動機づけ面接入門(12)オープンダイアローグからみた動機づけ面接|斎藤 環

斎藤 環(筑波大学医学医療系)
シンリンラボ 第12号(2024年3月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.12 (2024, Mar.)

1.はじめに

私は動機づけ面接(以下MI)の専門家ではないし,もちろん実践経験もない。ただ,この連載の執筆者でもある瀬在泉さんや沢宮容子さん(本論では敬称はすべて「さん」で統一する)との勉強会に何度か参加した経験はあり,原井宏明さんとは雑誌『精神療法』で対談し,私がひきこもり当事者の役でロールプレイに参加させてもらったこともある。

そうした経験から,私なりの大雑把な理解を述べておくなら,MIの大前提は,欲望の両価性と葛藤である。ひきこもりで言えば「ひきこもりをやめたい」,しかし「外出は怖い」というような。前者がいわゆる「チェンジトーク」であり,後者が「維持トーク」である。治療者は,直接的な助言やアドバイスは控え,そのかわりチェンジトークには相づちやおうむ返しなどの“報酬”を与えて強化し,「維持トーク」はスルーする。これを繰り返すことで,変化へと進む動機を高めていく。テクニカルな細部についてはもちろんわからないが,おおむねこのような理解にもとづき,以下の議論を進めたい。

2.MIとODの対比

筆者が「心理療法」の領域で,いちおう専門を自称できるのは「オープンダイアローグ(以下OD)」のみである。ODはフィンランドで開発された統合失調症急性期に対する統合的アプローチとされる。紙数が限られているので,詳細は成書かODNJPのガイドラインを参照されたい。私見では,ODは治療というよりはケアに近い位置付けを持つため,疾患特異性はない。うつ病でも強迫性障害でもひきこもりでも,あるいは思春期事例でも成人事例でも,基本的な姿勢はほとんど変えずに対話実践を試みる。1980年代以降の実践は一定の成果を挙げているとされるが,いまだ頑健なエビデンスには乏しいという意見もある。ただ,欧米のメンタルヘルスサービスや日本の自治体などでも,ODの実装が少しずつ進んでいるのも事実である。

動機づけに関しては,MIとODには共通する部分がある。いずれも望ましいとされる行動について,直接的な指示や説得はしない,という点である。指示や説得は,いわゆる「心理的リアクタンス」を生じやすく,結果的に動機を弱めたり,反発を買ってしまったりしやすい。それゆえMIでは,「チェンジトーク」の強化,といった意識されにくい形で,本人の変わりたい気持ちをサポートすることになる。ODでは,そうした強化すらも行わず,治療チームがさまざまなアイディアを交換するさまを患者に観察してもらう。その結果,多くのアイディアや価値観が共存するポリフォニックな空間において,患者が主体的に方向を選択できるように,いわば環境調整をしていることになる。

逆にMIとODの最大の違いは,「ODにはゴールや目的が存在しない」という点であろう。ODは対話実践の継続そのものを目的とする。つまり「対話のプロセス」そのものが目的であるため,ゴールを設定する必要がないのである。ゴールや目標を設定することで,プロセスの方向性や振れ幅がきわめて限定的なものになるおそれがある。ODは,プロセスをゴールから解放することで,あたかも対話の副作用,副産物のような位置において「回復」を生ぜしめるような治療構造を持っている。

3.ひきこもりの動機づけはなぜ困難か

私が専門とするひきこもりに関して言えば,彼らの動機づけは容易ではない。もし「ひきこもりから抜け出したいと考えるかどうか」という点において強い両価性や葛藤があるのであれば,MIの応用にも有効性は期待できるかもしれない。しかし多くの場合,ひきこもりの当事者たちは,「抜け出したいのに抜け出せない」という葛藤そのものに疲弊してしまっている。実際,彼らと注意深く話していても「チェンジトーク」にあたる発言そのものがきわめて稀なのである。ある意味で彼らは慢性的に絶望した状態にあり,彼ら自身が自分の内面にある変化への志向を抑圧し続けている。

さらに困難なのは,彼らの一部は「チェンジトーク」のような「維持トーク」をしばしば繰り返す,という点である。どういうことだろうか。例えばある患者は「過去に自分をいじめた連中を見返すためには売れっ子の漫画家になるしかない」としきりに訴える。この種の一発逆転願望は珍しいものではない。この訴えをもし「チェンジトーク」として扱うのであれば,そんなことはとうてい無理だと思いながらも,なぜ漫画家なのか,漫画家になるにはどういう準備が必要となるか,準備を段階的に進めるとして,まずは何から着手すべきか,という話をすることになるのではないか,と予想する。ここで難しいのは,実は本人自身が,誰よりも「自分が漫画家になれる可能性」を信じていない,という点である。

ならば漫画家以外の可能性を検討できないか。そのような提案はただちに却下される。「何年もひきこもった負い目を逆転するには漫画家になるしかないし,なれなかったら人生には意味はないので死ぬしかない」と彼/女は反論してくるからだ。おそらく彼らは,自分が変化する可能性を,きわめて達成困難な目標に設定することで否認しようとしている。彼らがそれを意識しているか否かにかかわらず,である。これが私の言う「チェンジトークのような維持トーク」である。

MIの世界にそうした概念があるのかはわからない。私なりの予想としては,たぶん次のような展開となる。「チェンジトークのような維持トーク」は,ごく表層的な両価性にすぎないため,そこに焦点化する意味は少ない。その背景にあるであろう,より深いレベルの両価性を見出すことで,本人の中心的価値観にアプローチすることが望ましい,と。

4.自傷的自己愛

次に,より実存に近いレベルで彼らの多くが陥っている自傷的自己愛という「問題」について述べておこう。自傷的自己愛は筆者による造語である(斎藤,2015; 2022)。ひきこもり事例にしばしばみられる「自分自身を執拗に否定する形を取る自己愛」というほどの意味である。自傷的自己愛はひきこもりに限らず,うつや適応障害,摂食障害などの「生きづらさ」を抱えた若者の多くにみられる自意識のスタイルである。疾患特異性が乏しいためか,この捻れた自己愛に関する先行研究はほとんどない。

筆者が造語をしてまで自傷的自己愛の概念を提唱してきたのは,以下の二つの理由による。一つ目は,このねじれがしばしば看過されやすく,単に「自己肯定感が低い」などと評価されてしまうことがあるため,専門家や支援者に対して注意喚起したいという理由。二つ目は,自傷的自己愛も自己愛である以上,それは回復に向かうためのリソースになりうる,という点を強調するため,である。

自傷的自己愛は要するに,両価的な自己愛と考えることも可能だ。自己を愛するがゆえに自己を否定するという意味で。ただし,筆者の分析によれば,ここで両価性を差し向けられる対象は,ひとつではない。自傷的自己愛を抱く者は,自身をいったんネガティブなステロタイプの「キャラ」(陰キャ,非モテ,ぼっち等々の)に設定し,そのキャラを徹底して叩く。つまり「自身によく似たキャラ」を叩くことで,「キャラの背後にいる自分自身」を温存しようとする。自分自身の温存という自己愛的行為が,表面上は自己否定にみえてしまうのはこのためである。

自傷的自己愛を抱く者に対して,MIは果たして有効であろうか。率直に言えば,かなりの困難が予想される。そもそも彼らの自己批判は「チェンジトーク」なのか「維持トーク」なのか。この判別がまず難しい。繰り返すが彼らの自己批判の矛先は自身が設定した「キャラ」に向けられており,それゆえ批判は自己保存に帰結することになる。自己批判をチェンジトークととらえて強化しようにも,自己批判というものは,それに賛同しても反対しても当事者の怒りを買うことになりがちである。

例えば,「あなたにはこういう長所がある」といえば「そんな長所には何の価値はない。お前は何もわかっていない」と反論される。「あなたの言い分はもっともだ」といえば「お前も俺には価値がないと認めるんだな」とキレられる。「あなたが自分を否定するのは,本当はもっと違う自分になりたいからではないのか」と踏み込めば「余計な解釈うざい。人の言葉は素直に聞け」と返される。

さらに筆者の臨床経験から言いうることは,自傷的自己愛のねじれを修復する契機は,他者との親密な関係を通じての,持続的な承認と支持の経験のみである。つまり基盤としての自己愛を強化することが肝要であり,表面的な「自己肯定感」のみを高めようとしてもうまくいかない。「自分を愛したいが愛せない」とは,いつわりの両価性であり,「愛したい気持ち」のみを選択的に強化することはできない。そもそも本来の意味の両価性とは,フロイトも指摘した死の欲動と生の欲動のカップリングのように,二つに切り離すこと自体が不可能なのである。

誤解なきように申し添えておけば,筆者には,ここで手法としてのMIを批判しようという意図はまったくない。MIそのものは,強化しようという動機の種類を間違えなければ,きわめて洗練された有効な手法であると考えている。有効であろう動機の種類については想像するほかはないが,一定の努力を要する行為を励ましたり,好ましくない習慣をやめたり,不安や緊張を乗り越えてある行動を起こしたりといった,方向性のはっきりした行為の強化に際しては高い効果を発揮することは間違いないだろう。ただ,自己愛のような当事者の実存を巻き込むような問題については難しいのではないか。タナトスをスルーしてエロスのみを強化することが不可能であるように。

5.ODにおける動機づけ

先述の通り,ODはゴールや目的を設定しないアプローチであるため,そもそも特定の動機を強化しようという目的にはまったくそぐわない。しかしOD的な対話実践を続けた結果として,望ましい行動が起きたり,望ましくない習慣が止まったりすることは珍しくない。つまり結果的に,ODによっても動機づけがなされてしまう場合がしばしばある。これはなぜだろうか。

ひきこもり事例を例に取ろう。あるひきこもり男性が,家族とともにミーティングに参加した。彼がまず訴えたのは,自分に対する両親の態度がいかに不適切なものであったか,それが自分の行動をどれほど阻害してきたか,であった。もちろん両親もその場に参加しており,彼の訴えを受けとめた。治療チームは彼に対する共感を示し,本人や家族の目の前で,家族の接し方や今後の方針についてアイディアを交換してみせた(「リフレクティング」と呼ばれる手法である)。時に険悪な雰囲気になる場面もあったが,ひとしきり両親の不満を語り尽くし,両親に出来そうな協力などについても話題になり始める頃に,彼は自身の関心のある活動をはじめ,それを通じて社会参加を再開するようになった。

彼の支援にあって,筆者らはもちろん「外出」や「社会参加」への動機づけを行わなかった。にもかかわらず,彼が進んで社会参加したのはなぜか。彼自身の中にあらかじめ,強い社会参加への動機があったためである。おそらく問題は,両親との不和をはじめとする複数の要因が,その動機の発現を妨げていたことである。対話実践の経験は,動機づけを強化するよりも,こうした阻害要因の解消につながったのではないか。

ODの実践を重ねていると,こうしたプロセスをしばしば経験する。もちろん対話が直接的に動機や自発性を導くようにみえる場合もあるのだが,どちらかと言えば,ODがさまざまな障壁を解消した結果として,本来持っていた動機を自由に発現できるようになることのほうが多いように思われる。

もう一点付け加えるなら,さきほどの例では家族との相互理解が深まることで阻害要因が解決に向かっていたが,別の形の解消もある。ODが特にその目覚ましい有効性を発揮しうる領域として,精神医学的には「妄想」と呼ばれるような思い込みの緩和が挙げられる。たとえば「近隣住民に監視されているから外出が出来ない」といった事例である。こうした場合でも訴えを否定したり説得したりせずに丁寧にその主観世界を聞き取り,それについての感想やアイディアを交換してみせることを繰り返すことで,「思い込み」からの解放が起こる。ごく単純に考えるなら,妄想とは環境に対する誤った学習の産物であり,いったん生じてしまった学習のコンテクストが,再帰的に自身を強化している状態を指す。つまり,あらゆる刺激が妄想的に解釈されるようなコンテクストである。

ODがもたらすのは,一種の逆学習,つまり「学び落とし」の作用である。なぜそれが可能になるかの詳述は近著で詳しく論じる予定なので,そちらを参照されたい。筆者が言いたいのは,こちらの場合でもODの効果は,動機を妨げる要因,すなわち「思い込み」の緩和として発揮されるということである。過度な一般化は禁物だが,少なくともODによる「動機づけ」については,動機そのものの強化よりも,動機の発現を妨げる障害物の除去のほうに力点があるとは言いうるかもしれない。これはODが,患者とそのネットワーク(家族など関係者)を巻き込むために可能になる。そう考えるなら,MIの手法においても,家族療法的なアプローチ——特にシステム論的な——との折衷によって得られる果実もあるのではないか,と夢想したくなる。

6.おわりに

みてきたように,MIとODは,ともに「動機づけ」において有効であるが,一見,その方向性は逆向きのようでもある。個人の動機を直接的に強化するかのようなMIと,動機そのものよりも阻害要因の解決につながるようなODと。しかし私は以前から,「動機」を個人が内包する強い意志のようなものとしてはとらえてこなかった。動機とは,不定型な個人の内界と,流動的な外界との相互作用から生じてくる,輪郭の曖昧なベクトルのようなものではないだろうか。それゆえ,これはMIが内界に,ODが外界に働きかける,といった単純な話ではない。いずれも先述した相互作用のプロセスに働きかける。その時の比重が内界寄りか,外界寄りか,程度の違いしかない。

そう考えるなら,一見相容れないかにみえるMIとODにも,折衷的な応用の契機はありうるかもしれない。ひきこもりに関して言えば,ODによってある程度社会参加を果たした当事者が,就労段階での迷いや不安から足踏みをしているような場合に,ODミーティングとは別の場所でMIを試みる(もちろん本人の納得の上で),などの組み合わせが考えられる。さらに言えば,治療者もまた,MIとODの双方を経験することで,それぞれの立場から「“動機づけ”とはいかなるプロセスか」を記述するための新しい語彙が得られるかもしれない。

文 献
  • 斎藤環(2015)ひきこもりと「自己愛」. 精神療法,41(3), 359-363.
  • 斎藤環(2022)自傷的自己愛の精神分析. 角川新書.

「動機づけ面接入門」の連載は全12回をもって終了となります。ご愛読いただきありがとうございました。
(シンリンラボ編集部)

バナー画像:mohamed_hassanによるPixabayからの画像

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斎藤 環(さいとう・たまき)
筑波大学医学医療系
資格:医師 精神保健指定医 精神科専門医
主な著書:『改訂版 社会的ひきこもり』(PHP新書,2020),『オープンダイアローグとは何か』(医学書院,2015)など

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