【特集 令和型の不登校にどう向き合うか】今,私たちは不登校にどう向き合うのか|桑原知子

桑原知子(京都大学名誉教授・放送大学特任教授)
シンリンラボ 第3号(2023年6月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.3 (2023, Jun.)

1.はじめに

不登校は,心理臨床の場で,あるいは,教育現場で出会う,たいへんポピュラーな現象である。初心者でない限り,多くの心理臨床家あるいは教師が一度は不登校状態にある児童・生徒に出会うだろう。しかしながら,これがどのような要因によっておこり,そこに何が働いているのか,あるいは,どのように対応すればよいのかということについて,明確な答えがあるわけではない。不登校状態にある本人自身も,なぜ学校に行けないのかという問いに対して,明確な答えを述べられない。

不登校は,「病気」ではない。誰もが陥る可能性がある状態だという認識がかなり根付いてきているが,だからこそ,原因がわかっている「病気」とは異なり,それに対する対応策も明確ではないのだ。

そもそも,一口に不登校と言っても,個々のケースによってその背後にあるものはさまざまに異なっており,また,昭和の不登校,平成の不登校と,最近の不登校とでは,様相が変化しているようにも思われる。不登校状態にある児童・生徒,親,そして,その人たちに関わる教師,心理臨床家にとって,不登校は,じわじわと不安を引き起こし,なじみがありながらも,けっして解きほぐせない「状態」でもあるのだ。

この不登校について,多くの言説が積み重ねられてきた。しかし,それでも不登校はなくなるどころか増え続けている。「解決策」という,不登校に対するひとつの定義や正しい対応策などはないのかもしれない。しかし,だからこそ,多角的な視点を提供し,不登校について考え続けることが,今必要なのではないだろうか。

本稿においては,そうした理由から,今私たちが不登校にどう向き合うのかということについて,ささやかながら,新たな「一石」を投じることを試みたいと思う。

2.不登校に対する着目

私は,長年「コンサルテーション」のために,(京都市の)学校での訪問研修を続けている。そこでは,管理職を含めた,学校のすべての教師が集まり,そこで,学校や教師が「困っているケース」を提示してもらう。ご発表くださるのは担任の先生だが,それに対して,学年団の先生方,養護教諭,校長,教頭,クラブの顧問,あるいは,当該の児童・生徒の兄弟・姉妹を担当したことがある先生などが,できる限りの情報を提供してくださり,当該の児童・生徒の像をふくらませていく。

20年ほど前には,相談のほとんどが不登校に関するものだったが,その後,発達障害,特に,他児に対して暴力を振るうなど,学級運営が難しいケースの相談が激増した。しかし,最近になって,再び不登校に対する相談が増えているように感じられる。

一時期不登校に対する相談が減ったのは,「別室登校」や「保健室登校」,「適応指導教室」や「フリースクール」など,さまざまなルートができて,不登校とカウントされる生徒が減少したことと関係しているのではないかと思う。一方で,学校に来ることがなく,直接学級運営に困った問題が生じない不登校状態への関心が減ったことは,憂慮すべきことではないかと私は考えている。「数を減らす」ことだけに集中することは,不登校が投げかけている「メッセージ」を聞き逃すことになりはしないか。そもそも,不登校は「減らす」「なくす」ことができるものなのだろうか。

3.不登校を「なくす」には

以前中国のある大学から来日された先生に,中国での不登校事情についてうかがったことがあった。このときのやりとりを以前にも紹介したことがあったが(桑原,2016),再掲する。

私「中国では不登校というのはあるのですか?」
先生「ありません」
私「えっ?」
先生「学校に行けなくなった子どもは生きてはいけません」
私「ええっ⁈」

「体制」というものが厳しければ,そこから外れた人は生きる「場」がなくなってしまうのかもしれない,と思った。おそらく昔の日本でも似たような状況があった可能性がある。不登校を「なくす」のであれば,こうした厳しい体制を構築すればいいのだが,それは望ましいことだろうか。少なくともどのような子どもであっても生きる「場」がある今の日本の状況は,ありがたいと私は思う。

したがって,不登校の増加は,こうした「多様性」の許容性のバロメーターと言えるかもしれない。しかし,そのことで,不登校の苦しさやなんともいえない不安感が消えるわけではない。

4.不登校の「原因」

不登校の「原因」を探す人は多い。「父親不在が原因だ」「母親の対応が悪い」「教師の責任だ」など,さまざまな「原因」探しがなされる。ただ私は,こうした「原因」を探すことが解決への道筋になることは少ないように感じている。なぜなら,「原因を見つける」→「良くないところを除去」→「改善」という考え方は,「もの」の修理の発想だからである。人間は「もの」ではない。したがって,こうした修理の発想ではうまくいかないのではないか。ただ,どうしても「原因」を探したいという人もいる。その場合には,私は「ゾロ目説」を唱えていて(桑原,1999),多くの(つまり何桁にもなる)原因があって,それがすべてそろったときに不登校になるのではないかと考えている。だから,「原因」を探したい人は,できるだけ多くの原因を探す必要がある。そうすれば,不登校が簡単には「解決」しない場合にも納得がいくし,誰かを「犯人」として糾弾するような,建設的ではないアプローチをとらなくなるように思う。

5.不登校の根っこにあるもの

「原因」はないとしても,要因はいくつもある。そのなかでも,不登校の根っこにあるものがあって,それは不登校の難しさと関係しているように思う。それは,ギーゲリッヒGiegerich(猪股・宮澤訳)(2018/2022)が日本の不登校について以下のように述べている点である。

こうした病理は,個人的な「病」ではなく,社会的な「病」である。児童生徒の不登校や成人の不就労は,本当はその個人による拒絶ではない。すなわち自分の責任に基づいた意識的な決断ではなく,自分ではどうしてそんなことになったのか,何が原因なのかもわからず,ただ自分が陥っている運命として自分に降りかかってきているものである。

このことは,河合(1995)もすでに指摘している。

こういうことが起こってくる根本には,私はやっぱり日本という国全体の問題があるいうふうに思っています。と言いますのは,学校へ行かない子のことで困っているのは,世界中で日本だけと言ったらいいぐらいなのです。

不登校の要因として国全体の文化(的な病)があるとするならば,私たちは何ができるのだろうか。政治の「せい」にしてみても,不登校で苦しんでいる児童・生徒や親たちにとって救いとはならないだろう。
ただ,不登校がいわゆる「個人の責任」ではないことを知っておくことは,不登校の児童・生徒を理解するうえで意義があるように思われる。また,不登校が,時代の流れや文化的な背景の影響を受けること,その様相を変えていくことの根拠ともなるであろう。

こうした視点をもつ意味について,河合(1995)は以下のように述べている。

そういうふうな非常に広い視野をもってやっていると,単純に,学校へ行ってない子を行かせようというんじゃなくて,現代に生きているわれわれ自身が,そういう難しい状況の中で,自分の個性を伸ばしながら生きるためにはどうすればいいのかということを,この学校へ行ってない子どもたちとともに考えているんだというふうに思うと,自分でやっていることの意味も非常によくわかってきます。そういう意味をわかってやっているからこそ,子どもたちもわれわれを信頼してくれるんじゃないかという気がします。

6.不登校をどう考えるか

不登校を一言では定義できないこと,原因を明らかにして解決へと向かうことは困難なこと,そして,その根っこには,個人を超えた文化的背景があることなどを述べてきた。

ここからは,では,不登校というものをどう考えて,どう対応していけばいいのか,ということを考えていきたい。
まずは,私の考え方(桑原,2016)を紹介したい。これはあくまで「一つの」見方である。これまで学校現場で先生方に向けてこの考え方を述べてきたが,多くの先生方が不登校というものを受け入れやすくなり,「対応への指針となった」と言ってくださることが多かったので,ここでも紹介することとする。

私は不登校を「耐震工事」に例えている。「不登校耐震工事説」とは,以下のようなことを指している。少し長いがそのまま引用する(桑原,2016)。

子どもたちが,今現在はこれといって壊れたりダメージを受けているわけではないものの,このままいけば,将来大きな地震(人生のなかの大きな衝撃)に出合ったときに,崩壊してしまいそうな危険がある場合,それを回避するために今のうちに「補強工事」をしているのだ,という考え方です。ですから,この「作業」中は,幕を張って,外とのコンタクトを一時的に遮断します(危険や努力をともなう「工事」なのですから,外[学校]とつながりながら…というわけにはいかないのでしょう)。また,どこに将来のリスクを生む可能性のある「ひび」が入っているかによって,工事期間は変わってきます。表面に近いところであれば,そこを取り除いて修復する,ということになりますので,そう長い期間を要することはないでしょう。しかし,土台部分に「ひび」がある場合は,かなりの時間がかかります。こちらのほうが,むしろ外からみれば何も問題は見つからないのですが,土台部分ということになると,まるで問題のない上層階すべてをいったん取り壊すことが必要な場合も多いわけです。そうなると,とても長い時間がかかります。(身体のどこにも問題はない。元気そうに見えるし,むしろめぐまれている環境のなかにいるのに,なぜ長期間不登校という状況を続けているのか,こういう理解しにくい不登校の場合,私は,この「土台からの工事」という見方をしてみるのはどうか,と考えています。)

不登校になる子どもたちは,なぜか,自分がどこかで脆弱性を抱えていることを「知っている」ように思う。もちろん意識的にそのようなことをしているわけではないが。そしてその耐震工事という「作業」が終わると,自然と学校に行けるのではないだろうか。だから,学校に「行く」「行かない」というタイミングは,子ども自身が一番よく知っているように思っている。

7.不登校にどう対応するのか

不登校を「耐震工事」としてとらえてみると,それへの対応も見えてくる。まず,無理やり学校へ来させること,つまり,工事を中止させることは得策ではないだろう。もちろん最終的に学校に行けること(工事の完成)は,待ち望まれることであり,子どもたち自身もそれを願っているが,焦りは禁物である。

では,周りの人間は手を出さず,なるべく放っておくのがいいのだろうか。それは誤りである。工事現場でも,警備の人も含めて,必ず人がいる。「耐震工事」は子ども一人で行うものではないだろう。ただし,それは子どもの意思を超えて,大人が思い通りに動かす関わりであってはならない。周りの人間の役割についての私の考えは以下の通りである。

臨床心理士は,不登校を「治す」ことを助けるのではなく,子どもが抱える「課題」にともに取り組み,援助する仕事をしているのだと思っています。不登校という「工事」を中止させるのではなく,それをむしろ進展させ,子ども(や本人を取り巻く家族など)の人生に生かしていくということです(桑原,2016)。

具体的に,教師はどのように関わるのか。たとえば,「家庭訪問」については,「少なくとも一年間続けられる頻度で」とおすすめしている。関わりは一時的なものだと,会えなくなったときにむしろ寂しさを感じてしまう。だから,長く続けられるように無理をしないこと,できたら同じ曜日の同じ時間帯にすることなどを勧めている。

また,たとえ「工事中」であろうと,教師が自分に関心をもっていてくれることを知ることはうれしいものである。そのため,私は手紙という手段を勧めている。最近はメールや電話でコンタクトをとることが一般的だと思うが,手紙は必ずしも返事を強要しないため,子どもたちに負担をかけずにすむという利点がある。私自身がクライエントさんとコンタクトをとるときには,便箋や切手に私の想いを込めることが多い。

8.「今」の不登校

不登校が文化的背景を持つことはすでに指摘したが,時代の流れや空気感もまた如実に映すもののように思う。今不登校が増えているのは,コロナ感染症の影響もあるかもしれない。それは,長い自宅生活のなかで,友だちを作ることができなかったり,家庭のもつ力が弱い場合,子どもたちが,その影響を直接的に被ってしまうようなことが生じたことも考えられる。さらに,私は「自明性の喪失」も大きいのではないかと考えている。学校というところは「行くのがあたりまえ」であったのが,崩れたのである。昼間家にいるという体験は,「行かない」という選択肢の可能性を芽生えさせたのではないだろうか。

さらには,今はバーチャルな場が,現実の場を超えてリアリティーを持つ時代である。岩宮(2018)は,今の子どもたちにとって,「イツメン」(いつものメンバー)と呼ばれるLINEやSNSを通じた「仲間」の重要性を指摘している。自分のクラスに誰がいるかなどということよりも,こうしたバーチャルな関係性のほうが大きな意味をもっているのである。また,「ぼっち」(一人ぼっち)にならないために,今の子どもたちは多大な努力を払っている。学校やクラスの持つ「場」を基盤にしたつながりが希薄になり,そのために,「学校」という「場」に行くことの必然性が薄れているのではないだろうか。

9.「今」の不登校の難しさ

以前不登校がもっていたような「切羽詰まった」「苦しい」感覚は,薄れているように思われる。教室へは来ないが,クラブには参加する子どもたちもいて,昔「学校恐怖症」と言われたような,深刻さは見られない。ただ,だからといって,不登校状態がつらくないわけではない。また,不登校へのアプローチがたやすくなったわけでもないと私は考えている。

それは,「今」の不登校は,「つながり」が希薄になっているからである。まず,バーチャルではなくリアルな「人」に会いたいというつながりが希薄になっている。そのため,何としてでも学校に行かねば,という強い気持ちがおきない。また,朝から晩まで不登校について悩むというわけではなく,「不登校」と「自分」というつながりもまた,希薄であろう。「悩み」こそが変化の原動力になるのだが,それが希薄である。悩めるようになることがまずは目標になるのかもしれない。

一方で,教師は苦しんでいるように思う。それは,不登校児童・生徒が不登校の理由として「教師の不適切な対応」を挙げることが増えているように思うからである。「声が大きすぎるから」「こわい」など,教師の態度が原因と言われるので,教師としては罪悪感にとらわれ,傷つき「反省」する。しかし「反省」によって傷が癒されることはなく,ずきずきと疼く痛みを感じ続けているように思う。

「声が大きすぎる」と生徒に言われた教師に実際に会ってみると,とても声の小さい先生だった。おとなしそうで,圧迫感を与えるような人ではない。では生徒はうそをついているのだろうか。

「子ども」にとっては,それはうそではない。「大きな声で怒られた」ということは,たしかに現実とは異なっていて,それはうそである。しかし,それに「あたかも」と「かのように」とつければ,それは真実となる。つまり,その子にとっては,あたかも「大きな声で怒られた」かのように,怖い思いをしている,という「内的真実」である。学校現場において,こうした「投影」から生じるような現象が多くなってきているように思う。

教師(や心理臨床家)は,「投影」による傷つきに必要以上に拘泥することなく,反省ではなく,投影(やうそ)を通じて,子どもが真に伝えたいと思っていることを受け取る努力をすべきではないだろうか。

10.おわりに

京都には,「洛風中学校」という,不登校の生徒のための公立中学校がある。

京都市立洛風中学校(city.kyoto.jp)

そこでは,元の学校では不登校だった生徒が,登校してきている。私はスイスの学校を見学したことがあるが,その様子と洛風中学校の授業の様子がとても似ていて驚いたことがある。つまり,日本では「特殊」である学校形態は,スイスでは一般的なのだ。

また,洛風中学校では元々校則を作っていなかったのだが,生徒たちの要望により,生徒自身の手で校則が作られることになった。

学校は行くべきもの,という自明が崩れた今,子どもたちは自らの意志で学校を選び,作っていかなくてはならない。大人もまた,既存の体制に甘んじるのではなく,主体的な関わりを持つことが,「今」求められているのではないだろうか。

文  献
  • Giegerich, W.(2018)Pitfalls in Comparing Buddhist and Western Psychology: A contribution to Psychology’s Self-Clarification.(猪股剛・宮澤淳滋訳(2022)仏教的心理学と西洋的心理学─心理学の自己明確化に向けて.創元社.)
  • 岩宮恵子(2018)学校が抱える現代的問題.In:桑原知子編著:教育相談と学校臨床所収.協働出版.
  • 河合隼雄(1995)カウンセリングを考える(上).創元社.
  • 桑原知子(1999)教室で生かすカウンセリング・マインド.日本評論社.
  • 桑原知子(2016)教室で生かすカウンセリング・アプローチ.日本評論社.

桑原知子(くわばら・ともこ)
・所属 京都大学名誉教授・放送大学特任教授
・資格 公認心理師・臨床心理士
・主な著書:『もう一人の私』(創元社,1994),『カウンセリングで何がおこっているのか─動詞でひもとく心理臨床』(日本評論社,2010),『教室で生かすカウンセリング・アプローチ』(日本評論社,2016) など
・趣味 テニス

目  次

コメントを書く

あなたのコメントを入力してください。
ここにあなたの名前を入力してください

過去記事

イベント案内

新着記事