【特集 ナラティヴ・セラピー/アプローチの現在と未来】#01 ナラティヴ・プラクティス──意味の行為を再定義する|森岡正芳

特集にあたって

心理社会的支援の一つの観点としてナラティヴは,幅広く用いられてきた。一方で,「寄り添い型」? ナラティヴが多様な現場でのケア実践とともに広がり,ナラティヴ・セラピー/アプローチによって臨床の場の何に変化を与え,どのような可能性があるかがあいまいになりがちである。ナラティヴ・アプローチの展開の中で,「今まで語らなかったことが語られ始め,今まで語らなかった人々が語り始めた」(野口,2005)のは確かである。人々が意味の行為を通じて,それぞれの現実を構成していくその切実さのところに出向くのが,ナラティヴの観点において重要な部分だと思われる。ナラティヴは,個人の内心の作業にとどまるものではなく,それによって人と人をつなぎ,あらたな公共圏と親密圏を生み出す働きを持つ。この辺りでナラティヴの実践の意味を改めて確認し,未来を展望する機会を作ってみたい。

拡散したナラティヴ

今年3月,第11回ナラティヴ・コロキウム「ナラティヴ・アプローチ/プラクティス,その可能性」と題するシンポジウムを行った(2023.3.18)。登壇者は遠見書房事務所に集まり,そこからオンライン配信を行う形式のシンポジウムであった。席上,安達(以下,敬称略)がソーシャルワークの立場から,ナラティヴ・セラピーが日本に紹介されて30年,ナラティヴという言葉がずいぶん幅広く使われてきて,拡散した状態であると危機感を表した。

野口によると,現行日本では,ナラティヴ・アプローチと,ナラティヴ・プラクティスは,ともに,「ナラティヴ」を重視する理論的アプローチの総称であり,さまざまな実践の総称である。ホワイトとエプストンらによって生み出されたナラティヴ・セラピーという臨床実践の方法とは一線を画す。前者の立場から零れ落ちてしまったがしかし,ナラティヴを称する限り自覚にとどめておかねばならない点について,安達は「社会政治的文脈(sociopolitical context)への視線/挑戦」を強調している。

心理に傾斜したナラティヴは,目前の人との関係性や家族関係の文脈からナラティヴをとらえる傾向が強い。またより広く社会的文脈をとるといっても,医学的あるいは心理学的専門家の観点が気づかぬうちに滑り込み,そこから問題や病のストーリーを作ってしまう。そもそも専門家の説明も一つのストーリー,モデルであるという観点はすぐさま納得できるものではない。ストーリーは書き換え可能であり,クライエントに自分の困りごとを自分の言葉で述べることを促すといっても,それはそう簡単な作業ではない。

ナラティヴ・セラピーでいう再著述(re-authoring)とは,「社会のうちにあってよきもの=適応的でポジティヴな個人のストーリーに書き換えることではない」と安達は述べる。今ここの関係においても忍び込む力関係に目を閉じ受容的,適応的なモデルに則り,方向づけてしまう落とし穴が出てくる。ナラティヴ・セラピーは,社会が覆いかぶせてくるドミナント・ストーリーを脱構築していく社会変革への意識がある。

ところが心理に傾斜するナラティヴは,そのような問題意識は薄まって,「寄り添い型」ナラティヴに堕してはいないか? 安達の厳しい問いかけである。この問いに答える形で,とくに心理臨床(シンリン)での,ナラティヴの実践的観点を確かめ,とくにナラティヴ・プラクティスにおける意味の行為について,検討してみたい。

出来事をつなぐ意味の行為

課題の一つは,ナラティヴ・アプローチを単なる個人の心の営みの中におさめてしまう落とし穴である。「寄り添い型ナラティヴ」という批判が生まれるのは,ナラティヴ・セラピーが基盤とする社会構成主義の立場が明確でなく,相互行為によってつくられていく現実への焦点があいまいなまま,心理カウンセラーたちが,個人の体験世界に寄り添うことを,支援の主眼に置いて事足れりとするように見えるからであろう。人と人が関わるシンリンの実践が活き活きとした現実を生むことは,ナラティヴ・プラクティスに限らず,カウンセリング,心理療法の基本的に共有される観点でもある。ナラティヴの遂行は意味の行為であり,それはカウンセラーとクライエントの共同行為としてある。しかし,意味の行為がクライエント個人の心内の作業として,出来事の意味を心におさめていくことが主たる目標となるならば,それは大いに限界があり批判されるべきであろう。いわば心癒しの個人化という隘路にはまり込んでしまう。

あるコミュニティの範囲で,人と人あるいは集団間の紛争,葛藤の処理に一定のシステムが働いていた。経験の象徴化,儀式化を経て,民族,集団の歴史のなかに出来事を意味づけるシステムが機能していた。災害,人災,突発的事件,暴動,戦争による犠牲者に対して,追悼し,その出来事を記銘する社会のシステムがある。出来事の経験は物語そして劇として,象徴化され,次世代へと継承されていく。追悼のプロセスが進行し,悲しみは和らぐ。社会が弔う心に働きかけ,治癒共同体を形成する時空を用意した。ところが,それが大きく様変わりして久しい。社会の制度,システム,コミュニティの空疎化を背景として,弔い,グリーフの営みも,投薬によって緩和する医療対象となる。心癒しの個人化は,また人生の出来事を医療対策の対象とされるということである。

間をとること

一見「寄り添い」に見えるシンリン・ナラティヴについて,心理ならではの独自の視点が含まれる点をここで補うことで,少し前向きの議論になるかもしれない。

心理カウンセリングでは,初回において主訴に関わる来歴をまず聞くのが手順である。主訴にまつわるナラティヴが自然に出てくる。一方で,ナラティヴになる手前の体験にとどまっていることも大切にする。じっくり付き合う。クライエントは本筋と関係ないといいながら,語りだすこともあるし,カウンセラーは「どういったことからでもかまいません。お話を聞きたいです」と,このようなスタンスである。相手の言葉から,病や障害をめぐる物語が見えてくるが,その再著述を急がない。

心理カウンセラーは話を聞くばかり。待っている。その態度が鼻につく。このような声は以前からよく聞こえる。「待つこと」,この態度はたしかに,わかりにくい。いまだうまく説明できていない。にもかかわらず,待つというカウンセラーのスタンスは,専門性の一つである。一つには,クライエントが自分との会話に与える時間,間をとるという意味がある。また,来談のきっかけとなる主訴に対して,それを解決することが心理面接の目的となるのは当然だが,一方で,心理カウンセリングでは,クライエントは〈ゆめ〉を相談にもってくると考える。〈ゆめ〉とは未完了な出来事の集合体である。過去の出来事は,現在の体験との関係で,意味が動く。クライエントに対する事前の想定を保留し,不確定なところから,今ここで意味が生まれてくる瞬間を共有する。カウンセラーはそのような場を用意する(森岡,2002)。

そういう意味でカウンセリングは本来的に,「人は積極的に現実を構成している」というナラティヴ観点を十分に共有している。過去の出来事,現在の体験そして未来を予期する心の動きに合わせて出来事が新たに組み合わされるには,適度な場と時間の確保が必要だ。その安心の場があることを前提として,逆説的だがカウンセリングでは,会話,やり取りをスムーズに行うことを優先しない。ちょっとぎくしゃくすることもある。あえて遅延を起こす。待っているスタンスである。スムーズな当たり障りのないストーリーで納得し合うことは避ける。

現実が構成されるとは

もう一つの課題として,当事者に他者が関わることにより,現実が構成されるというが,現実の共同構成が,さらに病気,障害という現実を作り,固めてしまうことになりはしないかという問題である。専門家がうっかりそこに加担することすら出てくる。ナラティヴ・プラクティスはこの点にどのように応えられるか。

ナラティヴ実践の起点は何かというと,「他者に出向くこと」であると私は考えている。

ナラティヴという言葉の働きが成り立つためにもっとも不可欠なものは「他者」である。だれかもう一人の相手が目前にいる。具体的な存在としてその人に,私は出向く。そこでは自分の中であらかじめ持っていた知識をいったん忘れる。それまで会ったことのない人に「出向く」行為は,カウンセラーの側も,何かの未知に自己を開くことになる。

面接での発話をクライエントの生活状況についての情報とみなし,その状況をアセスメントし,専門家としてその状況に関わる。この態度は専門家としてまっとうなものに見えるが,専門的な知識にもとづいて,状況を把握しそこで,判断を下すことになる。その判断には規範(どうすべきであったか)までを暗に含んでしまうことがある。そして,他者の経験を既存の知識で覆うことで止まってしまう。それによってクライエント自身の自己表出への通路を閉ざしてしまう。

既知にもとづいて現実に接触しようとする「自然的態度」をいったん括弧に入れる。疑問をそのまま保持しておく。先行する理解の内に安住しない。このような態度をいかにして維持するか。これも「待つこと」に関わる。クライエントの自己理解の筋道に沿って行くと,本人も気づいていない予感,すでに動いている部分があり,そこを既存の知識で埋めずに付き添っていくと,徐々に形をとってくる。他者の経験とは,何かわからないことである。それを既知の知識,専門知識に置き換えてしまうのではなく,そのことへの気がかり,疑問,関心を維持しながら,生じてくる意味の動きについていく。その間に他者の言葉,行為,状況が伝えてくることに驚きを感じることも少なくない。

セラピストは,他者に出向き,他者を迎え入れる。そこで生じることに細心の注意を払う。これが,病や障害の現実を固定することに専門家が加担しないために維持しておく開口部である。クライエントが自分をどのように語るか。その体験のディスコースに焦点を当てる。ディスコースとは,意味連関の通時的な自己表出である。他者が語ることに耳を傾けることは,事実から意味の次元に移行することである。ディスコースのどこに焦点を当てるかは,理論的立場によって異なるが,クライエントが自分のしんどさをどのように述べるか,それを親身に聞くことは学派の違いを超えて共通する出発点であろう。

公共空間を作り出すストーリーテリング

ナラティヴ・プラクティスでは,意味づけるということが新たな行為へとつながるところに,焦点を置く。心理カウンセリングが「寄り添い型」ナラティヴに見えるのは,意味の行為が心の営みに終始していて,そこから生まれてくるものが見えてこないからであろう。そこに第三者の観点が補われる必要がある。ナラティヴは,何を語ったのかという語りの内容よりも,行為のレベルにおいてまずとらえることだ。複数の聞き手,他者が立ち会うことで,その行為を見届けるということ。そこで初めて他者に受容されるという体験が生じる。カウンセリングの基本となる「受容」とは,カウンセラーがクライエントを受容するという二者関係的なものではなく,社会的な次元のものである。そういう意味では,ナラティヴはカウンセリング実践よりも,公共空間,コミュニティを作っていくワークの方に,立脚点がある。

ここで,人類学者バーバラ・マイヤーホフの実践が思い起こされる(Myerhoff,1992)。個人の人生を小集団で語り聴く実践は,ホワイトの定義的祝祭(Definitional Ceremony)のルーツにもなった(White,1995)。グループで語り聴くという行い,パフォーマンスを通じて,ドラマの舞台のような場面が設定される。参加者それぞれの経験は,どれをとっても初めは,生のカオスそのものである。グループの中で,自らの語りを他者によって受け取られるとき,その支えによってカオスから意味を持ったまとまりを切り出すことが可能となる。この語り行為を通じて,語る私は以前の私よりはっきりしてくる。個人史を互いに語り合い,それを見える形にすることで,語りが体験へと変容してくる。自分が確かなものになる。自分を聞き受け取ってもらえる他者をそこで得ることを通じて自己を定義していく集団的な活動を,マイヤーホフはDefinitional Ceremonyと呼んだ。

ナラティヴ・コミュニティと称することのできる,共通のテーマをもとに語り合う場を持続して持っていく小集団の活動が盛んになってきた。このような時代性において,自己の再定義の場が祝祭性を帯びて体験される。小集団のメンバーシップの前で,自らを語り直すとき,それまでとは違った自己アイデンティティが,テーマを活き活きと分かち合う中で生み出される。もう一人の私が誕生する。ナラティヴは,何を語ったのかという語りの内容だけでなく,行為のレベルにおいてとらえることが欠かせない。他者に出向く行為(パフォーマンス)を通じて,個人の体験を形にする。一つの私が誕生するような場面が生じる。このように意味の行為を再定義することができよう。

ナラティヴ・プラクティスが求められる背景には,個性の埋没,喪失へと傾斜する時代性をあげることができる。社会的孤立の状況がいや増す中,居場所づくりということがいろんな角度から話題にされ,街角で開かれる哲学カフェはずいぶん定着した。自然と語らいの場が広がり,語る行為が居場所,他者との交流の場を作り出す。一人ひとりの人生のひとコマを語り聴く場が,ある公共圏を生み出していく。

純粋に目前の人に関心を持つということ。心理療法やカウンセリングの諸技法の手前にある基本的な対人援助の姿勢は,医療,福祉,心理の分野で固有名を持つ個人が失われていった時代性の中で,自己の回復に資するために繰り返し確かめられる起点である。個人の自己性が奪われる時代性の中で,自らの過去を回復し,人々と共体験することを可能とする場が求められる。

むすびに──新しい認識論

シンリンラボの拙論(森岡,2023)の論点と重なるが,ナラティヴの観点は,事実に基づいて一般化する方向を目指すものではなく,既存の知を「まだない」ものへと転換するところに特徴がある。これは新しい認識論といってよい。ナラティヴの実践がめざす射程の幅は広く,心理臨床(シンリン)の範囲を広げていくことに一役買っている。人は経験を変容する力を持つ。これを出発点にして,たとえ,身に起きた出来事を表象しそこなったとしても,物語の形をとらなくとも,その出来事から被ったこと,心の波紋を言葉にし,他者に受け取ってもらうことはできる。実践はつねに特定の場所と時間において,具体的な意味場のなかで,限定を受けつつ,現実との接点を選び,新たな現実を拓いていくものだ。

文  献

  • 安達映子(2023)ナラティヴ・セラピー/アプローチ―ソーシャルワークの立ち位置からみるこれまで・これから.第11回ナラティヴ・コロキウム「ナラティヴ・アプローチのこれまでとこれから」2023.3.18配布資料.
  • 森岡正芳(2002)物語としての面接─ミメーシスと自己の変容(2017新装版).新曜社.
  • 森岡正芳(2023)森林(シンリン)は考える─今はないところから.シンリンラボ 第1号(2023年4月号).
  • Myerhoff, B. (1992)Remembered lives : The work of ritual, storytelling, and growing older. Ann Arbor:University of Michigan Press.
  • 野口裕二(2005)ナラティヴの臨床社会学.勁草書房.
  • 野口裕二(2023)第11回ナラティヴ・コロキウム「ナラティヴ・アプローチのこれまでとこれから」2023.3.18配布資料.
  • White, M.(1995)Reflecting teamwork as definitional ceremony. In White, M. : Re-Authoring Lives: Interviews and essays. Adelaide : Dulwich Centre Publications.
+ 記事

森岡正芳(もりおか・まさよし)
所属:立命館大学総合心理学部
資格:公認心理師・臨床心理士
主な著書として『物語としての面接―ミメーシスと自己の変容』(新曜社,2002)『うつし 臨床の詩学』(単著,みすず書房,2005),『臨床ナラティヴアプローチ』(編著,ミネルヴァ書房,2015)『臨床心理学』増刊12号「治療は文化であるー治癒と臨床の民族誌」(編著,金剛出版,2020)などがある。

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