【特集 ナラティヴ・セラピー/アプローチの現在と未来】#02 ナラティヴ・アプローチの多様性|野口裕二

野口裕二(東京学芸大学名誉教授)

シンリンラボ 第6号(2023年9月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.6 (2023, Sep.)

ナラティヴ・アプローチはこれまで何をしてきてこれからどこに向かおうとしているのか。この問いをテーマに,本年3月のナラティヴ・コロキウムでシンポジウムをおこなった。そこで,シンポジストの安達映子さんと森岡正芳さんから多くの貴重な示唆をいただいたが,そのなかで日本のナラティヴ・アプローチの展開にある偏りが生じているという指摘がありいろいろ考えさせられた。それは「社会性と政治性の希薄化」という偏りであり,今回のこの特集の趣旨説明でも「寄り添い型」という言葉でこのことが示されている。こうした状況をどうとらえればよいのか。ナラティヴ・アプローチのこれまでの展開をふりかえりながら考えてみたい。

1.「ナラティヴ・セラピー/アプローチ」という用語

この問題の検討に入る前に,まず,本特集のテーマにある「ナラティヴ・セラピー/アプローチ」という用語について確認しておこう。なぜ,「セラピー」と「アプローチ」が並記されているのか,この二つはどこが違うのか,このあたりを確認しておかないと,そもそも何について論じているのかわからなくなる可能性があるからである。

「ナラティヴ・セラピー」と「ナラティヴ・アプローチ」が並記されている理由は,この二つの言葉の指し示すものが微妙に重なり合っているためと考えられる。二つを並記することでそうした重なり合いを含めた全体を議論の対象とすることができる。では,この二つの言葉は一般にどのように使われているかというと,「ナラティヴ・セラピー」は,ホワイトとエプストン(White & Epston)によって生みだされオーストラリアのDulwich Centreを中心に発展してきた臨床実践を指すことが多く,一方の「ナラティヴ・アプローチ」は,ナラティヴに着目しておこなわれるすべての実践や研究の総称として使われることが多いといえる。つまり,前者は後者の一部に含まれるわけで,その意味では混乱はないようにも思えるが,そう単純にいかないのにはもうひとつ理由がある。それは,「ナラティヴ・セラピー」という言葉には二つの意味があるからである。

日本で「ナラティヴ・セラピー」という言葉が最初に使われたのは,1997年に私と野村直樹さんの共訳で出版した『ナラティヴ・セラピー 社会構成主義の実践』(McNamee, S. & Gergen, K. J. eds. 1992)である。この本の原題は ‘Therapy as Social Construction’ であり,「ナラティヴ・セラピー」という言葉は使われていない。にもかかわらず,「ナラティヴ・セラピー」という題名をつけたのは,「社会的構成としてのセラピー」という直訳ではわかりにくいという理由のほかに,1996年に ‘Narrative Therapy: The Social construction of Preferred Realities’ (Freedman & Combs, 1996)という本が出版されて,社会構成主義にもとづく新しいセラピー全体が「ナラティヴ・セラピー」と呼ばれていることを知ったからである。この本は,ホワイトとエプストンの理論と実践を中心にしながらも,アンダーソンとグーリシャンの「無知の姿勢」(Anderson & Goolishian, 1992)やアンデルセンの「リフレクティング・チーム」(Andersen, 1991)などにも頁を割いて紹介している。このように社会構成主義に関係するさまざまな臨床家を視野に収める点が,われわれが翻訳した本と共通していたため,この呼び方を使わせてもらったという経緯がある。

こうして,社会構成主義にもとづく新しいセラピーの総称として,「ナラティヴ・セラピー」という言葉が使われ始めた。その後,小森・野口・野村の3人で,『ナラティヴ・セラピーの世界』(1999)という編著を出版してこの用語法はさらに広まっていった。一方,その後の海外の動向をみると,この社会構成主義にもとづくセラピーの総称という使い方は徐々に見られなくなり,ナラティヴ・セラピーといえば,ホワイトとエプストン流のセラピーを指すことが多くなっていった。なお,興味深いことに,当時,ホワイトもエプストンもNarrative Therapyという言葉をタイトルに含む本も論文も発表していない。にもかかわらず,この用語法が広まっていったのには次の二つの理由が考えられる。ひとつは,2000年にDulwich Centreから‘What is Narrative Therapy’ (Morgan, 2000)という大変わかりやすい解説書が出版されたこと,もうひとつは,2002年に同じくDulwich Centreから,International Journal of Narrative Therapy and Community Workという雑誌が創刊されたことである。こうして,「ナラティヴ・セラピー」といえば,ホワイトとエプストン流の実践を指すという用語法が一般的になっていった。

以上を要約すると,「ナラティヴ・セラピー」と「ナラティヴ・アプローチ」という言葉には以下の3つの用語法があるといえる。

①ナラティヴ・セラピー(広義) 社会構成主義に基づく臨床実践の総称(90年代後半)
②ナラティヴ・セラピー(狭義) ホワイト&エプストン流の臨床実践(2000年代以降)
③ナラティヴ・アプローチ ナラティヴに着目するすべての実践や研究の総称

これらのうち,現在は,②と③の用語法が一般的で,①はあまり使われなくなっているが,日本では「ナラティヴ・セラピー」という言葉を最初に使った訳書の影響もあっていまでも使われることがある。その場合,①は総称であるという点で③とも重なっている。なお,私自身は2002年の著作以降,②と③の用語法に統一しており(野口,2002, 2005 , 2009),本稿もこれに従う。

2 ナラティヴ・アプローチの展開

以上,「ナラティヴ・セラピー」には二つの意味があり,それがなぜ生じたのかについて見てきた。では,「ナラティヴ・アプローチ」についてはこうした問題はないのだろうか。結論からいうと,「総称」としてもともと多様な意味を含んでいるので,このような複雑な問題はない。ただし,「総称」であるがゆえに,きわめて多様な分野の多様な実践が含まれるので,同じ「ナラティヴ・アプローチ」という言葉を使うことに違和感を覚えることがあるかもしれない。私が編集した『ナラティヴ・アプローチ』(2009)においても,社会学,文化人類学,医学,看護学,臨床心理学,社会福祉学,生命倫理学,法学,経営学という多様な分野の専門家に執筆してもらった。「ナラティヴ」に着目する動きは90年代後半以降,さまざまな分野で始まりそれはいまも続いている。これ以外の分野では,その後,政治学と経済学の分野ではそれぞれ「ナラティヴ政治学」(Mayer, 2014),「ナラティヴ経済学」(Shiller, 2019)といった著作が出版され,とくに後者はノーベル経済学賞受賞者による著作でもあり翻訳も出て多くの人に読まれている。

ナラティヴ・アプローチはこのように多様な実践や研究を含んでいるが,これらのなかで臨床分野に大きな影響を与えたのが医療分野における展開である。その先駆けとなったのは,クラインマンの ‘The Illness Narrative’ (Kleinman, 1988)であろう。私自身,Narrative という言葉に関心をもったのはこの著作がきっかけであり,ナラティヴ・アプローチの入門書として書いた『物語としてのケア』(2002)においてもこの議論を紹介した。そこで取り上げた論点の一つが「説明モデル」の考え方である。医療者と患者はそれぞれ異なる「説明モデル」をもっており,それがすれ違うとき「ケア」が阻害される。医療者と患者の「説明モデル」を対等な存在としてとらえて,医療者が患者のナラティヴに耳を傾けることからケアが始まる。医療者の説明モデルを上位に置く従来の前提を反省し,医療者と患者の対等な関係性を提案するこの著作は,患者のナラティヴの重要性に光を当てたナラティヴ・アプローチの古典のひとつということができる。

次に,臨床領域に大きな影響を与えたのが,『ナラティブ・ベイスト・メディスン』(2001)の訳書の出版である。それまで家族療法の新しい概念として紹介されることの多かった「ナラティヴ」という言葉が,医学全体を貫く重要な概念として使われた。しかも,当時注目されていた「エビデンス・ベイスト・メディスン」と「車の両輪」のような役割を果たすものとして紹介されたことで,ナラティヴ・アプローチの対象領域は一挙に広がった。さらにその後,同様の考え方を医学教育に生かす『ナラティブ・メディスン』(2011)が紹介され,「物語能力」や「パラレル・チャート」などの概念とともに注目された。なお,すでにお気づきのとおり,この二つの訳書は「ナラティヴ」ではなく,「ナラティブ」という表記を用いている。小森(2015)は,この違いを「社会構成主義の取り込みの高低」によるものと述べているが,私も同様の印象をもっている。

こうして,ナラティヴ・アプローチは,家族療法から医学教育まで,社会構成主義色の強いものから弱いものまで多様な考え方を含むものとして存在するようになった。そして,こうした状況が,冒頭に述べた「偏り」とも関係してくる。そこには,社会性や政治性を重視する立場もあれば,それらを重視しない立場もあるからである。そして,これら二つの立場のうち,前者の立場が相対的に少なく,後者の立場が相対的に多いとすれば,そこには「偏り」があるということになる。ただし,「偏り」があるからといってそれが直ちに問題であるとはいえない。両者が同じくらいの割合でなければならない理由もないからである。では,こうした状況をどうとらえればよいのだろうか。次にこの点を検討しよう。

3 社会性と政治性

そもそも,社会性と政治性とは何か。それはどのようなかたちでナラティヴ・アプローチに影響してきたのか。この問いに対してまず思い浮かぶのは,ホワイトとエプストンの実践(White & Epston, 1990)であろう。よく知られているように,彼らはフーコー(Foucault)の権力論を自分たちの実践の中心に据えて独自の方法を生みだした。そこで中心となるアイデアは「権力としての知」であり,私たちが慣れ親しんでいる日常知,そして,専門家が依拠する専門知,それらこそがひとびとを支配し従属させる権力作用をもつことを明らかにした。そして,そこからの脱出方法として「問題の外在化」というユニークな方法を考案した。日常知や専門知による「問題の内在化」がひとびとを「問題」に縛りつける権力作用をもつことを見抜いたからである。このように「知」という社会的な存在のもつ政治性に着目し,それを臨床実践の中心に据えた点で,彼らの実践はまさしく「社会性」と「政治性」を重視するものということができる。

では,この点に関してそのほかの実践はどのような特徴をもっていたか。アンダーソンとグーリシャンの「無知の姿勢」は,セラピストが専門知に基づいて患者の語りを診断し分類することを優先し,患者の生きる世界を理解してこなかったことの反省から生まれた。この点で,「知」の権力性を重視するホワイトらの実践と共通している。また,アンデルセンの「リフレクティング・チーム」も,セラピストがワンナップ・ポジションから家族を分析し介入する従来の方法に疑問を投げかけ,両者が対等な関係で対話をする方法を生みだした。ここでも同様に,これまで専門家が当然のごとく行使してきた「知」の権力性が問われている。さらに,クラインマンの「説明モデル」の考え方も,それまで当然視されてきた専門家の「説明モデル」の優位性に疑問を投げかけ,専門家と患者それぞれの「説明モデル」を同様に尊重することが提案されている。これもまた専門家のもつ権力性を反省する政治的実践であり,これらはすべて,医療コミュニケーションにおける「民主化」と「平等化」の動きとしてとらえることができる(野口, 2018)。

これに対して,前節で論じた「ナラティブ・ベイスト・メディスン」と「ナラティブ・メディスン」には,こうした政治性があまり感じられない。そこで重視されているのは,現代医療の主流である「エビデンス・ベイスト・メディスン」においてこぼれ落ちるものに光を当て大切にすることであって,そうした主流のもつ「優位性」それ自体に疑問を投げかけるものではない。小森が指摘するとおり,これらは「社会構成主義の取り込み」が低く,病いや治療の社会的構成性に着目してそれを実践に生かそうとする志向性は弱い。こうした点が,「社会性と政治性の希薄化」として感じられ,また,「寄り添い型」という言葉を生みだしているのかもしれない。ただし,「寄り添い型」という言葉が具体的にどのような実践を指すのかは明らかではない。「無知の姿勢」も「リフレクティング・チーム」もワンナップ・ポジションを放棄する点では「寄り添い型」と呼べなくもないし,クラインマンの「説明モデル」もまた患者の生きる世界に寄り添うことの重要性を述べている。「社会性と政治性の希薄化」と「寄り添い型」という言葉は分けて使うべきなのかもしれない。

4 おわりに

以上,「社会性と政治性の希薄化」という問題をめぐって,ナラティヴ・セラピーとナラティヴ・アプローチという用語をめぐる問題,ナラティヴ・アプローチに大きな影響を与えた医療分野における展開,そして,社会性と政治性をめぐるアプローチによる違いについて検討してきた。それらは社会構成主義の取り込みの程度とも関係して,社会性と政治性の濃淡を形成している。そうしたなかで,かつてと比べて「希薄化」が進行しているのか,「偏り」が大きくなっているのかどうかは判断が分かれるところであろう。「ナラティブ・ベイスト・メディスン」や「ナラティブ・メディスン」の影響力が近年増しているのだとすればそのようにいえるかもしれない。一方で,前述したように,近年,「ナラティヴ政治学」や「ナラティヴ経済学」といった著作が現れて,文字通りナラティヴのもつ社会性や政治性が注目されている。また,SNSの広がりがミクロなナラティヴをマクロなナラティヴに変えて社会を動かすことに注目する著作(大治,2023)も現れている。ナラティヴのもつ社会性と政治性はいまホットな話題になりつつある。

最後に,もう一度冒頭に掲げた問いに戻ってみよう。ナラティヴ・アプローチはこれまで何をしてきてこれからどこに向かおうとしているのかという問いである。ナラティヴ・アプローチはこれまで,社会性や政治性を重視する実践,病いや治療の社会的構成性を重視する実践,それらを重視しないがナラティヴの臨床的役割を大切にする実践など,多様な実践を生みだしてきた。そして,こうした多様性こそが,「ナラティヴ」という言葉に独特の広がりと奥行きを与えて,ナラティヴ・アプローチという方法の魅力を高めてきた。雑誌『N:ナラティヴとケア』も,研究会「ナラティヴ・コロキウム」もこうした多様性の上に成り立っている。ナラティヴ・アプローチの新たな展開もまたこうした広がりのなかから生まれると思われる。

文   献

  • Andersen, T. (1991)The Reflecting Team:Dialogues and Dialogues about the Dialogues. New York, W. W. Norton. (鈴木浩二監訳(2001)リフレクティング・プロセス.金剛出版.2001.)
  • Anderson, H. & Goolishian, H. A. (1992)The Client is the Expert. in McNamee, S. & Gergen, K. J. (eds. )(1992).
  • Charon, R. (2008)Narrative Medicine: Honoring the Stories of Illness. Oxford University Press. (斎藤清二・他訳(2011)ナラティブ・メディスン―物語能力が医療を変える.医学書院.)
  • Freedman, J. & Combs, G. (1996)Narrative Therapy : The Social construction of Preferred Realities. New York, W. W. Norton.
  • Greenhalgh. T. & Hurwitz, B. (1998)Narrative Based Medicine : Dialogue and Discourse in Clinical Practice. BMJ Books. (斎藤清二・他訳(2001)ナラティブ・ベイスト・メディスン―臨床における物語りと対話.金剛出版.2001.)
  • Kleinman, A. (1988)The Illness Narratives. Suffering, Healing and the Human Condition. Basic Books. (江口重幸・他訳(1996)病いの語り─慢性の病いをめぐる臨床人類学.誠信書房.)
  • 小森康永(2015)ナラティブ・メディスン入門.遠見書房.
  • 小森康永・野口裕二・野村直樹編(1999)ナラティヴ・セラピーの世界.日本評論社.
  • McNamee, S. & Gergen, K. J. (eds. )(1992)Therapy as Social Construction. London, Sage. (野口裕二・野村直樹訳(1997)ナラティヴ・セラピー─社会構成主義の実践.金剛出版.再版,遠見書房,2014)
  • Mayer, F. W. (2014)Narrative Politics : Stories and Collective Action. Oxford University Press.
  • Morgan, A. (2000)What is Narrative Therapy : An easy-to-read introduction. Dulwich Centre Publications. (小森康永・上田牧子訳(2003)ナラティヴ・セラピーって何?.金剛出版.)
  • 野口裕二(2002)物語としてのケア─ナラティヴ・アプローチの世界へ.医学書院.
  • 野口裕二(2005)ナラティヴの臨床社会学.勁草書房.
  • 野口裕二編(2009)ナラティヴ・アプローチ.勁草書房.
  • 野口裕二(2018)ナラティヴと共同性─自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ.青土社.
  • 大治朋子(2023)人を動かすナラティブ なぜ,あの「語り」に惑わされるのか.毎日新聞出版.
  • Shiller, R. J. (2020)Narrative Economics : How Stories Go Viral & Drive Major Economic Events. Princeton University Press. (山形浩生訳(2021)ナラティブ経済学―経済予測の全く新しい考え方.東洋経済新報社.)
  • White, M. & Epston, D.(1990)Narrative Means to Therapeutic Ends. New York, W. W. Norton. (小森康永訳(1992/新訳版,2017)物語としての家族.金剛出版.

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東京学芸大学名誉教授。社会学の立場からナラティヴ・アプローチの研究をおこなう。主な著書,『物語としてのケア─ナラティヴ・アプローチの世界へ』(医学書院,2002),『ナラティヴと共同性─自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』(青土社,2018)など。

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