こうしてシンリシになった(12)|吉田圭吾

吉田圭吾神戸大学名誉教授,神戸親和大学
シンリンラボ 第12号(2024年3月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.12(2024, Mar.)

筆者は,令和6(2024)年3月をもって32年間臨床心理学とカウンセリングを教え,附属の心理教育相談室を支え,中学校のスクールカウンセリングと学生相談,心療内科カウンセリングの臨床実践を行ってきた神戸大学を退職する。自分がこうしてシンリシになったのは,運命の大きな流れの中で必然であったと思う。しかし,人生という観点から見ると,紆余曲折を経てきた。退職という機会だからこそ,自分自身の人生も振り返りつつ,なぜシンリシになったのか,描いてみたいと思う。今から思えば,シンリシになったのは,生まれて育った中で必然だったと思う。でも途中では,常に人生に迷い,何が正しいかわからず,戸惑いつつ生きてきた意識しかなく,でもシンリシになってからケースを担当し,患者から学ぶ中で,ジグゾーパズルのピースが次々と空いているところにはまっていくように,腑に落ちていくプロセスが,臨床経験と学びの道だったと思う。

1.自分の理論的な学びの系譜

1)大学院入学まで

僕がシンリシになったのは,京都大学の臨床心理学の大学院に合格してからのことになる。当時は河合隼雄先生が有名になっていたのだが,もともと素粒子が好きで理系だった自分が文転して進学したので,河合隼雄先生を知らずにこの世界を目指した変わり種である。もともと文芸部に所属した自分が臨床心理学に触れたのは,先輩が臨床心理学の大学院を受験すると知り,一緒に勉強し始めてからである。それまでまったく心理とは縁のなかった自分が関心を持ったきっかけは,当時の親友が少女漫画やブリティッシュ・ロックなどにはまるたびに部屋中がそれでいっぱいになる性格で,その彼が一時心理学にはまり,膨大な心理学の本を読んだ結果,「この本だけは読む価値がある」と僕に渡したのが,R.D.レインの『引き裂かれた自己』であった。その本を読んで,「石化」(petrification)という概念に触れて,心が石化するということが自分に妙にフィットしたからである。先輩との勉強会では,H.S.サリヴァンの『現代精神医学の概念』を読み合わせしており,その中で“chumship”(少年期の親友)や,“participant observation”(関与しながらの観察)などの概念が,興味を引いた。

2)大学院時代

大学院では,河合先生の影響で同級生や先輩は,ユング派の考え方に傾倒している人が多かった。僕は,興味は持つものの,受け入れるのに戸惑い,内部進学の院生が事例検討会でも質問や意見をしているのを見て気後れし,授業をさぼって近畿圏の映画館で映画を見まくっていたため,留年しM3を経験することになる。だが,この映画鑑賞にはまったのが,後の山中康裕先生考案の「心の窓」理論を用い,中学で臨床活動をする上で大変役に立つことになる。河合先生と山中先生のユング派の勉強と,山中先生が中井久夫先生と親友だったことから,中井先生の著書を読んだり,風景構成法を勉強したりしていた。そのことがカウンセリングの査定として,バウムと風景構成法を用いることがデフォルトになっていく礎となった。また,当時おられたラカン派の三好暁光先生の研究会にも参加し,教養部の新宮一成先生らと共にラカンの勉強をした。ラカンはちんぷんかんぷんだったが,30代になってラカン派のF.ドルトと出会い,心からの感動を覚えることにつながっていく。また,保健管理センターの心理士として,精神病水準を含む患者のロールシャッハテストを経験できたことも大変貴重な経験になった。勉強会としては,先輩の山本昌輝さん主催の対象関係論の勉強会も大変ためになった。確かこの頃にD.W.ウィニコットにも接し,今では100回を超えるウィニコット研究会につながっていく。

2.子ども時代

1)小学生まで

自分の個人史としては,中学校教員の両親のもとに生まれ,幼い頃は,親に手をかけることもなく,かけたことでは一時重度の便秘に悩まされ,イチジク浣腸とトイレで気張る記憶がはっきりとある(後にanalityの問題と判明)。その意味で肛門期固着があり,自分の感情や気持ちを意識することが苦手で,「おぼっちゃん」として過剰適応的に育った。一方幼稚園の「おいしゃさんごっこ」と小1の初恋の記憶は鮮烈だった。また,小学校時代は,地元のgang ageのギャング集団に受け入れてもらい,普通に楽しく過ごしていた。4歳下に妹がおり,おとなしい自分とは対照的に,癇癪もちできかん坊だった妹は,どんな洋服も拒絶し,大声で泣き叫び,母親を毎日のように困らせていた。そのような妹が自分からすると鼻持ちならない存在で,妹に「はらわたが煮えくり返る」経験をしており,のちに「きょうだい葛藤」として,理論的に回収する重要な根源的経験となる。小学校高学年は,しつこいいじめを受けたことと,実はその加害者であるいじめっこが,かぎっ子で淋しがり屋であることを僕だけに明かした経験から,いじめ被害者ケアと加害者ケアの根源的経験として後に回収される。また,いとこの家にお泊りをした時に,深夜に年上のいとこの貯金箱からお金を盗んだり,学校でクラスのおもちゃを盗んだりしていて,盗癖もその頃現れていた。この経験は,ウイニコットの“盗みの心理と心理療法”によって回収される。

2)中学生~高校生

中2の1学期から,父親が日本人学校の教員となる都合で,オーストラリアで3年間過ごすことになる。このシドニーでの3年間は,自分の民族アイデンティティに影響を与え,今でも人格の3割くらいはオーストラリア人だと感じることがある。この経験も,海外経験およびカルチャーショックとして,外国人生徒や学生,帰国子女などのカウンセリングとして回収されていくことになる。思春期に入ると,ドーナツ型対人恐怖の傾向が強くなり,クラスメイトなどの半知りの友人に溶け込むことが極端に難しくなっていた。しかし,この時に仲良くなった後輩がクリスチャンだったことから,彼に付き合って牧師さんの主催する聖書研究会に参加したことが,僕にとって“chumship”の経験となり,サーキュラ・キー(シドニーにある埠頭)の波止場の2階の教会の1階がバーで,その地下の遊戯場で行われた聖書研究会は,僕の心理の根底に基礎を形作ることになった。その後輩とは,遊戯場で研究会の3時間前に集合し,ビリヤードと卓球をして遊びまくり,棚に置いてあったエロ本を夢中になって見た。その頃,クラスの尊敬する友人が,当時としては珍しく,男性でピアノを弾いていることに電気が走り,家では犬猿の妹がピアノを弾いており家族に知られてしまうので,その遊戯場にあったアップライトピアノで,夢中になってピアノを練習した鮮烈な記憶がある。ピアノは今でも僕の一番の“親友”として,僕に寄り添ってくれている。

中3の時に,一人で帰国して祖父母の家から高校に通うか,1年地元の高等学校に通うかという話になり,意思の希薄だった僕は,父親が「1年遅れてもたいしたことない」というので,地元の高校に行くことになる。今では後悔していないが,当時はオーストラリア人ばかりの学校に日本人一人で通うのはしんどかったし,逆に日本に帰国後,1年遅れということを隠して,1学年上の同級生を無視して,年下に溶け込もうとしたことで,二重の自分に分裂してしまい,しんどかったということを,シンリシになって自己分析をして,意識化することになる。

3.シンリシになってから

もともと「専門家にも相手にされなくなった子どもを救いたい」という空想で臨床に入った僕は,イニシャルケースが重度自閉症の遊戯療法で,その安易な気持ちを完膚なきまで打ち砕かれると共に,バイズのおかげで胎内回帰と生まれ直しのプレイで学びを得た。父親が教師として生徒を支えたことに対する反抗心および異議申し立てから,父親とは異なる生徒との向き合い方を長年作ってきたと思う。その中で,子どもと大人を併せ持つ中学生には,遊戯療法的接近と,心の窓を通しての接近,言葉を用いたカウンセリング的接近の三つ巴の技法を編み出していった。中学生が両親との関係に苦しみ,きょうだい葛藤にあえぎ,友人との関係に悩むことに寄り添う中で,自分の人生の経験をパズルのピースのように回収していき,中学生の心に真に寄り添うとは何かについて考えてきたと思う。

子ども,特に中学生に寄り添い,もっぱら本人の視点に徹頭徹尾立ち,アクティブに関わり,救っていく態度が,自分の“患者から学んだ”結論である。まだこれからも臨床は続くが,今までのクライエントたちに感謝したいと思う。

吉田圭吾(よしだ けいご)

・神戸大学名誉教授,神戸親和大学
・中学・高校教員免許(数学),臨床心理士,公認心理師

・主な著書:『教師のための教育相談の技術』(単著,2007年,金子書房)
『傷つけ傷つく青少年の心』(共著,2004年,北大路書房)
『キーワードで学ぶカウンセリング』(編著,世界思想社,2003年)
『人間関係と心理臨床』(編著,培風館,1998年)
『心理療法とドラマツルギー』(共著,星和書店,1993年)

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