【特集 ナラティヴ・セラピー/アプローチの現在と未来】#05 ナラティヴ・コミュニティの実践と異国化|西井 開

西井 開(千葉大学社会科学研究院)
シンリンラボ 第6号(2023年9月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.6 (2023, Sep.)

1.はじめに

「自分自身の世界を,それももっとも近しい慣れ親しんだ部分を研究対象とする社会学者は…(中略)…慣れ親しんだものを見知らぬ異国のものにするのでなくてはならない。あまりに慣れ親しんでいるがゆえに不透明なままにとどまっている生活と思考の様式,これとの原初の親密性の関係を断ち切るのである」(Bourdieu, 1988: 10)

ナラティヴ・セラピーを開いた一人であるホワイトWhite, M.(2018)は,ナラティヴ・セラピーの持つ脱構築的性格について,ブルデューBourdieu, P. の一節をもって説明する。

例えば「女性への拙速なアプローチがやめられない」という悩みを持つ男性がいたとして,世間の多くの人は「男性は性欲が強いから仕方ない」と納得するかもしれない。また,心理の専門家の手にかかれば,「生育環境における愛着の欠如」や「発達特性としての衝動性」と関連させて理解されるかもしれない。

このような問題理解に対し,ホワイトが目指したのは社会の中に流通した素朴な理解や,専門知による説明を断ち切って,改めて自身の生きる世界を自分なりに言葉にして詳細化していくことだった。困りごとが生起するメカニズム,自身に影響を与えている環境や社会構造,その見取り図を描き出し,自身の困りごとを体系的に整理していく。その結果,なんとなく理解したつもりになった「慣れ親しんだ」日常はまるで「異国」のような色合いを帯びていく。

2.ナラティヴ・コミュニティとは

ナラティヴ・セラピーとはまた別の歴史的文脈で,しかもナラティヴ・セラピーが生まれるより以前に「異国化」の作業を行ってきた営みが存在する。アルコールなどのアディクション(依存)当事者によるセルフヘルプグループ(SHG)や,フェミニストたちによって開かれたコンシャスネス・レイジンググループ(CR)など,当事者活動・当事者運動の文脈で生まれた語り合いの実践である。

アルコール依存は「依存症」という病理としての枠組みで精神医学的に理解され,専門知による治療が進められてきた。こうした専門家主体のアプローチに対するオルタナティブとして,当事者同士の語り合いを通じて自分なりの回復の道筋を探すために,SHGは立ち上げられた歴史がある。

CRは,1960年代以降隆盛した女性解放運動(ウーマンリブ)の中で生まれた対話実践である。組織の中で性的にからかわれること,家事の負担を一方的に押し付けられること,夫婦喧嘩と称して家庭内で暴力をふるわれること。それまで個人的な経験とされてきたこれらの事象が,同様の経験を持つ女性同士の出会いを通じて政治的な問題であることが発見され,「セクシュアルハラスメント」「性別役割分業」「ドメスティック・バイオレンス」と名付けられてきた。CRグループは社会に横たわるジェンダー間の権力構造に焦点を当て,社会変革をも射程に入れたことにその特色がある。

両者とも,自分たちを強力に縛り付ける支配的な物語を脱して,当事者たちが自らの物語を編む活動が行われてきた。野口(2002)は,これらの実践の持つ力学にナラティヴ・セラピーとの共通点を見出し,「ナラティヴ・コミュニティ」と名付けたⅰ)

ⅰ) 野口(2002)は,SHG,CRから派生したフェミニストセラピー,そして精神障害者たちが自分の困りごとを研究する「当事者研究」という取り組みを実施する北海道浦河町のべてるの家の3つをナラティヴ・コミュニティの例として挙げている。しかし、これらの実践を「コミュニティ」と呼称してよいのかについては再検討が必要だと筆者は考えている。コミュニティという語は居住地域を共にすることや,文化や習慣,宗教性や利害を同じくしている集団であるというニュアンスが含まれる。しかし,匿名性を維持し,グループ外でのつながりを極力持たないSHGのように,強い共同性を持たず利害や参加者同士の関係性を一旦脇に置くからこそ自己の物語を紡ぐことが可能となるグループも存在し,だとするとコミュニティという語が適さない場合が存在すると考えられる。

野口によれば,ナラティヴ・コミュニティには2つの側面がある。1つは参加者の相互作用によって「いまだ語られなかった語り,新しい語り」が生み出される「語りの共同体」としての側面であり,もう1つはアルコールや薬物からの「回復」,男性中心社会からの「女性解放」といった大きな物語を有し,またグループ内で共有された物語が語り継がれていく「物語の共同体」としての側面である。

それぞれのグループはこれまで語られることのなかったナラティヴを生み出し,またそうして紡がれたナラティヴを通して共同体としての凝集性やピア性を高めていく,ナラティヴを介した循環構造がある。

3.「非モテ」男性の語り合いグループ

本論では,ナラティヴ・コミュニティと名付けられた先行実践を参考にして語り合いグループを実施してきた筆者の経験について記述していく。筆者は2017年に非モテ(=モテない悩み)をめぐる葛藤を抱く男性たちを中心とした共同研究グループ「ぼくらの非モテ研究会」(以下「非モテ研」)を立ち上げたⅱ)。このグループには,主に20代から30代,特にシスジェンダー,ヘテロセクシュアルの男性が集まり,性愛の悩みだけでなく,学校でいじめを受けていたという経験や,友人がほとんどおらず孤独な生活を過ごしてきたという経験などが語られる。

ⅱ) 詳細はぼくらの非モテ研究会(2019)を参照。

このグループは現在数名のメンバーによって実施される市民活動であり,心理療法的プログラムではない。筆者は臨床心理士・公認心理師の資格を有しているのものの,このグループには専門家として存在しているわけではなく,他の参加者と類似する悩みを経験してきた一当事者として参加している。

しかしファシリテートを行う時,全く専門性を用いないということはない。参加者たちの経験を詳細にするための質問を投げかけ,また後述するように語り合いが他者非難の方向に向かうようならば介入もする。いわば筆者は,当事者性と専門性を行き来する存在と言えるだろう。したがって本論では,純粋な当事者活動の方法論や,集団精神療法のような専門家が導くグループワークの手法ではなく,その狭間にある実践を描くことになる。

昨今対人援助の現場において,筆者のように立場性を往還する援助者が出現し,可視化されてきている。専門家として名乗っていた者が援助の過程で自身の当事者性に気づいていくこともあれば,当事者活動に従事していた者が専門家資格を取ることもあるだろう。専門家(援助する側)と当事者(困難を抱える側)は対置されるものと見られがちだが,この境界は今や流動化している。こうした現状において,筆者の往還的実践を記述することは意義があると考える。

4.グループ実践のための工夫

グループの中で重要なのは,参加者の経験が詳細化されていくことにある。そのためにファシリテーターはいくつか工夫をこらす。

非モテ研では,基本的に参加者が1人ずつテーマに沿って自分のエピソードを語り,それに対してファシリテーターや他の参加者が質問し,感想をフィードバックする形式を取っている。質問で重視するのは,「なぜ?」と問わないことである。例えば自分がついつい繰り返してしまう問題にかんして「なぜ?」と問われても,自分でも分かっていないのだから答えようがない場合が多い。答えが見つからない時ほど,どこかで聞いてきた素朴理論や専門知が参照される場合が多い。「性格的にそうだから」「発達障害だから」という具合に。自己探求はそこで止まってしまうことになる。そのため「なぜ?」ではなくいつそれが起きるのか,また起きないのか,誰といる時にそうなるのか,何があなたをそうさせるのか,と質問をするのである。

対話の場の建て付けも大切で,特に重要なのがホワイトボードである。これは当事者研究の手法を参考にしている。綾屋(2019)が言うように,ホワイトボードに参加者の困りごとを書(描)くことは,問題を個人から切り離す外在化の効果を持ち,参加者たちは自分たちの身に起こっている現象とそのメカニズムを俯瞰的に把握することができる。

またホワイトボードには,自身のエピソードを語る話し手に,他の参加者たちの視線が集中しないというメリットもある。注目されると,話し手が他の参加者にどう見られるかを意識してしまうことになり,自由な語りが損なわれる場合がある。その点,話し手-聞き手という二者関係にホワイトボードという第三項を加えることで,ホワイトボードに視線に集まることになり,視線が語り手に集中することを防ぐ効果がもたらされている。自分の語りに耳を傾けられ過ぎず,聞き届けられていることが分かっている。これが非モテ研で語るうえで理想な状態だと思われる。

もうひとつ場の工夫として挙げられるのは語り合いのテーマの設定である。非モテ研では毎回テーマを変えて語り合いが行われる。ここにも意図があって,例えば毎回「非モテ」をテーマに語り合いがなされた場合,語りは素朴な「非モテ」理解,つまり「自分は恋人がいない,性経験がない,結婚していないから辛いのだ」という理解にとどまってしまう可能性がある。

しかし参加する男性たちの痛みや困難はそれだけに収まるわけではない。学校での他者関係,家族との折り合い,労働や収入なども関わってくる。だからこそ非モテ研ではテーマを絞らず「親との関係」「孤立」「からかい」「男性の体」など多様なテーマを設定して語り合い,多角的に自身の苦悩を探求することが目指される。

5.グループ内の相互作用

これらの工夫によって,今まで語られなかった経験が語られ,問題が細かくマッピングされていくことになる。しかしこのプロセスが進むのは,何よりもグループの相互作用が大きな意味を持つ。

ある参加者の語りは別の参加者の記憶を刺激し,その参加者は「私もこういう経験が…」とこれまで秘めていた経験を語りだす。類似する経験を持つ者同士だからこそ,彼らの物語は共鳴し合い,新たな物語が語りだされる。この物語の共鳴は「自分の語りを深くわかってもらえた」という感覚,「共-共感」(田代,2022: 149)を語り手にもたらし,その安心感がまた新たな語りを導いていく。

語り合いの中で新たな言葉が作られていくのもグループの醍醐味だ。ある参加者が自身の経験を表現するために口にしたユニークなキーワード。それを他の参加者が引用しながら自身の経験を語り出すことが非モテ研ではよく起きる。こうした言葉の貸し借りが繰り返されることで,徐々にその言葉がグループに定着していくのである。

自分に優しくしてくれる女性を神格化して執着してしまう「女神化」,不遇な人生を一気に挽回しようとする「一発逆転」など,非モテ研ではさまざまな独自の用語が作られてきた。これらの言葉を用いることで,参加者の経験はより精緻に象られていく。曖昧なまま沈殿していた経験が,語りを通した相互作用によって道筋がつけられるのである。

6.物語の編纂過程

ところで,ナラティヴ・セラピーにおける物語の編纂には,2つのプロセスが存在する。1つは,自身の語りの中に潜む権力性を可視化させていくプロセスである。

ホワイト(1992)は,フーコーFoucault, M. の権力論を参照しながら,人の思考や行動は個人を監視する権力性の影響を受けていると主張する。その権力は,社会の規範に乗り切れない者を生産性向上に適合した存在へと矯正したり,女性を家事・育児などのケア労働を担う私的領域に閉じ込めたり,同性愛を規制し,異性愛的な関係性ばかりを強化する制御装置である。この権力の恐ろしいところは,私たちがその権力言説を人間としての「正しい」方向性を指し示すものと認識し,どれだけ自分や周囲にとって問題を引き起こしていたとしても,自らその権力に従ってしまうところにある。

それゆえホワイトは,人々を絡め取る権力言説を同定することを重視する。非モテ研における独自の用語をつくる作業は同様の効果を持ち,例えば先ほど挙げた「女神化」という言葉は,女性に感情的なケア労働が集中する傾向性,つまり社会に埋め込まれた性別役割分業意識や異性愛規範の影響を可視化させる。ナラティヴを掘り下げていくということは,自身のふるまいを水路付けるディスコース,自身の経験と社会構造の接続を発見していくことにつながる。

もう1つは,これまで自身が歩んできた問題含みの物語から距離をとり,新たな差異を発見していくプロセスである。「権力実践が暴露されるにつれ,人々は,自らの立場をとり,人生と関係性における権力実践の影響に対抗することが可能になる」(White, 2018: 45)とホワイトの言うように,第一のプロセスを進む過程で,新たな実践が拓かれていくことになる。非モテ研では,女性の人格を無視せずに丁寧なコミュニケーションをとることや,そもそも異性愛にのみ親密な関係を求めるのではなく,男性同士での情緒的な関わりを持つ喜びが発見されてきた。

権力性を同定していくプロセスと,その差異を生み出していくプロセス。この2つを行き来しながら,素朴に理解されてきた「非モテ」男性の物語は徐々に書き換えられていく。

7.グループの困難

言葉が蓄積され,参加者たちの類似する経験が重ね合わされるに連れて,次第にグループの物語が生まれてくる。この編纂の過程は新たな社会的現実を構築していくクリエイティブな楽しさがある。グループの物語は類似する経験を持つ者に対し,自己を理解するための新たな視点を提供し,オルタナティブな生き方を示すことにもなる。

しかし,形成された物語や言葉の使い勝手が悪いと感じる参加者も出てくる。グループの物語と自分の経験が部分的には共通するが,どうしても共有できない箇所が出てくるからだ。その場合,すでにできあがったグループの物語を基軸に新たな物語が記述されていってもいいし,場合によってはグループの物語や言葉を一旦放棄して,ゼロから個々人の物語を立ち上げてもいい。問題なのは,ファシリテーターがグループ内で蓄積された物語に固執することだ。参加者たちの経験をグループの物語に当てはめて理解するようになれば,豊かなはずの当事者の物語は固定化され,時に封じ込められてしまう。

ちなみに,他の参加者の物語が自分の物語と部分的に合わないという事態は,参加者間にある社会的差異によるところが大きい。非モテ研においても,参加者たちはモテない悩みを持ったことがあるという点では類似しているものの,その経験には幅がある。恋人がいたことのある人,すでに結婚している人,無職である人もいれば正規雇用の人もいる。年齢の幅もあるし,セクシュアリティやジェンダー・アイデンティティ,障害の有無や人種という軸での違いもある。

これらの参加者間の差異は時に参加者の間に軋轢をもたらすことがある。例えばあなたがファシリテーターだったとして,以下のようなケースを想像してみてほしい。ある男性参加者が悪意はないのだろうけれど明らかに女性蔑視的な発言をしている……。働くことに過剰に価値を置く議論が盛り上がり,それ以来無職の参加者の人が来なくなってしまった……。参加者全員が異性愛であるという前提で対話が進み,ある参加者が気まずそうな顔をしている……。

全員が対等な立場でグループに参加していたとしても,社会に存在する勾配や非対称性が参加者たちに影響を与え,一部の人がいつのまにか抑圧されてしまうという事態は起こりうる。そのことを,少なくともファシリテーターは踏まえておくべきだろう。抑圧的な発言があったならば,訂正したり,「あなたはそう思うんですね」と相対化する。窮屈な思いをしたり傷ついた可能性のある参加者がいれば,終了後にフォローするといった対応方法を身に着けると,より安全な場を作ることができるだろう。

また,差異があまりに前景化してきたならば,新しいグループが結成されてもいい。どんな立場の人でも語りの空間は開かれているべきだし,それはグループの枝分かれによって可能になるかもしれない。ナラティヴ・コミュニティに限らず,あらゆる活動は継続されることが尊ばれる向きがあるが,グループ活動は中断と再構築の仕組みを繰り込んでおくことが重要だろう。

8.ファシリテーターの立場性

最後にファシリテーターの立場を改めて検討しておく。上述したような形でファシリテーターが参加者の語りに介入することもあるが,基本的には新たな語りが構築されていくプロセスはファシリテーターが誘導するのではない。参加者たちの経験は心理学的な理論枠組みによって象られるのではなく,ボトムアップ的にグループ内で生成されたナラティヴによって構成されていく。

同様に,自身の困難に対処するための適切な道筋も,ファシリテーターではなく参加者自身がグループの力を借りながら切り開いていく。そもそも参加者にとって何が「適切」なのか,ファシリテーターはわからない。発見するのは参加者自身であり,ファシリテーターの役割は豊かなナラティヴが生成されていくための補助をすることにある。

また,ファシリテーターも一参加者,一当事者として参加するグループにおいては,その場はファシリテーターのための場としても存在する。ファシリテーターはグループを外部から一方的にまなざしを向ける者ではなく,内部で共にナラティヴを紡ぐ者としての立場性を持ち,またグループに抱えられながら自身も再編されていく。その過程で,ファシリテーターは自身の秘匿していた経験やダークサイドを掘り当ててしまうこともあるだろう。筆者自身も非モテ研での対話を通して自身の偏見や特権性に気づいてきた。

しかし,参加者と類似の経験を持ち,それを共に開示するからと言って,ファシリテーターと参加者は対等な地点にいるわけではない。場に介入することができるということ,対話の進行を司っているということ,経験知や専門知を持っているということによって,ファシリテーターはグループにおいてパワーを持つ。筆者も非モテ研の参加者に「西井さんの顔色をつい伺ってしまう」とフィードバックされたことがあった。このパワーをないものとして扱えば,いつの間にか参加者の語りを阻害してしまうリスクや,ファシリテーターから参加者へのハラスメントが起きるリスクなどに無自覚になってしまう。ファシリテーターはあらゆる意味で自己のリフレクションを迫られるのである。

以上,ナラティヴ・コミュニティの実践について記述した。脱構築的な語り合いが進むグループでは思いもしないナラティヴが現れ,どこにたどり着くのかファシリテーターにもわからなくなる。ファシリテーター自身も見慣れた世界にとどまれず,さまよい始める。異国を進む船に参加者全員が乗り合わせるのだ。このさまよいの中に,ナラティヴ・コミュニティの面白さと意義があると思う。

文   献
  • 綾屋紗月(2019)当事者研究が受け継ぐべき歴史と理念.In:熊谷晋一郎編:臨床心理学増刊11;当事者研究をはじめよう.金剛出版,pp.6-13.
  • 田代順(2022)社会を往還するナラティヴ・アプローチ―「二者関係セラピー」から「ネットワークセラピー」へ.In:森岡正芳・東畑開人編:臨床心理学増刊14;心の治療を再考する―臨床知と人文知の接続.金剛出版,pp.146-153.
  • 野口裕二(2002)物語としてのケア─ナラティヴ・アプローチの世界へ.医学書院.
  • ぼくらの非モテ研究会編(2020)モテないけど生きてます―苦悩する男性の当事者研究.青弓社.
  • White,M(1990)Narrative Means to Therapeutic Ends.W. W. Norton & Co. (小森康永監訳(1992)物語としての家族.金剛出版.)
  • White,M(2017)Narrative Therapy Classics.Dulwich Centre Publications.(小森康永訳(2018)ナラティヴ・セラピー・クラシックス―脱構築とセラピー.金剛出版.)

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立命館大学大学院人間科学研究科博士後期課程修了。博士(人間科学)。臨床心理士。公認心理師。立命館大学人間科学研究所男性問題相談室(DV加害者更生カウンセリング)所属。モテないことに悩む男性たちの語り合いグループ「ぼくらの非モテ研究会」発起人。著書に『「非モテ」からはじめる男性学』(集英社新書,2021年)がある。

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