臨床家への問いかけ(3)患者やクライエントをどのようになおすのか①:「なおす」とは何か|富樫公一

富樫公一(甲南大学
シンリンラボ 第15号(2024年月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.15 (2024, Jun.)

あなたは,患者やクライエントをどのようになおすのか。

今回の問いかけはこれだ。

このタイトルはいい。「倫理的転回」よりずっと売れそうだ。

いっそのこと,連載タイトルそのものを変えてしまうのはどうだろうか。

シンリンラボ 連載 富樫公一
『患者やクライエントをどのようになおすのか──ちょっとだけ倫理的転回』

意外といけそうだ。

「治し方」や「技法」の記事みたいだ。

これなら,編集者も喜んでくれる1

「治し方」や「技法」が人気なのは知っている。閲覧数も増えるかもしれない。

Amazonで「カウンセリング」「技術」「初級2」「上手くなる」を入れて検索するとわかる。似たような名前の本が山ほど出てくる。みんな表紙はとてもポップで,一読しただけで心理療法の極意が身につきそうだ。

トップに出てきた素敵な書籍をクリックしてみる。

Amazon 売れ筋ランキング:-112位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
-2位心理学

むむむ。

何かの間違いかもしれない。もう一度見てみる。

– 112位 本 - 2位 心理学

おかしい。

「 – 112位 本」というのは,Amazonで販売されるすべての日本の書籍の中で,112番目に売れているということだ。しかも,数ある「心理学っぽい本」の中で,2番目に売れているという意味だ。

自分の本でこんな数字は見たことがない。

私の本はもっと崇高だ。最近はシンリンラボにも書かせてもらっている。本の売れ行きも上がっているかもしれない。

– 3246706918413741076581381600位 本 - 2073570896122033位 心理学

長い。

涙でかすんで見えないが,桁が違うことだけはわかる。

やはり「精神分析」や「倫理」は売れないのだ3

「治し方」「カウンセリング4の技術」「上手くなる方法」みたいなものしか,みんな読まないのだ。

でも,治し方を知っている人がこんなにたくさんいる。

日本の将来も安心だ。Amazonで傷ついた私以外の人々の心は,来年にはみんな治る。


脚 注

1. (編集者註)副題には喜べない。

2. 中級以降はない。

3. (編集者註)くどいようだが,「精神分析」「倫理」が売れないのではなく,富樫が売れていない。

4. 「カウンセリング」の代わりに,「心理療法」と入れると途端に順位が下がる。「精神分析」と入れると,奈落の底に落ちる。


臨床状況で「なおす」と簡単に言えない

しかし,臨床家にとって,話はそう簡単ではない。

患者やクライエントに「私をどのようになおすのですか」と聞かれたらどうだろうか。

結構,答えづらい。

まず,確実なことが言えない。

「私は何でもなおせる」と豪語する心理師5はいるが,善良な臨床家ならとてもそんなことは言えない。

心理的問題が,いつもきれいさっぱり片付くものでないことをよく知っているからだ。何しろ,自分を一番なおせていない。

全く見通しがつかないかというと,もちろん,そんなことはない。経験を積めばそれなりに見えるようになってくる。

それでも,直に聞かれると言葉に詰まる。「あなたが何をもって『なおす』と言っているのかによります」と言いたくなる。

患者やクライエントの「なおす」と,治療者の「なおす」が,同じとは限らないからだ。

患者は症状をなくし,人間関係に悩まなくすることを「なおす」と思っていても,治療者は症状をある程度おさめることを「なおす」と考えているかもしれない。

安易に「なおします」と言うと,パニック発作がほとんどおさまった患者から「なおっていない」と言われるかもしれない。それもちょっと困る。

それに,治療者の仕事は「なおす」ことではないという考えもある。これは医療ではないとか,そもそも心の問題はなおるとかそういったものではないといった考えだ。

「なおします」と患者にはっきり伝えるのははばかられる。


脚 注

5. 大学のセンセイによくいる。私の知人にも一人いるが,彼は友人ではない。


なおしたい欲望

しかし,「なおしません」と堂々と言えるかというと,それも簡単ではない。

自分の仕事はなおすことではないと思っている治療者でも,「なおさない」とクライエントに言うことを考えるとドキドキする。

現代日本の文化を考えてみよう。

多くの場合,心理療法や心理相談に訪れるクライエントは,「なおしてもらいたい」とか「なおりたい」と思って来る。いくら自分の仕事はなおすことではないと主張しても,程度の差はあれ,クライエントの顔は「先生,なおしてくれますよね」と訴える。

「なおしてくれますよね」ではピンとこないなら,「私,よくなりますよね」でもよい。

それを無視することは難しい。

まがりなりにも,私たちは「治療者」と呼ばれる。

学術雑誌に論文を投稿したら,査読コメントに『「治療者」ではなく,「セラピスト」か「Th.」にしてください』と書かれた。しかし,日本国語大辞典(2006)で「セラピスト」をひくと,「《名》(英therapist)治療士,治療者」とある。「セラピスト」に代えてもいいが,結局「治療者」だ。違いがわからない。

私たちに「なおしたい欲望」もある(富樫,2023)。

私たちは,現代日本のこの文化の中で訓練を受けている。

公認心理師の大学院進学希望者に聞いてみたらいい。どれだけの人が「人の心をなおしたい」「よくしたい」と答えることか。

どんな主張を持っていようと,根底に流れる「なおしたい」という欲望を完全に拭い去ることは難しい。

インテークカンファレンス

もちろん,人をなおしたいとも,よくしたいとも思わず,ただ心に興味があるだけだという人もいるだろう。しかし,それをそのまま大学院で話すとよい顔はされない。「だったら,なぜ臨床に来た」と言われる。

教育する側も,される側も,すでにその文化の中にいる。

インテークカンファレンスでは,「見立てと方針」を必ず書かないといけない。

「インテークカンファレンス」とは,「ケースカンファレンス」と並び,ほとんどのセンセイと院生が出席する大学院生活最大の週一イベントだ。そこでは,院生が担当した臨床事例をみんなで検討する。発表の担当になっているかどうかで,一週間の気分が変わる。

入学時のガイダンスでは,「自由な発言の場だから,新入生も自分の意見をぜひたくさん言ってくださいね」と言われる。

「うわあ。やっぱり学部とは違う。本格的な臨床の話が聞けるんだ!」と,心が躍ったものだ。

ワクワクして出席すると,一年上の先輩が「見立てと方針があまい」とキョウジュにこっぴどく叱られる姿を目撃する。発表開始からわずか7分だ。

半年後には,自分もここで発表しなければならないという。自由な発言どころか,院生はみんな下を向いている。

縮みあがって院生室に戻ると,「今日はまだいいほうだよ。泣く人もいるからね」と,チョコレートを口いっぱいに詰めたミニキョウジュがサディスティックに笑う。

「見立てと方針」は重要だ。

センセイによっては,妙にそこに引っかかる。機嫌が悪いと,その話だけで時間がつぶれる6

「見立て」るのはクライエントの問題や病理で,「方針」とは治療や問題解決の進め方のことだ。予後も考える。

「なおすもの」を特定し,「なおった状態」を目指すことを訓練されるのだ。

インテークに来た男性クライエントは,妻から「あなたは他人の気持ちが分からない」と度々言われていた。

「他にもたくさん聞いたけど,心理的問題かどうかまだわからないな。夫婦の相性かもしれない。これから詳しく聞いて判断しよう」と思っても,「見立てと方針」にそのまま書いてはいけない。

「これは見立てと方針ではない」と,キョウジュがすかさず口を出す。「この男性は○○障害だから,あなたは,彼を他人の気持ちが分かる人間にしなければならない」と,その態度はすがすがしいくらいはっきりしている。

彼は自信に満ち溢れ,自分が見立てるすべてのクライエントが○○障害になることには,気がついていないようだ。

授業ではいつも「アセスメントは仮説だから,決めつけないように」と言うが,発言にその雰囲気もない。

心の専門家は,インテークが終わった段階で,なおすべき病気や問題を理解することができ,なおった状態にするための方針を立てられることになっているからだ。

嘘だと思ったら,大学院のセンセイたちに聞いてみたらいい。キョウジュだけではない。みんな,「これが問題で,こうやって治すんだよ」とすらすらと答えてくれる。ただ,全員言うことが違うだけだ。


脚 注

6. センセイによっては,文章の書き方だけに引っかかる。臨床的なコメントはない。


「なおす」が作られた歴史

この文化の中で,臨床家が「なおす」から逃れることは難しい。

歴史家で精神分析家のクッシュマンCushman(1996, 2002)は,心理療法の医療化の歴史を語る。

心理療法はかつて,自己や社会のあり方を豊かな言葉で表現していた。やがて,米国の医療保険会社の経営戦略によって,「なおす」を最高の道徳とする医療モデルに組み込まれた。そして,豊かな言葉を失った。社会問題も個人の病気に置き換えられた。

そこには,心や社会を体験する言語が貧困な医療言語に置き替えられていく様子が描かれる。

ウォッターズWatters(2010)やグッドマンGoodman(2016)は,米国式精神医学を輸入した非西洋諸国の中で,心の痛みや苦しみを表す民族固有の言語が病名に変えられていく様子を語る。

大手製薬会社は,日本で戦略を仕掛ける。「気が重い」「寂寥感」「わびしい」といった言葉で語られていた状態を,「うつ病」と呼ぶ文化を日本に作り上げる。抗うつ薬の売上を上げるためだ。日本人もそれを歓迎する。「うつ病は心の風邪。誰でもかかります」というスローガンとともに,「最新の価値観」が広まる。誰もがそれを良いことだと思う。

一会社の経営戦略が,精神医学・臨床心理学業界の「科学的知見」の助力で,文化の中の「病気」の範囲を変えたのである。

それが必ずしも悪いわけではない。それによって救われた人もいる。

しかし,それを疑う言説は社会の取り締まりの対象にもなることも事実だ。「うつ病は心の風邪。誰でもかかります」というスローガンに疑問を唱えることは,危ない。

今まで病気とはわからずに苦しんでいた人が救われるようになったのに,それを否定するのかと,単純化された正義の中で問題視される。

個人の病理とされることで,社会問題がかき消されたことも議論されない。

私たちは,思想や観念の形態に呼び止められるのだ(Althusser, 1970)。そこで,規範とルールが刷り込まれる。それはすでに,自分自身が心から大切にする信念そのものだ。それを守るのが最大の道徳となる。

習った内容と違うことをしたときのあの妙な罪悪感を思い出してみよう。

人を支配し,服従させる規範は再生産される。

治療者にとって,患者の苦痛は「なおすべきもの」だ。患者にとって,自分が感じている苦痛は「なおるもの」「なおすもの」だ。

それを疑うことは,社会からの逸脱を意味する。

なおすとは何か

医療現場でなくても同じことだ。

教育現場でも,福祉現場でも,臨床家はどこかで「なおすべきもの」「なおした状態」を考えている。

「なおす」となにか。日本国語大辞典(2006)にはこうある。

なお・す なほす【直・治】
〘他サ五(四)〙まっすぐにするの意から,正常な状態にする,もとにもどすなどの意を表し,同じ動作を繰り返すことにもいう
(略)
⑥ 具合の悪いところを繕って本来あるべき状態にする。
  ㋑こわれたものを修繕する
  ㋺(治)病気やけがなどを治療して,もとの状態に戻もどす
(以下,略)

「直す」も「治す」も基本的には同じのようだ。「治す」が病気やけがに特化しているだけで,どちらも「正常な状態にする」「もとにもどす」を意味する。

しかし,「正常」とはどういった状態だろうか。

暴飲暴食はせずに,毎朝すっきりと目覚めて,毎日楽しく出勤し,日々を朗らかに過ごして,友人が多く,仕事をほどほどにしながらも,余暇を楽しみ,時々心を許せる友人とバーベキューパーティをする。人前でも緊張や不安を感じることなく,周りの人たちは自分に友好的だと感じられ,外に出て人と会うのが好きで,新しい状況でも慌てることなく課題に対処し,出会った人たちの名前はみんな覚え,ものをなくさず,人間関係の距離を一定に保てる。

これが正常だろうか。

無理だ。私には当てはまらない。

毎日何も考えずに好きなものだけ食べ,毎朝前日の疲労をほとんど残したまま無理に起きあがり,明らかに働きすぎであることはわかっていても,生きがいは仕事,趣味は仕事,余暇は仕事だと自慢気に触れ回っている。そのくせ,職場の嫌な同僚の愚痴は周りの友人たちにまき散らす。社交嫌いなくせに目立ちたがりだから学会には行くが,人前で話すときはいつも緊張する。調子が良いのはただの躁状態で,余計なことばかり言ってあとで自己嫌悪に陥る。怖いS先生が指定討論についた発表では,緊張で飛び出したくなるが,逃げられないのを悟ると机の上一面に落書きを始めてしまう。挨拶を交わした人の名前は三歩歩けばもう忘れているし,さっき手に取ったはずの携帯電話はもう手元になく,どこに置いたのかも覚えていない。学会の懇親会で会う人は自分を嫌っていると思っているし,笑顔で話しかけてくる人には何か魂胆があると思っている。

ひどいものだ。

しかし,これが異常だと思っているわけではない。むしろ,これで「ほどよく正常だ」くらいに思っている7

そもそも,日々を朗らかに過ごして,友人が多く,仕事をほどほどにしながら,出会った人たちの名前を忘れることも,ものをなくすことなく,人間関係の距離を一定に保てるようなりたいなど,思ったこともない8

そんな爽やかな人になったら,来月から「シンリンラボ」はもう書けない。

「もとにもどす」も同じだ。

「もとにもどすことがなおすことだ」と言われても,戻すべき「もと」が思いつかない。

「日々を朗らかに過ごして,友人が多く,仕事をほどほどにしながらも,余暇を楽し」んだ記憶はないし,「出会った人たちの名前はみんな覚えていて,ものをなくすことなく,人間関係の距離を一定に保」てたことは生涯一度もない9


脚 注

7. (友人N註)結構異常だと思う。

8. (友人N註)ひねくれていると思う。

9. (友人N註)かわいそうに。


症状をなくすこと

「正常」と「もとにもどす」にこだわるのはやめよう。

症状だけを考えるのはどうだろうか。

解離症状やパニック発作,学習困難など,本人や周りが困っている症状や問題を減らすこと,またはなくすことを,「なおす」とするわけだ。

症状や問題が減ったり,なくなったりした状態が「正常」かどうかわからないし,もとにもどったとも思えないが,とにかく症状を減らすのである。

「抑うつ感があるのでそれをなくして欲しい」と言われたら,それを目指す。

これはいけそうだ。

不安をなくして欲しい,HSPをなくして欲しい,摂食障害を治して欲しい。心理学っぽい本が売れれば売れるほど,なおして欲しいものは増える一方だ。

そんなに単純でいいのか,という疑問も出るかもしれない。

症状は理由があって出ている。それをなくすと,他の問題が出る可能性がある。より不健康になる場合さえある。

抑うつ感がなくなったら,飲酒がひどくなったとか,ちょっとした仕事の失敗に耐えられなくなった,といった場合である。

しかし,だからと言って,頭痛を止めたがらない人はいないだろう。

とりあえず頭痛を止め,その間に体調全般をよくするとか,根本的な原因を見つけようとする。

だから抑うつ感をなくしたいと言われれば,そのようにすればよいと考えるわけである。

患者は抑うつ感がなくなれば,人生は豊かになると信じている。

この文化の中で訓練を受けた臨床家も,抑うつ感がなくなれば,患者はもう少し幸せになると信じている。信じていない場合でも,理論的にはそうだと考えられる。

大方の臨床家の実感に近いところかもしれない。

病名をつけること

しかし,症状が見当たらないこともあるだろう。職場不適応とか,人生がつまらないとか,夫の暴言に苦しむなどである。それはどうするのか。

大丈夫。案ずることはない。

経験あるセンセイたちにスーパーヴィジョンを依頼すれば,たちどころに病名をつけてくれる。

職場不適応のケースを持ちこめば,社員か上司のどちらかに,発達上の問題かパーソナリティの病理があると教えてくれる。人生がつまらない人は気分の障害に,夫の暴言に苦しむ人は共依存だ。

センセイたちは,必ず誰かの病名を教えてくれる。自分にも病名を用意しているくらいだから,第三者を病気にすることは朝飯前だ。

問題があるところには,必ず病者がいる。社会問題が背景にあっても,診断マニュアルはいつでも有効だ。

その病気をなくしたり,修正したりすることを「なおす」と呼んでおけばよい。

簡単なことだ。

ただ,問題がある。

症状に注目しても,病名をつけても,それをなくしたり,修正したりできる確信が持てないことだ。心理的問題はたいていの場合,そんなにきれいにカタがつかない。病名が問題の中核と関係ない場合さえある。

確信を求めるなら,何でもなおせる心理師に紹介するしかない。

治療者が背負うもの

結局,議論はもとに戻る。

私たちには,「正常」も「もとにもどす」もよく分からないし,症状が減ったら患者が幸せになるかも分からない。病名をつけても,なくせる確信はないし,それが「治せる」ものかどうかも分からない。それでも,「なおして」「よくして」という患者の呼びかけに応答しようとする。

本気で考えると,随分怖い話である。

しかし,そういうものだ。

自分の患者やクライエントの苦しみについて書かれた本はない。

それでも,私たちは,何とかならないかと,診断マニュアルを開き,スーパーヴィジョンに行き,事例検討会で議論し,同僚と話し合い,何が問題なのか,どうなるようにしたら良いか,と必死で考える。目の前にその人がいるからだ。

母親が,発達が遅れているかもしれないと子どもを連れてきたら,治療者は,正常かどうか,定型発達かどうかを考える。

どんなに情報をもらっても,迷いがなくなることはない。発達の途中かもしれない。日本では問題視されても,海外では問題にならないかもしれない。教育環境が整っていないだけかもしれない。もしかしたら,社会制度の問題かもしれない。

子どもが10年後,20年後にどうなるのかも,実際にはわからない。いま発達相談を受けている臨床家の中で,自分が相談に応じた2歳児がどんな22歳になったのかを見られる人は極めて少ない。

それでも私たちは,「これが問題だ」「こういった状態になるとよい」と,想定して仕事を進めるわけだ。

臨床家は,不確かさに責任を持つのである。

自分の専門的判断が,相手の人生に重大な影響を与えるかもしれない。もしかしたら,台無しにしてしまうかもしれない。

臨床家は予測不可能な状況の中で,誤謬性を織り込みながら,自分が相手を傷つける可能性を背負うのである。

それに耐えられないとき,私たちは専門性の中に逃げ込む(富樫,2021)。

教科書や診断マニュアルの規準に照らし,患者を評価する。教科書通りにしていれば,責任の重さから逃れられるからだ。

しかしそこに書いてあるのは,心理学的事実や医学的事実ではないかもしれない。企業原理や科学的知見が生み出した価値観かもしれない(Goodman, 2016; Cushman, 2002)。

そんな言葉で,本当に自分の目の前で苦悩を訴える患者の「なおしてほしい」に応えられるのか――私は日々,そんな風に自分に問いかけてしまう。

来月どうしよう

第二回の記事が出たあと,長年私の売れない本をこつこつと購入してくださっていた方からメッセージを頂いた。

「まじめな先生が好きでした」

終わってしまった恋のようだ。

指定討論の終わりに「富樫さんは,一部にだけ有名だね」と,S先生にぼそっと言われた一言が頭をよぎる。「一部にだけ」なのに,貴重な一人を失うわけにはいかない。

そうでないと,本の順位がまた200,000位くらい下がる。

もう一度よく読んで欲しい。今月も内容はとてもまじめだ。

「なおすとは何か」をまじめに考えすぎて,「どのようになおすのか」までたどり着かなかったくらいだ。キョウジュとミニキョウジュのキャラを書き留めたノートを開いてばかりいたわけではない。

どこにも行かないで欲しい。メルカリに売りに出すのもやめて欲しい。

来月はちゃんと問いに応えよう。「なおす」がわからずに,「どうやってなおすか」という問いに応えられるのかはわからないが,やってみよう。

誰もが一度は考えたことがある内容だ。

文  献
  • Althusser, L.(1970)Idéologie et appareils idéologiques d’État. La Pensée. 150 (西川長夫(訳)(1975)イデオロギーと国家のイデオロギー装置.In:国家とイデオロギー.福村出版.)
  • Cushman, P.(1996)Constructing the self, constructing America: A cultural history of psychotherapy. Addison-Wesley/Addison Wesley Longman.
  • Cushman, P.(2002)How psychology erodes personhood. Journal of Theoretical and Philosophical Psychology, 22(2); 103-113.
  • Goodman, D. M.(2016)The McDonaldization of psychotherapy: Processed foods, processed therapies, and economic class. Theory & Psychology, 26(1); 77-95.
  • 小学館(2006)〔精選版〕日本国語大辞典.
  • 富樫公一(2021)当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望.岩崎学術出版社.
  • 富樫公一(2023)社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか.岩崎学術出版社.
  • Watters, E.(2010)Crazy like us: The globalization of the American psyche. Simon and Schuster.

富樫公一(とがし・こういち)
資格:公認心理師・臨床心理士・NY州精神分析家ライセンス・NAAP認定精神分析家
所属:甲南大学・TRISP自己心理学研究所(NY)・栄橋心理相談室・JFPSP心理相談室
著書:『精神分析が⽣まれるところ─間主観性理論が導く出会いの原点』『当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望』『社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか』(以上,岩崎学術出版社),『Kohut's Twinship Across Cultures: The Psychology of Being Human』『The Psychoanalytic Zero』(以上,Routledge)など

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