山﨑 篤(精神分析的精神療法家)
シンリンラボ 第6号(2023年9月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.6 (2023, Sep.)
心理士としてのキャリアを始めた時に,ラッキーなことがありました。
それは,対価を得ながら臨床の仕事を行う機会を得たことです。児童相談所や大学の学生相談,精神科病院,さらには私立中高のスクールカウンセリング。とかですね。
モチロン,大学付属の心理教育相談室での臨床も,相当数行わせていただき,今のワタクシの臨床の流儀を形成してもらえた面は多々あります。小学校中学年からなんと30有余年携わらせていただいたASDのクライアントも居られます。本当に勉強になったと思います。
がしかし。現在「精神分析的精神療法家」(JPS精神分析的精神療法家センター正会員)という名刺をもって,フリーランスで臨床に携わっている身としては,冒頭に述べたことは本当にありがたい経験をもたらしてもらったものだと考えています。フリーランスですのでね,「お気に召しませんでしたら次回はナイ」世界ですよ。現在ワタクシは,心理臨床の専門家として,ワンセッションあたりいくらで売っている商売をしている身というわけです。
始めたばかりの頃は,一日あたりいくらで,という仕組みの下ではありました。手を抜いていたら首を切られる世界です。次年度更新して頂けない,かもしれないし。手を抜かずにあらゆることに手を尽くし,自らのスキルアップとグレードアップとを続けていくしかありませんね。大学付属の心理教育相談室での臨床と並行して,いろいろな場所でお給料を頂きつつ,この当たり前のことに向かい合っていたと思います。
このことは,結構タイヘンでした。大学院生の間は研究もしなくてはならない。エビデンス・ベーストのリサーチとかのために,先行研究を調べて,その手の学会にも入って,そんでもって調査研究も被験者を探して行ったりもする。単位も集めなくてはならないし。
そんな中で。自分が思い描くような臨床活動ができるようにと,ありとあらゆる,思いつく限りのこともやりました。この点はミュージシャンと一緒。お客を集められるプレイヤーでない限り,ステージの仕事は頂けない。ステージ以外のところで,地道に練習したり,これはイイと思う方が居られたら,ライブを見て研究もします。
子どもの臨床も対価を得ながら始めることができたのは,さらにラッキーです。
フロイト先生に憧れて臨床を志した訳なので,成人との臨床をと考えてはいました。がしかし,お金を頂けるわけですから思い切ってそのオハナシ,引き受けました。(何しろ,あのバブルの時代にビンボーな大学院生,同期で就職してブイブイ言わせている方々が羨ましくてならなかった。ならば稼ぐしかあるまい! とです)
これもヨカッタ,ですね。臨床家が,自分ならできそうという想定内の範囲でお客さんを取る。カラオケで十八番を歌うのとかわりません。自分に合いそうな,特定のお相手になら対応はうまくなるのかもしれません(分かりませんけど)が,臨床は想定外の連続であり,思っても見なかったことにも対応していくことの積み重ねが,臨床そのものだろうと思うのです。
知ってる街しか走れないドライバーと同じな気がします。それではタクシーのドライバーや,プロのトラッカーにはなれないかと思います。
結構バリエーションのある臨床に携わったと思います。場所が違えばやることは違います(治療構造論的には,「場が内容を規定する」というワケです)。求められることも違います。
異なる場と環境で,さまざまな年齢や病理を持った方とお会いし,そこで求められていることに対応する日々です。大学の心理教育相談室ではお目にかかれないような,統合失調症の方や精神病圏の方々,あるいはさまざまな背景を持つ発達障害等の子ども達,あるいは当時話題になりつつあった被虐待が進行しているご家庭が在ることを実感し,向かい合わざるを得ない日々を過ごせたと思います。何しろお給料を頂いているので,やれませんは通じませんね。
そこでは当然記録を残すことを求められます。自分と支援相手との間で何が起こり,何を考え,何したらどうなったのかを,俯瞰的な観点から事後に書き記す。セッションの後であらゆることを想起しようとしながら言葉として刻んでいく。ワンセッション50分あたり,数時間かけたこともあったかと思います。検査の仕事ならば,所見を書きますしね。
スーパービジョンの体験も不可欠でしょうか。週に1度くらいの頻度で,これはというスーパーバイザーのところへ伺い,有料のスーパービジョンを受ける。毎回緊張していたようにも思いますが,今なら,もっと楽しめばヨカッタのにとは振り返っています。自分では思いも寄らない観点や発想を直に,かつ具体的に学べたと思います。さらには経過をまとめたものを,症例検討会に提出して検討して頂いたことも大切な経験値となりました。そっち方面の学会にも入会し,年次大会などで発表して検討してもらうのも,他流試合みたいで勉強になったと思います。
その中で精神分析学についても,本格的に学んでいったように思います。学,として学ぶというよりも臨床の中で経験するあれやこれやを何とか理解したいと考えたからです。精神分析の研修会での座学や臨床仲間との文献抄読会で,議論しながらも学んでいったように思います。
大学院を出て,とある大学に教員として就職してからは,学生に教える,指導するという仕事の合間に臨床現場での仕事を入れる生活です。そして志を立て,JPS(日本精神分析協会)の門をたたいたのです。これはさらに上級の資格が欲しい,というよりはどうやったら目の前のお客さんから美味しいと言ってもらうのかと研鑽を極めるフレンチシェフのオーナーのごとし,でした。クライアントから感謝して頂けるのは嬉しいし,段々と元気になっていかれるプロセスに携われるのはナカナカに得難い営みだと言えます。
このJPSという同業者組合。訓練がものすごく大変でした。
セミナーと訓練分析とSVの3本立て,です。セミナーは,事前にリーディングリストを山のように示されて,それを読んだのを前提にディスカッションする。読んでいないようであれば×を付けられる。少人数のセミナーですので,「バカじゃないの」とは思われたくないので,きちんと読んでおくしかない。
生まれて初めて受ける訓練分析もタイヘンでした。治療構造という精神分析がその本丸とする仕組みの中で,訓練分析家に会いに行く。自由連想という体験も思った以上に不安喚起的なものだったように思います。何しろ訓練として受けてもいる訳なので,普通の臨床とはまた違うものです。
SVも同業者組合の中でお認め頂かれている先生から受けます。これには,ヘンなことやっていたらちゃんとはしてない,と判断されることもアリアリだから手を抜く暇がありませんでした。(ちゃんとしてないから,と追い出された先生もアルという都市伝説も)
教員としての仕事をして,大学に勤務して,臨床現場で対価を得ながら,訓練三昧だったことかと思います。また,訓練中でしかないのでホンモノではナイ感で一杯です。都合門をたたいて13年くらいでお認め頂けました。しかもお認め頂いたから,といってそれで終わりではない。そこから精神分析的精神療法家としての道が始まっただけなのです。
あのビートルズと同じ,かもですね。レコード会社に認められて最初のシングルを出して,それで終わりではなかった彼らと同じです。同じような曲しか書けないのであれば,飽きられる。レコードが売れないので,対価が得られず廃業するしかない,のと同じです。
尊敬するあのセンセイやこのセンセイは,まさにそう,です。お話を聴く機会があるたびに「このお方はまだ先を目指しておられる!」と感じます。ものすごくカッコウイイと感じます。ならばそれに続くしかない,ですね。
臨床に携わる。そもそもの話,初めからうまくやれる人はありません。幾多の失敗や間違いがありました。始めたての頃は,記録を書いたあたりから「あれでよかったのか?」とか「こうじゃないんだろうか?」とかが,グルグル頭の中をめぐっていました。
携わり,そして失敗から学ぶ。一対一という場面での失敗,ですから自分で背負うしかありません。面接室が寒かったからでもないですし,台風が吹いたからでもありません。セッションを管理し,マネジメントし,クライアントとやり取りしている当事者は自分自身です。
自分を省みるなら,まだまだこうやって学んでいくという過程にあるのだと思います。
ですからこの文章のタイトルは,「こうして心理士になった」ではナイ,でしょう。むしろ「このように心理臨床に携わっている」でしょうか。
山﨑 篤(やまさき・あつし)
やまさきファーム代表。
精神分析的精神療法家(JPS精神分析的精神療法家センター正会員)。
山﨑篤&グレイトフルゼットというバンドを率いて,ミュージシャンとしても活動中。
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では。先祖伝来の田畑へ。畔の草を刈りに行って参ります。ドンマイモ植えた!