こころをつなぐ災害支援(10)被災地の人として感じてきた災害支援の実際|鈴木正貴


鈴木正貴(宮城県教育庁高校教育課スクールカウンセラースーパーバイザー)

シンリンラボ 第32号(2025年11月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.32 (2025, Nov.)

◆ はじめに

私は宮城県の沿岸部在住で東日本大震災を経験しており,被災地の人として急性期に災害支援を行い,中長期の災害支援を現在も続けています。今回の執筆のお話をいただいてどんな内容にしようかと思い悩み,いくつかテーマを決めて書いてみたのですが,どれも途中で行き詰ってしまいました。書き進めるうちにいろいろなことが気になって手が止まり,途中で書けなくなってしまったのです。

悩みに悩んだ末にこのことを前田潤先生(室蘭工業大学)にご相談したら,「それこそが,語れそうで語れない災害支援の実際なのでは?」といったお言葉をいただき,まさにそうなのかもしれないと思いました。私にとって,今このテーマについて書くことに意味があるように思い,自分の中では考えて整理してきたけれど人にはあまり語っていなかったところをふり返り,災害支援について感じたことをまとめてみることにしました。あくまで私が個人的に感じたこと,考えたこととしてお読みいただければ幸いです。

◆ 初めての災害支援

私にとって初めての災害支援は,2008年に発生した岩手宮城内陸地震の時でした。この時は県のこころのケアチームの一員として,初めて被災地の避難所に行きました。支援に行こうと思った理由は明確には覚えていませんが,「県内で起こった大災害で被害を受けた方々のために少しでも力になれれば」と思ったからだと思います。また,この頃にスクールカウンセラー(以下,SC)として学校の緊急支援に派遣されるようになり,「緊急時には支援に行くもの」という意識が強くなっていたこともあったかと思います。

実際に避難所に行ってみると,「自分には何もできることがない」と感じることが何度もありました。日中は仕事や学校等,外出されている人が多くて残っている人は少なめでしたが,どのように話しかけたらいいか,言葉が見つからず悩みました。医療チームの看護師さんはパルスオキシメーターや血圧計を差し出して,「お体はいかがですか?」と自然に話しかけていました。しかし心理職の私にはそういったツールはありませんし,「お気持ちはいかがですか?」なとど話しかけるわけにはいかず,声がけすらできないと思ってしまいました。

それでも,調子が悪い人はいないかと様子を見ながら避難所を回っているうちに,数名の人と話すことができました。何を話したかは詳しく覚えていませんが,話せたことで自分がほっとした記憶があります。そのうちのお一人は自宅が被災した状況を語られ,私は何と返していいかわからず,ただただ聴くしかありませんでした。帰りの車の中で「自分は何もできなかった」という無力感が強くなり,チームの先輩方に話を聞いていただいたのを覚えています。

◆ 東日本大震災発災直後の時のこと

私が災害支援に本格的に携わるようになったのは,東日本大震災の後からです。発災時には勤務校で生徒と面接をしていました。突然にドン,という音とともに強い縦揺れがあり,鉄筋コンクリートの校舎がギシギシと音を立てて激しく揺れました。生徒と机の下に潜って声をかけながら揺れが収まるのを待ちましたが,数分も揺れていたと思うほど長く感じましたし,ありえないことと思いながらも「校舎が倒壊するのでは」と思えてとても怖い思いをしました。揺れがやや弱まってから,生徒を連れて全校生徒が集まっている場所に避難しました。幸い勤務校に津波は来ませんでしたが,雪が降る中で生徒の一人が見ていた携帯電話のワンセグ放送には仙台空港に津波が到達した様子が映っていて,とても現実とは思えませんでした。

1時間ほど経って地震の揺れが少し落ち着き,生徒の引き渡しが始まろうとしていた時に,私は「自分も何かしなければ」と思って管理職の指示を仰ぎに行きました。すると管理職からは,「先生は非常勤職員で緊急時の役割はないから帰っていいですよ」と言われました。そこでしばし考え,そう指示を受けても残ろうかと思ったのですが,家族のことが心配な気持ちもあり,役割がないのにいても邪魔になるかとも思い,気になりながらも帰路につきました。

帰宅途中には,信号が消え,マンホールが飛び出て,道路が地割れしているなど,地震による被害が多くの場所で見受けられました。自宅に戻ると,電気も水も止まっていましたが家族も自宅も無事だったことがわかり,心の底からほっとしました。そしてその後に,勤務校のことが気になりました。こんな緊急時に,役割がないからとはいえ自分だけ帰ってきてしまったことへの罪悪感が募りました。それでも「今は自分と家族のことを優先する時だ」と考えるようにして過ごしました。

その日の夜以降ラジオから,信じられないような被災状況が次々と流れてきました。その中に勤務校の情報もあって,発災翌日の夜でもまだ数十名の生徒が帰宅できずに校内に待機していると知り,今からでも何かできないかと思って翌朝に勤務校に向かいました。どんな顔をして学校に入っていこうかと悩みましたが,教職員は私を明るく出迎えてくださり,ほっとしました。打ち合わせをする中で,「保護者の迎えを待っている生徒の中で気になる生徒が多数いるので面談をしてほしい」と依頼を受け,その役割を果たしました。相談したいという雰囲気ではなく,心配な気持ちも口に出さずに耐えているような生徒がほとんどだったので,心の内を聞き出すようなことはせずに雑談のような対話をする中で出てきた話を受けとめる,という会い方にしました。教職員とは情報交換をしながらこれまでの大変さを労い,帰り道では「一度は帰ってしまったけれども少しは罪滅ぼしができたかな」と思い,気持ちが少し落ち着きました。

見慣れた風景が一変,瓦礫と土砂だらけの茶色の世界に

発災からしばらくは停電が続いていたために被災の状況は全くわかりませんでしたが,数日経つと徐々に状況がわかってきました。私の自宅は海から数kmの沿岸部にあり,近隣を流れる川の向こう岸まで津波が来ていて,瓦礫と湿った土砂だらけの茶色の世界になっていました。私自身も津波の被害にあっていたかもしれなかったと,その時に実感しました。確かに地図を見れば海は近いのですが,来るはずはないと思っていた国道にまで津波が来ており,その両端には流された車が並び,瓦礫の山が至るところにありました。風が吹けば砂が舞い,海の匂いがして,車や瓦礫の中にはご遺体があるのではと思うとじっと見られませんでした。「自分が住んでいた街が戦場のようになってしまった」と深く傷ついたのだと今になって思います。この光景は今も忘れないほど心に刻まれ,「果たして元に戻るのだろうか」と途方に暮れるような思いにもなりました。一方で私は家族も無事で自宅に大きな被害はなく,被災して甚大な被害を受けた方々と比べたら自分は被災していない,という思いになりました。

◆ 避難所への緊急支援

発災から半月ほど経って,電気や水道が復旧し始めた頃に,被災地の学校への緊急支援要請がいくつかありました。そのうち私の住む地域の近隣の学校が含まれており,私も手を上げました。当時は沿岸部の多くの学校が臨時休業だったため児童生徒はおらず,体育館に開設された避難所の支援に女性の心理職と2人で入ることになりました。

避難所に入ってはみたものの,岩手宮城内陸地震の時と同じくこちらから声をかけるのも憚られる雰囲気で,様子を見て回るのが精一杯でした。避難所を歩いていると,私に声をかけてきた女性がいました。それは中学校時代の同級生で,卒業して以来初めて会って話をしました。同級生は自宅に津波が来てしばらく孤立し,津波が引いた隙に子どもを連れて着の身着のまま避難してきた,とこれまでの大変さを涙ながらに語りました。私のことも聞かれ,「うちは大丈夫だった」と答えましたが,自分が大した被害を受けていないことへの後ろめたさと申し訳なさでいっぱいになりました。そして罪悪感とともに,「被災していない自分が何かやらなければ」という思いもより一層強くなりました。

少し経って,もう一人の心理職が避難所の端の方で,自身が持ってきた折り紙やクレヨン,画用紙等で子どもたちと遊んでいるのを見かけました。私もその場に混ぜてもらうと,子どもたちは楽しそうに折り紙を折ったり絵を描いたりしていました。避難所の重苦しい雰囲気を察し,我慢しておとなしくしていた子どもたちも,遊びを通して明るい表情になっていきました。それを見て近寄ってきて,子どもに話しかけたり一緒に折り紙を折ったりする人もいて,その場にいる人たちが和んでいくのを感じました。それを迷惑だと思う人も一部はいたかもしれませんが,少しでもほっとできる場だったのではと思います。その時に初めて,大変な状況だとしても子どもたちにとって遊びは大切なことだと気づくとともに,周りの大人にとっても大切な場になるのでは,と思いました。これらに気づけたのはもう一人の心理職のおかげで,人と力を合わせることの大切さを実感しました。

◆ 緊急支援の後も避難所への支援を継続

緊急支援は数日で終わりましたが,避難所にはまだ多くの人が避難したままで,子どもたちも多く残っていました。私は,この避難所には支援ニーズがあり,仕事がない日(地震や津波の影響で再開できない職場もあった)に自分ができる範囲で支援を続けようかと迷いました。仕事で入った場所に仕事を終えた後もボランティアで通い続けることは通常であればしないのですが,この非常時において「自分にできることを少しでもやった方がいいのでは」との思いが勝り,支援を続けることにしました。

家にあった玩具や折り紙,描画の道具等をかき集めて避難所へ行くと,子どもたちは喜んでくれて,それまでと同様にいっしょに遊びました。日が経つにつれて大人が自宅の片づけや仕事等に出かけることが増え,避難所を退去する人も出てきました。自宅に戻れる人と避難所に残らざるを得ない人に分かれ,子どもと遊ぶ中でそれぞれ複雑な思いを抱えているのを感じ,それを受けとめながら関わるようになっていきました。

子どもたちと遊んでいると,何人かから「絵本が読みたい」という声を聞きました。普段であればそこまでは考えないのですが,この時の私は「絵本をどうにか手に入れられないか」という思いになりました。自宅に戻ってインターネットで調べたら,幼児から小学生向けの絵本数十冊とカラーボックスを被災地に寄付してくれる出版社を見つけました。申し込むと数日後には自宅に届き,すぐに避難所に持っていきました。この時は子どもたちだけでなく大人も喜んで,それぞれに好きな絵本を読み始めました。これ以降は私がいない時も絵本コーナーで絵本が読めるようになり,心穏やかになれる場にもなったようでした。

◆ 「被災していない自分が地元のために何かやらなければ」という葛藤

宮城県では4月下旬までに多くの学校が再開し,私はSCとして,緊急支援ではなく通常の業務をするようになりました。通常といっても震災以前とは違い,勤務校では状況に応じて震災の影響を考慮した対応がSCにも求められました。しばらくは日常とは少し異なった業務をすることで精一杯でしたが,徐々にこれが日常になっていきました。

発災当初は被害が甚大すぎて「復興などできないのではないか」と絶望に近い思いがありましたが,発災直後から全国の方々にたくさんのご支援をいただいたおかげでインフラの復旧や瓦礫の処理が加速度的に進み,今後の復興に少し見通しが立ってきたと感じられるようになりました。多くのみなさまに心を寄せていただいたことに,心より感謝しております。

発災から半年が経過した頃には私の中で,「被災地のために何もできていない」という思いが強くなっていました。災害支援のフェーズが中長期に移ってきたことを感じていて,「被災地でご支援いただいてきた県外の支援者の方々にいつまでも頼るのではなく,そろそろ地元の支援者である自分たちが中長期の支援を担わなければならない」とその時の私は思っていました。「被災していない自分が地元のために何かやらなければ」という思いがずっと心の中にあったからこのように葛藤したのだろうと,今は思います。

私はその後,自分のできる範囲で何かやれることはないかと模索しました。そして,県内SCが不足していた遠方の被災地の学校での勤務を希望し,次年度から勤務するようになりました。また,避難所が閉鎖されて仮設住宅への転居が本格化した2011年後半に,日本赤十字社宮城県支部が宮城県臨床心理士会と協働して私の住む自治体の仮設住宅で支援活動を始めることになり,かなり迷いましたが自分から手を上げて支援チームに加わりました。この中長期支援は,2016年からは当会単独となって場所が災害公営住宅に変わり,15年目を迎えた現在もチームで続けています。この他にもお誘いを受けていくつかの支援に携わり,それらを続ける中で徐々に私がそれまで感じていた焦りや葛藤は少なくなっていきました。

◆ 被災者でもある地元の支援者だからこそ思い,感じること

これまでを振り返ってみると,もともと被災地に住んでいた自分が支援者としても活動してきたことで,より大きな葛藤を抱えることになったことに気づきました。同じ支援者でも県外からの支援者とは気持ちや感じ方が大きく異なるだろうと思われます。例えば私が持ち続けた罪悪感は被災した人に生じやすい感情とされていますが,私自身が当時それをわかっていたとしても罪悪感は拭えなかったでしょう。被災地の人としていろいろな感情を抱えながら動かざるを得ないのが地元での災害支援なのだろうと実感しています。

また,特に急性期の支援では,誰とも連絡を取れなかったこともあってほぼ一人で判断しなければならず,迷い悩んだ末に「普段の仕事ではやらないが今は必要」と決断して動いた場面がいくつかありました。その判断がどうだったかは人によって評価が分かれるだろうと思います。私は,自分の中ではそれでいいと思いつつも,他の人はどう思うかも気になり,当時の支援についてあえて人に多くは語ることなく過ごしてきました。実際に災害支援をしている私に対し,「それは臨床心理士がやることではない」,「あなたが人を助けて自己満足を満たしたいだけだ」などといった指摘を受けたこともあり,悶々とした時期もありました。

しかし私は当時から,その指摘は違うと思っていました。心理職である前に被災地に住む一人の人として,「自分が住んでいる地域が被災して大変な状況になっているのに,無事だった自分が何もせずはいられない。できることはしなければ」と思ったわけで,単に「人を助けたい」という思いや自己満足のため,ということではないと私は考えています。被災地に住んでいる私だからこのように思ったわけで,そういった意味では私自身も被災していたのだと,ここ数年でようやく自分でも認められるようになりました。

◆ 災害支援への思いや考えは人それぞれに違っていい

同じ被災県の心理職でも,住んでいる場所,被災の有無や程度,心理臨床のスタンスなどによって,災害支援に対する考えや思いは人それぞれ違うと感じます。また,災害支援のやり方や考え方も多様で,それぞれ地域の実状やメンバーの考えに応じた形で行われています。被災された方々も同様に,同じ場所で被災しても,同じ地域に住んでいても,たとえ家族であっても,被災に対する思いや気持ちはそれぞれに違います。

私は災害支援への思いや考えが人それぞれ違うことについて,自分の中でうまく整理できずにいましたが,今は災害支援をする人もしない人もそれぞれでいいし,災害支援のやり方や考え方も一つの正解があるわけでなく,それぞれに合ったものでいいと思うようになりました。このあたりはきっと人によって良いと思うものは違っていて,必ずしも他の人と比べて良し悪しを決める必要はないのだろうと思い,自分ではすっきりしているところです。

◆ 被災地の外から災害支援に入る支援者のあり方について

大きな災害が起こったら,地元の支援者は様々な形で被災の影響を受けて通常業務が忙しくなるため,まずは自分の職務を果たすことが大切になります。発災からしばらくは,災害支援をしようと思ったとしてもその余裕がなく,一方で被災された方々の支援ニーズが高まるのでそこに心理職のマンパワーが必要になります。そういう時に被災地の外から支援に来ていただき,自分たちだけではできないところを補っていただけるのは現地としてはとても助かり,ありがたいことです。

災害支援に入ろうと思っても,「自分に何かできるのだろうか」と不安になられる方が多いのでは,と思います。私自身も同様の思いでしたが,自身の経験を経て思うことは,「何か特別なことができる必要はない」ということです。被災された方々にとって,特に急性期には生きることや生活を安定させることが優先され,自分の心に目を向ける余裕がないことがほとんどです。東日本大震災の時に多くの仮設住宅で貼られた「カウンセリングお断り」の貼り紙が示すように,心理職の専門性を活かして支援しようとしたことで被災された方々を傷つけ,心理的負担を強めてしまうような結果になってしまうことも少なくありません。

被災地の外から入る支援者が熱心過ぎたり,実状に合わない支援をしたり,現場とペースが合わなかったりすると,受援側は表には出しませんが我慢しながらも傷つき,余計にストレスを抱えてしまうこともあります。被災された方々や地元の支援者を傷つけない存在として,余計な動きをせずにじっくりと話を聞いて受けとめ,現場の思いやニーズに応じてできることをする,ということで十分ではないかと私は思います。このようなあり方でいてもらえると,被災された方々や地元の支援者も安心してほっとひと息つけるでしょう。最初からは難しいとは思いますが,こういった心構えでいるだけでも違うのでは,と思うところです。

◆ 終わりに

私が今日まで続けている中長期支援は,当初は「被災していない自分が何かやらなければ」と思って始めましたが,長い経過の中で徐々に「この支援はニーズがあって必要だと思うからやり続けよう」と,主体的に支援活動を行うようになりました。今でははっきりと,自分の意志で目的をもって支援活動を続けていると言えます。

この中長期の支援活動の詳細について今回は書けませんでしたが,活動する中で,専門家としてではなく一人の人として,被災された方々と個人及びコミュニティの両面で関わり続けること,被災された方々のつながりを保ち,増やせるような場を設けて関わることによって孤独・孤立を防ぎ,心身の健康を保つサポートをすることの大切さを強く実感しています。

被災してから長い時間が経っても,悩みや不安が減るどころかますます増えていく人は少なくなく,これはどの被災地でも同様だと思います。時間の経過とともに被災の記憶は風化が進み,被災された方々への支援は減っていきますが,支援ニーズは確かにあります。私は被災された方々のことを忘れずに思いを馳せながら,今後も関わり続けていこうと思っています。

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鈴木正貴(すずき・まさたか)

略歴:臨床心理士・公認心理師。宮城県内で教育領域を中心に、保健福祉領域や自死予防等の複数の現場で心理業務に従事している。東日本大震災後に宮城県内で急性期の災害支援に入り、その後複数の中長期の災害支援に携わり現在も継続している。2025年11月現在、宮城県公認心理師・臨床心理士協会災害支援担当者、日本臨床心理士会災害支援プロジェクトチーム委員を務めている。

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