こうしてシンリシになった(11)|児島達美

児島達美(KPCL)
シンリンラボ 第11号(2024年2月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.11(2024, Feb.)

1.はじめに

今でこそ,シンリシは臨床心理士あるいは公認心理師として社会的にも専門職として認知されてきてはいるけれども,私が大学進学の時期を迎えた1960年代後半はまだ黎明期で,私もそうした仕事があることなど知らなかった。そうした中,青臭くも哲学や思想の匂いに惹かれていた私は上智大学の哲学科に進学した。シンリシを目指すようになるのはそれから約10年後のことである。

2.哲学科から心身障害者福祉施設へ

哲学科在籍中の私は,それなりに哲学の勉強をしつつも,小説の世界にのめり込み,学生演劇に顔を出し,あるいはバンドを組んだりするなど,文字通りモラトリアム学生のまま卒業の時期を迎えることになった。という次第だから,卒業後の進路もまだあいまいで,とりあえず大学の就職指導室で就職先を探してみることにした。

そこで目に止まったが,開設されてまもない心身障害者福祉施設の生活指導員募集であった。それまで福祉の世界とは無縁な私であったので,当初は「こういう仕事もあるのか」といった程度の印象であった。ところが,妙に心に引っ掛かるものを感じて数日後には願書を書いていたのである。ちなみに,今の時代では考えられないことだが,応募条件は学部を問わず面接試験のみで採用後の研修により現場配属ということも幸いした。

3.心身障害者福祉施設にて

1975年,この施設に赴任した私の配属先は女性25名の寮で,日々彼女たちの生活介護と療育にあたった。ここでの貴重な出会いを2つ紹介したい。

脳性麻痺のSさんには,著しい運動機能障害と言語障害があったがコミュニケーションは文字盤を指しながら十分に可能であった。ある日,彼女は,私に次のようなことを語った。「人間は自分で働いて一人前だが,私は福祉のお世話で生きている。これでは,一生,自分は人間としての価値はないと思うけど,どうか?」と。私には応えるべき言葉が見つからなかった。

盲目と聾唖にてんかん障害を抱えたTさんに,それまでには見られない問題行動が頻発してきた。職員でケース会議を開いてはいろいろと対応を図ったものの一向にラチがあかず,この施設の心理判定員U氏に今でいうコンサルテーションを依頼した。U氏が提案した対応策は,当時の福祉の考え方とはおよそ異なり,我々職員の方は半信半疑ではあったが,ともかくその方法を取り入れてみた。すると,Tさんの問題行動はほどなく落ち着いてきたのである。「心理学って役に立つんだ」というのがその時の私の率直な印象であった。これがきっかけとなって5年後には臨床心理学を学ぶためにこの施設を退職したのである。

4.霜山徳爾先生との出会い

1980年,同じく上智大学の心理学科に編入後,同大学大学院の臨床心理学専攻に進んだ。指導教授は霜山徳爾先生であった。先生のご専門は現象学的,人間学的精神病理学であり,その講義と演習は苦行の連続であったが,少なくとも,先生の人間存在に対する深いまなざしだけは私の内になにがしかの痕跡として残っているように思う。そして,院生に対しては事あるごとに次のように戒められた。「サリヴァニアンとかフロイディアンとかユンギアン,ロージャリアンなど,とにかくianのつくものに早々になってはならない。現在の多くの若いすぐれた臨床家が,あまりにも早く小粒のスペシャリストになり,真の心理臨床家に必要なゼネラリストになることから逃避するか,あるいはそれへの努力をやめてしまうことがもっとも気になる」 [霜山徳爾(1988)素足の心理療法.p.150(一部改変)]

今振り返ってみても,この先生の戒めを私は勝手な自己流で守ってきたような気がする。

5.家族療法との出会い

修士課程1年の後期,あるきっかけで,当時日本に紹介され始めたばかりの家族療法の研究会(以下,FT研究会)に誘われた。カゾクリョウホウ? もちろん私も初めて耳にするものであったが,ちょっと覗いてみるかくらいの気持ちで参加したのであった。

そこでまず驚かされたのは家族合同面接の積極的な導入であった。特に,子どものケースでは,親子並行面接がごく当たり前とされていた当時,複数の来談者を前にしての独自の面接のすすめ方,そして,これらの実践を支えるあらたなシステム理論とコミュニケーション論のもと,個人の問題を家族はもとより重要な関係者(シンリシをも含む)間の相互作用の観点からアプローチしていく方法に私は目を見張ると共に,個人面接の可能性をも広げることを実感して,以後続けてこのFT研究会に参加したのである。

6.心身医学と家族療法が出会う

こうして,修士課程1年次も終わりを迎える頃,霜山教授の指示で都立K病院心身医療科外来に非常勤心理職として行くことになった。その最初のご挨拶に伺った折り,外来医長の河野友信先生が「最近,米国では摂食障害に家族療法という新しい心理療法が効果をあげているらしいね」と英文の論文コピーを持ってこられた。なんと,それは他でもない,私もつい最近のFT研究会で知ったばかりのものであった。そのことをつい口にしたばかりに,まだほんのヒヨコに過ぎない私は先生からトンデモナイ期待を得てしまったのである。

以来,河野先生のもとで摂食障害だけでなく多くの患者さんやご家族との心理面接を任される中,私は,心身医学・精神病理学・家族療法を3点セットにした臨床研究に本格的に取り組み,その後,博士課程に進むと同時にU病院心療内科の山本晴義先生のもとでさらに貴重な経験をすることになった。

そしてこの時期の1984年,FT研究会を母体に日本家族療法学会が設立されると同時に,この学会の中心メンバーのお一人である鈴木浩二先生のもとで本格的に家族療法のトレーニングを受けることにしたのである。

7.U病院心療内科時代

ここでの約5年間は私のシンリシとしての土台をさらに固める時期になったと言ってよい。以下,特に2つのエピソードを取り上げてみたい。

一人娘のTさんは,幼少期に母親を,中学時代には母親がわりとなってくれた祖母までも自死で亡くすという重い喪失の過去を背負っていた。以来,父親との二人暮らしを続ける中,高校時代に摂食障害と対人(特に異性)関係の不調が顕在化して多くの医療・相談機関を転々とした後,U病院心療内科に紹介されてきた。そこで私は,父親同席面接を導入することにした。経過中,紆余曲折はあったが改善を見ることができた。その後,このケースは,石川元および下坂幸三の両先生による家族療法の公開スーパーヴィジョンを受けるという贅沢な機会にも恵まれて,その後の私を支える大切な宝の一つとなった。

また,日本家族療法学会が設立されてまもなく,若手ながら関西ですでに家族療法家として活躍しておられた東豊先生(現:龍谷大学教授)と面識を得ることができた。その直後,大学院後輩のMさんとの複数治療者による家族面接のケースを大学院の紀要に載せることになったので,誌上コメンターを東先生にお願いすることにした。この時の東先生とのディスカッションによって,私は,家族療法のみならず心理臨床における言葉の用法に関わる重要な観点を教えられ,以後,東先生からは事あるごとに多大な刺激を受けてきている。

8.産業メンタルヘルスにも関わる

もう一つ,同時期,産業メンタルヘルスのEAP機関にも関わることになった時のことである。当時まだ産業領域でのシンリシなどきわめて珍しい中,山本和郎先生のコンサルテーション心理学をベースにした著作に出会うことができた。それは,クライアント従業員個人のみならず組織内の重要な関係者(特に上司など)にも積極的に関わっていく方法として家族療法の考え方とも親和性が高いことから,その後の私にとって,いかなる領域のいかなるケースであれ心理面接の基本的な枠組みとなった。

9.おわりに

その後,私は九州大学病院心療内科,三菱重工長崎造船所メンタルヘルスサービス室および長崎純心大学人間心理学科を経て現在に至っている。この間のことについてはいずれの機会にさせていただくとして,最後に,特に二人の仲間に感謝したい。菅野泰蔵先生(現:東京カウンセリングセンター)からはその卓越した臨床センスに常に刺激されている。また,システムズアプローチを牽引している吉川悟先生(現:龍谷大学教授)の存在も大きい。さらに,国内外の家族療法,ブリーフセラピー,ナラティヴ・アプローチ関連の先生方からも直接,間接を問わず少なからず影響を受けてきた。すべてお名前を挙げたいところだが叶わない。あらためて,多くの貴重な出会いに感謝するばかりである。

文  献
  • 霜山徳爾(1988)素足の心理療法─始まりの本.みすず書房.
+ 記事

児島達美(こじま・たつみ)
KPCL所長
資格:臨床心理士・公認心理師。
家族療法,ブリーフセラピー,産業組織臨床などで活躍。『ナラティヴ‧セラピー』(ホワイトら)と同じ年にまったく同じ文脈から同じキーワード「問題の外在化」に着目し論文化。 哲学を学んだ後,福祉作業所で働き,心理学を学ぼうと霜山徳爾のいる上智大学へ。同大学院教育学専攻博士課程修了。九州大学医学部附属病院心療内科助手,三菱重工長崎造船所メンタルヘルスサービス室長を経て,2000年から2017年まで長崎純心大学大学院臨床心理学分野教授。2018年よりKPCL所長。

目  次

コメントを書く

あなたのコメントを入力してください。
ここにあなたの名前を入力してください

過去記事

イベント案内

新着記事