中垣真通(子どもの虹情報研修センター)
シンリンラボ 第13号(2024年4月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.13 (2024, Apr.)
“家族には力がある”
前回は「家族の力」を取り上げて,“家族には力がある”というお話をしました。問題があるように見える家族であっても,何がしらかの強み(ストレングス)や資源(リソース)を持っているはずだという,家族療法の家族観を紹介しました。
さまざまな問題に見舞われている家族を前にすると,支援者の目に入るものは問題ばかりですから,問題ばかりの家庭に見えてしまうのも無理はありません。しかし,問題と強みは表裏一体で,見る角度によって“問題”とも“強み”とも捉えることができます。慣れないうちはなかなか視点の切り換えが難しいものです。私がそれに慣れてきた過程を思い返すと,こんな風だったと思います。
視点の広がりの個人史
まず試しやすかったのが「言い換え」でした。否定的な表現を肯定的な表現に言い換います。例えば息子に体罰を加える父親が,「息子が万引きを繰り返して本当に腹が立つ」と言ったら,「お父さんとしては心配ですね」と返すという応答です。言い換えに慣れてくると,背景となる状況を置き換える「状況の置き換え」もスムーズに出てくるようになりました。
次に活用できるようになった視点は,「そもそもの動機」でした。“問題”と見える行為であっても,そもそもの動機を考えると,肯定的な意味を持つことが多いのです。例えば体罰を加える父親のそもそもの動機は,“万引きをやめさせたい”ということです。
そもそもの動機に目が向くようになると,家族のメンバー一人ひとりに動機があるということが見えてきました。それぞれの動機は肯定的なのですが,その動機に基づいて行動すると家族の中に問題が生じるのです。例えば“父親からの体罰”と呼ばれる出来事は,万引きで友人関係を保とうとする孤独な息子とまっとうな道に戻そうと空回りする父親が織りなす“切ないホームドラマ”とも言えます。
自分たちの力の再発見
家族の強みを見つけてエンパワーすることは,おだてたり褒めそやしたりすることとは違うと思います。子どもや家族は辛い日常に慣れ切ってしまい,自分たちの強みを過小評価しています。だから,支援者は家族の中に潜んでいる力を発見し,そこに注目して,注意喚起する役割を担っています。家族が自分たちの力を再発見して,自信を回復できるように応援することがエンパワーと言えるのではないでしょうか。
J君について
家族の力がうまく嚙み合うと,子どもの人生が良い方向に変わることを実感させてくれたのが,前回のJ君家族でした。J君の家族は,実母,養父,幼い弟の4人世帯です。J君は多動傾向があり,集団適応に問題があったものの,養父との関係は悪くありませんでした。しかし,弟が生まれた頃からJ君と養父の折り合いが悪くなり,養父からの体罰が始まると,J君は頻繁に家出をするようになり,施設入所となりました。
実母は自分の育て方が悪かったせいで,J君に問題行動が出ると思っていました。そのため私は実母に対して,“育てにくい特性を持つ子を可愛らしく育てたのではないか”と伝えました。実母はその場では納得した様子で帰られたのですが,後日「障害と分かって,夫に申し訳ない」という相談がありました。そこで夫婦合同面接を行いました。
養父は私に突っかかるような口調で,「障害はどうしたら治るんだ」と詰問しました。その姿を見ていた実母が豹変し,「あなたは自分だけが正しいって顔をしてJを追い詰めた。これからは私がJを守る」と養父に申し渡しました。夫婦の力関係が対等になった瞬間だったと思います。その後,J君は自宅でのんびり過ごせるようになりました。
援助関係で締めたい
これまでの11回にわたる連載で,愛着(アタッチメント),トラウマ,家族支援にまつわる私の体験をお話ししてきました。最終回となる今回は,どのトピックスにも共通する話題である援助関係について,お話をしたいと思います。私が若い頃からフラフラと援助関係を模索してきた道のりを紹介するので,理論的背景が怪しいお話になりますが,エッセイなのでご容赦ください。
信頼関係:ラポール
援助関係を巡る私の模索のスタート地点は,学校で学んだ「信頼関係:ラポール(rapport)」でした。この関係性は,“カウンセラーとクライエントが相互に信頼し合い,情緒的な交流が成立していること”と説明されているのは周知の通りです。駆け出しの頃の私は「信頼」という言葉を誤解していために,いくつもの失敗を経験しました。
「信頼」に対する私の誤解のその1が,優しい人だと思われて相手から好かれることが信頼だと思ってしまったことです。このような考えなので,相手から嫌われまいとする心理が働いて,ついリップサービスが多くなったり,終了時間を延ばしてあげたりして,“いい人”を演じてしまいました。
ところがある利用者から,「先生は優しいけど,いいことしか言わないから当てにならない」と言われてしまいました。この一言で,好かれることと当てにされることは別物だと気づきました。自分としては頑張って“寄り添っている”つもりだったのですが,相手にとっては“すり寄っている”みたいになっていて,頼りに思える対象ではなかったのだと思います。
誤解のその2は,相手の言った言葉に疑いを抱かず,真実だと信じることが信頼だという思い込みです。若手の頃の私は,問題行動があった子どもから「もう2度としないから信じてください」と言われると,“周りの皆がこの言葉を信じなくても,私だけは信じ抜かねばならない”と自分に言い聞かせていました。
でもこの手の約束を守り通せる子どもは,ほとんどいませんでした。ある子どもから,「約束した時は本気でそう思ったけど,どうしてもその気持ちが続かない」と聞いて,ハッとしました。私の中には,約束の言葉は一貫した意思を伴うべきだという思い込みがありました。そして,気持ちが変わると“嘘をつかれた”,“裏切られた”と感じていました。でも,気持ちは移ろうものだというのも,真実ですよね。意識していなかったとは言え,移ろう気持ちを悪者のように扱う心理士で良いのだろうかとモヤモヤしました。
受容と共感
「信頼関係:ラポール」という言葉だけでは,私は援助関係を十分に理解できなかったので,教科書の頻出キーワードである「受容と共感」に注目しました。信頼関係とは,つまるところ受容と共感であると考えた訳です。いかんせん,ここにも落とし穴がありました。私は受容と共感のことを,単純に“相手の気持ちがわかること”と理解していたのです。
受容と共感を意識するようになった私は,面接の中で「あなたの気持ちがわかります」というセリフを使うことが多くなりました。それで共感的な傾聴が上手になったような気がしていました。
ところが,私があるワークショップに参加して面接のロールプレイを体験した時のことです。カウンセラー役の方が私の苦労話を聞きながら,終始微笑みをたたえた優しい表情で「うん,うん」と頷いて,繰り返し「お気持ちとてもよくわかります」と応じてくれました。包み隠さずに言いますが,それを聞いた私の中には,「あなたは何がわかっているの?」という疑念が湧きました。“簡単にわかったつもりにならないでほしい”とか,“私の苦労を軽く扱わないでほしい”という気持ちが湧いたのです。受容も共感も大切なのですが,それは「お気持ちよくわかります」と応じるだけでは不十分だということを実感しました。
改めて「受容」とは
改めて考えてみると,私は受容とは何か,共感とは何かがわかっていませんでした。言い訳がましいことを書きますが,“受容と共感”と熟語のようにセットで使うことが多かったので,「受容」と「共感」とを区別して考えたことがありませんでした。
そこでまずは受容について,文献を少し調べてみました。ロジャースが言う「肯定的関心」や「共感的理解」とか,バイスティックが言う「非審判的態度」などが関係の深い概念だと知りました。そして私なりに,受容とは相手に対して敬意を持ち,価値判断をせずにありのままを受け入れることだという理解に至りました。しかし,この理解には落とし穴があったのです。
私の「受容」理解の限界
病院勤務時代に強迫神経症の患者さんのカウンセリングを担当した時のことでした。その患者さんは「~するべきなのに自分はできない」などと自分を否定する発言が続くので,私はしばらく傾聴してから「ありのままのあなたで良いんじゃないでしょうか」と助言をしました。すると患者さんから,「ずっと苦しいままでいればいいってことですか?」と尋ねられました。患者さんにしてみれば,いつも強迫症状に苦しんでいるのがありのままの自分ですから,このような疑問を持たれるのも当然です。私は“ありのまま”と言いながら,相手が抱えるネガティブな面から目をそらして,良い面だけを切り取ろうとしているという矛盾に気づかされました。
その後児童虐待の領域で仕事をするようになると,受容をどう考えたらいいのかが,さらに難しい問題になりました。特に“敬意”とか“受け入れる”という部分には,困難と抵抗を感じました。子どもにひどいことをした保護者に対して敬意を持つこと難しいですし,子どもに暴力を振るうことは,到底受け入れられません。
現時点での「受容」とは
現在のところ私が考える受容とは,“相手の人格や考え方を否定せず,わからないことは素直に尋ねる姿勢”のことです。一例を挙げると,自分と相手の考えが違う時に,「どうしてそう思うのか私も知りたいから教えて」と尋ねることが受容的な関わりに当たります。これは「無知の姿勢(not knowing)」に似ていると思われた方もいると思いますが,その通りです。私は“受け入れ”ようと身構えると,自分の価値判断や評価する姿勢も発動しやすくなるので,ただ素朴に純粋な気持ちで訊いてみようという気持ちでいる方が,肯定的な関心を維持しやすいと感じています。
改めて「共感」とは
次によく考えてみたことが「共感」です。駆け出しの頃の私は,共感とは“相手の気持ちをわかること”と理解していたのは先述の通りです。しかしロジャースの言う「共感的理解」は,“相手の立場に立って,あたかもその人になったかのように感じること”という趣旨の説明がされています。この2つの考えの違いもわからないまま,私は何年か臨床に携わっていましたが,徐々に“気持ちをわかること”と“その人になったかのように感じること”は違う作業のようだと感じてきました。
私の「共感」理解の限界
実は私は相手の気持ちをわかろうとすると,相手の気持ちを感じるよりも考えてしまっていました。マイクロカウンセリングで習った「感情の反射」を誤解していて,感情について言語化することに意識が向きすぎていたのかもしれません。言語的な思考に集中すると,相手への観察が疎かになり,相手の世界に身を置いて感じ取る過程が省略されがちになっていました。
このような課題が気になっている頃に,神経言語プログラム(NLP)を紹介するワークショップに参加して,「ペース合わせ」という技法を知りました。これは相手の非言語的なサインを観察して,相手のテンポやトーンなどに波長を合わせたやり取りをする技法です。テンポやトーンを意識しながら面接を積み重ねることによって,私は身体言語によるコミュニケーションにも意識を向けられるようになったと思います。そして,感覚的に共感することが上達したと思ったのですが,ここにも落とし穴がありました。
私なりに上達した結果,相手が元気になることが増えたのですが,一部の人は問題となる行動に変化が見られず,いつも同じ話で堂々巡りを繰り返す状態に陥りました。さらに「先生だけはわかってくれる」などと褒められると,私も嬉しくなってしまうものですから,お互いに“共感依存”みたいな関係になってしまいました。元気が出るのは良いことですが,相手の思考と行動に変化が生まれないと,苦しみから抜け出すことはできませんでした。
また,絶望感が強い人と共感的な面接を繰り返すと,私も絶望感に飲み込まれてしまって,解決に向かう未来を思い描けなくなることがありました。そして,理解のない周囲への不満をお互いに強めあって,さらに周囲との溝を深くする悪循環にはまってしまいました。これでは助けに行ったはずの支援者が,相手のネガティブな感情に飲み込まれてしまって,“二重遭難”したようなものです。支援者が健康で安定しているからこそ,相手の助けになるのだと思い知らされました。
現時点での「共感」とは
紆余曲折を経て,私は「共感」とは“感覚と感情を共有しようと努めること”と捉えるようになりました。身体感覚で相手の世界を感じ取ることが共感の出発点です。その感覚から湧いてきた言葉を相手に返すことで,相手は自分の体験について振り返ることができるのだと思います。この時にこちらから返すものは,必ずしも明確な感情語でなくても構いません。擬態語(オノマトペ)であっても,意味のある気づきへと導けることがあります。
そして,”努める“という言い回しを選んだ理由ですが,他人の気持ちを100%感じ取れるはずがないからです。安易にわかったつもりにならない謙虚な姿勢と,わからない部分があるのは仕方ないと自分を認容する姿勢との2つの意味を込めて,“努める”と表現しています。
思考面の「理解」について
「共感」を感覚と感情のための用語と位置付けると,ちょっと困ったことが起こりました。それは思考について説明する時に,適当な言葉がなくなってしまうことでした。
「気持ちがわかる」と言っていた頃は,感情と思考をいっしょに扱うことができていました。「気持ち」は一見したところ感情を意味する言葉のようですが,実際は思考と感情が混ざり合った使い方をしています。例えば「その時どんな気持ちだったの?」と尋ねると,「『もう終わりだ』と思った」という具合に,頭に浮かんだセリフを答える人が多いと思います。
このようなことから,援助関係の思考面を説明する時には,「理解」という言葉を使うことにしました。具体的には,支援者が相手の思考や行動を推測することが「理解」です。推測に当たっては,相手の思考パターンや大事に思っている価値観をある程度把握した上で,この人はどんなセリフが頭に浮かぶのかを考えます。なぜセリフで考えるかというと,面接の中で使いやすいからです。例えば,「その時に『もう終わりだ』って思ったの?」という使い方です。その延長として,どんな行動が出そうかを推測することも理解に含めました。
先ほど「信頼」に関する説明で,相手が約束を破ったら“裏切られた”と感じることがあると言いました。このような時は信頼の問題というよりも理解が不足していたと捉えた方が,私にとっては次にやることが考えやすかったです。裏切られても信じぬこうと覚悟を決めるのも選択肢のひとつではありますが,相手の思考や行動についてもっと理解を深められるように,もう一度情報を整理して,さらに考えて,同僚等と話し合うことで,支援チームの次の一手を見つけやすくなりました。
援助関係の4つ目の要素
援助関係で大切なものは,“相手から信頼を得ること”と“相手の気持ちをわかること”と考えていた私の紆余曲折を紹介してきました。さまざまな失敗を通じて,現時点では援助関係に大切なものは次の4つの要素だと考えています。「受容」「共感」「理解」そして「信頼」です。
「信頼」が含まれていることに疑問を感じる方もおられると思いますが,ここでは先述の「ラポール」よりも限定的な意味で使っています。相手から信頼を得るとか相互の信頼関係はいったん脇に置いて,“支援者が相手に期待し続けること”を「信頼」と呼んでいます。
私の場合は信頼関係を築こうとすると,相手の期待に応えようとすり寄りがちになるので,支援者の一方的な期待として一線引いた方が,デンと支援者のポジションに立っていやすくなります。期待は熱量が高い資源ですから,支援者の理性のコントロールの下に置いて,一貫性のある安定した援助関係の基盤として活用できると望ましいと考えています。相互に信じ合える援助関係は,安定した関係性の上に徐々に培われていくのだと思います。
倍返しと半分この分かち合い
時に感情的な衝突から気づきが生まれることもありますが,普段はスムーズな情緒交流が成り立つことで,安定した援助関係が維持できています。スムーズな情緒交流は安心感をもたらし,元気を与えてくれて,利用者の心の成長にプラスに作用します。
では,スムーズな情緒交流のためには,何ができれば良いのか考えてみました。そして気が付いたのが,気持ちのやり取りには「倍返しと半分この法則」があるということでした。
「倍返しと半分この法則」とは,嬉しいことを誰かに伝えて「良かったね」と言ってもらうと嬉しい気分が膨らみ,つらいことを誰かに話して「苦しいね」と言ってもらうとつらさが和らぐという心理的な作用のことです。この法則を思いつく際の“種”になったのは,幼児の発達過程に見られる養育者からの言葉かけでした。気持ちを共有する養育者からの言葉かけを幼児は毎日たくさん受け取っており,それによって情緒面が成長していきます。
一般的にはそうなのですがスパルタ的な環境だと,これがあべこべになりがちです。嬉しい結果を報告すると「それぐらいで喜ぶな」と言われて,子どもはがっかりし,つらいことを相談すると「それぐらいは我慢しろ」と追い込まれます。喜びが半分に,つらさが倍になってしまいます。このようなことが続くと,子どもの記憶の中に喜びや満足の体験が乏しくなってしまうと思います。
K君のこと
改めて気持ちを分かち合うことの大切さを感じさせてくれたのがK君でした。事例の内容は加工してあり,紙幅の都合で簡潔にエピソードだけを記します。
K君は小学4年生の男子で,ネグレクトを主訴に施設に入所しました。私が働いていた施設では,子どもの誕生日に担当職員とお祝いをする時間を設けていました。
K君は,自宅では誕生日をお祝いしてもらったことがないと言っていました。そこで私は,K君の誕生日の時間に大好きなホットケーキを焼いてあげることにしました。
K君の心理面接の時間には,よくホットケーキを作っていました。生活体験の意味合いもあるので,心理面接ではK君にも調理や片付けの手伝いを頼み,できるだけ作業に協力するよう働きかけていました。K君はいっしょにホットケーキを食べている時はとても嬉しそうでしたが,お手伝いになると「めんどくさい」と漫画を読んだりしていました。普段がそんな感じなので,誕生日当日はK君を完全にお客さんとして扱うことにしました。
お祝いの時間
私がK君を寮ユニットから調理活動室に連れてきて,2人の誕生会が始まりました。
私:「誕生日おめでとう。今日はホットケーキを作るよ。フルーツものせた特別版だよ」
K君:「へー,自分の誕生会って初めて。俺は何すればいい?」
私:「お祝いだから,K君は何も手伝わなくていいからね」
K君:「えー,じゃあ,何してればいいの?」
私:「焼くとこを見ててもいいし,いつもみたいに漫画読んでてもいいよ。今日は主役だから,お客さんでいればいいよ」
K君:「ふーん」
私:(調理を始める)
K君:(黙って頬杖をつきながら椅子に座って,私の調理風景を眺めている。ちょっと退屈そう)
私:「退屈なら漫画読んでてもいいよ」
K君:「えー,別にいい」
K君:(そのまま,ちょっと退屈そうに調理を見ている……)
K君:「ねー,フルーツって何買ってきたの」
私:「ないしょ,できるまでのお楽しみ」
K君:「ふーん」(相変わらず退屈そうに私の調理風景を見ている……)
私:(できるだけ急ぎながら,黙々と調理を進める)
私:「よーし,ホットケーキを2枚重ねにして,クリームも盛り付けたよ。ジャーン! フルーツはミカンとサクランボでした! ろうそくのせて,はい,出来上がり」
K君:「おお,すげー! いつもより豪華」(目を輝かせている)
私:「誕生日だもん。10歳おめでとう。はい,ろうそく点けるよ。じゃあ,吹き消して」
K君:「え,消すの。いくよ。ふー」(ろうそくを吹き消す)
私:「パチパチパチ,おめでとう。じゃあケーキを食べよう」
K君:「これ切るの難しいね。どうする?」
私:「いや,今日はK君が主役だから,全部食べていいよ」(私はK君が喜ぶと思っていた)
K君:「えっ!……俺いい」(K君の表情から笑みが消えた)
私:「今日はいいんだよ。特別な日だから,全部K君が食べな。遠慮しなくていいよ」
K君:「いい,半分でいい……」(うつむいてしまう)
私:「どうしたの?……遠慮しなくていいんだよ。堂々と全部食べな」
K君:「いい……」(困った表情でうつむいている)
私:「どうしたの?」
K君:「……いっしょに食べたい」
全部自分のホットケーキだと言われたのはK君にとって予想外の展開で,かなり戸惑ったということもあったと思います。しかし,K君が思い描く楽しい誕生会は,私といっしょにホットケーキを食べて,感想を言い合ったりしてお喋りをする時間だったのではないかと思いました。食べ物を全部自分の物にできたら喜ぶだろうという,私の月並みな推測は的外れだったのです。いっしょに作り,いっしょに食べて,いっしょに笑って,同じ気持ちを分かち合える時間を望んでいたのだと思います。幸せな気持ちを誰かと分かち合うことの大切さを,私よりもK君の方がよくわかっていたということです。
最後に
長々と援助関係に関して私が思うところを述べてきましたが,とどのつまりは「倍返しと半分こ」による気持ちの分かち合いが,乳幼児期から始まる心の成長の出発点であり,援助関係の核となる姿勢とも言えるのだと思います。援助関係に関して私が辿り着いた結論は,とても単純で常識的なものでした。
さて,1年にわたり私のとりとめのない独り言にお付き合いくださった皆様に,心よりお礼申し上げます。筆を置くに当たって,ひと言感謝の気持ちを添えさせていただきます。
中垣真通(なかがき・まさみち)
臨床心理士・公認心理師,子どもの虹情報研修センター研修部長
1991年4月,静岡県に入庁。精神科病院,児童相談所,情緒障害児短期治療施設,精神保健福祉センター,県庁等に勤務。
2015年4月,子どもの虹情報研修センター研修課長,2019年4月から同研修部長,現在に至る。
日本公認心理師協会災害支援委員会副委員長,日本臨床心理士会児童福祉委員会委員,日本家族療法学会教育研修委員など。
主な著書に,『緊急支援のアウトリーチ─現場で求められる心理的支援と理論の実践』(共編,遠見書房,2016),『興奮しやすい子どもには愛着とトラウマの問題があるのかも─教育・保育・福祉の現場での対応と理解のヒント』(西田泰子・市原眞記との共著,遠見書房,2017),『日本の児童相談所─子ども家庭支援の現在・過去・未来』(川松亮ほか編,明石書店,2022,分担執筆)など