山下委希子(富山赤十字病院)
シンリンラボ 第31号(2025年10月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.31 (2025, Oct.)
阪神淡路大震災
私が初めて災害支援に関わったのは,1997年春,大学院在学中のことでした。阪神淡路大震災で被災し,富山の親類を頼って避難していた子どもたちに遊びの場を提供しようという動きがあり,世話人のお一人であった富山大学の室橋春光先生(当時)にお声がけ戴き,学生ボランティアとして参加したのが『サポートネットインとやま』の活動でした。医師,社会福祉士,臨床心理士,レクリエーション指導者等がメンバー構成員でした。当時の資料はもう無く私の記憶を辿るのみで記憶違いがあるかもしれませんが,毎月1回,県内の施設を借りてボディペインティングや鬼ごっこなどの遊びをしていました。夏には呉羽少年自然の家で合宿もしました。参加者が被災地から避難している子どもたちであること以外,あまり詳しいことは聞いていませんでしたが,気になったことはその都度,世話人の方たちにお伝えしていたように思います。災害支援,こころのケアという言葉は当時,誰も謳っておらず,私自身も,ただ,子どもたちが故郷を離れ慣れない土地でさみしい思いをしているのではないか,遊ぶ場所も相手も居ないのではないか,そうであれば短い時間でも一緒に過ごす「誰か」になれたらと,多分そのような思いでおりました。
卒業後,私は富山医科薬科大学(現富山大学)医学部精神神経医学教室に入職しました。初めは技能補佐員という非常勤職員でした。前任者は『サポートネットインとやま』に参加しておられた臨床心理士で,「私の後任を探している」と声を掛けて戴いたのがきっかけでした。同教室は倉知正佳教授(故人)の下,統合失調症の研究に力を入れており,私は来る日も来る日も心理検査をしていました。毎週木曜日には金沢大学博士課程の学生さんがSSTと行動療法を担当してくださり,同世代でもあるということで親しく交流しました。のちに,石川県臨床心理士会で令和6年能登半島地震発災時のSCコーディネーターを務められた石川健介先生と,災害対策本部長を務められた松本圭先生です。
私は臨床心理士の資格を取ったのを機に,富山赤十字病院精神科部長の谷井靖之先生(故人)にお声がけ戴き,週半日,大学の外に出ることになりました。数年経って,外来診療だけでなく,職員のメンタルヘルス相談に関わる機会を戴きました。看護部と協力し,特に新人職員への支援に努めました。国内では,新潟県中越地震,東日本大震災,熊本地震,北海道胆振東部地震と災害が続きましたが,私が支援に携わることはありませんでした。
令和6年 能登半島地震
2024年元日,能登沖を震源としたマグニチュード7.2の地震が発災しました。過去50年間で震度4以上の地震の回数が8回と全国一少なかった富山県でも,震度5強の揺れと津波警報発令の事態に見舞われました。
あの日の夕方4時6分に富山では震度4の揺れがあり,私は高齢の両親に電話をかけました。築50年を超える古い家屋から移動するように話し,「わかった,わかった」と父が苦笑いする声を聞き電話を切りました。その直後に本震が来て電話は通じなくなりました。直ぐに津波警報が出ました。NHKのアナウンサーが繰り返す「今すぐ,逃げてください」という声が,鼓動と共に鳴り響いていたことを今も鮮明に思い出します。両親が無事で近所の方たちと一緒にいるとわかるまでの,体中の血液が逆流するようなあの感覚は,それまで味わったことのない強烈なものでした。富山県内では,能登半島のつけ根にある氷見市,隣り合う高岡市伏木,射水市新湊など,海沿いを中心に被害が大きかった他,高岡市や富山市の中心部,石川県と隣り合う小矢部市などでも被害がありました。氷見市では断水が1月末まで続きましたが,それ以外の地域では水道,ガス,電気は通常どおり使うことができました。
能登での甚大な被害状況が明らかになる中で,富山県内で被害について口にする人は私の体感では少なく,被災県のひとつであることも全国ニュースではほとんど取り上げられませんでした。
ぼーっとしていられない!
1月3日,富山県児童思春期研究会のメンバーである富山大学附属病院こどものこころと発達診療学講座客員教授の辻井農亜先生からメールが発信されました。自分のことで精一杯だった私は,ハッとしました。ぼーっとしていられない,私にできることを始めなければと思いました。最後に,「私たちも被災者です」とあり,そう思ってもよいのだと思いました。辻井先生からのメールには心理教育の資料として日本児童青年精神医学会の『災害下における子どものこころのケアの手引きとリーフレット』が添付されていました。仕事始めの1月4日には,職場のひとつである高岡市少年育成センターに電話を入れ,子どもたちのこころのケアに取り組む準備をしたいと申し出ました。しかし,職員も被災し,市は対応に追われ,それどころではありませんでした。それでも,その日のうちに同センターが所属する高岡市教育センターのホームページに心理教育の資料が掲載されました。その後,高岡市少年育成センターでは通常業務の中で,被災の影響に配慮しながらより丁寧な『相談』を行いました。
全国赤十字臨床心理技術者の会
1月4日,全国赤十字臨床心理技術者の会会長,徳島赤十字病院の高芝朋子先生から地震お見舞いのメールがMLに配信されました。個人的なやり取りがあり,よかったら富山の様子を教えて欲しいと言われました。石川県の先生が先ずは投稿されるのがよいと思い遠慮していた私でしたが,思い切って発信しました。北陸の赤十字施設に勤務する心理職は私ひとりだということが後にわかりました。当時は心細く,がんばれの一言でも掛けてもらいたくて,そう書きました。応援のメールが直ぐに来ました。同会事務局である石巻赤十字病院の先生方のご尽力で,一週間も経たないうちにポータルサイトが立ち上がりました。これまでに先生方が作成された資料へのアクセスもできるようになりました。私は定期便のようにしばらく発信を続けました。振り返りの意味,すなわち,自分のやっていることが間違っていないかどうか,客観的に見てどうなのかを教えて欲しいという気持ちもありました。「過覚醒→テンション落ち着く→身体症状現る→休養→通常業務に穴をあけずにやれるペースを掴みつつある。休むことを仕事の一部として,それを実行する」と,発災から1カ月後に発信したメールに記載しています。MLには質問も投げかけました。記録はどのように残しているのかと投げかけたときには,高槻赤十字病院の岡村宏美先生から丁寧で温かな返信,資料の提供を受けました。
富山赤十字病院
富山赤十字病院は発災直後から動いていました。1月2日〜4月2日までの3カ月間で,救護班7班,DMAT,コーディネートチーム2チーム,医療機関支援4名,こころのケアチーム,広域避難者に係る2次避難所支援2名が能登での救護活動に当たりました。同院では,ブリーフィングとデブリーフィングの会が必ず行われることになっており,派遣者を支援する仕組みができています。25年も勤務しながら,私が携わったのは能登半島地震が初めてでした。週1回の勤務ということもあったと思いますが,私自身が災害支援に積極的でなかったことがいちばんの理由でした。1月10日,年始めの勤務で総務課長から災害支援に協力して欲しいと声を掛けられ,是非にと答えました。週1回の勤務の中で何ができるかを考え,研修センター看護副部長に相談しました。職員のメンタルヘルス相談担当者という立場から,電子カルテの表紙に職員へのメッセージと心理教育の資料を掲載しました。また,被災者である私たちがいつでも相談できる場所をつくる目的で,通常のメンタルヘルス相談とは別に,全職員を対象とした臨時の相談室を立ち上げました。被災地支援に入った職員に対しては帰還後のサポートを行うため,心身の健康状態を振り返るチェックリストを複数回実施し,気になる職員に対しては上司から,また看護師から声を掛けるようにしました。通常のメンタルヘルス相談や院内精神科医への紹介も想定し連携しました。中心メンバーは,かつて職員のメンタルヘルス相談事業の充実に共に取り組んだ看護師と,災害支援コーディネーター看護師長でした。日頃からの信頼関係があったからこそ,スムーズに連携できたと思います。
富山県公認心理師会
富山県内では1月9日(氷見市は10日)に3学期始業式が行われ,氷見市すべての小中学校,義務教育学校と高岡市内の一部の小中学校でスクールカウンセラー(以下,SC)が子どもたちを見守りました。これは,各学校からの要請を受け,富山県教育委員会がSCを派遣するというものでした。発災から1週間,余震が続き,津波への怖さもまだ鮮明な時期でした。被災地に入るSCの力になりたいと,富山県公認心理師協会の嶋野珠生会長が後方支援を申し入れました。富山県教育委員会のご協力により,1月12日夜7時〜,第1回の会合をハイブリッドで開催することができました。参加者を誘導するために寒い中,教育委員会の先生方が外に立っておられ頭が下がりました。支援に入ってくださったSCの皆さんに温かい飲み物を配りながら,世話人たちは「ありがとうございます」,「お疲れ様です」と声を掛けました。黙祷の後,嶋野会長から趣旨説明を行い,富山県教育委員会からは被災地の現状をお話し戴きました。そこに居る誰もが緊張していました。その後も3学期終了まで,ほぼ毎週金曜日の夜7時〜,対面で開催しました。ミニレクチャー,グループトーク,セルフケアなど,学校臨床委員会の4人のメンバー(草野香苗さん,山﨑恵理子さん,嶋野会長,山下)が企画,運営を行いました。ミニレクチャーは委員やオブザーバーが持ち回りで担当しました。私は急性胃腸炎を発症した翌週にセルフケアについて話をするという,苦笑いのエピソードも経験しました。支援者同士が支え合うことは当時,大きな力になっていたと思います。このほか,富山県公認心理師協会では,県内被災地への支援として保育所等緊急支援カウンセラー派遣を行い,石川県から富山市に避難した皆さんへの支援として2次避難所支援に協力しました。
幼い子どもたちの変化
知人,友人から聞こえてきたのは「幼い子どもたちが親から離れない,寝付かない」,そしておそらく,幼いきょうだいを気遣い,親を気遣って我慢している子どもたちがいるということでした。日頃からお世話になっている高岡第一学園幼稚園教諭・保育士養成所所長の石沢宣子先生(当時)のご紹介で,1月9日,富山県私立幼稚園・認定こども園協会会長である畠山遵先生にお会いしました。園の先生方に必要な情報が届いていないようならお届けしたい,よい方法はないだろうかとご相談したところ,直ぐに手配をしてくださいました。実はこの動きを個人的にしてよいのか迷いました。かえって迷惑をかけるかもしれないと思い,周囲にも相談しました。「今,できることをやろう」と背中を押されました。今振り返ると,もっと早く動く必要があったと思っています。発災後に動きをつくっているようでは遅いのです。日頃からの備えが必要であることを痛感しました。もちろん,個人ではなく,自治体や地域の子ども支援ネットワークのような団体が主導することが理想だと思います。
南砺市での試み
南砺市の田中幹夫市長は子どものこころのケアに理解のある方です。南砺市は世界遺産の五箇山がある人口4万5千人の小さな自治体で,2022年に市立の児童精神科『南砺市こどものえがおクリニック』を週1日開設し,2023年に子どもの権利条例を施行しました。私は同年4月から同クリニックに嘱託公認心理師として勤務を始めたばかりでした。年に数回,市長とお話しできる機会があり,能登半島発災後の3月にもお話しすることができました。発災後の子どもたちのこころの変化と,それに対する手当をもう少し早い段階で始めたかったこと,平時からの備えが肝心であり『災害時のこころのケアパッケージ』をつくりたいと考えていることをお伝えしたところ,市長は熱心に耳を傾けてくださいました。その年の9月には,こどものえがおクリニック特別講演として,『災害時のこころのケア 〜こどものえがおを守るために大人ができることを考えよう〜』を開催することができました。講師は赤十字の仲間であり信州大学の同窓生である諏訪赤十字病院/日本赤十字看護大学附属災害救護研の森光玲雄先生が務めてくださいました。
『災害時のこころのケアパッケージ』を作成したい!と言ったものの,いったい何から手をつけてよいのかわかりませんでした。先ずは市職員,市民が災害支援について関心を持てるよう研修を継続しようと,今年度は南砺市×日本赤十字看護大学附属災害救護研究所共催,公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの協力で『子どものための心理的応急処置(子どものためのPFA)1日研修』と,『子どもにやさしい空間(CFS)準備設営研修』を企画しました。実は,このような研修を先行して行った自治体がありました。学生時代を過ごした長野市でした。『長野市緊急時における子ども支援ネットワーク』事務局の小笠原憲子さん,廣田宜子さんと繋がるまでにそう時間はかかりませんでした。今年5月,こどものえがおクリニック開設のために10年もの間,「南砺市に児童精神科を」と声を上げ続けてくださった有志の皆さんと共に長野市へ向かいました。同団体を紹介してくださった森光先生も同行してくださいました。「非常時だから我慢しなさいではなく,子どもにとっての当たり前の日常をできるだけ早く取り戻すことが必要なのだ」という廣田さんの言葉が印象に残りました。
緊急支援の経験を頼りに
私は能登半島地震発災後に富山県公認心理師協会(旧富山県臨床心理士会)学校臨床委員会コーディネーターに指名され,後方支援を担当しました。被災地支援の経験はなく,あったのは,緊急時に現場に入り,先生方と共に生死に向き合った『緊急支援』の経験だけでした。支援の際には災害時の心理教育の資料も参考にしましたし,過去の事例から多くの知恵をもらいました。この経験は必要十分な条件ではありませんでしたが,今回の災害支援において大きな力となりました。
全国からの支援
日本臨床心理士会災害支援担当理事中部ブロックの先生方には特にお世話になりました。
石川県臨床心理士会のホームページに掲載された『能登半島地震後のSC活動の指針』を富山でも活用させて戴きました。災害支援の最前線に立ち多忙極める中,丁寧なご対応をくださった石川先生,松本先生に改めて感謝申し上げます。おふたりにエールを送るつもりが,いつも助けられていました。
長野県公認心理師・臨床心理士協会の中澤晃先生は発災当初から富山県のことを気に掛けてくださり力になってくださいました。能登への派遣者を募集する際にはどのように声を掛けるのか,後方支援はどのように行うのかなど問い合わせた際にも,平時から協力者名簿を作成していることや,後方支援はバディ制を採用していることなど,参考になる情報をたくさん戴きました。
兵庫県臨床心理士会/兵庫県公認心理師会の樋口純一郎先生には,2024年6月,富山県公認心理師協会から会員1名を能登へ派遣した際にたいへんお世話になりました。派遣前から派遣後しばらくの間,兵庫チームに加わり支援の流れを学ばせて戴いたことは富山の財産になりました。会員が能登に入る少し前に大きな余震があり,送り出したあとも「無事に到着しただろうか」,「どうしているだろうか」と気になって仕方なく,「目の前の仕事に集中しよう」と自分に言い聞かせるほどでした。現地には兵庫チームの先生がおられ,更に兵庫で控えておられる先生方がおられるのだから,お頼りすればよい,何かあれば連絡が入ると思いながらもやきもきしていました。そんなどうしようもない気持ちも樋口先生には受け止めて戴きました。こうやって書いていても情けなくなるほどで,元々,不安の高い私はつくづく向いていないと落ち込みました。詳細を語らずとも私の自信喪失を悟った日赤和歌山医療センターの倉山正美先生が「派遣者と同じ温度で居てくれる後方支援者が居てくれてよかった」と言ってくださり,救われました。災害支援は誰かを支えると思われがちですが,私の場合は支えられてばかりでした。
発災から1年半余が経ち
富山県内での災害公営住宅の着工は2026年度の予定,液状化被害の深刻な地域では地盤改良をどのような方法で行っていくのか検討がくり返されています。富山湾の海底が崩れ白エビや紅ズワイガニの不漁が報道されるなど,依然,厳しい状況が続く中で,こころのケアについても,次の災害に備えながら息の長い支援を日常に溶け込ませていくことが必要だと考えています。
この夏は能登半島地震での経験を共有する会が各地で開催されました。つい先日も,富山県の主催で,災害支援に関心を持つ地域のNPO・ボランティア団体同士の交流会が開かれ富山県公認心理師協会からも谷口園子副会長が参加しました。発災以来,様々な立場の皆さまが災害支援に力を尽くしてこられました。この体験を共有し,地域,分野を超えた関係者同士の連携が今後益々重要になってくると思われます。
おわりに
私が経験した災害支援は,多くの人たちを巻き込み,つながり続けていくことの連続でした。振り返れば,支援と受援はくり返され,前に進む力,拡がる力になりました。今日までに「しんどい,休みたい」と思うときがなかったと言えば嘘になります。それでも,歩みを止めずにやってこられたのは仲間が居たからに他なりません(大先輩を含め,あえて仲間と呼ばせていただきます)。知恵と勇気をわかちあった仲間たちに,心からの感謝を伝えたいと思います。
山下委希子(やました・いきこ)
臨床心理士/公認心理師
富山県内の医療,教育,福祉施設において心理支援に従事している。




