こうしてシンリシになった(5)|濱田智崇

濱田智崇(京都橘大学)
シンリンラボ 第5号(2023年8月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.5(2023, Aug.)

1.シンリシになると決めるまで


1)はじまりはブルトレ少年

私は物心ついたときから鉄道が好きで,年齢と「鉄ちゃん」歴がほぼ等しい。小学生のころ,国鉄のブルートレイン(寝台特急)が人気となり,駅にはカメラを構えた「ブルトレ少年」がたくさんいた。関東の田舎町で育った私も,夕刻九州へ向けて,青い流れ星のごとく通り過ぎるその姿に強く惹かれたが,親に頼んでも乗せてもらえなかった。

1つの小学校から1つの中学校に全員が上がる小さな町で,小学校が面白いと思えなかった私は,何とも言えない窮屈さを感じ,ここを抜け出したいと願うようになる。そして,ブルートレインが,自分をここから救い出し,新しい世界に連れていってくれるような気がして,日本最長距離を走るブルートレイン・はやぶさ号の終着点,鹿児島を自分の進学先に選んだのだった。

2)仙人との出会い

一人っ子で甘やかされて育った私にとって,親元から遠く離れた鹿児島,しかも8人部屋での寮生活は戸惑いの連続で,特に人間関係が難しかった。悩んで,中学の担任に相談する。担任は「仙人」と呼ばれて生徒から慕われる,白髭の敬虔なクリスチャンだった。先生はカウンセリングの勉強をされていて,私の話を微笑みながら,何度でも聴いてくださった。

先生から河合隼雄先生のご著書を教えていただき,貪るように読んだ。1988年の臨床心理士の資格認定スタートは,私が中学3年生の時。こうして自ずと,目指す職業と大学が決まった。東大か国立医学部を目指すのが当たり前の中高一貫進学校で,京大教育学部への進学実績はゼロ。高校の担任にも両親にも反対されたが,そうなるとかえってやる気を出す天邪鬼さは持ち合わせている。浪人で1年実家へ戻ったが,近隣の市まで講演に来てくださった河合隼雄先生にお会いし,「今年こそ京大教育学部へ」とご著書にサインをいただいたおかげか,次の春には鴨川の桜の下を自転車で走っていた。

2.私の「ガクチカ」


1)電話相談員デビュー

最近,学生や就職支援課から聞く「ガクチカ」とは「学生時代に力を入れたこと」の略という。私の「ガクチカ」は何だろう。せっかく入った京大だが,あまり熱心に授業に出た方ではない。代わりに,毎年新入部員が0~2名しかいない能楽部狂言会の存続に力を入れたり,学外のボランティア活動に精を出したりしていた。そんな時,男性が男性の悩みを聴く電話相談を,日本で初めて開設しようとする人たちがいると,同級生に教えてもらって,興味本位で覗きに行く。臨床心理士から直接,相談員としての指導をしてもらえる,というだけでも学部生にとっては魅力的で,開設前の研修に毎回通うようになった。そして1995年11月に「『男』悩みのホットライン」がスタートし,私は弱冠22歳で電話相談員デビューを果たしてしまう。

2)迷いの末に

まだ学部生なのにもう相談員,という状況が逆に私の中に葛藤を生む。自分のやりたいことの一部は早くも実現してしまった。一方で,当時まだ臨床心理士を養成する大学院は少なく,気づけば次の行先が決まらないまま京都生活は6年目に入っていた。親からも,関東に帰ってきて好きな鉄道会社にでも就職したら,などと言われながら,自分の進路に迷う日々が続いたが,最終的には,甲南大学大学院に拾っていただくことになった。倍率20倍の入試に,なぜ自分が通ったのか,いまだに不思議な気持ちになる。のちに指導教員になる木村晴子先生は,大学院入試,学科試験後の面接で「濱田君はここに来たいのね?」のひとことしか質問してくださらず,私は不合格を確信,失望の中帰宅したからだ。

3.シンリシとしての基礎

大学院でも,たくさんの先生方から,本当にさまざまなことを教えていただいた。感謝してもしきれず,とても書ききれないので,本稿では勝手ながら,鬼籍に入られた先生のみ,具体的なお名前を挙げることをお許しいただきたい。中でも「生」の中井久夫先生に触れ,そのまなざしを直に感じることができたのは,私にとって大変幸運なことであった。

実習では,大学院入学後2カ月でいきなり,被虐待児のプレイを担当することになり,右も左もわからないまま,自分がいかに無力かを痛感して涙した。箱庭療法の先生のゼミにいながら,クライン派のスーパーヴィジョンを受けることが許されるという,ある意味緩い環境は,私には大変ありがたく,幅広く学ぶことができた。

4.臨床心理士としてスタートしてから


1)恩師との別れ

臨床心理士資格取得後も,研究員として残り,甲南大学には合計10年間お世話になった。指導教員の木村晴子先生からは,研究員になってからも,箱庭療法やグループワーク,セラピスト育成についてなど多くのことを教えていただいていた。ところがその先生が,2010年秋に急逝される。喪失感に押しつぶされそうになりながらも,先生が開設され私がお手伝いしていた「箱庭療法研究所」をどうにかしなくてはならなかった。行き場のなくなってしまうクライエントを引き受ける形で,図らずも,自分の私設心理相談オフィスを持つことになる。

2)大学教員として

精神科クリニック,大学付属心理臨床センター,児童養護施設での非常勤に,自分のオフィスでの臨床もプラスされ,これでやっていくか,と思っていたところ,甲南時代の別の恩師からお電話を頂戴する。それが,現在勤務している京都橘大学着任のお話だった。日本で初めて,理学療法学科と心理学科を組み合わせた健康科学部を作るので…というお誘いをありがたくお受けし,再び「日本初」にかかわる機会を頂戴した。以来,現在12年目,今年度からは総合心理学部として改組されたところで,公認心理師・臨床心理士の養成に,微力ながら携わっている。

3)サイドの活動がライフワークへ

京都橘大学着任のころまでに,男性相談関係でも,さまざまなお仕事をいただくようになっていた。『男』悩みのホットラインは,2004年から私が代表を務めることとなり,各地の自治体で開設され始めた,男性のための相談窓口へ相談員を派遣したり,相談員の研修を担当したりと,活動の幅を広げてきた。2012年には内閣府「地方自治体等における男性に対する相談体制の整備支援のための調査検討会」の委員として,男性相談のマニュアルを作成,全国の自治体に配布した上で,全国研修会でも講師を務めた。私にとっては,学生時代から,自分の専門領域とは「近いが別物」として,サイドで細々と続けてきた活動が,自分のライフワークとして統合されていく時期であった。

5.そしていま,一旦答え合わせ


1)「かくあるべし」からの解放

30年近く取り組んできた男性相談の目指すところは「かくあるべし」からの解放である。男性は,社会からさまざまな「かくあるべし」を課せられながら育つが,その理想通りにならない自分に苛立ち,失望し,悩むと考えられる。「かくあるべし」からの解放は,男性に限らず,あらゆる多様性を認めるこれからの社会を作るうえで,重要なポイントだと考えている。そして,シンリシの前に現れるクライエントも皆,それぞれの「かくあるべし」の縛りに苦しんでいると言えるのではないだろうか。

最近私は,あるクライエントから,次のようなことを言われた。「これまで多くの病院の医師やシンリシに会ってきたが,私はその人たちが自分に何を期待しているのか,その都度すぐに察知できた。そしてそれに合わせた言動をしてきた。でも,濱田先生だけは,それがなかった。私にどうなってほしい,というのがなかったし,相手に合わせて自分を演じなくていい,と初めて思えた」私にとっては,自分のやってきたことを「これでよかったのかもしれない」と思える,ひとつの答え合わせであった。

2)枠を外れて出会えるもの

実は最近,少年時代から愛読してきた鉄道雑誌(『旅と鉄道』2022年9月号. 天夢人.)から原稿依頼を頂いたり,鉄道会社から社員研修のご依頼があったりと,「鉄」の領域までもが自分の仕事に統合されつつある。とても幸せなことと思う。

これまでの私自身の歩みも,改めて振り返ると,周りから課され内在化してしまう「かくあるべし」へのささやかな抵抗の繰り返しであったように思えるし,そうして自分がはまりそうな「枠」をあえて外れてみることで,自分がよりよく生きられる状況や,自分を育ててくださる方に出会うことができたのだと実感している。その繰り返しの中で「シンリシになった」というよりも周りから「シンリシにしていただいている」という感覚がある。すべての出会いに改めて感謝しつつ,これからの出会いを楽しみにシンリシを続けていきたい。

+ 記事

濱田 智崇(はまだ・ともたか)
京都橘大学総合心理学部准教授
カウンセリングオフィス天満橋代表
一般社団法人日本男性相談フォーラム理事
公認心理師・臨床心理士
著書
濱田智崇・『男』悩みのホットライン編(2018)男性は何をどう悩むのか-男性専用相談
窓口から見る心理と支援.ミネルヴァ書房.
趣味
鉄道旅行・温泉巡り・料理・野菜作り・狂言(小学生の娘と共演)

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