臨床家への問いかけ(1)はじめに:精神分析の倫理的転回と問いかけ|富樫公一

富樫公一(甲南大学
シンリンラボ 第13号(2024年4月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.13 (2024, Apr.)

連載をさせてもらえることになった。

書きたいことを書いてよいというので,さっそく連載企画のタイトルを『倫理的転回』にさせて欲しいと編集者に申し出た。私が最近15年くらい追求しているテーマが,「精神分析の倫理的転回」(Togashi, 2020; 富樫,2021,2023)だからである。

案の定「倫理的転回ですか。重要な用語だと思いますが,一度考えて,ご意見を聞かせてください」と言われた1。「それはダメですよ」という意味である。結局この連載タイトルは『臨床家への問いかけ』となった。

私は何冊かの本を出しているが,「倫理的転回」を冠した書籍は一つもない。本を出すことになるたびにそれを入れて欲しいと頼むが,どの出版社からも却下される。あまりにも通らないので,一度副タイトルにそっと「倫理的転回」を入れ,編集者に送ってみた。もちろん,そこには触れずに,である。「新しい書籍のタイトルは,『他者との出会いと人間的なもの:精神分析の倫理的転回』2ではいかがでしょうか」と。

何のコメントもなく,すぐに別のタイトル案が送られてきた。

「倫理的転回」はだめなのである。言葉が堅い。何を言っているかわからない。「倫理」がそもそもいやな感じがする。それが「転回」したら楽しい話のはずがない。

しかし,今回の連載企画は,無事に終えたら書籍化も考えていただけるそうである。編集者はこう言った。「その際には『倫理的転回』をぜひ副タイトル3入れましょう」と。言質はとった。メールは保存してある。あとは無事に12回の連載をこなすだけである。

期待を込めて,第一回は,これから始まる連載の基本コンセプトを書いてみたい。


脚 注

1. 人文系の専門家を相手にする編集者が著者の希望を断るとき,「これはダメ」とは言わない。「一度考えて、ご意見を聞かせてください」とか「編集会議で何と言われるかわからない」と言う。

2. (編集者B註)著者は「倫理的転回」の用語が問題だと主張するが,見ての通りタイトル全体のセンスがない。著者はそれに気が付いていない。

3. 主タイトルにはしてくれない。


倫理は人気がない

倫理はなぜこんなに人気がないのだろうか。私の本の読者の多くは精神医学や臨床心理,あるいは対人援助の専門家だと思う。彼らには特に人気がない4

10年近く前に同僚との共著で「倫理」をタイトルに入れた書籍を出版したが,それを知った何人かに口をそろえて言われたのは「倫理の話は売れないよ」だった。それではと,「倫理的転回」を講演タイトルにすると,「説教臭い話はやめて」「面倒くさい」と言われる。

自分の読みたいのは臨床実践の楽しい話であって,倫理はそういったものではないという雰囲気である。

そのルーツを考えるのはそれほど難しいことではない。臨床心理の実践家が最初に「倫理」に出会ったのは,おそらく大学や大学院の倫理綱領の授業である。そこではたいてい「これをしてはいけない」「これはしなければならない」と言われる。やってはいけないことが結構あるらしいことを知る。

患者やクライエントから「先生は私を助けてくれますか」と聞かれたらどうするかと授業で尋ねられたので,素直に「あなたを助けたいと思っています」と応じると答えたら,担当キョウジュにひどく怒られた。随分厳しい掟らしい。

そのくせ,ときにルールを破れと言われる。秘密は守らないといけないと言われたので,患者やクライエントから聞いた話を治療チームには話しませんと言ったら,それは言わないとだめだと言われる。

秘密を保持しなければならないが,場合によっては秘密にしないのも倫理だという。どっちを守ればいいのだろうかと迷う。間違った答えをしたら,またキョウジュに怒られるのではないかと,緊張感が走る。

そもそもキョウジュは,「倫理に答えなどないから思ったまま話してほしい」と授業を始めるが,思ったままに話すと渋い顔をする。本当は正しい答えが頭にあるのだ。

臨床家は最初から,義務のような原理を教えられ,しかも,それが複数ある状況で全体の利益を考えて正しい答えを出せと詰め寄られるわけである。これでは,面倒くさいと思うのも無理はない。

こうした考えを,義務論や功利主義と呼ぶ。

前者は,どのような行為が義務であるのかと考える立場である。行為が生み出す価値とは切り離された,行為自体の善し悪しが問われる。私たちの世界では,臨床家はすべきことをしているのかという話になるから,専門家としての原理原則が出てくる。

後者は,行為の結果に焦点を当てて,関係者の最大多数の最大幸福をめざす立場である。私たちの臨床では,患者の想いや治療者との信頼関係,患者の保護,病院の責任と苦悩,社会的影響など,様々な効用のプラスとマイナスを考えて動く話になる。

私たちが学習する倫理綱領は,義務論や功利主義になりやすい。考え方はいろいろあるにしても,私たちの実践には「臨床的効用をもたらす」という明確な専門的目標があるからだ。臨床的効用につながる言動は善いとされるし,臨床的効用を妨害する言動は善いとされない。だから上に挙げたような倫理の授業になる。

あなたの記憶にはなくても,臨床心理の訓練を受けた人が必ず学んだことがある『生命医療倫理学の諸原則』という本がある。それを著したビーチャムとチルドレスBeauchamp & Childress(1994)も,自分たちの考えは規則功利主義と規則義務倫理に基づくものだと述べている。


脚 注

4. 本当は倫理の人気がないのではなく,富樫の人気がない。


倫理的転回はちょっと違う

倫理的転回は,こうした倫理の話とは少し違う。私が連載するのはそうした内容だ。

倫理的転回という用語は,哲学や美学,人類学,文学,政治学,宗教学,法学など,人文科学やその応用実践領域で広く用いられる。精神分析だけのものではない。それは,二十世紀後半に生じた思想や価値,視座の転換である(Baker, 1995)。精神分析でも臨床心理学でも,最近までほとんど言われなかったので,遅すぎたくらいである。

思想や価値,視座の転換とは何だろうか。

『The Ethical Turn(倫理的転回)』5という書籍を編纂し,精神分析の倫理的転回の議論に火をつけたのはグッドマンとセヴァーソンGoodman & Severson(2016)である。彼らは,訓練や伝統を通して専門家を支配してきた見方から離れて,他者とのかかわりの原点へ向かうことを倫理的転回と呼ぶ。

人類学の倫理的転回を概観したクレンクKlenk(2019)も,これまでの社会的評価,特に西洋的態度から離れて,人類学のさまざまな側面に登場する道徳を再評価する流れを倫理的転回だと説明する。

要するにそれは,社会の中で自分がいつの間にか取り入れていた道徳的な見方から抜け出して,自分たちがやっていることを見直そうというモーヴメントである。

倫理的転回を知っておくと,規則功利主義や規則義務倫理を振りかざすキョウジュのことも,「あなたの考えていることは型にはまっているから,一度見直してみないとね」と嘲笑えるかもしれない。今,大学院で公認心理師や臨床心理士の勉強をしているあなたは,倫理の授業を担当するあいつにこれで勝てる。


脚 注

5. 英文ではこのタイトルは許される。


倫理的思考はあらゆるところにある

しかし,倫理がどうのこうのという場面はそんなにあるのだろうか。臨床心理の訓練で倫理の話がまともに出てくるのは,キョウジュの授業くらいだ。授業でキョウジュに歯向かったあと,他の場面でやり返されたらたまったものではない。

心配はいらない。倫理は,倫理綱領だけにあるわけではない。臨床心理学にしても,精神分析にしても,あらゆるところに道徳的な見方が潜んでいる。キョウジュを言い負かす場面はいくらである。

私たちが普段しているアセスメントにも,私たちが描く治療のゴールにも,道徳的な見方が含まれている。「患者がこうなったら健康だ」という基準も,結局はその文化,その時代,その社会が作る行動規則に照らして決められているからだ。

職場でよくもめごとを起こす患者や,複数の性的関係を持つ患者をアセスメントするとき,私たちは治療方針だけを純粋に考えているわけではない。ほんの少しであっても,「そういった生き方はまずいだろ」といった道徳的な見方が入り込む。どこかで患者に問題があると思っているわけだ。

彼らの立場に立ち,偏見を捨てて相手の想いを理解しようとどんなに努力をしても,それを完全に排除できる人はほとんどいない。偏見に満ちた見方はもちろん悪いが,道徳的な見方が全くないと,それはそれでアセスメントにならない。人は,価値観のずれを感じない特徴には,目を留めないからである(Gadamer, 1960)。

社会の道徳的な⾒⽅に組み込まれている私たちは,どんなものを見ても,倫理的解釈の契機にしてしまう(Keane, 2016)。

何気ない言葉に社会の道徳的な見方が入り込んでいる

人が社会の道徳的な見方に組み込まれているのだとすると,私たちはそのあり方をどうやって知ることができるのだろうか。

ベイカーBaker(1995)という思想家は,倫理的転回を言語的転回とパラレルに見ている。言語的転回とは,自分の使っている言葉や表現が,いかに自分たちを支配してきた道徳的規範によって生み出されたものかを知ることである。

数年臨床経験を積んだ人ならば,事例検討会の席で「発達障害だと思うんですけど,この患者さんは,ああ言えばこう言うし,私が言うことは初めから聞く気がない。私の気持ちはくみ取れないし,発達障害はやっぱり視点の切り替えができないですよね」と,語る発表者に出会ったことがあるかもしれない。それを聞いて,参加者はなるほどと,その評価を前提にその患者をどうやって治すべきか議論する。彼らは専門的な言葉で話し合っているようだが,その人の姿を本当に捉えようとしているのだろうか。

発達障害だから「ああ言えばこう言うし,私が言うことは初めから聞く気がない」とか「視点の切り替えができない」というのは,そもそも過剰な一般化である。

事態を見ると,相手に自分の話を聞いてもらえなかった治療者が,不快感を覚えたことが先のようだ。治療者は,その不快感が出てくるのは,相手が社会的・機能的に低い水準の人だからだと結論づけた。

「発達障害」とか「視点の切り替えができない」という一見専門的な言葉は,それを説明するのに都合がよかったのである。出発点は,専門家の意見に従うのが非専門家の正しい態度だとする治療者の権威的態度ではなかったかということである。

一応断っておくが,私は専門用語の使用がよくないと言っているわけでも,発達障害が存在しないと言っているわけでもない。専門用語を用いることで,より豊かな関係が発展したり,患者の理解の促進になったりすることもたくさんある。私が言いたいのは,アセスメントから患者に語り掛ける言葉,日々の臨床記録,他の機関への紹介状,学会発表や論文の記述,同僚との雑談や,ケースディスカッションやスーパーヴィジョンでの紹介の仕方まで,私たちが仕事の上で何気なく使っている言葉に,既成の道徳的判断による決めつけが入り込んでいないかということである。

倫理的転回は,臨床実践のすべての場面で私たちや同僚が用いる言説の再検証でもある。あなたの発表した臨床事例について,キョウジュが「最近の若い子のことはわからないけどさ。若い女性がこの格好で夜に出歩くわけでしょ,安定した人格ではないし,病的だよね」と発言をしたら,絶好のチャンスである。

あなたは「先生の言葉の一つひとつに,男性優位社会の道徳的判断が含まれています」と批判できる。「若い子」といった表現は世代・年齢格差による優位者の言説の可能性があるし,「若い女性が」云々は言うまでもない。「この格好」にしても「安定した人格」にしても,道徳的判断がなければ出てこない発言である。その判断をもとに患者を病的だと決めつけるのは,本当に善いことなのかと追求すればよい。

倫理的転回は何を善いとするのか

キョウジュの言説を批判できるようになったあなたは,倫理的転回をもっと使いこなしたくなる。そのためには,倫理的転回をよく知る必要がある。

既成の道徳的判断に縛られていてはダメなことは分かったが,次はどうすればよいのだろうか。義務論や功利主義とは少し違うようだ。それでも,倫理というからには「何かが善い」という話のはずである。それは何だろうか。

倫理的転回が見つめるのは,行為する主体のあり方である。つまりそこに登場する人のあり方である。その人がどんな場面で何をどのように考え,どんな心のあり方でその状況に対峙するのかを見る。

そうした考え方は,徳倫理と相性が良い。ハーストハウスHursthouse(1999)という思想家はそれを「行為は,もし有徳な行為者が当該状況にあるならばすべきであろう,有徳な人らしい(その人柄にふさわしい)行為である時,またはその場合に限り,正しい」(邦訳 p.42)と述べる。つまり,徳のある人がやっているようにやることが最も道徳的だというわけである。そんなの当たり前じゃないか,なんだよそれ,と思った人は私と同じである。多分もっと頭の良い人は,そんなふうには思わない。なるほどなあ,有名な思想家が言うことは違うな,と思う。

徳倫理は,その人がどんな人間なのかに焦点を当てる。公正さとか,勇気とか,誠実さとか,思慮深さとか,人柄にかかわる性質を持った人はどうやっていろいろ決めているのか,と考えるのである。ラッセルRussell(2013)は,「われわれが善き生を送り,自らを善く扱い他人に善く接し,そして栄えある共同体を共にする上で,こうした性格の卓越性がどのような助けになるのかという点に焦点を当てる」(邦訳 p.3)と定義している。

私たちの仕事でいえば,善い臨床を送り,自分を善く扱い,患者に善く接し,そして栄えある治療コミュニティを共にする上で,臨床家自身の人柄にかかわる性質に焦点を当てようということ?……だろうか。

なんだか,わかったようなわからなかったような話である。ただ,何となく楽しそうな話ではない。

第一心理学

結局,倫理的転回は,私たちに何をしろと言っているのだろうか。これでは,キョウジュに「では,あなたは何を倫理と考えているのか」と問われても答えられないかもしれない。もう少し具体的な説明はないのか。

「第一心理学 The First Psychology」という考えはどうだろうか。グッドマンとセヴァーソン(2016)が精神分析の倫理的転回を表現するために使った言葉である。

彼らは,倫理は第一心理学だと述べた。精神分析や心理学的な問いの源泉は倫理だというわけである。つまり,臨床家が人として,どのようなものの見方や心構えで相手に向き合うから,心理学の専門的見方が生まれるのかと考えるわけである。

倫理綱領や従来の臨床倫理と,倫理的転回との違いはそこにある(富樫,2021,2023)。私たちが学んできた倫理綱領や臨床倫理は,臨床心理学や精神分析といった専門業務を行うために作られたものである。いわば,専門家を専門家にしておくために作られたルールだ。

倫理的転回は,専門家以前の人としてのあり方を問う。場合によっては,専門知識のせいで,本来の倫理的姿勢を見失っていないか,と問いかけてくる。臨床心理学や専門的コミュニティに対する私たちの向き合い方も問われる。

そう。賢明なあなたはすでに気づいているだろう。残念ながらここでは,キョウジュを言い負かしたいと思っている自分のあり方も,倫理的に問われる。

キョウジュは,あなたが「あなたを助けたい」と患者に伝えるのはダメと言った。あなたは,そんなキョウジュは,古い価値観に縛られていると批判する。

もしあなたがコミュニティを代表する彼に,自分の正しさを証明しようとしているならば,キョウジュのしていることと同じである。専門家同士のただの勝負だからだ。あなたは専門的コミュニティの支配にNOを突き付けているつもりでも,勝利を収めた暁には,あなたが支配者になるだけだ。

専門的な議論は,人としての当たり前のあり方を見えなくすることがある。「助けてください」という患者の訴えを聞いたときに感じた素直な気持ちは,議論をする中でどこかに行ってしまっていなかったか。「第一心理学」という概念が伝えようとしているのは,専門性と人間的応答性との倫理的関係である。

何故臨床家への問いかけか

新しい倫理かと思って期待したが,やはり説教臭い話だ。むしろ,前より小難しい話になった気がする。つまらない。キョウジュも,結局威張ったままだ。あなたの話に人気がないのは当たり前だ。そう思った人もいるかもしれない。

慌てずに少し聞いてほしい。たぶん,倫理的転回は意外と楽しい6。なぜこの連載企画のタイトルが『臨床家への問いかけ』となったのかを説明すると,それが分かると思う。ここで読者に逃げられたら,副タイトル7倫理的転回が入る夢は消えてしまう。

あらゆることが倫理的解釈の契機になるならば,臨床家はすべての局面で問いかけられる。オフィスの家具が古くなって新しい椅子を購入するとき,腰が痛いからと自分の椅子を患者のより少し大きいものにしたら,「ちょっとまて,あなたはその格差をどう考えるのか」と問われるわけである。

なにしろ倫理的転回の倫理は,臨床家が面接室のあるべき姿に従っているかでも,患者が心地よく話せるかでもなく,臨床家がどんな姿勢で家具購入状況に向き合うのかを考えるものだからだ。そこで私たちは,ああでもない,こうでもないと考える。結構楽しい。

「スペキュラティヴデザイン」というものがある(Dunne & Raby, 2013)。デザインといっても,製品を素敵にしたり,使いやすくしたりするためのものではない。それは,私たちがそこからものを考えるためのデザインである。

代表例は,「統計時計」という作品だ。「交通事故死者数」にチャンネルを合わせると,BBCの記事などから死亡者数を読み上げる機械である。私たちが夕食時にテレビを見ていると,これが死者の数を1,2,3……。とカウントし始める。それは,私たちにものを考えさせる。

考えてしまうということは,それに問いかけられているのである。私たちはこれ聞くと,危険な世の中で,自分の安全を守り続けるだけでよいのか,このまま食事をしていてもよいのか,と問いかけられてしまう。それは,倫理的主体である。

時計が死者数を読み上げるのを聞きながら,何も感じることなく食事を続けられる人がいるとしたら,それは倫理的主体ではない。もちろん,何も感じない人の中には,大宇宙の真理を知り尽くし,それくらいでは動じないスピリチュアルリーダーのような超越者もいるかもしれないが,たいていの場合はそうではない。なにより,そうした立派な主体は臨床心理の世界にも,精神分析の世界にもいない8

患者が当日キャンセルをしたらキャンセル料をもらうが,治療者が自分の都合で当日キャンセルをしても何もないというキャンセルポリシーを患者に伝えるとき,「それでいいのだろうか」とちらっと思ったことがある人も多いだろう。5年間同じことを説明してきたので,今は何も感じなくなったという人もいるかもしれないが,少なくとも最初は何か感じたはずだ。それが問いかけられた瞬間である。

患者にキャンセルの話をしながら,私たちは問われるわけである。「治療関係には避けられない上下関係があるが,それで善いのだろうか」とか,「教えられたままやっているだけだが,自分に責任はないのだろうか」とかである。

そして私たちは自分に説明する。「治療関係の不均衡が問題なのではなく,その不均衡を患者がどう考えるのかを扱うのが仕事だから,患者の体験を扱える限りそれでよいのだ」といった具合である。

そして私たちはまた問われる。そのような説明で善いのか,学会で誰かが言っていた内容をそのまま使った説明に,専門家としての欺瞞はないか,などである。

私たちは,問いかけられ続け,応えつづける。それを考えるのはなかなか楽しい。


脚 注

6. 心理学者の大好きなエビデンスはここにはない。

7. 主タイトルには入れてくれない。

8. 臨床心理を志す人の心はとても狭い。精神分析をやりたいという人のそれはもっと狭い。スピリチュアルリーダーのようにふるまう大学教授はいるが,ふるまい切れていない。


「臨床家への問いかけ」も悪くないかもしれない

倫理的転回をタイトルに入れられないとわかったとき,私はいつものようにすっかり意気消沈した。「一度考えて,ご意見を聞かせてください」という断り方をされたので,「一度だけ考えて,再度これにすることにしました」と送ろうと思った。私の心はどんな精神分析家よりも狭い。

しかし,そんなことを言うと,書籍化のときに副タイトル9さえ「倫理的転回」を入れてもらえないかもしれない。メールの送信ボタンを押す直前で踏みとどまった10

今となってみれば,踏みとどまったのは正解だった。こうして書いてみると,「臨床家への問いかけ」も意外と的を射ているように見える。私は,ここから毎月,臨床家が問いかけられそうな場面や状況を取り上げ,倫理的転回の立場から,ああでもない,こうでもないと考えてみたい。

だから『臨床家への問いかけ』というタイトルは,私から読者に問いかけるという意味ではない。どちらかというと,臨床家である私はこんなふうに問いかけられてしまう,という意味である。

こうした問いかけを一緒に楽しんでくれる読者がいることを願っている。


脚 注

9. 主タイトルにはしてくれない。

10. 本当は一度送信してしまったが,幸いにも誤って編集者Bに送っていた。「そっちでも倫理的転回をタイトルに入れさせようとしているんですか。うちでは編集会議を通りませんよ」と返信がきた。


文  献
  • Baker, P.(1995)Deconstruction and the Ethical Turn. University Press of Florida.
  • Beauchamp, T. L. & Childress, J. F.(1994)Principles of Biomedical Ethics, 4th ed. Oxford University Press.
  • Dunne, A., & Raby, F.(2013)Speculative Everything: Design, Fiction, and Social Dreaming. MIT press.
  • Gadamer, H. G.(1960)Wahrheit und Methode. Mohr Siebeck.(轡田收他(訳)(1986, 2008, 2012)心理と方法ⅠⅡⅢ.法政大学出版.)
  • Goodman, D. M. & Severson, E. R.(2016)Introduction: ethics as first psychology. In: D. M. Goodman. & E. R. Severson. (eds.), The Ethical Turn: Otherness and Subjectivity in Contemporary Psychoanalysis. Routledge. pp.1-18.
  • Hursthouse, R.(1999)On virtue ethics. Oxford University Press.(土橋茂樹(訳)(2014)徳倫理学について.知泉書館.)
  • Keane, W.(2016)Ethical life. Its natural and social histories. Princeton University Press.
  • Klenk, M.(2019)Moral philosophy and the ‛ethical turn’ in anthropology. Zeitschrift für Ethik und Moralphilosophie, 2(2); 331-353.
  • Russell, D. C. (ed.)(2013)Introduction: virtue ethics in modern moral philosophy. In: D. C. Russell. (ed.) The Cambridge companion to virtue ethics. Cambridge University Press.(立花幸司(監訳)(2015)序章:現代道徳哲学における徳倫理学.In:[ケンブリッジ・コンパニオン]徳倫理学.春秋社.pp.1-6.)
  • 富樫公一(2021)当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望.岩崎学術出版社.
  • 富樫公一(2023)社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか.岩崎学術出版社.
  • Togashi, K.(2020)The Psychoanalytic Zero: A Decolonizing Study of Therapeutic Dialogues. Routledge.
+ 記事

富樫公一(とがし・こういち)
資格:公認心理師・臨床心理士・NY州精神分析家ライセンス・NAAP認定精神分析家
所属:甲南大学・TRISP自己心理学研究所(NY)・栄橋心理相談室・JFPSP心理相談室
著書:『精神分析が⽣まれるところ─間主観性理論が導く出会いの原点』『当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望』『社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか』(以上,岩崎学術出版社),『Kohut's Twinship Across Cultures: The Psychology of Being Human』『The Psychoanalytic Zero』(以上,Routledge)など

目  次

コメントを書く

あなたのコメントを入力してください。
ここにあなたの名前を入力してください

過去記事

イベント案内

新着記事