【特集 拡張するシステムズアプローチ】#04 システムズアプローチとナラティヴ・セラピー|坂本真佐哉

坂本真佐哉(神戸松蔭女子学院大学)
シンリンラボ 第12号(2024年3月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.12 (2024, Mar.)

この企画のタイトルからすると主役はシステムズアプローチということになろうか。さらにシステムズアプローチの立場からナラティヴ・セラピーを語れ,ということかと理解した。システムズアプローチに言わせれば,ナラティヴ・セラピーはシステム論の発展系だと言いたくなるが,ナラティヴ・セラピーはそうでないと否定するするかもしれない。なので,冒頭から小難しい話になるが,システムズアプローチの拡張としてナラティヴ・セラピーを語ることには多くの人,特にナラティヴ・セラピーの実践家は異議を唱えるのではないかと思われるし,それは多分正しいのだと思う。ただし,私の個人史的にはシステムズアプローチとブリーフセラピー,ナラティヴ・セラピーが複雑に関連し合っているので拡張と言えばそうとも言える。ああ,ややこしや。

1.システムズアプローチの片想い

システムズアプローチから見るとナラティヴ・セラピーはお仲間のように感じるのに,ナラティヴから見るとどうして仲間でないのか。それではシステムズアプローチの片想いになってしまうのではないか。そう思う人もいるだろう。(いや,いないか……苦笑)

それはともかく,片想いの理由は,当たり前ながらシステムズアプローチがシステム論に基づいているからだと思う。どうでもよい人にはどうでもよいのかもしれないが,システムズアプローチは,システムの見立てを行うことが前提となっている。これがこの企画書に込められた田中究氏の体験したマスターセラピスト(以下,マスター)への憧憬と挫折に通じるのではないかと愚考している。もちろん筆者も同じような体験をしている。まず,「システム」が見えない体験。マスターから説明を受けると,「ああ,なるほど」となるのだが,自ら見出すことがなかなかできない。システムが見えていないからジョイニングも怪しい。マスターに言わせると肝心なところを外しているらしい。当然その先の介入なんて,とても無理,という世界。

ところで,システムという概念。今でこそ改めて考えると,人のあらゆる問題はコミュニケーションや行動,認知などからなるシステムの「悪」循環として説明できるだろう。そう,よく見るあのグルグルである。このグルグルを「仮説」と呼ぶのは,決して正しい正解が1つだけではないことを示す。しかし,初学者だった筆者は唯一の正しいシステムを探そうと躍起になっていたことが反対にことを難しくしていたのかもしれない。まさに悪循環。ただ,これまた今になって思うのは,システムはあくまで変化のためのメタファーということである。ただし,システムがメタファーである限り,「変化」そのものも切り口によっていかようにも見えるというのが理屈である。ああ,ややこしや。

一方,ナラティヴ・セラピーの目指すところは,新たなストーリーを紡ぎ出すことである。システムズアプローチとしては,「ストーリーの『変化』ではないのか?」などと言いくるめて仲間に招き入れたいところだが,ナラティヴ・セラピーは,「変化ではなく生み出すのさ」とやんわりと断るだろう。

「だったらオートポイエーシスのシステム論だろう」としつこく迫るシステムズアプローチ。「そんな風に理解したいなら,勝手にどうぞ。でも,仲間だなんて思わないでね」などとことさら距離を置こうとするナラティヴ。

しかし,今度はナラティヴがふとシステムズに尋ねる。「オタクはアイデンティティとか,エージェンシーなどはどんな風に考えるの?」

システムズは急にツンとした顔になり,「そんなことは気にしない。その人の人生がどのようなものか,とか,どんな風に生きたいのか,などということは枠組みに過ぎないし,本当の意味でのおせっかいはしないよ」などとややクールに言い放つかもしれない。

2.それぞれにおけるポジショニング

悪ふざけはこのくらいにして,両者の異同についてもう少し考えてみたい。共通するのは,人格の内部に問題や病理を問わない,ということであるだろう。しかし,これまたややこしいことに「問わない」ということには,2通りの意味がある。ナラティヴのそれは,本当の意味で問わない。それどころか,人の内面に問題があるとする言説に異を唱え,対抗する立場をとる。その立ち位置が「外在化する会話」につながるものである。

一方,システムズアプローチの理屈からすれば,変化のために人格内部の問題や病理というものに焦点を当てる選択肢もあり得る。頻度は少ないかもしれないが,決してポジティブとは言えない形での意味づけとなるリフレーミングである。望ましいかどうかはさておき,変化のために「病気」ではなく,例えば「わがままである」との意味づけを提示し,対処可能であるとの文脈を構成する。病気であれば,ある意味対処の仕方は医療の文脈に頼らざるを得ないが,わがままであれば養育の文脈において家庭内での対処が可能になるかもしれない。システムズアプローチには「機動性」(Fisch, R. et al., 1982/1986)という考え方がある。つまり,セラピストとしての選択肢が広ければ広いほど「機動性が高い」といえる。セラピストが「こうあらねばならない」という理念に縛られていると機動性は低くなる。先に述べたように人にまつわるあらゆる現象をシステムとして説明できるので,その意味づけの仕方は無限大であり,介入の選択肢もそれに伴って広がることになる。

こうやって説明をすると,システムズアプローチの方に選択肢が多くて使い勝手が良いように感じるかもしれないが,それは筆者の説明が拙いだけで,もちろん選択肢が多ければよいというものでもない。いくら選択肢が多くても介入が効果的でなければ全く意味をなさないどころか,その状況が治療関係に影響するならば新たな問題が生じることになり,危険ですらある。

3.ジョイニングと好みのストーリー

システムズアプローチの要はジョイニング(東,1993)である。相手に合わせることによってそれは可能となる。クライエントの持っている価値観,使用する言葉遣い,しぐさなどあらゆる事柄にセラピストは合わせるが,それらが良好な治療関係や信頼関係の構築にとどまらない。合わせることは,すでに「変化」への始まりとなる。例えば,来談に抵抗しながらもなんとか来談したクライエントに対して,忙しい中いかに来るのが大変だったのか,それはクライエントの立場であればもっともなことである,とクライエントの文脈で立場を慮り,十分に労うとする。クライエントは「そうなんです。本当に来るのは大変でした」と認めるならば,ジョイニングへの第一歩が始まっている。さらに「本当はあまり気が進まなかったのでは?」と尋ね,「実はそうなんです」となるとさらにジョイニングが進むだろう。単に合わせることではあるが,すでにクライエントとセラピストの関係は対立する関係ではなくなり,その相互作用やクライエントの構えにはすでに変化が生じていると言える。クライエントのニーズを引き出すプロセスの中でリフレーミングなどにより枠組みの変更が生じ,これまでとは異なる行動へと結びつけることで,他者とのコミュニケーションの変化,つまりはシステムに変化が生じることへとつながるだろう。もちろん,いつでも合わせればよいというものではない。例えば,家族の中でメンバーが対立関係にある場合などは,不用意に片方に合わせればさらに事態がこじれることにつながることもある。

ナラティヴ・セラピーでは,もちろんジョイニングや枠組みなどというタームは使用しないが,文脈に関心を寄せるプロセスは共通する。マイケル・ホワイト氏の著作から筆者がよく引用する事例を紹介したい。ジェームス氏の事例(White, M. , 1997/2004)である。

ジェームス氏は,学校の教師からの勧めにより家族で来談した。勧められた理由は,夫婦による子供への虐待が疑われたからである。そのような状況なので,特に夫のジェームス氏は乗り気ではない。一歩間違えば来談が途絶えるどころか,関係がこじれる難しい状況である。

ホワイト氏はまず,忙しい中で子育てを行うことの大変さについての会話を進める。子育ての大変さは世界中の親が経験することだろうから当然ながら同意しそうだが,ホワイト氏は慎重で,「“ノー”と言った親はいなかったが,もちろんあなた方がノーと言っても構わない」ことを添える。二人は,もちろん,子育ての大変さを認める。さらに,大変さのあまりに自身の心に反する行いをすることもあるのではないかと尋ねる。同じく,「“ノー”と言った親はいなかったが,もちろんあなた方がノーと言っても構わない」ことを添える。記載はないが,笑いがこぼれたかもしれない。さらに,夫婦それぞれの親としての「よき判断」はどこから来るのか,と歴史を辿る。妻が生き生きと語るのと対照的にジェームス氏の口は重い。そして自身が虐待を受けていたことから「よき判断」のモデルが見つからないいことを吐露する。このプロセスで,面接の形態は家族面接から夫婦面接,そしてジェームス氏の個人面接へと柔軟に移りゆく。見事なジョイニングだ,と言いたくなる。相手の枠組みに配慮したジョイニングを経てニーズを探し,虐待で連れてこられた父親ではなく,「よき判断モデル」を模索する父親へとのリフレイミング。素晴らしきシステムズアプローチ,ではない。ナラティヴ・セラピーである。つまり,ナラティヴ・セラピーとして見直すと,クライエントの文脈を辿り,「よき判断」に関する「再著述する会話」(White, M. , 2008/2009)から,ジェームス氏がどのようになりたいのかという志向的状態理解のための会話を進めているのである。

4.社会構成主義とエージェンシー

現実は社会的に構成される,という社会構成主義の考え方に関して,「では,何でもありなのですね」とか,「本当のことなどはどこにもないのですね」などという感想を持つ人もいるようである。確かに,真実は存在せず,物事を眺める立場によってものの見方が違ってくる,という考え方は,なんともはかなげで,どこに向かって進んでいけばよいのかわからなくなるかもしれない。さらに,その「どこに向かって」の「どこ」は,おそらく心理療法の分野によって違ってくるだろう。

「どこ」はシステムズアプローチでは,前述したように「システムの変化」なのであろうが,闇雲に変えようとしてもかえって頑なに変われなくなる可能性がある。そのためには「ニーズ」にジョイニングしなければならないだろう。ナラティヴ・セラピーでは,パーソナル・エージェンシー(White, M. & Epston, D. , 1990/2017,訳注では「自分自身で行動している感覚」)を重視している。

ここでは触れなかったが,同じ頃にわが国に紹介されたソリューション・フォーカスト・アプローチ(以下,SFA)は,解決についての会話を進める。その解決はセラピストが提示するのではなく,クライエント自身から語られる解決であり,クライエントが解決の専門家であると位置付けられる。Walter, J. L. & Peller, J. E. (2000/2005)は,SFAを社会構成主義の文脈で解説し,”preferencing”(嗜好語り)に重きをおくことを提唱した。つまり,解決も含めた当事者にとっての好みの語りを発展させることの意義について注目した。ナラティヴ・セラピーでは,他者による評価に関連する内的状態理解ではなく,その人がどうなりたいかという志向的状態理解のための会話を発展させることが先のパーソナル・エージェンシーの感覚を高めることにつながると位置付けている。

Andersen, T. (1991/2001)によるリフレクティング・プロセスでは,家族の話を聞いて語り直す役割であるリフレクティング・チームの会話を「聞いてもよいし,聞かなくてもよい」と家族には教示される。自分たちのために集まってディスカッションしている専門家のコメントを「聞いてもよいし聞かなくてもよい」という教示は,専門的営みの中でことさら不思議に見えるかもしれないが,当事者家族の選択の自由を確保するという倫理的な実践であり,また援助者との対等性を言語的にも構造的にも担保するものでもあろう。

目には見えない心の回復や成長を目指す心理療法では,さまざまな理論が生み出され,実践されている。システムズアプローチによる人の行動を枠組みやシステムとして説明する視点もまたものの見方であり,構成されたものに違いはない。介入戦略をセラピストやチームが練り,介入するという表現をするならば,ナラティヴ・セラピーとの違いが際立つかもしれない。しかし,ジョイニングのプロセスでクライエントに敬意を払い,ニーズを丁寧に取り上げて会話の広がりを重視するならば,その会話のプロセスから両者を区別することは不可能であろう。それぞれの眼鏡を意識することで,両者はセラピスト自身の中で相乗効果的に発展するだろう。おっと,相乗効果などというとシステムへの肩入れがすぎるか。

文   献
  • Andersen, T. (1991)The Reflecting Team: Dialogues and Dialogues About the Dialogues. W. W. Norton & Company.(鈴木浩二監訳(2001)リフレクティング・プロセス─会話における会話と会話.金剛出版.)
  • Fisch, R. , et al. (1982)The Tactics of Change: Doing Therapy Briefly. Jossey-Bass.(岩村由美子訳(1986)変化の技法―MRI短期集中療法.金剛出版.)
  • 東豊(1993)セラピスト入門.日本評論社.
  • Walter, J. L. & Peller, J. E. (2000)Recreating Brief Therapy: Preferences and Possibilities. W. W. Norton & Company.(遠山宜哉ほか訳(2005)ブリーフセラピーの再創造―願いを語る個人コンサルテーション.金剛出版.)
  • White, M. & Epston, D. (1990)Narrative Means to Therapeutic Ends. W. W. Norton & Company.(小森康永訳(2017)物語としての家族[新装版].金剛出版.)
  • White, M. (1997) Narratives of Therapists’ Lives. Dulwich Centre Publications. (小森康永監訳(2000)セラピストの人生という物語.金子書房.)
  • White, M. (2008) Maps of Narrative Practice. W. W. Norton & Company.(小森康永訳(2009)ナラティヴ実践地図.金剛出版.)
+ 記事

・坂本真佐哉(さかもと・まさや)
・神⼾松蔭⼥⼦学院⼤学
・公認心理師,臨床心理士
・主な著書:『今日から始まるナラティヴ・セラピ─希望をひらく対人援助』(日本評論社,2019年,単著),『N:ナラティヴとケア』第14号「ナラティヴ・セラピーがもたらすものとその眼差し─ホワイト/エプストン・モデルの実践がわが国のセラピー文化に与える(た)もの」(遠見書房,2023年,編著)
・趣味:ランニング

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