こうしてシンリシになった(14)|鶴 光代

鶴 光代(淑徳大学)
シンリンラボ 第14号(2024年5月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.13(2024, May.)

1.シンリシ以前からシンリシへの新入り修行のころ

1)自閉症の子どもとの出会い

福岡学芸大学に在籍していた学部時代に,ある病院の小児科で遊戯療法を行っていた先輩から,サブ(副)として来てみないかと誘われ参加することになった。主としてカナータイプの自閉症と診断された子どもへの個別遊戯療法に携わった。当時,自閉症の成因論として心因説と内因説,脳の機能障害説があったらしいが主流は心因説であったことからか,ここでも高学歴で理知的な両親のもとにおける養育上の問題を成因とする説に立っていた。しかし,母親面接の陪席からは子を思い苦悩する温かみのある人間性がうかがえた。先輩は「本当のところ,よくわからない」と言っていたので,冷たい母親が自閉症をもたらすとする説を密かに棄却することにした。ただ,端整な容貌をした子どもの様子には目立った変化はなく試行錯誤が続き,数カ月後には児童精神病を専門とする施設への入院となった。その時の母親の悲しみには,今でも胸が痛む。

後年,臨床動作法を用いて,自閉症の子どもが自分の持てる力を伸ばす援助を行えるようになったとき,棘のように残っていた当時の困惑は解消した。自閉症の子どもは変わる,成長すると実感できたその体験は,今思えばシンリシとしての第一歩だったのかもしれない。

2)研究者の卵として扱われる

九州大学教育学研究科教育心理学専攻に入学した修士1年の半ばに,婦人科の教授の研究を手伝うことになった。研究対象者に諸知能検査や性格検査を行う役割で,研究対象者は年上の女性ばかりでかなり緊張した。検査の実施時や検査前後のやり取りにおいては大いに勉強になり,その年度でこの仕事は終わった。修士2年の秋口に,『臨床婦人科産科』の第22巻9号と10号が送られてきて,「婦人科内分泌疾患のPSM的研究(4)心理検査法の診断的意義」と「婦人科内分泌疾患のPSM的研究(5)心理検査法の診断的意義──投影法を中心に」という論文の著者名の最後に自分の名前があることに驚いた。研究メンバーの一員として扱われたのだとわかり、まだ知らない研究者社会の一端を窺った思いがして新鮮だった。

3)精神科病院での「目から鱗」体験

修士1年の夏だったと思うが,当時,助教授であった前田重治先生に連れられて福岡市内の精神科の病院に行き,心理の先生と呼ばれる立場になった。初めの数カ月は見習いということで,午前中は院長の外来診察に陪席をし,午後はロールシャッハテストや他の心理検査を2件程度行うことになった。

院長診察の陪席では,少し誇張して言うと驚きの連続であった。中でも秀逸なのは,今でいう統合失調症の患者さんが,「どうしてこんな病気になったのか」と辛そうに問うと,「先祖に悪いことをした人がいたから」という答えが発せられたことである。初めて聞くそのやり取りに驚愕したが,患者さんは「そうなんですね」と落ち着きを取り戻して帰って行った。院長はこの問答をよく行っていた。「どんな悪いことをしたのですか」と問い返す人には「それは昔のことでわからない」と返答していた。

この病院には10年間通っていたが,「先祖問答」の真意はよくはわからないままであった。ある時院長に尋ねてみると,「(そうでも言わないと)可哀そうじゃないですか」と言われた。私はその言葉の前に,「この病気は治りにくいので,寛解しにくいので」というせりふが付くと勝手に感じ取って,院長の患者を思う心底のやさしさに甚く共感し,「目から鱗」体験をした。当時,患者さんのことを「可哀そう」というのは禁句というか,人権侵害的表現として否定される雰囲気が出てきていたが,シンリシ的に気が利いたやり取りをするより,患者さんのどうにもならない苦悩に患者の目線で率直に付き合うことの意義深さを知った。院長はドイツ精神医学に造詣が深く,学究肌の最も尊敬できる精神科医であったことを付記しておきたい。

ちなみにこの病院には,前田先生をはじめ,当時九大精神科の講師をされていた神田橋條治先生やのちに東京大学心療内科第二代教授になられた末松弘行先生も非常勤医として来られていて,なかなかのメンバーで勉強になった。

2.動作訓練法の修行

1)研究チームへの新入り

大学院入学前から,九大の教育学部で行われていた成瀬悟策先生主催の「催眠研究会」には,友達の誘いで通っていた。研究会では,他大学の教員や医師,心理職者が多く参加していてディスカッションが盛んであった。なかでも成瀬先生の意見の吹っ掛け方は,独創的で小気味がよかった。のちに指導される立場になったときは,立ち往生することも多々であったが,新しい発想を刺激され,シンリシになっていく力の源となった。

修士1年として入学した年は,成瀬先生の下で後に臨床動作法として体系化される研究が始まった2年目であった。

臨床動作法のそのはじめは,脳性まひの人の動作不自由を催眠法を用いて改善する研究であった。入学と同時にその研究グループの一員となった。新しい心理臨床の方法を開発するその道のりへの参画は,新入りながらも刺激的であった。

2)固い殻が破れたと思えた体験

研究は,催眠法による改善の中核要因を探索しながら,催眠を使わない方法の開発に進んでいた。新入りといえども研究テーマを持ち,成瀬先生が編み出す仮説と新しい技法に沿って脳性まひの子どもたちの動作改善を実践した。その実践形態の一つとして,集団で宿泊を共にし集中的に動作訓練法を行うキャンプ形式が生み出された。脳性まひの子どもも保護者も,トレーナーと呼ばれた援助者も一緒に起居を共にすることになった。

1週間キャンプと呼ばれたこのプログラムでは,動作訓練・集団療法・生活指導・親の会・トレーナーミーティングが柱になっていた。初めての参加時には,一人のトレーニー(子ども)の動作訓練を1週間担当するとともに,苦手意識のあった集団療法の係となった。相当緊張しながらも保護者も含めた大人数の前に立って,歌の指揮をしたり遊びのリードをしたりした。回を重ねるうちこの役割に乗れてきて楽しくなった。この経験は,自分の固い殻を破るきっかけになったと思う。ただ,その後のしばらくも,成瀬先生からは「固いね」と言われ続けたが……。

3)集団の力学を体験

1週間の長期にわたる集団生活では互いに慣れていないこともあり,ストレスフルになったり不満やトラブルが生じることもあった。しかし,皆が同じ方向を向いていたので,つまり子どもの動作改善に集中して全力を注いでいたので,トレーナー間のコミュニケーションはスムーズになっていった。保護者同士の緊密さも高まった。最終日には,皆が達成感を抱き晴れ晴れとして解散した。この経験から,集団の持つ力学を実体験した。個人心理療法においてもクライエントを取り巻く集団のありように注意を払い,クライエントを支える集団の活用に目を向けるようになった。

3.どうやってシンリシになれたのか

1)シンリシになることを自明と思っていた節(ふし)について

多分,博士課程に進学した1969年だったと思うが,日本臨床心理学会から「臨床心理士」の学会資格を創設することになったので,九州地区でも現任者講習会を行うという知らせが来た。精神科病院に非常勤として勤めていたので,何のためらいもなく受けるべきものとして申し込んだ。ところが,長崎県の雲仙会場に行ってみると大学院の先輩も後輩も学生は一人もおらず,ベテランの心理職の人ばかりであった。同門の女性の先輩と出会えてホッとし,講師としての成瀬先生や前田先生の姿を見つけて安心した。

「こうしてシンリシになった」という題目をいただいてから,自分はどういうきっかけでシンリシになりたいと思ったのかが気になったがはっきりしなかった。ところが上述のことがよみがえり,ごく単純な自明の理的な感覚であったことが分かり,ひとりで笑ってしまった。

ちなみに,日本臨床心理学会はこの後資格問題等の意見の違いから紛糾し,成瀬先生や佐治守夫先生,村上英治先生といった理事が脱会することになり,弟子筋の私たちも退会してしまった。その約10年後に設立されたのが日本心理臨床学会である。初代理事長となった成瀬先生は,これでやっと責任を果たせたと感慨深げであった。

2)シンリシとしての覚悟

1970年10月に,母校である福岡教育大学に新設された保健管理センターの講師となった。学生相談と健康心理学の講義が主たる仕事であった。独り立ちした気分もあったが,シンリシとして一人前とは思えないまま,学生相談に力を注ぎながら催眠研究会や動作訓練の会,新たな精神科病院にも通って心理臨床経験を積んでいた。

そうしたとき,整肢療護園の全国園長会で,動作訓練は医療行為に当たり問題であるので裁判にかけようということが話題になったというニュースが飛び込んできた。我々関係者は,裁判沙汰になるのをどうやって防ぐかに注意が向いた。ところが成瀬先生は,慌てることなくごく普通に「裁判にかけてもらった方がよい,そうした公の場で,動作訓練は動作不自由の改善を目指すところの心理学に基づく援助法であることを明確にできるから」と言ったのである。
事の本質的問題を避けて防衛的に動く自分のありようにまだまだの未熟さを感じた。そして,外からの攻めに対して守りの姿勢だけではなく,逆に攻めを活かす力を身につけるように努力していこうと思った。この思いは,悩める学生を抵抗勢力からいかに守るか,支えるかに少しは活かされたような気がする。裁判の話は結局立ち消えになったとのことであった。

覚悟というと大げさだが,上述のことは後に自分がシンリシになれたとするときの重要な土台になったといえる。こうしてシンリシになりましたといえるのはまだまだ先であるので,本稿ではこうして土台を積んでいきましたという話をさせていただいた。

名前:鶴 光代(つる・みつよ)
所属:淑徳大学(東京キャンパス)人文学部人間科学科客員教授,秋田大学名誉教授
日本公認心理師養成機関連盟会長,日本臨床動作学会理事長,日本心理臨床学会理事,日本催眠医学心理学会理事,日本リハビリテイション心理学会理事
資格:臨床心理士・臨床動作学講師・指導催眠士
主な著書:『臨床動作法への招待』(単著,金剛出版,2007),『発達障害児への心理的援助』(編著,金剛出版,2008),『心理臨床を学ぶDVD VOL.6 臨床動作法(動作療法)(健康・保健シリーズ)』,(医学映像教育センター,2012),『シナリオで学ぶ心理専門職の連携・協働:領域別にみる多職種との業務の実際』(共編,誠信書房,2018),『催眠心理面接法』 (共編,金剛出版,2020)

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