臨床家への問いかけ(2)なぜわざわざ臨床家になるのか|富樫公一

富樫公一(甲南大学
シンリンラボ 第14号(2024年月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.14 (2024, May)

なぜ,あなたは臨床家になったのだろうか。

『臨床家への問いかけ』をテーマにするなら,真っ先に問わねばならないのはこれだろう。

カネのためでないことは明らかだ。

高校生のための大学進学情報サイトでも,公認心理師や臨床心理士の受験用サイトでも,学歴の割に収入が少ないことが臭わせてある1。自由な書き込みサイトには,もっとはっきりと「儲からない」と書いてある2

常勤職は少ないから仕事は安定しないし,たまにあっても基本給は安い。現場の施設で20年働いても,給料はたいして増えない。

しかも,スーパーヴィジョンや研修を継続的に受けないと質の高い仕事はできない。カネは出ていく一方だ。

では,人類の心の問題を解決したいという強い情熱だろうか。

ウチに秘めた情熱がなければできない仕事だろうが,燃える想いがいっぱいで,大きな理想を持った人はおそらくこの仕事には就かない。政治とか,国際協力とか,もっとわかりやすい仕事に向かう。

そもそも情熱いっぱいの臨床家が出てきたら,抑うつ的な患者やトラウマを抱えた患者は,暑苦しくて逃げ出してしまうかもしれない(Buechler, 1998)。

臨床家の仕事は地味である。日々何かしらの苦悩を抱えた人とゆっくり付き合う。

人生に疲れた人もいれば,危なっかしい生活をしている人もいる。嗜癖で生活が破綻していたり,犯罪に関係していたりする人もいるだろう。解決できない心身の障害に苦しむ人もいれば,複雑に絡み合った家族関係の中で身動きが取れなくなっている人もいる。この世にこんなことがあってよいのかと,聞いているだけで苦しくなる重篤なトラウマを抱えた人もいる。

そこに,それぞれに特異的なパーソナリティや特性,文化,歴史,障害などの背景がある。

話される内容は暗いものが多い。たまにひどく明るく,楽しい話ばかりする人が来ることもあるが,それは別の問題から生じていると考えるのが一般的だ。

なぜ,そんな仕事をわざわざするのだろうか。


脚 注

1. シンリンラボはさすがに公認心理師で売ってるだけあって,サイトにそれらしいことは書いてない。もっと希望でいっぱいだ。

2. ごく一部に大儲けしている人を知っているが,その人の名前は明かさない。


センセイへの問いかけ

実際,この問いは誰かの口から聞かされることも多い。「先生は,なぜこの仕事に就いたのですか」というやつだ。

少し経験のある臨床家なら一回くらいは尋ねられたことがあるだろう。質問するのは,多くの場合,患者やクライエント,同僚または学生だ。

患者やクライエントにそう聞かれたときはどうやって答えたらよいのだろうか。

正解は……。そう,何度もキョウジュに聞かされているあれだ。

「あなたがそれを聞きたくなったのは,どのような理由からですか?」と,聞き返すやつである。

質問に答えてはいけない。

「いやー,実はぼく自身が本当におかしな人間でね。小学生の頃はひどく落ち着きがなかったけど,中学生になったら人生や死について深刻に考え出し,友だちはほとんどいなかったし,ちょっと何か言われただけですぐ傷つく。自分でも自分が分からないので,いろいろ本を読みだしたらこうなったんだよ。中学生のときからフロイト全集とか読んでたから,それだけでもどれだけおかしかったかわかるよね」と,間違っても事実を言ってはいけない。キョウジュの顔色が変わる。

治療者の中立性というやつだ。精神分析では「分析の隠れ身」と呼ぶこともある。

治療者が自分のことを語らないから,患者はいろいろ想像をする。治療者についての想像にこそ,患者の他者に対する構えが表れるという理論だ。

精神分析でなくても同じだろう。治療者の個人情報は明かすべきではないとか,自分の話を患者に聞いてもらうのは搾取に当たるとか,倫理綱領に照らして忌避される。

しかし,同僚や学生に聞かれたときは,話は別だ。

そんな禁止事項はない。自由に話してかまわない。

研究会の若手心理師とか,勤務先に来た実習生から聞かれることがあるだろう。

「先生はなぜこの仕事に就いたのですか」と。

あなたが大学院生で,そんな質問をしたことがないというのであれば,ぜひセンセイたちに尋ねてみてほしい。

患者に話さないというだけあって,この質問への答えは彼らをよく表している。

多くの場合,病気自慢がはじまる。

自分はADHDだとか,自己愛性パーソナリティだとか,中学生の時はひきこもりだったとか,ASDだとか,何かしらの病名を教えてくれる3

「中学時代には爽やかなスポーツ少年だったんだよ」と語る人はあまりいない4。特に精神分析の世界には,そんな人はいない。認知行動療法やブリーフセラピーをやっている先生には少しいる気がする。

学生がこんな答えを聞くと,センセイは謙遜してるのだろうとか,面白おかしく話しているのだろうと考えるかもしれないが,センセイの答えはおおよそ真実だ。むしろ,学生が思っているよりも,センセイたちの病状はずっと深刻だ。

みんな自分に苦しんでいた。自分が手に負えないし,世の中は生きづらい。他人に癒されたいが,他人といると苦しい。他人はどれだけ信用してよいかわからないが,自分はもっとよくわからない。世の中は自分に冷たい。だからこの世界にいる。

人に言えないトラウマや体験に苦しむ臨床家もいる。ユダヤ人が多い精神分析の歴史を見ればよくわかる。戦後活躍した分析家の中には,ホロコーストのサバイバーだったり,ナチスに祖国を追われたりした人も少なくない(Ornstein, 2004)。

トラウマ体験や精神的な問題を抱えた人が,心理療法を受けているうちに,この世界に関心を持って,臨床家になったという例も珍しくはない。


脚 注

3. 彼らが使う病名にも流行りがあり,最近は高確率で「ぼくはASDなんだよ」か「私はADHDでね」という回答が返ってくる。発達障害だと主張するセンセイの多くはどちらかといえばパーソナリティ障害か不安障害で,パーソナリティ障害や不安障害だと主張するセンセイの多くは発達障害である。

4. ボディビルダーだったという友人はいるが,爽やかとは言えない。


自分が苦しんでいた

「自分が苦しんでいたからこの仕事をしている」

このもっとも率直な答えを,専門家になる前の人たちはとても素直に口にする。大学院進学希望の学生や,入学したての院生に聞いてみたらいい。

センセイたちみたいに,専門用語を使わないし,恥もよく知っているから,病気自慢をすることもない。とても正直だ。

苦しみを抱えた人は,なぜ苦しみを抱えた人に会おうとするのだろうか。

それに対する最も陳腐でよくある答えは,「自分が癒されたいから」といったものだろう。自分の代わりに他人の傷つきを癒すことで,自己愛が満たされるという理論だ。救済空想と呼ぶ人もいる。

しかしそれだけで,人生の苦しみやどうしようもないトラウマ体験,人間や社会に対する憎悪や怒りを話す人たちに,毎日何十年も会っていられるのだろうか。特に精神分析は,患者から自分に向けられるそうした感情を直接扱うのだ。

その程度の理由で,人は長い間,他人の苦しみために働き続けられない。

根源的倫理

私たちは苦しんでいる人の顔を見ると,放っておけないのである。人は「助けて」と顔を向ける人に会ったら,手を差し伸べたくなる。根源的倫理である。

哲学者・精神分析家の友人ドナ・オレンジDonna Orange(2016)はこう語る。

臨床家は,他の人道支援者と同様,二重の非対称性の中で生きている。表面的に見れば,私たちは臨床関係におけるすべての権力を握っている。…(略)…しかし,ひとたびかかわりを持てば,エマニュエル・レヴィナスが述べるように,私たちは相手の顔に包囲され,迫害される。

(Orange,2016, p.20)

頭のよい人の言葉はかっこいい。

「相手の顔に包囲され,迫害される」という表現は,そう簡単にはできない。私がそんな表現をできるのは,税務署に呼び出されたときくらいだ。

臨床家は患者の顔を前にすると,何か応答する以外なくなるということである。

「先生,私,苦しい」と訴える患者の顔を見れば,私たちは何とかしたいと思う。泣いている赤ん坊がいれば,自分のことを考える前にあやさないといけないと思う。

日常場面でもそうだ。それほど親しくない人からでも,にこっとされれば,私たちはそれに応じてにこっと笑う。「こんにちは」と言われれば,「こんにちは」と返す。応答しない方がよほど難しい。どうすべきかを考える前に湧いてくる他者への当たり前の応答を抑え込まねばならないからだ。

先月,連載の第一回がアップされたとき,私は友人や知り合いにURLをばらまいた。

みんな,20分くらい5ですぐに応答してくれた。

「つかみがいいですね」
「最初でくすりと笑いました」
「編集者とのやり取りから始まるとは思いませんでした」

最初しか読んでいないのだ。

それでも,みんな応答する。私が声をかけたからだ。私の知らぬ間に作られた連載の表紙には,私の恥ずかしい笑顔6が使われている。その顔に「読んでね」と呼びかけられれば,友人たちは何か言うしかない。

人は,自分を自覚する前に,他者を前にすると応じてしまう(Lévinas, 1969)。

患者に請われたら何でもするという意味ではない。実際にどうするのかは専門的に判断されるだろう。ここで言っているのは,治療者がそれを判断する前の心の動きだ。

その意味で,治療者はいつも患者の顔に倫理的に迫害されている。治療者は,自分の専門的役割をどうのこうのと考える前に,患者への応答に身を投げ出しているというわけである(Orange, 2016)。前回話した「第一心理学」である。


脚 注

5. 早すぎる。

6. 本当はクールに決めた顔がよかった。


「助けたい」とは言えない

考えてみれば,当たり前のことだ。

救世主を気取りたいわけでもない7。いい人になりたいわけでもない。そうなりたいならもっと目立つ場所がある。病院や福祉施設で,苦しみを抱えた人たち一人ひとりと膝を詰めて話をしたりしない。

臨床家は苦しんでいる人を見て,黙っていられないのである。

ところが,この当たり前のことを臨床家に聞くと,妙な表情をして認めようとしない。

私だってそうだ。「人を助けたくてこの仕事に就いたんですか」と聞かれると,もぞもぞして,「そんなに立派なものじゃないんだけど」と言いたくなる。恥ずかしい。

周りは他人を分析するのが好きな人ばかりだ。下手にステキなことをいうと,「あのセンセイ,こんなこと言ったらしいですよ。本当に自己愛的8ですよね。自分がどれだけ他人に迷惑をかけているかも知らずに人を助けたいなんて,自己愛そのものじゃないですか」と,学会帰りの食事会の酒の肴にされる。

臨床家はどこか冷淡なところがあり,患者の混乱した感情を淡々と解説するくらいがかっこいい,という不思議な感覚がある。

だから,学会の事例発表では気をつけないといけない。患者から「助けてください」と聞かれたので,「何とか助けたいと思っています」と答えたと話すと,とんでもないことになる。

大学院修了後しばらく会わなかったキョウジュが会場にいて,手を挙げる。

「大変貴重な発表をありがとうございました9。ところで質問ですが,どういうわけでその発言をしたのですか」

あいつだ。デジャヴのように院生時代が蘇る。もちろんキョウジュの質問は,発表のテーマとはまったく関係がない10

大学院時代にキョウジュを完全に打ち負かせなかった自分を悔いながらも,堂々と反論できない。

優しくするのは善くないと,どこかで思っているからだ。患者に操作されているとか,患者を誘惑しているとか,依存を適切に扱えていないと思っている。患者が傷ついても,その希望に応えなかったときの方がちゃんと仕事をした気さえする。


脚 注

7. 自分を救世主だと信じる大学教授は各都道府県に一人くらいいるが,一部の信奉者以外は誰も信じていない。

8. 人からはそう見える。自分では自分をADHDだと信じている。

9. 学会で発表者の批判をするときは,この枕詞をつけなければならない。

10. 学会で自分の議論したいテーマがそのまま話し合われる確率は,隕石が地球に落ちてくる確率と同じくらいだと言われている。まあまあ当たるが,そんなには当たらない。


優しさへのタブー

スコットランドの精神分析家イアン・サティIan Suttieはこれを「優しさへのタブー」(Suttie, 1935;富樫,2016)と呼んだ。患者の愛を受け止めたり,患者に優しくしたりすることを避ける治療者の態度を批判したのである。

雲行きが怪しくなってきたぞ,と思った読者もいるだろう。

心理療法で「愛を受け止める」とか「優しくする」とは,胡散臭い。「優しくするな」というキョウジュの方がよっぽど専門的だ。

慌てずに少し聞いてほしい。多分,そんなに胡散臭くはない11。私が言いたいのは,その胡散臭さが何ものかということである。

サティはそれを,人が頼り合うことを一段低いものと考える西洋的な価値観から生じるものと考えた。

西洋だけではない。私たちにもある。背景にある文化的文脈はだいぶ違うかもしれないが,「患者が依存する」というとき,「依存」はたいてい否定的な意味で使われる。

サティはそうした価値観を誤りだと主張するわけではない。それが善い場合も善くない場合もある。問題なのは,そうした価値観に縛られた治療者が,患者への優しさを恥じ,患者を頼らせないことを正しいと考えることだ。

優しさへのタブーは,患者やクライエントにもある。

彼らは基本的に,愛情のない治療者を求めないし,優しさの感じられない治療者を避けるだろう。でも,愛情と優しさを売り物にする治療者も警戒する。怪しいからだ。

「相手や自分の言動には裏がある」というのは,心理学や精神分析に基本的に流れている発想だ。リクールRicoeur(2007)の言葉を使うなら,それは「懐疑の解釈学」である。

「私は先生を大切に思っています」と語る患者には裏がある。患者に優しくしたくなる自分の心には恥ずべきものが隠れている。「あなたを大切にします」という治療者の言葉は胡散臭い。

サティは,自立と強さを貴ぶ西洋の文化的価値観と,精神分析や心理療法に流れるそうした風潮とをつなぎ合わせたのである。

臨床家は「傷ついた患者やクライエントを助けたいし,少しでも彼らを癒したいからこの仕事に就いた」と堂々と言えばよい。それは,正直な心の一部のはずだ。

すると,フロアから手が上がる。

「大変貴重なお話をありがとうございました。二点気になるところがあります」

院生時代からキョウジュにへばりついている先輩だ。どこの大学院にもいるあれだ。ミニキョウジュとあだ名される彼の学会での最重要業務は,キョウジュグループの宴会の店を決めることだ。


脚 注

11. 前回もこんなことを書いた気がする。


依存の問題

「先生はそれらしい主張を展開してきましたが,依存の問題はどうなりましたか」と,ミニキョウジュは言う。隣でキョウジュが大きくうなずく。

「助けたいと思うのは本人の自由だからよいでしょう。しかし,癒したいとか言って,その結果,患者が先生を永遠に必要とすることになったらどうするのでしょう。結局患者は成長できないことになります。先生はそれを説明していません」

なるほど。ミニキョウジュの言いそうなことだ。

そういえば,彼には,院生室のデスクに置き忘れたアルフォートチョコレートを勝手に食べられたことがあった。あの恨みは忘れない12

「何度も言っているように,ここで述べているのは,治療者が患者を癒すために何をすべきかではなく,そうしたものをタブー視するがゆえに,専門的冷たさを正しいものとして身に着けてしまうことの問題です。実際の行動とは次元の違う話です」と,まっすぐ彼を見据える。

ミニキョウジュは少しひるんだ。

「それに,患者が他人を心理的に必要とし続けることが成長を意味しないというのは,自律的理性を最高のものと考える近代の西洋的価値観を背景としたものです」と,言い切る。「精神分析や臨床心理学では確かに,心理的分離が成熟の唯一のルートであるような発達論がずっと議論されてきました。しかしコフートKohut(1977, 1981)という分析家は,人は永遠に心理的他者を必要とし,他者がいることでしか自分を体験できない存在なのだと述べています。その考えでは,他人からの分離は必ずしも成熟を意味しません。他人が全くいなくても生きていけるという人がいたら,その方が病気だというわけです。私は,成熟と発達に関する私たちの価値観も再考する必要があると考えています」

キマッた。

有名な理論家の名前を一つだけ入れておいたのが正解だ。たくさん入れるとボロが出る。中身は知られていないが名前だけは知られている理論家を使うのがポイントだ。向こうはよく知らないから反論できない。ミニキョウジュは黙った。


脚 注

12. 最後の一つだった。


マゾキズムの問題

「では,もう一つは私から聞こう」と,キョウジュが立ち上がった。

ラスボスだ。

「私たちは患者の希望や要望にすべて応じられるわけではない。それでも癒したいというのであれば,最終的には自分を殺して相手に奉仕するしかなくなるのではないか。人としての自然な反応と言いながら,キミは治療者が自分を犠牲にして相手に尽くすことを求めているだけではないのか。それはマゾキズムではないのか!」

キョウジュの鋭い眼光が突き刺さった。さすがに厳しいところを突いてくる。

会場の空気がぴんと張り詰めた。

隣では,ミニキョウジュがキツツキのように首を縦に振って賛意を表明している。

しかし,これも同じことだ。「まずお伝えしたいのは,私は患者の希望や要望にすべて応じろと言っているわけでも,実際に患者を癒すための行動をしろと言っているわけでもないことです。そうした思いを否認するために生み出した専門的態度に,治療者自身が縛られてしまうことについて話しているのです」

みんな聞いている。前口上は悪くない。

「人のために尽くすことを価値の低いものや病理とみなすのも,西洋男性優位社会の価値観です。親が子どものために尽くしたり,自分を犠牲にしたりすることをマゾキズムと呼びますか? これは,ケアの倫理の問題です(Gilligan, 1982)」

昨日読んだ本にそんなことが書いてあった。

「もちろんそういった親もいるかもしれません。しかし,子どものために何かしたり,身を犠牲にしたりすることがいつもそうなわけではありません(Baraitser, 2008)。それは,素直な子どもへの愛情でしょう。マゾキズムというのであれば,むしろ子どもが,『ねえ,お母さん,助けて』『お父さん,苦しいよ』と訴えたときに,それを無視して耐える方がずっとマゾキスティックだと思いませんか。私なら,それほど苦痛なことはありません。苦しいと心から訴える患者を前に専門家ぶった冷静な態度を維持できる治療者は,サディストでないなら,むしろマゾキストなのです!」

椅子を蹴って立ち上がり,キョウジュに指を突き付ける。

おお……。さざ波のようにため息が会場を覆った。

どうだ,倫理的転回13だ!

キョウジュは飛び上がって,何かを言おうとした。

「あー,時間ですね,このあたりにしましょう」と,司会者がiPhoneのアラームを止めながら気のない声を出す。「ご発表の先生は,ありがとうございました」

彼女は抄録から何からすべて鞄にしまい,帰り支度は万端だ。

会場のセンセイたちが立ち上がって,部屋から出ていく。

「さぁて,かえりますかねぇ」
「あれ? 今日の飲み会は,先生と一緒でしたっけ?」
「どーも,どーも,ご無沙汰です。そういえば,先生,病院を替わったらしいっすね」

ケイタイを覗く人たちは,自分のグループが集まる居酒屋の場所を確認するのに忙しい。

アルフォートの仇はまだ討っていない。


脚 注

13. 主タイトルにはしてくれない。


当事者性

筆が滑った。話を戻そう。

あと2分くらいで終るから,読んでしまってほしい。

面白い議論だが,これだけでは「なぜ,臨床家になったのか」を十分に説明していない。つまり,苦しみを抱えた人がなぜ苦しみを抱えた人に会おうとするのかを説明していない。

臨床家は,苦しみを抱えた人と何十年も会い続ける人である。臨床家はそうした人たちに会いたい人たちだ。会わなければならないのではなく,会いたいのだ。

少なくとも私に関していえば,毎日でも会いたい。それも,いわゆる興味本位というわけではない。興味や好奇心がないわけではないが,ただの興味とは違う切実な何かがある。私をそのように掻き立てるのは何か。私は以前こう述べた。

私が重視するのが,偶然性の周りに体験される当事者性の自覚である。…(略)…患者は虐待を受けたが,そうでない可能性もあった。治療者が患者と同じ虐待を受けた可能性もあった。そこには,どちら側にでもなり得る二人の人間がいる。言い方を変えればそれは,二つの因果律の出会いである。その出会いにこそ,患者が新たな生を生きる可能性が生まれ,絶対孤独とは対極の世界が生まれる。

(富樫,2023, p.195)

宇宙が偶然の積み重ねならば,私たちにとって,目の前の患者は他人ではない。それはちょっとした偶然で自分だったかもしれない人だ。

目の前の患者が虐待を受けて,自分が受けていないのは,そうでなくてはならない理由があったからではない。ただの偶然である。別の宇宙では,私がその家族に生まれ,虐待を受けていたかもしれない。それは,私が災害の被害に遭わず,友人が被害に遭ったのと同じくらいの偶然の差だ。

私はそうした感覚を「当事者性」と呼んでいる(富樫,2021, 2023; Togashi, 2020)。私たちを臨床に駆り立てるのはこれではないかと思っている。

当事者性というのは,病気や障害,トラウマ体験を背負った本人の感覚という意味ではない。ボタンのかけ方が少し違えば,いつでも自分がその人でありえたことの自覚である。

それはいわゆる共感とも違う(Togashi, 2022)。共感は,相手が自分とは異なることの自覚の上に成り立つ。私が話しているのは,自他の区別を自覚する前の相手は自分だったかもしれないという感覚である。

目の前の人が自分だったかもしれない人なら,目を離せるはずがない。私が,今月の問いかけに応えるのだとしたら,そんな答えになると思う。

文  献
  • Baraitser, L.(2008)Mum’s the Word: Intersubjectivity, Alterity, and the Maternal Subject. Studies in Gender and Sexuality, 9, 86-110.
  • Buechler, S.(1998)The analyst’s experience of loneliness. Contemporary Psychoanalysis, 34(1); 91-113.
  • Gilligan, C.(1982)In a Different Voice: Psychological Theory and Woman’s Development. Cambridge: Harvard University Press.(岩男寿美子(監訳)(1986)もうひとつの声─男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ.川島書店.)
  • Kohut, H.(1977)The Restoration of the Self. Connecticut: International Universities Press.(本城秀次・笠原嘉(監訳)(1995)自己の修復.みすず書房.)
  • Kohut, H.(1984)How Does Analysis Cure? Chicago: The University of Chicago Press.(本城秀次・笠原嘉(監訳)(1995)自己の治癒.みすず書房.)
  • Lévinas, E.(1969)Totality and Infinity: An Essay on Exteriority. Pittsburgh: Duquesne University Press.(熊野純彦(訳)(2005)全体性と無限.岩波文庫.)
  • Ornstein, A.(2004)My mother’s eyes: Holocaust memories of a young girl. Emmis Books.
  • Orange, D. M.(2016)Nourishing the Inner Life of Clinicians and Humanitarians: The Ethical Turn in Psychoanalysis. New York: Routledge.
  • Ricoeur, P.(2007)On translation. New York: Routledge.
  • Suttie, I. D.(1935)The origins of love and hate. New York: Agora Softback.(國分康孝他(訳)(2000)愛の機嫌.黎明書房.)
  • 富樫公一(2016)不確かさの精神分析─リアリティ,トラウマ,他者をめぐって.誠信書房.
  • 富樫公一(2021)当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望.岩崎学術出版社.
  • 富樫公一(2023)社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか.岩崎学術出版社.
  • Togashi, K.(2020)The Psychoanalytic Zero: A Decolonizing Study of Therapeutic Dialogues. Routledge.
  • Togashi, K.(2022)Trauma, Contingency and the Psychoanalytic Zero. Paper presented at Psychoanalytic Conference, Tel Aviv University, Israel. May 20.
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富樫公一(とがし・こういち)
資格:公認心理師・臨床心理士・NY州精神分析家ライセンス・NAAP認定精神分析家
所属:甲南大学・TRISP自己心理学研究所(NY)・栄橋心理相談室・JFPSP心理相談室
著書:『精神分析が⽣まれるところ─間主観性理論が導く出会いの原点』『当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望』『社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか』(以上,岩崎学術出版社),『Kohut's Twinship Across Cultures: The Psychology of Being Human』『The Psychoanalytic Zero』(以上,Routledge)など

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