こうしてシンリシになった(13)|奇 惠英

奇 惠英(福岡女学院大学)
シンリンラボ 第13号(2024年4月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.13(2024, Apr.)

1.振り返ると道はつながっている

私がシンリシになった道のりは偶然な出会いの連続が生み出している。気づけばシンリシになっていた,というのが正しい。真剣に熟考してシンリシになった方々,あるいはシンリシになることを目標に進路を決める若い人たちには大変失礼な話かと思う。そのため,シンリシになることを目指して臨床心理士養成大学院に入ってきた院生たちには,私が関わる基本姿勢として,人の役に立ちたいという善い心を頼りに主体的に進路を決めていることを心から尊敬していると必ず伝えている。

とはいえ,全ての偶然はのちの意味づけによって必然となるように,それぞれの分岐点でシンリシになる方向を私が選択したともいえる。その選択の時には私自身気づかなかったけれども,それまでの背景,出会いが大きく関与していたことを,だいぶ後になって理解することができた。

私は韓国ソウルで生まれ育ち,大学卒業の翌年に筑波(現在つくば市)にあった国立図書館情報大学大学院に進学した。「あなたは本が好きだし,図書館情報学はこれから始まる分野で将来有望の上に,女性の職業として適している」という親の勧めによる進路であった。大概のことは難なくこなし,人の意見に従ったり,人並みにやり過ごすことに抵抗も疑問もなかったが,この世界とわずかに遊離して自分が確かに歩いた足跡が残らない,自分が浮いているような浮遊感がつきまとった。

このような浮遊感は人との関わりにおいてより顕著であった。友達・恋人・仲間などのレッテルに合った関係の理解,感じ方,振る舞いをするが,真にその関係に自分がつながっている実感が乏しかった。その理由の一つは「動機」の問題であると思われる。友達がほしい,仲間の一員になりたいなどの社会的関係の希求は誰にでもあるとはいえ,その強弱には個人差がある。自分が強い動機を持たず,難なくこなすところで人間関係の中にいると,自分事ではなく,観客のように関係を眺めてしまうゆえに,矛盾や嘘が目に付いた。

このように何事も自分事としてコミットメントすることができず,漂っていた自分を着地させ,この世界にしっかり繋げてくれたのはサラとの出会いであった。サラは兄の娘で,生後3カ月の時に交通事故により母親を失い,中度の障害を負った。大学院修了で帰国した直後のことで,瀕死の赤ちゃんを私が一人で看病する時期を経て37歳になる今まで私と生活を共にしている。言葉のない世界で生と死を考えながら見守るしかなかったことから始まったサラとの出会いは,私が初めて人の人生,人との関係に自分事として自発的に,積極的に関与した体験であった。そこで初めてサラを取り巻く人たちの心の不安や矛盾を理解したいと思うようになった。サラとの出会いがなければ,あたかも自分自身のものであるように感じ取るといった共感的態度を,私はいつまでも獲得できなかったであろう。

2.シンリシの名を与えられる

サラの体力が安定した4歳になるごろ,サラと共に福岡に渡り,九州大学教育学部教育心理学科に入学した。サラが回復していく4年間は毎日これまでにないくらい私の心が生き生きとしていた。サラの表情,体調,しぐさ一つで心から一喜一憂し,さまざまな立場,視点からサラに向けられる人々の言葉や態度すべてに興味が沸いた。障害児療育グループでいつも明るく元気なお母さんたちが「ここだけよ」と言って話す言葉は胸に刺さった。人の心のあり様をもっと深く知りたくなったし,当時療育環境が韓国より良い日本でサラの可能性をもっと探りたいという思いがあった。

学部課程の途中で,すでに日本で大学院を修了していた私の経歴を惜しんだ先生の声掛けから大学院でより長く,より深く人に関わる心理学を学びたいと思い,大学院に進学した。大学院に入ってから九州大学が動作法の本山であり,声掛けしてくださった大野博之先生は動作法を開発した成瀬悟策先生の一番弟子であることを知った。九州大学大学院で行う動作法を中心とした心理臨床実践は凄まじいものであった。

夜須高原福祉村やすらぎ荘という宿泊施設に心理リハビリテイション研究所を置き,当時年に2回の1週間宿泊動作法キャンプ,毎月の1泊キャンプ,毎週の日帰りといったとてつもないスケジュールを院生たちがこなし,全国から障害者・障害児と保護者や研修生が集まり,成瀬門下のスーパーバイザーたちが寝食を共にしながらライブでスーパービジョンを行うという日本で類を見ない心理臨床実践と研修のシステムであった。

成瀬先生は九州大学を退職しておられたが,やすらぎ荘には現役として参加されていたので,数年間直接ご指導を受け,先生の動作法の実践に接するというありがたい機会を与えられた。やすらぎ荘での動作法実践は,生活療法,集団療法,セラピスト-クライエントの関係性に基づいた動作法面接,スーパービジョン,事例発表カンファレンス,院生が責任者となるマネジメントなどが包括された,総合的心理臨床実践および研修になっている。博士後期課程を終えて一定年数大学院で研究を続ける先輩たちを含め,非常に厚い院生層がそれぞれ役割分担して,キャンプや日帰りの動作法実践の場をマネジメントするシステムは,今流行りのチームや多職種連携に必要なあらゆるエッセンスが詰まっていた。事例報告のカンファレンスだけでなく,スーパーバイザーが実際に自分のアセスメントや見立てを説明し,さらにそれを実践して見せるスーパービジョンは,初心者のセラピストも動作法に取り組める安全な枠を保証すると同時に,動作法の修得を著しく促進する研修を提供するものであった。

このような環境で数年間研鑽すれば,自分なりにできているような気にもなってくる。そこで,臨床心理士の資格制度ができ,経過措置として受験できることから,受験に挑み,資格を取得した。面接試験で,「あなたの心理臨床のオリエンテーションはなんですか」と聞かれ,「動作法です」と答えたところ,「心理療法として動作法のねらいはなんですか」と聞かれ,とっさに「セルフモニタリングとセルフコントロールです」と答えた。のちに,質問した面接官は,動作法開発初期に成瀬悟策先生と一緒に関わった大野清志先生であることが分かって赤面した。

3.名が私のものになる

名は体を現すというのに,シンリシという名が自分のもののようには思えなかった。知識の習得や研修に励み,日々関わるクライエントには真摯に関わろうと人並みに努力していたが,今一つ見えない壁にぶつかっている感じがした。それはあたかも水槽の中から外の世界をみるように,視てわかるものの,触れて実感できない感覚であった。自由に泳いでいるようで,同じルートを繰り返し回っているような閉塞感があった。

そんなとき,自分自身が大きく崩れる体験をした。簡単に言えば,今まで傍観者として関わっていた大きな課題を,自分事として引き受けて睡眠を取らず,一週間自分を追い詰めたら,身体の感覚と心の感じが融合した,一時的な変性意識状態を体験したことである。この体験を通して初めて,こころとからだの相関,いや,それを超えて,からだはこころそのものであるという自分の理解を明確にすることができた。自分の視座,理解を定めることによって,初めて自分から動作法を理解し,また動作法から自由になった気がした。これは私をシンリシたらしめた幸運な,素晴らしい体験であった。

ちょうどその時期に,恩師である大野博之先生が九州大学退職を機に,「主動型リラクセイション療法」を提唱した。これは,Self-Active Relaxation Therapyと英訳され,一般にサートと呼ばれるリラクセイション療法である(大野,2005,2011)。サートは大野先生が50年以上動作法を実践しながらリラクセイションを軸に構築してきた理論・技法を形にしたものである。サートは,リラクセイションを弛緩のみではなく,緊張と弛緩のバランスの良い状態または動きとして積極的に捉え,「主動」,すなわち「自分で動く,動かす」ことを手がかりにすることで当人の自由さと可能性を最大限に保障するというのが基本的考えの心理療法である。院生時代から近くで見てきた立場からすると,サートは大野先生のパーソナリティから生まれていることがうかがえ,心理療法そのものに対する理解が深まるありがたい機会を得たように思える。

偶然の連続のようで,一つひとつの出会いが相まって,心を理解する自分の視座,心に関わるすべを整えてくれた。シンリシとして地に足を着けて歩み続ける中で出会いも続くだろう。その出会いを通してさらに変化していく自分を楽しみにしている。

文   献
  • 大野博之編(2005)SART─主動型リラクセイション療法.九州大学出版会.
  • 大野博之(2011)心理療法のためのリラクセイション入門─主動型リラクセイション療法《サート》への招待.遠見書房.
+ 記事

・名前:奇 惠英(き へよん)
・所属:福岡女学院大学(教授)
・資格:臨床心理士
・主な著書:『きっと,だいじょうぶ─サラと歩いた日々』(西日本新聞出版局,2002年)

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