私の本棚(6)『塩狩峠』(三浦綾子)|森 茂起

森 茂起(甲南大学名誉教授)
シンリンラボ 第6号(2023年9月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.6 (2023, Sep.)

『塩狩峠』は,私が,学生時代の,臨床心理学と出会う前に読んだ本だし,臨床心理学や心理療法を専門としたのちに「座右の書」として読み返したわけでもない。このコーナーが,実践家が自身の実践の中で繰り返し参照するような「座右の書」を紹介する場所だとすれば,ふさわしくないだろう。しかし,私の読書歴のなかに心の拠り所になった本を探したときに久しぶりに思い出し,なぜ私がこの本に惹かれたのかを考える機会にしたいと思った。

私が三浦綾子の名をはじめて知った作品は,おそらく,当時の多くの方と同じく,『氷点』である。『氷点』が連載され出版された頃に読む世代ではないので,1966年に放映されたテレビドラマの一部を──これまた年齢から致し方ないが──熱心な鑑賞者としてではなく見ていたのが最初の出会いだと思う。『氷点』の読書は,『塩狩峠』の後のことであり,それに続いて三浦綾子の自伝的作品の数々に親しむ時期があった。

何度も読み返したという意味では,むしろ自伝的作品の方がその対象で,『塩狩峠』はその内容から,読み返したくない気持ちの方が強かった。ますます「座右の書」から遠ざかってしまうわけだが,三浦綾子と本格的に出会った作品であり,自伝的要素が色濃く組み込まれている小説でもあるので,一連の三浦綾子作品を代表してここに選ぶことにした。

ここまで書いて,読者には不要であろうこんな経緯を書いているのも,内容に踏み込むのがなかなか骨の折れる作業だからだろうと思う。

時を一気に現在に移すと,私が最近書いたいくつかの論文や小文の主題が『塩狩峠』に深く関係していることに気づく。実は,このコーナーへの執筆依頼を受けてどの本にするか考えていたときに,はじめてそれに気づき,それもこの本をここで取り上げる動機となった。

『塩狩峠』の主題の中核は,信仰と捨身である。「捨身」という言葉がここで適切なのかどうか疑わしい。代わる言葉として,殉教,自己犠牲が思い浮かぶが,『塩狩峠』の主人公の行為に「犠牲」という言葉はそぐわないし,殉教が意味する信仰のために身を捨てる行為でもない気がする。飢えた虎の親子を救うために身を投げた大勇の行為に近い気がして「捨身」としてみた。しかし,三浦綾子を支えていたキリスト教信仰にその言葉や仏教の背景がそぐうものかどうか心許ない。

この小説で著者が問いかけるのは,「人は何のために生きるのか」という根本的な問いである。そして,利己的な目的で人の生を支えることは不可能という考えを突き詰めた先にあるのが,いかなるときでも人のために自らの生を捨てることができるという覚悟である。

私は,若い日からなぜか──『戦争中の暮らしの記録』(暮しの手帖社,1969年)を出版直後に繰り返し読んだのが一つの原点だろうか──戦争に深く関心があり,戦争体験の研究にも携わるようになった。そしてそのまた延長線上で日本の特攻についての考察も若干行った。

その考察で行ったのは,特攻が持つ,作戦として非人道的な性質がありながら,「人のために自らの生を捨てる」という究極の美質を含むがゆえに私たちの心に強くその像を刻み込む作用の理解である。『塩狩峠』が描く主題と重なり合う側面を持っている。

それゆえ,「カミカゼ kamikaze」という日本語は世界語として通用し,テロリズムを対象に用いられたり,もっと穏和なレベルの「勇気ある行動」を指してメディアで使われたりする。特攻には,通常の思考や感情の範囲で捉えられる範囲を超えているという意味でトラウマ的な作用がある。その作用は,過労死をもたらすような過剰奉仕の要求,ときには強要となっても現れる,といった議論を行った。つまり自己犠牲が強要されるときに起こる問題性の方を考えたのである。

臨床心理学にまったく触れないと申し訳ない気がするので少し書くと,そこで議論した主題は,シャーンドル・フェレンツィという私が深く関心を持つ精神分析家が概念化した「攻撃者との同一化」のメカニズムに通じる。実は,フェレンツィの著作を「座右の書」とすることもできるのだが,あまりに自分の仕事に近いために取り上げにくかった。

『塩狩峠』に戻ると,そこで三浦綾子が描くものは,一見似たところがありながら,そうした問題性から遠く離れた,澄み切った境地である。それは私にとって近寄りがたく,関心を持ち続けながらも信仰という域に足を踏み入れることがなかったのだが,それでも心に生き続けているように見える。

こう考えていて,『氷点』が描く問題もまた私の最近の仕事に反映されていることに気づいてあらためて感慨に耽っている。その問題を私なりに言語化すると,「自らが知らない──多くは出生や育ちに関係する──事実が持つトラウマ性」である。そうした事実は,何か偶然の機会に知るか,何らかの経緯から関心を持つようになって探索するかしないと知らないままになることが多いし,いくら探索しても事実に到達しないこともある。しかし,明らかになった例から考えると,その事実を知ってはじめて腑に落ちるような影響を人生にもたらしている。そして,それが隠されていた理由であることが多いのだが,通常の思考や感情の範囲で捉えられる範囲を超えているという意味でトラウマ的な性質を持っている。

この問題は,「人は何のために生きるのか」という未来志向,目的志向の主題ではなく,「私たちの生は何によって形作られているのか」という過去の起源を問うものである。二つの問いをあらためて眺めて,こうした根本的問題を扱い続けたのが三浦綾子の作品群であり,それらが若い日に私を捕らえ,今に至るまで影響し続けていたのだと思い至る。

(注記)これから読む方がおられるかもしれないことを考えて,『塩狩峠』も『氷点』も内容を具体的に紹介しなかったことをお許しいただきたい。また,特攻と三浦綾子の思想の比較をきちんと行うには三浦綾子が特攻について書いたものがないか探して,それに基づいて考察しないといけない。その時間的ゆとりがなく,きわめて粗い記述になってしまった。三浦綾子さんに叱られるかもしれないなどと考えて不安になってしまう。三浦綾子さんは私の母親とほとんど同年代のこともあって,母親との関係が問題含みである私にとって,彼女ならどう考えるかと心の中で対話する代理母のような対象に一時期なっていだいていた。久しぶりにその感覚を体験した。

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森 茂起(もり・しげゆき)
所属:甲南大学人間科学研究所
資格:臨床心理士,IFPS会員
著書:『トラウマの発見』(講談社,2005)『フェレンツィの時代』(人文書院,2018)など
趣味:音楽・映画

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