書評:『臨床心理学中事典』(野島一彦監修/遠見書房刊)|評者:石原 宏

石原 宏(島根大学)
シンリンラボ 第1号(2023年4月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.1 (2023, Apr.)

2022年12月,遠見書房から『臨床心理学中事典』が刊行された。「中事典」というのは,「薄すぎず厚すぎず手に持って簡単に項目を引くことができ,かつ説明も短すぎず長すぎずに記載されている」(p.i)ということであるらしい。実際に手に取ってパラパラとページを捲り,いくつかの項目を眺めてみて,これは極めて使いやすい事典であると,評者は確信した。評者が特に気に入ったポイントは,大きく3点である。

1点目は,各項目の冒頭に手短な[定義]が示され,その下に[概要]として詳しい説明が付されている点。事典を引くとき,何よりも知りたいのは,簡潔な定義であるという場合は多いだろう。『中事典』の[定義]の記述は,こうしたニーズに心地よく応えてくれる。見出し語と[定義]のみを読んで,用語集のように使用することも可能で,大学院受験対策などでは頼れる相棒となりそうである。続く[概要]の記述は,見出し語にまつわる歴史的背景を含め文献的な裏づけをしっかりと示しながらの説明となっている。臨床心理学が対象とする領域は果てしなく広く,恥ずかしながら評者には,[定義]レベルのことしか知らない用語も多い。そうした用語の[概要]を,確かな出典とともに手軽に知ることのできる事典の存在は大変ありがたい。

2点目は,各項目で言及された文献が巻末にリストになっているのであるが,この文献リストの充実ぶりである。文献数1,500以上,50ページにわたるリストは,この事典がいかに出典にこだわって作成されたかを物語っている。ある用語の[定義][概要]を読んで,さらに深く探究したくなった読者にとって,最初に当たるべき文献が示されている利便性は計り知れないだろう。

3点目は,臨床心理実践に役立つ2つの付録である。付録1は「向精神薬一覧」で,81種類の薬の分類・一般名・商品名・適応が,付録2は「心理検査一覧」で,106種類の心理検査の作成者・適用対象・発行年・目的・概要・発行元がリスト化されている。病院臨床にあまり縁のない評者は,薬の名前がなかなか覚えられず,個人的にこのようなリストを作ってみようとしたことがあったが,うまく整理できずに断念した経験があったため,この付録には,「こういうものが欲しかったんですよ!」と,思わず声が漏れそうになった。

以上のようなわけで,『臨床心理学中事典』は,これから臨床心理学を究めていこうとする大学生・大学院生,公認心理師・臨床心理士の資格試験に備えようとする方々はもとより,すでに臨床心理の専門家として実践に,研究に,教育に携わっておられる方々にも,たいへん有用であると評者には感じられた。ぜひ皆さまも手に取ってその内容を確かめていただければと思う。

それにしても,ここまで書いて改めて思うのだが,この事典,名前は「中」事典ではあるが,その編纂には「巨大」なエネルギーが注ぎ込まれたに違いない。630の項目を,249名の執筆者が分担して書きあげたという事実だけでも物凄いが,臨床心理学に関わる用語全体に対して630という項目数は決して多いわけではない。膨大な数の用語の中から,この事典に掲載すべきものを厳選したプロセスにこそ,関係者の大変なご苦労があったであろうことが想像される。

この630の項目がどのように決まっていったのか(評者の心には,中島みゆき「地上の星」をバックに,編集委員の先生方が口角泡を飛ばして,何を残して何を削るのか,活発に議論されている映像が思い浮かんでいるのだが),採用された言葉たちに先生方が込めた思い,当落線上にありながら惜しくも掲載が見送られた用語たちへの鎮魂歌など,『中事典』編纂過程を記すドキュメンタリー連載などあれば,貪るようにして読みたいと思うのは,評者だけであろうか。

最後にひとつ真面目な提案を。初版第1刷の宿命でもあろうが,若干の誤植が残っているようである(例えば,p.471の付録1で,抗不安薬が「ペンゾジアゼピン系」となっているが,これは「ベンゾジアゼピン系」の誤植であろう)。

これだけの文字数の印刷物であるので,完全にミスのない状態で仕上げるのはほとんど不可能であろうし,辞書編集者を描いた小説『舟を編む』(三浦しをん,2011)に「辞書は必ずしも万能ではないと知り,荒木は落胆するどころか,ますます愛着を深めた。…(中略)…決して完全無欠ではないからこそ,むしろ,辞書を作ったひとたちの努力と熱気が伝わってくる気がした」というくだりがあるように,筆者もこうした誤植にむしろ心温まりさえしてしまう方ではある。ただ,正確な記述は事典の生命線であろうし,可能であれば『シンリンラボ』をうまく使って,誤植を発見した読者から情報を提供してもらい,内容を精査したうえで,積極的に公開して正誤表を更新していくのはどうだろうかと考えてみた。改訂版を待たず読者とともに正確性を上げていく事典というのも,あってよいのではないかと思う。

文献
  • 三浦しをん(2011)舟を編む.光文社.
+ 記事

石原 宏(いしはら・ひろし)
2004年,京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。2018年より島根大学学術研究院人間科学系准教授。臨床心理士。公認心理師。

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