【特集『物語』から読み解けるもの】#01 『きのう何食べた?』と人生の正午――開かれた中年期に向けての覚書|笹倉尚子

笹倉尚子(十文字学園女子大学)
シンリンラボ 第5号(2023年8月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.5 (2023, Aug.)

はじめに

『きのう何食べた?』が有名になってしまった――。

『きのう何食べた?』はよしながふみによる漫画作品であり,2007年から現在まで講談社の雑誌・モーニングで連載が続いている。本作では,弁護士の筧史朗(シロさん)と美容師の矢吹賢二(ケンジ)というゲイカップルとその周辺の人々の日常生活が,彼らの囲む食卓の様子とともに描かれる。2019年には西島秀俊氏と内野聖陽氏の主演で深夜ドラマが放送され(お正月にはスペシャル版も),2021年には劇場版も公開,興行収入10億円を超えるヒット作となった。さらに,2023年秋にはドラマの続編がスタートする。

『きのう何食べた?』の連載開始当時,モーニングの読者であった私は「青年誌でゲイカップルを主人公とした作品を連載…!?」と少なからず驚いた。同時に,すっきりとした絵柄と深みのある家族の描写,何より毎回登場する美味しそうな料理の数々に「これは流行る」という確信を抱いてもいた。他所で同作についての論考を発表したこともある(笹倉,2017)。そのときは,『きのう何食べた?』はBLという枠にとらわれない「家族もの」であり,ゲイカップルの日常を通して,性別やセクシュアリティ,年代をこえて,人生の普遍的な部分にアプローチしようとしている――そのようなことを書いた。

その論考からも数年が経ち,ドラマ化を経て,『きのう何食べた?』はさらに有名になった。コロナ禍において劇場版が公開されたときには,映画館で老若男女さまざまな人々がこの二人の物語を幸せそうに見守っている様子を目にした。秋から始まるドラマの続編もきっとSNSでトレンド入りするだろう。こうした現状に対し,私は純粋な嬉しさと,古参としての優越感と,冒頭に述べたような複雑な気分が入り混じった心持ちでいる。

この数年で,作中の人物も,私自身も年をとった。連載開始時に40代前半だったシロさんは今や「四捨五入すれば60」という年齢になり(原作21巻時点),私も連載開始時のシロさんの年齢に近くなった。そのことにより,以前は気づくことができなかった『きのう何食べた?』の重要なテーマに気がついた。それが「中年期」である。

1.中年期は人生の正午

中年期とは,人間の一生涯の中間あたりに位置する年代である。心理学の領域で最初に中年期を扱ったのはユングJung(1931)である。彼は中年期を「人生の正午」と呼び,現実的な世界への適応から,内的な自己実現へと向かう転換が生じる時期としてとらえた。

中年期は暦年齢ではなく,特有の心身の状態や親の老い・子の独立といったライフイベント,それらを含んだ心理社会的な変容によって定義される。そのため個人差が大きく,社会の影響を受けやすい。たとえば,転職が珍しい選択ではなくなり,晩婚や非婚が増加し,人生100年時代などと謳われる現代日本においては,30代くらいまではまだまだアイデンティティを模索するモラトリアムであり,青年期の延長のように感じている人も少なくないのではないだろうか。

実際に『きのう何食べた?』の序盤でも,主人公であるシロさんの心のありようは定まっているとは言いがたい。もちろん職業的には「弁護士」という立派でお堅い肩書きがあるのだが,シロさんはゲイである自分を周囲に必死に隠しており,パートナーのケンジともそのことでたびたび衝突する。また両親に自分のセクシュアリティを理解してもらえないことにも不満を感じている。社会やパートナーとの関わりに戸惑い,親子関係に悩むシロさんの様子からは,彼が青年期の発達課題であるアイデンティティや,成人期の発達課題である親密性といった点に,葛藤を残していることが見てとれる。

しかしながら,シロさんはゆっくりと,着実に変化していく。料理友達である佳代子さん一家との交流や,ゲイの小日向さん・航くんカップルとの(主に食事を介した)関わりなどを通して,ゲイであることを周囲に隠そうとするシロさんの頑なさは徐々に和らいでいく。また,完璧に理解することはできなくとも,息子の選んだパートナーを受け入れようと努める両親の姿勢も,シロさん親子の関係の改善につながったと考えられる。

当初はケンジと一緒に出歩くことすらためらっていたシロさんが,ケンジとともに買い物や外食,旅行を楽しんだりできるようになったのは,彼が自身のセクシュアリティを含めたアイデンティティを確立し,パートナーと安定した関係を築き,継続させていることが影響しているのだろう。

二人で夜の公園に花見に出かけ,親の病気について話しながら「あーあ 俺たち 年とったよな~」とぼやく。劇場版のラストシーンでも引用された72話のこの台詞は,シロさんとケンジがすっかり中年期に入ったことを表しているようでもある。

2.中年期の危機

さて,「中年期の危機」という言葉がある。古くは厄年,ミドルエイジ・シンドローム(新福,1983),中年クライシス(河合,1993)などと呼ばれていた,中年期に生じる心理社会的な危機状態のことである。

危機とは,リスクという意味を持つ「危」と,チャンスという意味を持つ「機」という二文字で表現される,安定した成熟と不安定な停滞との分岐点にあたる状態を指す。中年期は自殺やアルコール依存といったリスクが生じやすい時期であるとともに,それまでにない創造性を発揮する時期であるともされる。

エリクソンErikson(1963)は,中年期の危機を「停滞」という言葉で表現した。停滞とはすなわち,人間関係の貧困化や,時間的展望の喪失のことを指す。若い頃のようにがむしゃらに頑張り続けるのは難しく,かといって今いる立場から退くこともできず,周囲に助けを求めることもままならず,この先どうしたらいいか分からない――そのような状態のことである。

休日,まだ午前だからと二度寝していたら正午を過ぎていた,ということはしばしばある。同様に,若いつもりでいてもいつしか足を踏み入れているのが中年期といえる。よそのお子さんが想像以上に成長していてびっくりするなど,まさに「中年期あるある」だろう。そうした中年期への移行は,身体の不調から実感されることが多い。

『きのう何食べた?』では,健康に人一倍気を使っているシロさんが,老眼鏡のお世話になり,突然の五十肩に苦しむ姿などが描かれる。パートナーのケンジも,ランチにカロリーの高いものを食べ続けた結果,人間ドックで引っかかってしまう。このようなそれまでになかった身体の不調は,私たちに不安をもたらす。

また社会的な立場の変化も,たとえそれが昇進といった喜ばしいものであっても,緊張や圧力を伴う。ケンジは勤務先の美容院の店長になり,後にシロさんも法律事務所の所長になる。責任ある立場となった二人はそれぞれに難しさやままならなさを抱え,二人の生活(主に夕飯)が一時的にすれ違ってしまうこともあった。このように,中年期の日々にはさざ波のような変化がたびたび起こる。

そして親や己の「死」が見えてくることも,中年期の特徴といえるだろう。シロさんの両親は自宅を売却して高齢者施設に入り,ケンジの母と姉たちは,ケンジにもしものことがあった場合に備えてシロさんとの面会を希望する。『きのう何食べた?』という物語には,延々と続く中年期の長い長い日々とともに,いずれやってくる親の,そして自分自身の「死」というテーマが,さりげないかたちで織り込まれているのである。

このようなさまざまな変化にうまく対処できない場合,すなわち中年期に入った自分を受け入れられないでいるとどうなるだろうか。本格的に身体を壊す,精神的に追い込まれる,人間関係にひびが入るなど,まさに「危うい」事態に陥りかねない。

シロさんとケンジは数々の中年期のライフイベントを経験しつつも,深刻な停滞状態には陥らずに済んでいる。むしろ,彼らはより穏やかで,生きやすい方向へと進んでいるようにすら見える。以下ではそれらを可能にしている要因について,考えてみたい。

3.開かれた中年期へ

エリクソンの妻であったジョウンは,当初は7段階であったライフサイクルの図式を眺めながら,そこに「この時期の私たち」,すなわち彼ら夫婦が今まさに生きている「中年期」という段階が見落とされていることに気付いたと回想している(Erikson & Erikson,1997)。そこから心理社会的な発達段階に中年期が挿入され,「ジェネラティビティ(世代継承性,生殖性などと訳される)」という発達課題が新たに設定されることとなった。

ジェネラティビティとは,次の世代を確立すること,導くことへの関心,欲求,行動のことであるとされる。エリクソンは,停滞に勝る割合でジェネラティビティを発達させることで危機的段階から脱することが可能になると考えていた。実際にそれ以降の研究でも,ジェネラティビティの発達が心理的健康や社会的幸福と密接に関連していることが明らかとなっている。

中年期のシロさんにとっての,ジェネラティビティの体験がはっきりと描かれるシーンがある。それは15巻116話,両親が自宅を売却しなければならなくなったことをシロさんに詫び,シロさんがそれをあっさり承諾するところから始まる。シロさんの態度に両親は拍子抜けするものの,父親は財産を息子に残してやれないことを深く悔やんでいる。

肩を落とす父親に対し,シロさんは佳代子さんの娘・みちるが,自分の息子に「史朗」の「朗」をとって「悟朗」と名づけたエピソードを語りだすのである。

偶然だけど お父さんの名前と漢字と読みも同じ「悟朗」なんだよ
その話を聞いた時 別に自分の手柄でも何でもないのに
俺 自分でも驚くほどうれしかったんだよね
ああ 自分の生きた証しが次の世代に伝わるうれしさってこういう事かと思ってさ
お父さんの望んだ形の「次に伝わる」じゃないだろうけど でも伝わってたよ

このときシロさんは,両親に孫の顔を見せられないことを悪いとはもう思っていない,とも語っている。彼は彼なりに,父から受け継いだものを次の世代に残せたと感じており,それを両親に語ることで,自分が今幸せであることを伝えようとしているように見える。

自分の名前を継ぐ次世代,悟朗の存在。子どもを持ちたいと思ったことがなかったシロさんがこのような機会を得たのは,シロさんが中年期を生きるなかで,自分の心や人間関係を閉ざさずにいたからなのではないだろうか。

シロさんがゲイであることを佳代子さんにカミングアウトしたのは,偶然とアクシデントの結果である。しかし,それ以降も佳代子さんと交流を続け,さらに佳代子さんの旦那さんや,その友人である小日向さん,小日向さんのパートナーである航くん,佳代子さんの娘・みちるやその夫とも食卓を囲むなど,人間関係を閉ざさずに,広げていくことを選んだのはシロさんの意志である。

先にも述べたように,物語の初めの頃のシロさんは,ケンジと二人でいるだけでも周囲の目が気になり,そうした自分の器の小ささを自己嫌悪していた。そんなシロさんが周囲を信頼し,他者に向けて心を開いていったからこそ,さまざまな人々が彼の人生に関わるようになり,それが悟朗の存在にもつながっていったのだと考えられる。

シロさんがそのようにオープンでいられた背景には,ケンジとのあたたかな関係が欠かせない。ケンジと出会う前のシロさんはなぜだか,彼を蔑ろにするような男とばかり付き合っていた。しかし,シロさんのことが大好きで,勝手に使った玉ねぎをすぐに買いに行ってくれるような心優しいケンジの存在が,閉ざされがちであったシロさんの心をじっくりと,時間をかけて開いていってくれたように思われるのである。

おわりに

エリクソン夫妻自身がそうであったように,中年期というのは人生で最も長い期間にも関わらず,その重要性が見落とされやすい。誰しも40年50年と生きていると,自分のありようや他者との向き合い方といったものがある程度確立してくる。自分の価値観で物事を測り,判断しがちになる。とはいえ,そうした姿勢はときに,自身の心や人間関係を硬直化させることにもつながりかねない。

『きのう何食べた?』には,自身の老いや親の老いとどのように向き合っていくのか,自分の立場の変化をどのように受け入れていくのか,その心の機微が丁寧に描かれている。『きのう何食べた?』を読んでいると,いくつになっても心を柔軟に保ち,価値観をアップデートさせていくことや,新たな人間関係を恐れすぎず,他者へと心を開いていることの大切さ,それらがおいしそうな料理の温度とともに,沁みわたってくるように感じられる。実際の自分には自炊をする余裕すらなく,忙しない中年期の日々を送っているのだが,それでもシロさんとケンジの姿を見ているだけで,心がほっこりと和むのである。

秋にドラマの続編が放映されることで,シロさんとケンジが末永く幸せでありますようにと願う人はきっともっと増えるだろう。彼らが強固なパートナーシップを維持できるような世界を次世代に残すためにも,現実の私たちができることを探していかねばならない。そうした目標のために,この作品の名が今以上に世の中に知れわたってほしい。そんな風にも思っている。

文  献
  • Erikson, E. H.(1963)Childhood and society, 2nd ed. W. W. Norton.(仁科弥生訳(1980)幼児期と社会.1・2 みすず書房.)
  • Erikson, E. H. & Erikson, J. M.(1997)The life cycle completed. A Review Expand Edition. W. W. Norton.(村瀬孝雄・近藤邦夫訳(2001)ライフサイクル,その完結.みすず書房.)
  • Jung, C. G.(1931)The stage of life. The collected works of Carl G. Jung, Vol. 8. Princeton University Press.
  • 河合隼雄(1993)中年クライシス.朝日新聞社.
  • 笹倉尚子(2017)心理臨床家が読み解く現代のものがたり「きのう何食べた?」.心理臨床の広場,10 (1); 48-49.
  • 新福尚武(1993)ミドルエイジ・シンドローム.朝日出版社.
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笹倉尚子(ささくら・しょうこ)
十文字学園女子大学 教育人文学部心理学科 准教授
サブカルチャー臨床研究会(さぶりんけん)代表
資格:臨床心理士・公認心理師・博士(教育学)
著書:『サブカルチャーのこころ―オタクなカウンセラーがまじめに語ってみた』(共編著,木立の文庫,2023)

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