上谷実礼(ヒューマンハピネス株式会社)
シンリンラボ 第36号(2026年3月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.36 (2026, Mar.)
1.はじめに
ある日,本特集編者である津田真人氏からいただいたテーマは「ビジネスパーソンが感じる生きづらさについて,ポリヴェーガル的に解説せよ」というものだった。しかも事前に届いた「解題」には「幸いにして,今日この国で,各領域でのポリヴェーガル理論の意義と可能性とを最も正確かつ明快に論じられる最高度の執筆陣を揃えることができた」とあった。
なんということでしょう……。荷が重すぎる……。
瞬時に背側に入りそうになる自分に気づきながら,なんとか交感神経の活性を上げて頭をフル回転させた。
いざ思い起こしてみると,「職場における生きづらさ」というテーマに関しては,20年以上を職域で過ごしてきた産業医としての視点だけでなく,自分ごととしても実感を持って伝えられることは少なからずありそうだ。さらに,ビジネスパーソンの生きづらさをテーマした『心を病む力』を昨年,出版したばかりのタイミングでもある(上谷,2025)。
そこで本稿では,「生きづらさ」をめぐって,ビジネスパーソンが感じる生きづらさ,職場に増える「適応障害」,職場における防衛反応の理解,ビジネスパーソンが置かれている環境,管理職・経営者の生きづらさ,という流れで,職場における生きづらさをポリヴェーガル的に考察することを試みた。本特集をお読みいただく対人支援職の皆さんの一助になればと思う。
2.「生きづらさ」をめぐって
「生きづらさ」という言葉を耳にする機会は増えたが,昔から存在した言葉ではない。この言葉が注目され始めたのは2000年代以降。特に,アダルトチルドレンの文脈で使われるようになり,一般にも広がった。アダルトチルドレンは,親がアルコール中毒や病気,依存症などの難しい家庭環境,いわゆる機能不全家族の中で育ち,大人になってから人間関係や人生に困難を伴う人たちを指す。生きづらさと子ども時代の親子関係に因果関係が指摘されたことで,「これは私のことだ!」と自覚する人々が続々と現れ,生きづらさという言葉が社会的に認知されていった。
この頃から,生きづらさは個人の心の内面だけに問題を見出すのではなく,個人を取り巻く社会や環境との相互作用によって起こる事象であると認識されるようになった。例えばアダルトチルドレンなら,本人に問題があるのではなく,親との関係性,家庭環境に問題があるとする見方である(上谷,2025)。
3.ビジネスパーソンが感じる生きづらさ
このように,一般社会では「生きづらさ」と「自己責任」を結び付ける見方は主流ではなくなってきた。それでは,職場においてはどうだろうか?
産業医として仕事をしていると,残念ながらいまだに「メンタルが弱い」「能力・パフォーマンスが低い」「あいつは使えない」というような表現を耳にすることがある。しかし,ある部署では評価されなかった人が,部署異動したとたんに見違えるように伸び伸びと仕事をするようになったり,上司が変わったことをきっかけにめきめきと成長していったり……ということはよくある。つまり,能力やパフォーマンスは個人に紐づいた普遍的なものではなく,その人を取り巻く環境や人間関係によって発揮されるかどうかが決まるということである。
「メンタルが弱い」「能力・パフォーマンスが低い」「あいつは使えない」などの評価をされる人は,恐らく生きづらさを感じるであろうことを考えると,職場における生きづらさもまた個人の問題ではなく環境との間に生まれるものだと言えるだろう。
目には見えない「生きづらさ」が病的な状態にまで至ると,「メンタルヘルス不調」「適応障害」のような形で表面化することになる。
4.職場に増える「適応障害」
睡眠障害や消化器症状を主訴に,「適応障害」と書かれた診断書を会社に提出して休職するビジネスパーソンの増加に気づいたのは,10年ほど前だったか。彼らと面談をしてみると,特に「吐き気」を訴える人が多いことが気になった。長時間残業や対人関係はストレッサーになりえるが,神経系(交感神経)と内分泌系(HPA軸)の働きによる能動的な対処が「ストレス反応」であると説明する古典的なストレス理論だけで,「吐き気」が起きるメカニズムをクリアに説明できるのか疑問であった。
さらに,業務量が多いとか上司のパワハラなど,明確なストレッサーがないと思われるにも関わらず,意欲の低下や倦怠感などを訴えて,「適応障害」の診断書を持参する社員への対応にも苦慮していた。
目の前に積み上げられる「適応障害」と書かれた診断書を前に途方に暮れていたときに,ポリヴェーガル理論(以下,PVT)との出会いがあった。2020年のことである。
5.職場における防衛反応の理解
哺乳類である人間の神経系は,危険に対して段階的に反応する。まず腹側迷走神経複合体(以下,腹側)が働き,社会交流——つまり誰かに相談したり協力を求めたりする——ことで対処しようとする。しかし職場の競争環境や評価システムは,しばしばこの社会交流を阻害する。「弱音を吐けば評価が下がる」「自分だけでなく同僚もみんな余裕がない」「上司に相談しても理解されない」。ビジネスパーソンからよく聞く言葉である。
次に交感神経系が活性化し,闘争・逃走反応に代表される能動的な防衛システムに切り替わる。ビジネスパーソンの多くは,ここで「頑張る」「残業する」「効率化する」という形で対処しようとする。しかし終わりの見えない業務量,即レス文化,常時評価される環境の中で,闘うことも逃げることもできない状態が続く。
そして神経系が「これ以上の(交感神経系での)対処は不可能」「生の脅威」と判断したとき,進化的に古い防衛システムである背側迷走神経複合体(以下,背側)が活性化する。もちろん,いきなり捕食されそうになると言ったような文字通り命が危ない事態が,職場でいつも起きているということではない。群れで生きる人間にとって,社会生活の中で,否定される・非難される・恥をかかされる・支配される・無力感を感じる・孤立させられる・疎外される・排除される・いじめられる,というような状況は「社会的な生の脅威」(津田,2022)と身体的に認知され,背側が活性化してシャットダウン状態に至ると理解できる。
職場を見回してみると,会議でダメ出しされること,人前で指導されて恥をかかされること,評価によって給与が減る可能性があること,各種ハラスメントの被害者や加害者になる可能性など,現代の職場には「社会的な生の脅威」があふれている。
PVTにおいて,「吐き気(悪心)」や「嘔吐」は,背側が司る,生命を守るための原始的な防衛システムとして位置づけられる(津田,2019)。背側は主に横隔膜より下の臓器,つまり消化器系を支配しているため,この反応は消化機能の停止として現れる。「今は食べている場合ではない」という神経系の判断が,吐き気,胃もたれ,食欲不振,腹痛などの症状として体験されるのだ。
吐き気や腹痛は,「弱さ」の表れではなく,神経系が発する正直なメッセージである。「これ以上この環境にいると危険だ」という身体の知恵なのだ。
このようなPVTの説明を聞いて,長らく疑問だった「吐き気」のメカニズムがようやく理解できた。
6.ビジネスパーソンが置かれている環境
交感神経から背側への防衛システムの切り替えは,危険や生の脅威に対して瞬時に起こるだけではない。心身に慢性的な負荷が掛かると,長期間の交感神経優位——頑張り続ける状態——の後,エネルギーが枯渇し,神経系が強制的にブレーキをかけるように背側に落ちる。
それでは,現代のビジネスパーソンが置かれている,心身に慢性的な負荷が掛かる環境とはどのようなものだろうか? 私たちが「普通」「当たり前」だと思っている現代の生活は,実は「動物としての人間」にとっては極めて不自然なものであることを改めて確認してみたい。
表1 現代社会に潜むベーシックストレス(上谷,2026)
| 時間に追われる | ●体内時計を無視して朝のアラームで無理やり起こされる ●決まった時間に家を出て,電車の時刻に合わせて行動する ●仕事中に会議や納期など常に時間に追われている ●休憩時間も時間で区切られる(休みたいときに休めない) ●残業で帰宅時間が遅くなる |
| 移動・交通 | ●電車で他人と密着する。通勤ラッシュの人混みを歩く ●交通機関の混雑や遅延に巻き込まれてイライラする ●道路の渋滞にイライラしたり駐車場を探し回ったりするための労力 |
| 職場での人間関係 | ●上司・部下・同僚の評価が気になる ●会議で発言を求められる重圧 ●苦手な人とも協力しなければならない ●飲み会などの職場の付き合い ●他人のペースで仕事を進める ●どんどん要求度が高まるマネジメント能力 ●自分の言動がハラスメント認定されるかもしれないという緊張感 |
| 社会的な期待・役割 | ●上司の機嫌を常に気にする ●同僚との競争意識 ●「いい人」を演じ続ける ●年齢相応の成功を求められる感覚 ●結婚・出産・マイホームなど人生イベントへの重圧 ●「男らしく」「女らしく」の期待 |
| 情報・デジタル社会 | ●常にスマホをチェックしていないと不安 ●メールやLINEにすぐ返信しなければというプレッシャー ●ニュースで毎日ネガティブな情報を浴びる ●SNSでの「いいね」の数を気にする ●新しい技術から遅れないようにする焦り ●不自然に明るいLED画面を直視し続ける |
| 食生活 | ●決まった時間に食事を取る(お腹が空いていなくても) ●短時間で食事を済ませる ●栄養バランスを考えなければというプレッシャー |
出典4)
いかがだろう? 改めてじっくり考えてみると,現代のビジネスパーソンはかなり過酷かつ不自然な,常に交感神経を活性化させていないと生き延びられない環境に,日々,置かれていると感じないだろうか? この表を眺めているだけで,吐き気がしてきた読者もいるかもしれない……。
本稿は「職場における生きづらさ」がテーマであるが,筆者は産業医・研修講師として,管理職や経営者の悩みを聴く機会が多いため,特に部下を持つ管理職と経営者にフォーカスした生きづらさについても言及しておきたい。
7.管理職・経営者の生きづらさ
●部下を持つ上司の立場の人が感じる生きづらさ
管理職の面談で見えてくるのは,スタッフ層とは別の種類の生きづらさである。彼らは評価する側として,部下の人事考課を行わなければならない。しかしここに,神経系レベルでの根本的な矛盾がある。
腹側は,共感的なつながり,温かい関係性の中で活性化する。管理職の多くは,本来人として部下に共感し,支えたいと思っている。しかし組織のシステムは,彼らに「評価者」としての役割を求める。共感と評価——この二つは神経系のレベルで相容れない。共感的につながろうとすれば評価が甘くなり,厳格に評価しようとすれば共感的なつながりが失われる。この板挟みの中で,管理職自身の神経系は慢性的な緊張状態に置かれる。
また,部下のメンタル不調による休職は管理職にとってトラウマティックな体験となりうる。ある日突然,部下が「もう限界です」と涙を流したとき,あるいは「要休業」を書かれた診断書を持参したとき,多くの管理職は強い自責感に襲われる。「自分がもっと早く気づいていれば」「自分の管理が悪かったのではないか」。この自責感は,ときに無力感と恐怖を伴う。「また誰かが倒れるのではないか」という予期不安が,次の部下への接し方を変える。過剰に気を遣い,過干渉になるか,あるいは逆に距離を取り,関わりを避けるようになるかもしれない。
複数の休職者を出そうものなら,組織からは,しばしば「管理不足」という暗黙の非難が向けられる。人事面談で「なぜ早く気づかなかったのか」「部下の管理はどうなっているのか」と問われる。誰にも相談できない。上司に話せば評価が下がるかもしれない。同僚の管理職も皆,同じように苦しんでいる。……この孤立感が,管理職の神経系への負荷をさらに深める。
●経営者が感じる生きづらさ
経営者の面談は,産業医として最も難しいものの一つである。彼らは組織全体の責任を負っている。従業員の生活,取引先との関係,株主への説明責任。そのプレッシャーは計り知れない。
さらに深刻なのは,人を「人的資源」として管理しなければならない構造と,人としての共感との間の葛藤である。経営の観点からは,効率化,コスト削減,生産性向上が求められる。しかし一人ひとりの従業員には,家族があり,人生があり,苦悩がある。この二つの視点の間で,経営者の神経系は引き裂かれる。
経済的成果と従業員の健康——この二つは,理念的には両立すべきものだが,現実には深刻なトレードオフとして経験される。特に金融資本主義の下では,短期的な成果,四半期ごとの業績,株価への影響を常に評価される。長期的な視点で従業員の健康や育成に投資したくても,それが短期的な数字に表れなければ,株主や市場から批判される。
そして何より,経営者は孤独である。部下には弱音を吐けない。リーダーとして強くあらねばならない。しかし誰に相談すればよいのか。同業他社の経営者は競合相手であり,本音は語れない。家族に話しても理解されない。社外取締役や顧問も,結局は外部の人間である。
この孤独の中で,経営者自身の神経系も徐々に疲弊していく。常時,過覚醒状態で,休むことや眠ることが難しくなるかもしれない。やがて背側のシャットダウンへと向かう。
8.おわりに
ポリヴェーガル理論の視点に立つと,職場における生きづらさや適応障害は,「治すべき症状」以前に,「これ以上は危険だ」という神経系からの切実なサインとして立ち現れてくる。そこに必要なのは,さらに頑張らせることでも,正しさを教えることでもない。安全が回復する関係性と環境である。
スタッフ,管理職,経営者———誰もがそれぞれの立場で神経系をすり減らしている現代の職場において,対人支援職に求められているのは,環境と神経系をつなぐ翻訳者としての役割なのかもしれない。
また,「過酷な現代社会の中で普通に生きて,仕事をしているだけでも,“からだ”は充分にがんばっているんだよ」とはたらく人々をたっぷりとねぎらうことは,すぐにでもできることであろう。
そして,そのためには,私たち対人支援職自身が自分を大切にし,自分を愛し,しっかりとねぎらえるようになっていくことが,持続可能な支援を続けるためのはじめの一歩となる。
本稿が,その視点を共有するための小さな足がかりとなることを願っている。
文 献
- 津田真人(2019)「ポリヴェーガル理論」を読む—からだ・こころ・社会.星和書店.
- 津田真人(2022)ポリヴェーガル理論への誘い.星和書店.
- 上谷実礼(2025)心を病む力—生きづらさから始める人生の再構築.東洋経済新報社.
- 上谷実礼(2026)30分で成果を出す! 全肯定保健指導—否定しない対話で変化を生む,カウンセリングの基本と実践.メディカ出版.[2026年3月末刊行予定]
上谷実礼(うえたに・みれい)
ヒューマンハピネス株式会社
資格:産業医・公認心理師
主な著書:
『心を病む力:生きづらさから始める人生の再構築』(単著,東洋経済新報社,2025)
『アドラー流“勇気づけ”保健指導』(単著,メディカ出版,2017)
『自分のことも,相手の心もよくわかる!しあわせのレッスン』(監修,KADOKAWA,2021)など
趣味:愛犬と遊んで自分が動物であることを思い出す






