体の汚れがあるにもかかわらず,適時におっぱいがもらえない,おむつをきれいにしてもらえない。がまんできない。衝動感情の留め金が解除される。泣く。抱っこして安心をもらう。このようなことが日々繰り返される中,赤ちゃんも考え始める。幼いころから,人は考える。なぜおっぱいがこの時にないのか。今ないことから意識が目覚める。欠如,不在から思考が始まる。そして時間順序の意識が生まれてくる。さっきあったのに今はない。なぜだろうか。お母さんの足音がする。こちらに来てくれる。期待とともに,到来するもの,未来への感覚がほんのり浮かぶ。「考えること」を人の心の起源においたのは,対象関係論のグループとくにビオンであるが,生物界もそうかもしれない。森も考える。時間の前後,空間の並置。そのときに生じる落差,差異が記号的な力,働きを持つ。このような観点でみると,多層で複雑に入り組んだ網目状の生態記号過程の中に,生命体は生きている。すべてが響きあう。

日常から消えた姿

不在が精神を動かすのは,日々のシンリンの現場でも,気づかされることである。ある環境が空気のように安定したものとなっていて,保護されたゾーンを区切る。家はそういうものだろう,か? 家族の突然の病の宣告など,予想もしないところで環境がほころぶ。こういう事態は人の生活に必ずつきまとう。逃れえないことである。

息子が一人住まいを始め,家を出ていった後,まるで「時間がそこで止まってしまった」。お目にかかったのはずいぶん以前のことであるが,あるクライエントのこのような言葉を思い起こす。息子二人がそろって,就職や進学で家から離れ,ふと気づくと家で自分一人である。ぼんやりしてしまう。「感情がなくなって戻らない」という訴えで,クリニックにて処方を受けたが,薬ではどうも改善しないということで,来室された。

面接が始まった頃,クライエントは,「あの子が下宿した後まったく糸がきれた凧が飛んでいったように帰ってこなかった。その後私が,がらっと変わったことは近所の人にも噂がでたくらい」だと言う。環境の変化から被る影響に対して,人は脆い面がある。女性は息子の影を追うかの如く,次のようにおっしゃる。
「不思議なことなんです。電車に乗っていて息子がこんなところにいるわけがないのに,はっとして「息子だ」とまちがって,どきっとすることがあるんです」。感情が動かなく止まってしまったとおっしゃいながらも,哀感の場面が,話を伺っている私にも湧き上がる。ここで喪失や,愛着対象への依存という言葉でくくる気にはならない。

クライエントは言葉少なに次のように語る。息子は以前から一人暮らしをしたいとこぼしていたが,「あなたにはできるわけない」と相手にしていなかった。クライエントにとって,息子が出ていったのは予期せぬ,思わぬ出来事であった。家庭の環境が突如変化したように映ったのだろう。空気のように維持されていた日常に何かが欠ける。不在は,心を動かす。息子の姿,イメージを形作る。電車の中に息子に似た年恰好の人に,そのイメージを託す。思考が動く。「あなたにはできるわけない」と息子を相手にしていなかった私の姿,それも過去へと少しずつ送っていく。「居ない」というショック。一時的に感情がブロックされたが,息子がいないので寂しいという感情への対処が課題ではない。クライエントはそこから考え始めるのである。

課題としての環境

以上からすると,シンリンラボのかなりの部分は,人と人,そしてそれを取り巻く環境が課題になる。環境に負荷を与えるとそれは,まわりまわって自分も何らかの影響を被る。臨床心理学の場合どちらかというと,人的環境とくに養育の環境と,学校,職場といった社会環境に焦点が当たる。自己が環境の中で,影響を被り,自らを変容させつつ形を成す。個の成り立ちということに関わって,自らの素質とともに環境が問題となる。一方,環境といっても,自然環境,社会環境に,微細な物理化学的環境が加わり,今やネット環境が圧倒的にシェアされる。さまざまなレベルがある。

そして言うまでもなく,子育て環境が大きく変動している。高度情報化社会の進展に伴う暮らしのデジタル化,情報格差が経済格差へと直結してくる。そこから生じる「難民」。発達に欠かせぬほどよい環境の維持の困難,これまで培われてきた子育て文化の見直しを迫られる。子育ての様相そのものが大きく様変わりする中,発達を促す環境をどのように維持していくか。誰もが無関係ではない課題である。もちろん,シンリンの仕事では,対人援助における環境調整が課題であるという話をここで性急に持ちこむわけではない。学校でも会社でも心身の健康を害する手前で予防する。個人の意識的な努力を経なくとも,健康への配慮が得られる社会環境づくり,いわゆるゼロ次予防に,シンリンラボが必ずや役割の一端を担うことになろう。

しかし,自然と生命環境のバランスを回復する動きに,人も身を任せ,あるがままに委ねたら,心身のバランスを取り戻し,平穏を得るのだろうか。根源的にとらえればそうなのだろう。いろいろな人が述べているが,この3年間の新型コロナウィルスの地球的規模での蔓延も,大きな視野で見れば一つの環境調整の運動であったかもしれぬ。多くの人々が巻き込まれ病に苦しんだ。私たちの生活そのものの変動に直結した。

人は環境からはみ出す

一方,人はどうも自然の調和からはみ出てしまわざるを得ない,過剰なものをはらむ妙な生き物である。フロイトの精神分析は「人にとっては環界内の適応は自明ではない」という人間観から理論構築が始まっている(牧, 1977)。精神分析は「自然的なものと人間的なものをつなぐ」という大きな目的を持つととらえることができる。もちろんこの目的は達成不能に近く,むしろ人はつねに自然的なものから逸脱し,亀裂を生む。種々の依存行為は,人の人たる部分が肥大した形になっているととらえうる。個人の意識ではコントロールできない。

人の自然への適応が他の生物と異なって自明ではないのは,環境を自らの内に取り込み内的な世界をつくりだすという点で,ヒトという種が,自然界において特別な部分があるからだ。共同の世界,すなわち「AとB」の世界がまずあり,その関係を取り込む形で,安心安全を内在化し,個人という姿を立てる。西欧的な近代自我とは何よりも,安全と規範を心の中に個別的に内在化させ,主体的な生き方を選び取る自我である。何とか一人で生きていくために,内的環境を培う。

人にとって,外的環境への適応が自明でないということは,自己が環境との関係によって揺らぎやすいということを意味する。外的環境のほとんどから自己を切り離し,引きこもってしまうことが可能なのだ。引きこもりは生命体としての人が,環境との関係で安全を得る一つの解決法ともいえる。人間らしい一つの行為だ。

適切な環境が,ほど良いタイミングで与えられたとしても,それだけでは子どもの育ちは成り立たない。「考えること」そして「学ぶこと」が必要だ。人の育ちを生み,成長変化を起こすのは,トランザクションtransactionすなわち,環境との相互行為,葛藤と和解による。環境から自動的に生じるものではない。ガストン・ピノーというライフ・ストーリーをベースにしたフランスの教育学者は,存在と環境の関係において自己が変化成長することを学習という。その方法は,自己と他者の関わりを生きた学習の場とするものである(Pineau & Marie-Michele, 1983)。共同で生きた経験を掘り起す場をつくることになる。

新たな圏域の中で

心理臨床の領域はどうも,人と人の関係性に焦点を当てがちであるが,人と人を取り巻く環境が,私たちにどのような働きかけをするのかが,にわかに課題となっている。自己は環境との間で動き動かされるものとしてある。逆もしかりである。その運動から微視的なものからマクロなものまで,とらえきれない交差が生じているだろう。その中でSNS環境という新たな環境圏,これこそが人が自然からはみ出す過剰な存在であることからくる産物かもしれないが,それとのトランザクションでどのような自己がつくられていくのだろうか。SNSの普及により,自己の実体が不確かになる。アプリを使えば自己の映像イメージはすぐに変化し作り替えられる。性の多様な姿を身にまとえる。一方これまでは気にもならなかった,見たくもない他人の姿や生活や持ち物が可視化され無際限に飛び込んでくる。いきおい,人は他人の意向を先取りすることに敏感になる。私には「ない」,私とは「ちがう」ことばかりが目立ち,それを埋めるのに膨大なエネルギーが奪われる。

人と人の関係だけでなく,その背景となる環境世界(ambience;milieu; environment西洋諸語の語源をたどってみると,音楽の領域に深く関係するらしい)に焦点を当てると,生物がその生命を維持する生空間がある。そして,人の場合さらに公共圏と親密圏という圏域を作り出す。その圏内を構成するものはすべて考えている。私たちの仕事は,さらにエコに関わる仕事なかもしれない。シンリンラボこそ,このような最前線の課題に取り組む最適な基地になることを期待したい。

文  献
  • Bion,W.R.(1967). Second Thoughts: selected Papers on Psychoanalysis. New York: Jason Aronson. (松木邦裕(監訳)(2007).『再考:精神病の精神分析論』金剛出版.) 
  • Kohn, E. (2013)How Forests Think: Toward an Anthropology beyond the Human. University of California Press.(奥野克己・近藤宏(監訳)(2016)森は考える-人間的なものを超えた人類学.亜紀書房.)
  • 牧康夫(1977)フロイトの方法.岩波書店.
  • Pineau, G. & Marie-Michele (1983). Produire sa vie, Autoformation et Autobiographie. (new edition), 2012. Paris:Teraedre.(末本誠(訳)(2022)『人生を創造する-ライフ・ストーリーによる社会教育の理論と実践の探求』福村出版.)
+ 記事

森岡正芳(もりおか・まさよし)
所属:立命館大学総合心理学部
資格:公認心理師・臨床心理士
主な著書として『物語としての面接―ミメーシスと自己の変容』(新曜社,2002)『うつし 臨床の詩学』(単著,みすず書房,2005),『臨床ナラティヴアプローチ』(編著,ミネルヴァ書房,2015)『臨床心理学』増刊12号「治療は文化であるー治癒と臨床の民族誌」(編著,金剛出版,2020)などがある。

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