こうしてシンリシになった(3)|井上 真

井上 真(横浜いずみ学園)
シンリンラボ 第3号(2023年6月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.3(2023, June.)

1.はじめに

私は現在,児童心理治療施設で勤務している。大学院を修了して,職場は一度変わったものの,この業界一筋でやってきた。8年前から施設長になり,子どもに直接接する機会はぐっと減ったが,自分のアイデンティティーは一貫して「シンリシ」である。

タイトル「こうしてシンリシになった」の「シンリシ」が(臨床)心理士でもなく(公認)心理師でもないということから,このタイトルを「こういう体験を経て,私は自分のことを心理職だよなぁと実感を抱くようなった」くらいに解釈させていただく。

2.臨床心理学との出会い

臨床心理学との出会いは,私が大学で教育学部に入ったときに始まる。正直言うと,受験科目の都合上で教育学部に入った。科目が一つ少なかったのだ。

そんな適当な気持ちで大学に入学した私だが,周りの雰囲気は少々違った。「河合先生に影響されて,カウンセラーになるためにこの大学の教育学部に入った」という同級生が結構いたのだ。高校生の頃から心理の本を読んでいる,あるいはそのアンチテーゼで哲学を読んでいるような人たちに囲まれた。いろいろな意味で心理学を意識している人たちだ。さて,そこで主体性がなく周りに流されやすい私は地元の図書館で本を探した。河合先生の本は何かしゃくで手にとらなかった。ふとある本を手にした。それが平木典子先生の『カウンセリングの話』(朝日選書,1990年)である。そこには,カウンセリングを通じて人がいかに自分の可能性に開かれていくかが,具体的にわかりやすく記述されていた。自分の知らない世界で新鮮だった。これをやってみたいと思った。

しかし,問題があった。実は私はなかなかのしんどい少年時代を送っていて,中2の頃には強烈な「抑うつ感」にしばしば襲われた。「生きることへの漠然とした不安」(芥川流に言えば)としか言えない感覚だった。待てよ,この世界って,かつて自分が苦しんだあの時の世界にまた足を踏み入れることではないか。そのことでまた自分がしんどくなるのではと不安が頭をもたげた。

3.何に自分の人生をかけるのか

そんな不安を心の片隅に時間は流れていく。仲のいい友達に囲まれて心理学のコースを選択していた。「やっぱり構造主義だよな」「ラカンの父の名って」など気分良く,わかった風に「語り合った」。月曜日になると友達の下宿に集まり,徹夜で心理実習のレポートを仕上げた。このまま,みんな将来「カウンセラー」になると思っていた。

ところがである。4年生になるとみんなが次々とスーツを着込み,企業に就職を決めていった。「心理職じゃ食っていけないから。やっぱりお金が……」と友人が言った。

そういうことか。そういうことだよな。そうやって「大人」になっていくんだろうな。じゃあ,自分はどうするんだ。あまりに遅すぎる自己選択の時期が訪れた。「大人」になっていくのか,それとも……。その時,去来したのは苦しかったあの時期である。あの時,自分を支えてくれたのは小説の世界だった。小説の世界にはいろいろな人物が逆境体験を生き抜いている。その姿に生きる希望をもらった。それ以来,小説を読むことは自分の生活の一部になっていた。自分はその世界から離れて経済活動にいそしみ,気分転換にその世界に浸る日々を送るのか,それとも自分の生活の真ん中に置いて生きていくのか,その選択だった。自分がしんどくなる不安はあった。しかし,迷いはなかった。一度きりの人生,何に自分をかけるのか。気づけば仲間の中で大学院に進学したのは私だけだった。

修士課程に身を置く中で,能力面で研究者への適性に欠くことに気づき,一方で現場に出て,臨床心理学で世の中に打って出たいという大それた気持ちが高まっていった。教育学部で学ぶ中で,教育学,教育哲学などは大変気高い学問だが,教壇に立つ教師の何の役に立っているのかという疑問があった。自分がほれ込んだ臨床心理学だけは現場と乖離してはならないという意気込みがあった。修士論文は実証的研究ではなく,ケースを素材に心理療法の過程について自分の考えをまとめた。

4.児童福祉施設への入職

1998年4月にA児童心理治療施設(当時は情緒障害児短期治療施設)にセラピストとして入職した。その年,私も含めて採用されたセラピストは3名だった。A施設は児童福祉施設としての歴史は古いが,児童心理治療施設としては初年だった。セラピストを本格的に導入したのも初めてだった。

初めて教わった業務は,ごみの燃やし方である。のんびりした雰囲気から始まった。一室に職員が集められ,担当が発表になった。園長からは「A(施設)は今年から情短(情緒障害児短期治療施設)になりました。セラピストの先生にも入職してもらいました。セラピストの先生方にどのように働いてもらうのか,まだ決まっていません。ですので,1年目は指導員として担当をもってもらいます」との言葉があった。〈話が違う……。〉と内心思った。ここで言っておかねばととっさに口にした。〈僕は心理療法をしにここにきました。〉場が静まり返ったように思う。「面接なら指導員の先生もやっている。まあ,子ども呼んで,話してもらったらいいで」と。〈なんか違う……。〉なんとも怪しい船出だった。

5.そして始まった

もやっとした気持ちを抱きながらもそこは持ち前の流されやすさを武器に指導員としての仕事を学んでいった。見習い当直の夜,私と同い年の,大学で心理学を学び,指導員として入職,今年からセラピストに職種変更になった同僚は優しい口調で話してくれた。「井上先生のあの言葉,物議をかもしてるで~」と。「でも,かっこよかったで~」とも付け加えてくれた。私はどの場所でも特別な友に巡り合う。彼とはそれからの時間,たくさんお酒を飲み,仕事上の悩みや愚痴,夢を大いに語り合うことになった。

そうこうしているうちに担当の子どもが自宅へ帰省したのち,行方がわからなくなった。トランシーバーで職員同士連絡をとりあって,子どもを探した。「アジト」と思われる民家の前に張り込んだ。どんな顛末か忘れてしまったが,その子は戻ってきた。しばらくして,また戻ってこないことがあった時,その子の自宅に赴き,一緒に音楽を聴いたり,好きな釣りに出かけたり,焼き肉も食べに行った。面接室で本人と話し合うまでには,そのような時間が必要だった。

6.目の前の子どもに何ができるか

勤務して3年目の2000年は児童虐待防止法が公布・施行された年である(ちなみに私は2年目からセラピストとして子どもたちに紹介され直し,指導員と2人で1人の子どもを担当することになっていた)。施設には,それまでどこにいたというくらい,虐待を受けた子どものたちの入所が相次いだ。そういった子どもの対応に慣れていないこともあって,施設全体が不安定になった。私の担当の男の子(B)もその一人だった。次第に職員の声掛けに反応しなくなる。担当として他の職員にどうしたらいいかを聞かれるが,「人との信頼感がまだできていなくて,それを時間をかけて……」などと返すくらいが精いっぱいだった。

Bは荒れていった。イライラが高じて,他児への威嚇が始まった。一時保護を要請したが,児童相談所は冷たかった。「試し行動や。その子を見捨てたらあかん」などと「心理学的」なアドバイスに終始した。
その日は朝から園長室に集まり協議した。といっても有効な手立てがなかった。夕方に差し掛かると報告が入った。

「食堂でBが,他の子どもを扇動している。他の子も乗っかって職員の言うことが全く入らず騒いでいる」というものだった。待ったなしの状態で園長から「保護しかないやろう」と指示が出された。男性職員が5人ほど一斉に食堂に向かった。私は少し距離を置くように言われた。「セラピストだから」と。職員の一人がBに「このままではだめだ。今から保護所に行く」と告げて,抵抗するBを無理やりワゴン車に乗せた。ワゴン車でも暴れるBを職員がずっと抑えていた。

連絡を受けた児童相談所のCW(ケースワーカー)が玄関で迎えてくれた。「こんな無理やりな形じゃ困る」と苦言を呈しながらも引き受けてくれた。あれだけ暴れていたBは児相に到着すると,憑き物がとれたようにすっと収まり,一時保護所の生活の中に入っていった。児相の控室に職員がどんよりとした雰囲気で座っていた。その時,強い感情が湧きあがってきた。〈僕は何にもできなかったです。すみませんでした〉。言葉にした瞬間に涙があふれた。本当にそう思った。臨床心理学? 自分は心理療法をしに……? 何がだよ。この目の前の子どもに何が役に立った? と自分に腹が立った。同僚が黙って肩をたたいてくれた。

夜はまだ不安定になるかもしれない,施設職員1人,一時保護所に泊まって欲しいと要請された。二つ返事で「泊ります!」と返した。あれほど冷たいと感じていたCWが「ほな,わいも泊まろうかな」と勤務が終わった後,ランニングシャツ姿で現れた。心配なことは何も起こらず,CW,保護所の夜間指導員,私で全く仕事とは関係のない四方山話に花が咲いた。次の日の朝,みんなでラジオ体操をした。Bも淡々とこなしていた。何か違う風景が見え始めた。

「何もできなかった」と感傷的に涙したその次の日から,爆発的に自分は努力し変わったなどのドラマチックな展開はない。しかし,そのころから以下のようなことを考えはじめた。「心理療法」だけでは歯が立たないケースが目の前にたくさんあること,心理療法を成立させる(効果のあるものとする)ためには,土台である生活の場をどう作るのかが,まず大事であること,そのためには,施設全体で施設のあり方について考えていくこと。その組み立て方に臨床心理学は役に立った(井上真,2007)。

7.「シンリシ」として

「シンリシになった」を「心理職だよなぁと実感を抱くようになった」と解釈し,文章を書き進めてきた。しかし,「何もできなかった」と悔し涙を流した時,あるいは,それからの時間の中では,自分が思い描いていた「心理職」を一旦カッコに入れて,目の前にある場所から「心理職を始めよう」と思い立ったと言った方が正確であろう。

自分の目の前に展開される難しい問題,それに太刀打ちできない無力感,そっと支えてくれる同僚,何だかんだ言いながら一緒にいてくれたCW。自分一人でやるのではなく,みんなでやるのだ。臨床心理学をするのではなく,目の前のケースをやる。そのために自分が学んできた,学んでいる臨床心理学が役に立てれば,それが「何もできなかった」ことに一矢報いる。「シンリシ」として,そんな思いを抱えながら,今も現場にいる。

文  献
  • 平木典子(1989)カウンセリングの話.朝日選書.
  • 井上真(2007)子どもとともにつくる生活の場,そして治療の場.In:岡田康伸・河合俊雄・桑原知子編:心理臨床における個と集団.(京大心理臨床シリーズ5).創元社.
+ 記事

井上 真(いのうえ まこと)
社会福祉法人 横浜博萌会 横浜いずみ学園
臨床心理士,公認心理師
著書 分担執筆 「児童心理治療施設における遊戯療法」In:伊藤良子編:『遊戯療法 様々な領域の事例から学ぶ』ミネルヴァ書房,2017年.
趣味 麻雀 ゴルフ

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