こうしてシンリシになった(9)マスター・シンリシへの遠い道|太田裕一

太田裕一(静岡大学)
シンリンラボ 第9号(2023年12月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.9(2023, Dec.)

1)シンリシになること

大学院に入学したのは1988年で,この年の12月に最初の臨床心理士が認定されたが,個人的な関心は薄かった。働こうと思っていた医療分野は国家資格でなければあまり関係ないと思ったし,試験免除の偉い先生が認定番号の最初に並んでいるのは遠い世界のことのように思えた。結局臨床心理士資格は10年後,医療から学生相談に領域を変えた際に,転職時のことを考えて試験を受けて取得した。この時点ではすでにシンリシの自覚はあって,単にペーパーテストで資格を得たという感覚である。振り返ってシンリシとなった時点を考えてみれば,大学院の心理教育相談室で最初にケースを担当したときだろう。

有料でカウンセリングをするからにはプロということだ。資格,身分,研修歴に関わらず,シンリシとしては対等で平等,結果だけがものをいう非常に厳しい世界にケースを担当した瞬間に参入することになる。人に認めてもらってシンリシになるわけではなく,シンリシと己を認められるのは自分だけである。その点,資格成立以前に臨床の勉強を始められたのは幸せなことだったと思う。とは言え,ここで終了しては原稿依頼の求めに応えられないのでもう少しシンリシ初期の時点で抱えていた問題を書いてみる。

2)スーパーヴィジョンへの抵抗

高校でロックに目覚めてから権威への反発と自由さへの憧れがあった。入学した大学院の心理教育相談室は学生運動の余波によって,自主管理とコミューンの雰囲気が残っていた。実際に補助金だけでは運営がなりたたないので相談室に所属するメンバーは月々の運営費を負担しており,運営のための会議に出席するのは学生だけなどということもあった。またすでに社会人となったOBもケースを担当していた。当時はスーパーヴィジョンの原義(管理すること)は知らなかったと思うが,なんで管理されなきゃいけないのかという疑念は持っていた。最初に担当したケースは,家庭訪問という構造化されない環境だったこともあり,巻き込まれて苦しくなって,指導教員に話を聞いてもらった。この事例は心理教育相談室の紀要に書き,紀要の事例論文は学外の臨床家に助言を書いてもらうのが常だったが,自分の中でもう完結しているのでコメントは必要ないといって頼まなかった。そこから縁が広がるかもしれないのだから一応頼んでおけよと,昔の頑な過ぎる自分に言ってやりたい気もするが,これはこれで自分らしくあれてよかったと思う。最初から学生に家庭訪問を許すとか,事例論文にコメンターはいらないとか言っても特に何を言われることもなく通った環境は緩いと言えば緩いが自分には合っていた。

心理教育相談室では毎週事例検討会があり,開始時間は決まっていたが終わりは定められておらず,時には建物が閉まる直前まで続いた。カウンセリング体験をカウンセラーがどう感じていることが重視され,専門用語を使うと突っ込まれるという雰囲気があった。事例を提示するのは恐ろしくもあったが,多くの参加者がひとつの事例について考える時間は,スーパーヴィジョンのような上下関係を意識させることもなく,こういった場で受け止めて聞いてもらえた体験があったので,学会等で積極的に事例を発表していくモチベーションにつながったのだろうと思う。

3)非常勤かけもちの生活

実証的な研究が性に合わず博士課程には進学できなかった。研究に必要な一般化によってそぎおとされるものの方に関心があったからだろう。非常勤の心理の仕事と予備校の教師をして生計をたてることになった。カウンセリングのような精神的な労力を使う仕事がフルタイムでできるとは当時考えられず,バブル期でもあったので兼業するくらいで生きていけないかと甘い考えでいた。保健所で精神科デイケアのグループワーカーとなったことは,地域精神医療を行う保健師と一緒に働く貴重な機会となった。また精神科クリニックや大規模総合病院で働くようになると,若輩のロジャーズ的な共感だけではたちうちできないケースと出会うようになり,精神分析に関心が向かった。

フリーター生活が3年目を迎える直前に保健所デイケアのスタッフからの紹介で,故郷である群馬県太田市の精神科病院三枚橋病院のデイケアに12月から勤務することになった。

東京を離れることになってようやく研修への意欲がわいてきて,継続的な精神分析と家族療法のセミナーに参加し,学生時代には一度も参加したことのなかった学会の大会に参加するようになった。精神分析をオリエンテーションとする先生から数度のスーパーヴィジョンを受けたが,やはり師弟関係を暗黙に求められる感じが嫌でやめてしまった。

4)精神科病院に勤めて

地元の精神科病院に勤務し始めて,健康な人よりも統合失調症の患者と接する機会が多い生活を数年間続けることになった。洞察的な心理療法に惹かれていたので,精神科病院に勤務して個人面接ができなくなるのではと不安に思っていたが,日常生活,集団精神療法,個人カウンセリングという質の違う関係性で常に患者と接する必要があることを体験したのは役に立った。病棟に所属した時は全員が自分よりも経験も年齢も上の看護師集団の中で仕事をする大変さがあったが,多職種の同僚に支えられる体験をしたことは貴重だった。

病棟で「生活」している人々,グループホームや援護寮への退院の支援,ケースワーカーが不在な病棟で心理的支援に加えて,現実的な支援や環境調整を行わざるを得なかったが,こういった仕事が心理的な援助を行う際の基礎となることがわかった。

当時病院は全開放病院としての社会運動が行き詰まり,デイケアの新設などによって経営的立て直しを図っている最中だった。病院全体の変化の中で自殺する患者も多く,寝付けない日々が続いた。

このシンリシとして一番辛い時期を生き延びられたのは,いろいろな人に支えられたからだが,特にふたりで事例検討を続けた職場結婚した妻の存在は大きかった。対等な関係性での検討というのが自分には合っていた。たまたま群馬に講演会で来られた神田橋條治先生との出会いもあった。もっと精神分析を学びたいと思って慶応心理セミナーに通い始めたが,自分の反権威志向とはなじまず,1年でやめて結局鹿児島の神田橋先生のところに4度ほど通った。

博士課程に進学できず研究者になる道を閉ざされ(とその時は思っていた),自尊心も大きく傷ついたのだが,結果的に博士課程に進まなかったから精神科病院に就職して得難い体験をし,師と呼べるような人に出会えたのだから人生はわからないものである。

5)シンリシであること

いったんは天職と思った精神医療の世界だったが,院長の交代もあって変わっていく病院との方針が合わず退職を決めた。精神医療領域での職探しはしたものの経済的に折り合わず,学生相談の世界に足を踏み入れることになった。この頃にはすでにシンリシとしてのスタイルは固まっており,それをどう新しい分野で応用するかが問われたのでここでは詳述しない。

振り返るとシンリシたろうという意志は強かったが,それ以外については主体性なく流される中でいろいろ幸運に恵まれた臨床歴だった。個人スーパーヴィジョンと言われるものを受けたのは十数回に過ぎず,基本的にグループでのケースの見立てや振り返りの中でシンリシとしての技能を身に着けてきた。

もちろん研修やコンサルテーションを受けること(シンリシになればもう管理される必要はないのでスーパーヴィジョンではなくこう呼んでおく)は重要だが,現在の若手には職場を確保するのも難しいし,経済的な負担も大きい。そういうものを受けていればシンリシたれるとかいえばそうではない。学会や事例検討会で積極的に発言すれば自らの見立てや即時の対応力はかなり鍛えることはできる。孤立してしまえば独善に陥る危険性は常にある。自分で考え,困った時に相談する仲間がいればシンリシとしてはいい線にいくことはできると思う。それでもシンリシが自分の限界を察知した時は,誰かに助けを求める必要がある。ある意味,誰に助けを求めるべきかを知るために,研修を受け学ぶのかもしれない。

対人援助は誰にでもできる。専門職にしかできなければ専門職は燃え尽きるだろう。私達はプロとしてサービスを提供するので,誰にでもできることを一定水準に保つ努力が必要である。賃金を得てケースを担当すれば誰でもシンリシであるが,そこからマスター・シンリシに至る過程は長い。私もそこに向けて日々努力している。

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名前:太田 裕一(おおた・ゆういち)
所属:静岡大学保健センター&学生支援センター
資格:公認心理師・臨床心理士
専門は集団精神療法,力動的精神療法,学生相談。
趣味:大学ではほぼカウンセリングと委員会の毎日に加え,アニメ解釈やロック・現代アートについての講義を担当しています。写真は尖っていたロッカー時代。
主な著作:『学生相談カウンセラーと考えるキャンパスの心理支援──効果的な学内研修のために2』(編著,遠見書房,2023年),『新訂版 学生相談ハンドブック』(分担執筆,学苑社,2020年),『スーパーヴィジョンのパワーゲーム──心理療法家訓練における影響力、カルト、洗脳』(翻訳,金剛出版,2015年)。

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