私の本棚(4)『狩りの思考法』(角幡唯介)|高橋悟

高橋悟(島根大学)
シンリンラボ 第4号(2023年7月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.4 (2023, Jul.)

この本が筆者の本棚にあるのは,子どものプレイセラピーにおいて,ボールのやり取りをするクライエントとセラピストの一体感について筆者が考えていた中で,『狩り』というキーワードで検索を行った結果ヒットしたという,いわば偶然に依っている。従って本書の著者である角幡氏については,恥ずかしながらそれまではまったく存じ上げなかった。

そのようなわけで,本書を読んで初めて,著者が極夜を探検した探検家・作家であること,あとがきに書かれているように,この本は,著者が「毎年探検の根拠地にしている最北の村」(p.10)であるグリーンランドの「シオラパルクの人びとと接するなかで,私が感じとった彼らの思想や世界観を,可能なかぎり言葉におきかえたもの」(p.233)であることを知った。

本書において上記の「一体感」については,例えば「狩猟行為は動物を殺す以上,暴力以外の何物でもないが,しかしそこには同時に,人間の側をはなれて動物の側にたつという機制がそなわってもいる。負い目が意味するのは,殺しておきながら殺した相手と一体化するという,そうした逆説的ともいえる狩りのメカニズムである」(p.211)といった記述があり,興味深いと感じた。しかし本書を通読して,ここで書かれていることは,このような一体感にとどまらず,心理臨床一般にも大きな示唆を与えてくれるのではないかと感じた。

著者は自身が行っている漂泊探検の「裏テーマ」は,「真の現実にいかに入りこむか」(p.39)であるという。このことについて,著者はネットでの評価を調べたうえでラーメン屋に行く例を挙げ,現実が「事前の未来予期の確認作業に堕ちてしまう」(p.36)とし,このような「未来予期でリスクを排除し,あらゆることを事前に計画していては生の躍動はえられないのではないか」,「生きていることを感じさせるダイナミズム,それは〈今目の前〉の場当たり的で偶発的な出来事に身をさらし,そこから開闢する新しい可能性におのれの身を,運命を投げ入れることでしか得られないのではないか」(p.83)と述べている。

このような記述は,心理療法にも通じるところがあるように思われる。例えば,初めて出会ったクライエントが,あるいは継続しているクライエントであっても,あるセッションで何を語るか,どのようなプレイを展開させるかは,セラピストにとっては当然のことだが,クライエント自身にも,完全には予測不可能である。(セラピストは専門家として,面接を行うことによるリスクを事前に検討することが求められるのは当然のことであるが,それらの検討がなされたうえで,)その完全には予測不可能な場にクライエントとセラピストの両者が身をさらし,投げ入れようとする態度を持つことで,クライエントの変化の可能性が開かれる,という捉え方もできるのではないだろうか。

また著者は本書において,そのような「場当たり的で偶発的な」体験に関連して,「死が傍らにある村」で生きるイヌイットがよく用いる「ナルホイヤ」という言い回し,またその裏にある「世界というものにたいする独特な態度」(p.70)について考察している。ナルホイヤとは〈わからない〉という意味の言葉であるが,著者は,一見計画性の欠如としてネガティブに捉えられるこの言い回しは,「じつは未来を正確に予期することなど人間にはできない,人間は今目の前の現実に身をさらすことでしか生きていくことはできない,との彼らの生の哲学をあらわした言葉である」(p.83)と捉えている。つまり,「ナルホイヤ」は計画性なく投げやりに生きるということではなく,誤った予期が死を招きかねない環境の中で,「あくまで渾沌たる真の現実の内部で踏ん張って生きる,という生活態度」(p.117)なのであるという。

このような態度を著者は,例えばあるイヌイットが,首飾りにするために白熊の爪に穴をあけようとして,どこに穴をあけようかと悩んでいる態度に,つまり彼が白熊の爪とカテゴライズされる物体ならばここに穴をあける,という安易な選択をとらず,「その白熊の爪に,共通項でくくった〈白熊の爪〉なるカテゴリーをフィルターとしてかぶせずに,あくまで世界でただひとつしか存在しないその白熊の爪として,それと真剣に対峙」(p.137)する態度に見て取る。

心理臨床においてセラピストが,クライエントに例えば「発達障害」といったフィルターをかぶせない,ということは不可能に近いように思われるし,そのように捉えた上で,適切な対応をとることはもちろん,専門家に求められるところである。しかし,セラピストがクライエントに会ったとき,そのようなカテゴリーのフィルターをかぶせて予期を得ることのみを目的としてしまったのならば,その後のクライエントとの出会いは,著者がいうところの「その予期の確認作業になりさが」(p.83)ってしまうだろう。そしてそうなってしまったとき,セラピストはクライエントとの出会いの場の「真の現実」に全く入り込めなくなるだろう。あるいは,もしそれのみが臨床心理士や公認心理師の役割であるというのならば,その役割はいずれAIにとってかわられるものになるだろう。

このように考えると,「計画的思考法」と対置される「ナルホイヤ的思考法」は,クライエントとの出会いという「現実」を生きる心理療法においても,極めて重要になるのではないだろうか。またさらに言えば,スーパーヴィジョンにおけるスーパーヴァイザーの言葉は,クライエントと出会う「現実」を,すでに指摘された「予期の確認作業」にしてしまう可能性をはらんでいると言える。このような点において,筆者は本書を心理臨床に携わる方にもお勧めしたいと考えた。

なお本書において著者は,「最初は人糞レベルの臭気を感じたキビヤ」を「何度か食すうちにだんだん旨くなってゆき,やがて」,「嗚呼キビヤ食いたいなぁ,キビヤ食いながらコカ・コーラ飲みたいなぁ」(p.157)と思うようになったと述べている。筆者はこの文章を引用しながら,この原稿を書き終えたら「キビヤ」を検索して調べてみようと思った。しかしそう書いてすぐに,そのような行動こそが,真の現実のキビヤとの出会いを,予期の確認作業に堕すものになりかねないのだろうとも思い,この原稿を提出しようとしている段階でまだ,検索して調べるのをためらっている。

文  献

  • 角幡唯介(2021)狩りの思考法.清水弘文堂書房.
+ 記事

高橋 悟(たかはし・さとる)

所属:島根大学人間科学部・島根大学こころとそだちの相談センター

資格:臨床心理士,公認心理師

主な著書:高橋悟(2022)ボールの心理臨床:プレイセラピーにおけるボールのやり取りをめぐる体験からの探究.創元社.

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