【特集 心理療法ってなに?】#04 心理療法とは,良くなるということとは,その技法とは? 〈前編〉|増井武士

増井武士(東亜大学)
シンリンラボ 第2号(2023年5月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.2 (2023, May)

1.はじめに――原点に戻ることの意義――

「心理療法とは一体どんな作業なのか?」

という原点に戻ってその作業を考え,見詰め直すことは,我々の仕事そのものの原点を改めて見直すことになるでしょう。

その見直しは,各々の面接における自分自身の見直しに通じ,それがきっかけとなり,各自の面接の質の向上に繋がるからです。

このような一般論ではなく,私の体験を例に出し,もっと具体的に示そうと思います。

1)神田橋條治先生による教育分析的なスーパーバイズ

私の場合,このような問いかけの最初は,神田橋先生による教育分析的なスーパーバイズという事例検討をしていた時でした。

その詳細は増井(2008)に記していますが,私はそのバイズの途中から,精神分析的な概念や抽象的な表現の使用を禁止されました。その理由は専門的な学術用語でなく,クライアントが聞いてもよく分かるような具体的な説明ができるということが,臨床的に大事な要件だったからです。

例えば,抑圧と表現すると,先生は,

「もっと具体的に述べるとどうなることかね?」と問いかけます。それで私は抑圧という表現を,

「その気持ちを述べると自分に都合が悪く,何か悪くことを言うようで,何も言わずに心の奥か下の方に押しやって……ですね」

というように言い替えていきます。

そして,あるケースや自分の気持ちを,具体的に,より具体的に述べることを積み重ねていくうちに,あまりにも具体的に分かっておらず,結局,随分行き詰まり,

「私はあまりにも具体的に分かってないようで,うまく表現できません……」

という具合になり,その時に何かガラガラと山崩れを起こしたようになりました。そして,「自分は何をしてきたのか? 心理療法とか云々言ってきたけれど,一体それは,どういう仕事なのか?」という根本的な問いかけと自覚が起こり,原点に立ち返ることになりました。そのあと,自然に何か重い荷物を放り棄てたような,とても素朴な面接に変わってゆき,それ以後は来談者とお互いの心の耳に囁き呟くような面接ができたようでした。

それは,別の表現をするなら,余分な理屈めいた理論を全て放り棄てた我が身一つの身軽さとも言えるような何かです。

2)中井久夫先生との同席

二度目の根本的な問いかけは,田嶌誠一さんの提案する壺イメージ療法についてのシンポジウムに1泊2日で行った時,シンポジストとして中井久夫先生が列席され,丁度席が私の隣り合わせとなり,先生の存在が醸し出す言葉にならない特有の清々しさを強く感じた時でした。

その感じは,あたかもマチュピチュ見学への途上で高山病のように息苦しくなっていた時,酸素ボンベから酸素を吸い込むような,あの特有の安堵感のような清々しさでした。

それはその人が発する雰囲気で,先生が何か発言されてもされなくても側に居るだけで安心して深呼吸できる,濃い酸素に似たもので,確実に私の中から湧いてくる,安堵感のようなものでした。

その体験は田嶌(2019)に詳しく述べていますが,その結果,

「私は何をして来たのだろうか? 私の心理療法とは一体,何だったのだろうか?」

と,また,今までの面接への理論や考えが全て崩れていき,例えるなら,難しい計算を算盤でしてきたのが,全てご破算になり算盤には何の数値もない状態になったようでした。パソコンで言えば,全てのデータを消した,ないし消えた状態だと言えましょうか?

そして,私は来談者の言葉にならない苦しみに大幅に耳を澄ますようになりました。

このような体験は何かを失うというものでは決してありません。むしろ,それまで「このような理論は要らないかなぁ」

と何となく思って来た,雑多な不要品を全て棄てた時に感じる,身軽で清々した気持ちで,

「なんか我が身一つと我が心一つだけでいいのか」

というシンプルで軽やかな心境でありました。

このような気持ちで面接しているうちに,時には,ないし頻繁に,クライアント(以下来談者と同義)から
「先生のところに遠くから面接に来るのは,どうしてだと思いますか?」

などとにこやかに訊かれることが多くなってきました。私は,

「謎かけのような問題で少しいろいろ浮かんだけど,パッとは浮かばんね……」

など返答すると,

「それはね,何か,先生と一緒にいて,先生の顔を見て,声を聞くだけで何か? ホッとして,何故かいろいろなことがどうでもいいような気持ちになるからですよ……」

というクライアントの笑顔がかえってきます。それを見ると,

「私にとってこれ以上ない誉め言葉で,ありがたいね……」

といつもお礼を言います。

2.果たして,心理療法とは何か?

1)まず心とは?

心理療法の説明に先立ち,まず心というものの定義を私なりにしておきたいと思います。

あるものの定義を,その機能的な側面から行うと,「椅子」とは人がそこに座ってテーブルを前にして食事や書き物等の作業をしたり,それだけで休むために使う物であると言えます。同じく,心,とは,言葉になるものと言葉にならないものとその中間辺りのものの総体である,とここでは規定します。ここで,気を付けたいのは,それでは意識と無意識というのと同じではないか? という理解です。しかし,その概念はとても抽象的で,かつ心理療法の中の精神分析論的な枠組みを連想させるので,ここではタブーとします。

2)クライアントとは一体どんな人か?

クライアントという方は,私が最初に記述した,心,の中で困った事や嫌な感じがへばり着き,多少とも日常生活や社会生活に差し障りがある方と言えます。そして,それについて多少とも,どうにかしたいと本人ないし多くは家族の方が願っていて,その協力を願っている方であり,またそのために,その専門家ないし人の悩み事の専門家のところへ相談に来られる方であると言えます。

またこのような方に関わる場や施設などの違いで,例えば児童や教育相談所や心療内科や精神科などの医療機関などの場の違いで,来談者,クライアント,お客さん,患者さんなどと呼ばれます。それは場の違いで,困っている人という意味では相違はありません。

3)セラピストとは一体?

セラピストを素直に翻訳すると治療者となります。どうもこの翻訳は何故か私の思うイメージと異なります。

多分,治療者と訳すと私,治す人,あなた,治される人といったイメージを与えかねないような誤解を生むようだからでしょう。

しかし実際には,このような役割分担ではなく,相互的な共同作業に近いと考える方が治療的な面接に近づけると思います。

我々セラピストという人は,多少とも,自然界のあらゆる生き物はより良く生きようとして成長しようとする基本的で生物的な生存への本能を持つと,自然界の法則として認めることを,大前提にしています。むろん人としての心身ともであります。

心の場合,その成長を妨害する内外的な悪条件を除くと,元来の成長力が発動して改善に向かうという原則を持っていると考え,成長できやすい条件を整える営みがいろいろな治療技法であると言えます。

また加えて,例えば美容整形など,主に営業の案内のためのカウンセリング等は含みません。

よくカウンセリングと言われる言葉が行き交う昨今ですが,心についての専門的知識とある程度のクライアントとの面接体験を持ち,かつ,資格のある面接者が後に述べる「良くなること」を目指した面接をカウンセリングと言うと,私は考えています。

この資格は,実に多様にあり,私が知る限り,ある程度のレベルの資格は,精神分析学会が認める資格と日本臨床心理士資格認定協会の認める資格が,比較的厳密な資格認定レベルにあり,ついで最近国家資格となった公認心理師があります。私はその認定試験にかなり問題があるように思うので,それらを増井(2019)にまとめています。

私の体験ですが,このカウンセリングという作業は,いくら理論を知っていたりしても,知識でクライアントの苦しみが低下するとは限りません。知識があまりなくても,クライアントの人として苦しみについて理解や気持ちがよく分かるような,その人の人となり,人間性が極めて大切な要件になっている,その点を特にここでは強調しておきたいと思います。

中には,よくある宣伝で,一週間で良くなる対人恐怖症などと述べ,さも良くなったと言わんばかりの事例を並べ,数万から数十万円取る者や集団もあります。それらは宣伝が巧妙で,充分気を付けた方が良いと述べておきたいです。そこで失うのが,単に金銭的な物だけなら,わざわざこうして示しません。

そのような講座でかえって症状が悪くなり,病院に送られ,私が受け持ち,その回復に苦労した来談者は数十名に及びます。時には入院が必要になったり,長期の治療を要する場合もあるという事実を,私は見続けて来ました。

傷を負った人の心は,まずはそっとガーゼを当てて外からの刺激で傷口を広げないようにすることは当たり前のようですが,中には,専門的な知識と技術を持たない者が傷口がどんな風かを見るために,かえって傷口を広げてしまい,中身の内臓さえ出てきて初めて慌てふためくような場合さえあります。そのことをよく考えてみてください。

4)良くなるということ

かつて私は,良くなることについての理論を,神田橋(1988)の論考に基づき,理論モデルとサービスモデルに大別できるとしました。理論モデルとは,例えば血液検査のように,あるレベルを正常値として,その値以上ないし以下を異常値とするような理論的発想です。

例えば,来談者の問題に対して気づきや洞察があるのか? または常に現実に直面しているか? とか自分の体験と言葉が自己一致しているか? とかが良くなることの指標となります。この場合の良くなることの判断は,概ね治療者にあると言えます。

また,別の枠組みとしてサービスモデルがあります。サービスモデルとは,来談者がある状態Aからある状態Bになった時にAよりBが好ましいとする時,BはAより良くなることとするという訳です。そこでは良くなることの判断は全て来談者に委ねられています。

この2つのモデルで良くなることは異なる場合もあります。例えば,来談者が一見無駄話のようなファッションの話や映画の話ばかりをする時,理論モデルでは,治療的な抵抗とみなされるかもしれません。しかし,来談者がそれを楽しみ,結果的に面接の前より少しマシな状態であると述べるなら,この一見の無駄話は治療的な作業とみなされます。

それゆえに,双方の理論が一致する場合もあるし逆転する場合もあります。

例えば,嘘をつくとは理論モデルでは治療的な抵抗とみなされるかもしれませんが,サービスモデルで,

「この世の中は外見や形だけは嘘やおべっかでできているので,正直に話さず嘘やおべっかのうわべを作る練習をしよう」

という提案を受け入れた対人恐怖症の方がその練習をした結果,社会生活が楽になったなら,サービスモデルからは治療的な機能を持った意味ある営みとなります。神田橋(1988)などはサービスモデルに徹底しないとよく理解できなく,それ故,実践が困難な方法と言えます。

3.治療関係と治療的関係とは?

私の言う技法というものは良くなることを推進する全ての内外的治療者の試みを示すものです。それ故,大枠から治療技法を述べていきたいと思います。

治療関係とは,広義に述べれば面接場面の中でクライアントとセラピストの心の中に起こっているものの総体であると言え,どこか味気なく感じます。

ところが,治療的な関係と言えば多少ニュアンスが異なります。

治療的な関係とは,治療関係を治療的な達成に導く可能性の高い関係である,とここで規定します。すると,最初の大切な要件は,クライアントを治療者なりに好意を持ち,お互いの思いを尊重できるようにする方法を治療者が身につけるにこした事はありません。それ故,ここでは,私なりの大きな意味での治療技法について述べようと思います。

その好意は,作りものでない限りクライアントに非言語レベルで伝わり,お互いに一人の人間としてスムーズに気持ちが通じ互いに安心できるという治療上極めて大切な関係ができるからであります。

加えて,治療者の好意的な態度が自然に出ている面接下では来談者は,やはり,そうではない面接に比べ,かなり,ないし非常に,先に述べた良くなる期間が短い,即ち治りが早いという事実を私が実感しているからです。何も治療を急ぐ必要はありません。しかし,来談者にとり苦悩を短期に乗り越えられるよう,皆が切望していることも事実です。

この好意について,あの中立性にこだわる精神分析療法でさえ,その大家である前田重治先生との私的な談話では,来談者が治療者に一目惚れするような体験をウール(超)・ポジティブ・トランスファーレンスとして治療上非常に有効な作用をすると聞きました。その逆に治療者の好意も同様だと言います。

1)治療的な関係を築くための基礎について

クライアントを肯定的に見れる基本的な考え方――症状能力について――

私はスーパーバイズや演習などで,人間の内省を大まかに,自己援助的内省と自己非援助的内省と,どちらでもない内省と大雑把に区別し,治療者自身とクライアントが自己援助的内省ができるように指導します。

むろんクライアントに必要なのは自己援助的内省です。そのために,セラピストがいかにクライアントに自己援助的な内省あるいは発想が可能か? がまず問題になります。

何故ならその発想自体がセラピストの中に治療的な内省を促し,それが面接の場でクライアントにさまざまなレベルで伝わるからです。

ちなみに,クライアントの苦慮することの後に「能力」と言う文字をつけることは,そのおかげでクライアントが助かっている事実を想定する作業です。

例えば,抑うつ症の方が気分が落ち込み自閉的となり閉じ籠る自分を責めて他人の顔も見たくなく閉じ籠っている場合,その閉じ籠もり能力のおかげで来談者が助かっていることに思いを馳せます。すると,少なくとも,その閉じ籠りで,それ以上心が散り,普通に喋れる他人を見て心が乱れなく,過度な感覚が心を多忙にして疲労困憊にならないような能力と考えられます。すると,その閉じ籠りを少しだけ楽しめる工夫をともに考えられます。そして,以前から少ししたかった刺繍をすることを思いつき,ゆっくり刺繍することにより,その閉じ籠りが少しだけ楽しめるようになれば,もう少し楽しむ工夫をやってみます。そのような治療的な展開が可能となります。すると,徐々に表情が和らぎ日々の中で,自分の落ち込みは頑張り過ぎのせいかもしれないという自覚が湧いてくることもあります。

私のスーパーバイズは,クライアントなり治療者が困っている事がらに能力を付けて考えることから始まり,自分が生きてきたことを心のやりくりとして振り返って考えるみることを勧めることも多いです。その内省で,来談者の困っている事をいろんな角度から見ることができるからです。

2)治療的な理論の有害性――例え話――

例えば,私がたまたま招待された症例研究会で,ある大学院生が受け持っているケースを報告した時のことです。偶然に街でそのクライアントと出会い,

「少しお話しませんか?」と誘われ,

「それならそこら辺りの喫茶店でも」

と言って,そこで,クライアントの失恋の話が出て,治療者はそんな体験がないかと訊かれたので,自分の失恋話をして互いに笑い合い,その後の治療的な関係は良好であったという話でした。

そこで驚いたのは,ある先生から,

「どうしてそのクライアントと出会うのを避けなかったか? 途中で道を変えるなり,無視して通り過ぎなかったか? そのような事は治療者の中立性と客観性に欠けるし,治療者としての倫理違反ではないか」
というお叱りでありました。私はたまらず,

「クライアントとの治療的事実を見て下さい。この治療者のそのような行為の後は,ずっと安定した良いプロセスをたどっているではありませんか」

と述べると,その先生は,

「先生もそんな風に言われるのですか? 倫理違反をしてまで良くする必要はありません。失礼ですが,そんな,やわな指導をするとしっかりとした治療者は育ちません」

ということでした。それでは,まるで一方的に根性を鍛え上げる体育系の指導のような単純な考えでデリケートな心は解らないと,私は内心考えましたが,それを言うのは控え,「余計なことかもしれませんが,ここの大学院生は,自分自身で来談者の事実をしっかり見つめ,何が大切かをしっかり考えて下さい。それが私の一人の治療者としてのお願いです」と述べて研修会を終えました。

この話には,後日談があるのですが,それは紙面上示せませんが,私は以前に日本心理臨床学会の常任理事と倫理委員長をしていましたが,そのような倫理綱領があったかどうか,分かりません。仮にあるなら,治療者の基本的人権としての自由という,憲法にも触れる綱領なので,是非,再検討される必要がある重要な課題でもあります。

3)治療者が面接の場で「自分」に立ち返る事

私のスーパーバイズでは,治療者のクライアントへの素直な感じや気持ちが明確になることとそのことによる治療的な達成は,見事な程正比例しています。紙面の都合があれば,いかに我々は臨床的事実と異なる嘘のような理論を流して来たかについて,触れたいぐらいです。

いわく,科学性や客観性や中立性という,臨床的な事実から眺めると,妄念や妄語のような理屈や理論の類いです。

ちなみに,スーパーバイズの時によく聞かれるのは,バイジーが,

「あの時の私のあの発言は失敗だと思いますが……」という懸念であります。

そして,とどの詰まり

「今,あなたが述べた質問をそのままクライアントに聴いてごらん,正解はクライアントしか分からないからね」

という私の助言通り聴いてみると,大半は治療者の思い込みであると同時に,その素朴な治療者の人としての質問をきっかけにクライアントとの治療的な関係が深まって行くという,それが事実でもあります。

(後編へ続く)

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増井武士(ますい・たけし)
東亜大学大学院臨床心理学専攻 客員教授
医療法人 福岡聖恵病院顧問及び精神療法増井外来
資格:臨床心理士 インターナショナルフォーカシングティーチャー(国際フォーカシング指導者)
著書:参考文献の他に,『治療的面接の探求 第1~4巻』(人文書院,2008)
『迷う心の整理学』(講談社現代新書,1999)
『来談者のための治療的面接とは』(遠見書房,2019)
趣味:ヨットクルージング シュノーケリング 船旅 車 建築設計など多趣味

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