こころをつなぐ災害支援(5)田起こしの日に──東日本大震災からの心の復興支援に携わって|富松良介

富松良介(岩手県スクールカウンセラー)
シンリンラボ 第26号(2025年5月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.26 (2025, May.)

はじめに

このリレー・エッセイは,災害支援に関心を寄せ,あるいは実際にその現場に携わった心理士たちが,自身の体験を順に綴っていくものです。私は岩手県において,スクールカウンセラーとして東日本大震災からの心の復興支援に携わってきました。その体験の一端をここに綴ることで,次にバトンをつなぎたいと思います。

まず本題に入る前に,リレー・エッセイの背景にある問題意識を私なりに述べます。また東日本大震災と私の仕事の概要に触れてから,体験を綴っていくことにします。

臨床の語り──阪神淡路大震災から30年の節目に

リレー・エッセイの背景には,青山(2025)が第1回で述べているように,災害支援を一部の心理士が身につけるべき特別な知識や技術に留まらせず,誰しもがこれから関わり得ることとして,その裾野と支援者の輪を広げていこうとする目的があります。換言すれば,災害支援のうちに,心理臨床にとっての「普遍的なもの」を見出そうとしています。こうした批判的思考は,実は今から30年前に芽生えていました。

今年(令和7年)は阪神淡路大震災から30年の節目です。精神科医の安克昌は,その復興支援に従事した体験をまとめたルポルタージュのなかで,こう述べています。

“心の傷を癒すということ”は,精神医学や心理学に任せてすむことではない。それは社会のあり方として,今を生きる私たち全員に問われていることなのである(安 1996/2011, p.259)

安は,災害支援を特定の専門分野に任せるのではなく,社会全体が災害後の人々のケアを担うべきであると考えました。精神医学や心理学だけが災害支援に特化するのではなく,「社会のあり方」そのものが変わらなければならない。医療保健,教育,心理,福祉,司法などの専門家の協働はもとより,行政や民間,地域コミュニティを含めた社会が,ケアの主体として発展することを,安は一精神科医として構想していたのです。

一方で,安は「なぜ他ならぬ私に震災がおこったのか」「震災を生き延びた私はこの後どう生きるのか」といった被災者の問いに触れて,次のように述べています。

「この問いには答えがない。それは発する場をもたない。それは隣人としてその人の傍らに佇んだとき,はじめて感じられるものなのだ。臨床の場とはまさにそのような場に他ならない。そばに佇み,耳を傾ける人がいて,はじめてその問いは語りうるものとして開かれてくる。これを私は「臨床の語り」と呼ぼう。その意味で,私は被災という個人的な体験に関心を持ち続けたいと考えている」(安 2000, p.324)

安はただ社会の成熟を期していたのではなく,あくまで一人の声なき声にそばで耳を傾けることに原点を置いていました。ケアの主体たる社会は,一人ひとりの「個人的な体験」に立脚して,実現されなければならない。「臨床の語り」を聴くことを通して,「個から普遍へ」と至ろうとする視座は,私たちの心理臨床と同じくするものでしょう。

被災者の「個人的な体験」は,当然のことながら支援者のそれと表裏一体です。したがって,私も「個人的な体験」から始めたいと思うのです。

東日本大震災津波と巡回型カウンセラー

2011年3月11日(金)14時46分頃,三陸沖・牡鹿半島の東南東約130km付近を震央とする巨大地震が発生しました。震源の深さは24km,規模はマグニチュード9.0,岩手県の最大震度は震度6弱を記録し,大津波が三陸沿岸を襲いました。岩手県全体で死者数は5,145人(災害関連死含む),行方不明者は1,110人,家屋倒壊は26,079棟にも及び,甚大な被害をもたらしました(令和5年5月現在)。同じ東北の宮城県や福島県をはじめ,その被害と影響が東日本全体に及ぶ未曾有の大災害でした(なお岩手県では「東日本大震災津波」と表記するのが慣例となっています)。

岩手県は「東日本大震災津波復興基本計画」を策定し,復旧復興を進めてきました(平成23〜30年)。もちろん,心のケアもこの計画に含まれます。令和の時代に入ってからは,「いわて県民計画(2019〜2028)長期ビジョン」に引き継がれ,現在はその「第2期復興推進プラン」(令和5〜8年)の最中です。「安全の確保」「暮らしの再建」「なりわいの再生」「未来のための伝承・発信」を4本の柱として,進められています。

つまり,発災から14年目を迎えた現在(令和7年3月)も,復興のプロセスは進行中なのです(ちなみに,国の復興計画では「第2期復興・創生期間」を定めており,令和7年度はその最終年度です)。

岩手県教育委員会は2011年当時,被災地に居住しながら復興支援に当たるスクールカウンセラーを全国公募しました。沿岸部の3つの教育事務所を拠点とし,管内の小中学校を広く支援する「巡回型カウンセラー」です。京都に住んでいた私は,この仕事のために2014年に岩手県の宮古市へ移住しました。宮古市は本州最東端に位置する海辺の街です。

発災後,被災地に派遣された支援者には「緊急派遣スクールカウンセラー」もあります。こちらが他自治体からの短期間の派遣(多くは週単位での交代制)であるのに対して,「巡回型カウンセラー」は,半ば生活者として被災地で長期支援を行う点に特徴があります。

それでは,本題に入りましょう。私の「個人的な体験」としての,あるエピソードです。 

写真①「三陸の夜明け」(著者撮影)

1.エピソード──田起こしの日に

あの震災からしばらく経った年の4月のある日,三陸沿岸を南北に貫く国道45号線に沿って,車を走らせていました。あちこちに剝き出しになった家建物の基礎部分が,否応なく目に留まります。大型トラックが通りを激しく行き交っています。ここで何が起こったのか,知識では分かっていても,とても想像が追いつきません。荒涼とした街並を横目に,私はハンドルを山側へ向けました。ある小学校を訪ねるためでした。

児童数がわずか十数人ばかりのその小学校は,四方を山に囲まれた農村の片隅にひっそりと佇んでいました。スクールカウンセラーを迎えるのは初めてのことだと事前に伺っていました。玄関で出迎えて下さった副校長先生が,挨拶を早々と済まされ,こう仰いました。

「これからタオコシを子どもたちとするのですが,一緒にいかがですか?」

「え? はい。是非やらせてください」と私はその意味も分からぬままに応じてしまいました。タオコシとは一体,何だろう。私の仕事は誰かの心の相談に乗ることですが,思わぬ誘いにまず乗ってみるのも面白そうだ,と自分に言い聞かせました。

ゴム長靴を履いたジャージ姿の子どもたちと先生方の列に加わって,校舎を出発します。プールの脇から小道が外へ通じていて,少し歩くと小川のせせらぎが聞こえてきました。草花芽吹く野山が目の前に広がります。そして,乾いた田んぼに一面,稲穂を刈り取られた稲株が剥き出しになっていました。

田んぼの周りには,保護者と地域の方々が先に集まっていました。どうやら「タオコシ」は総出で行われるようです。陣頭指揮を執られるのは農家の方で,作業の工程と注意点を教えて下さいました。その初老の男性は朴訥として,言葉での説明は苦手そうでしたが,そこにいる人々の信頼を一身に集めていることは,私にも伝わってきました。

春の初めに田んぼの乾いた土を掘り返す農作業を,「田起こし」と呼ぶことをそこで知りました。ひと昔前までは牛馬を引いて行っていたそうですが,今はトラクター1台で済ませてしまえるとのことです。でも,この小学校では米作りを体験学習に取り入れ,自らの手でそれを行うことを大事にしているようでした。

6年生の児童がまず率先して田んぼに足を踏み入れます。鋤や鍬も持たずにどうするのかと思えば,稲株を手で引っこ抜いて,根っこを天に向けてひっくり返します。すると,土がこんもりとほぐれるのです。なるほど,と私も試してみますが,稲株は根をかたく張っていて,腕先の力では到底抜けません。子どもの真似をして腰に力を入れてみると,稲株が気持ちよく抜けました。不思議と身体から強張りが抜けるような気がします。低学年の児童たちは,土から顔を覗かせる蛙やミミズのほうに夢中です。

都会育ちの私は,田んぼ作業など一度もしたことがありませんでした。そこで「なぜ田起こしをするのですか」と農家の方に尋ねてみますと,「土の中に悪いガスが溜まっているから,土を掘り返して,そのガスを抜いてあげるんです。するとお米がよく育つんです」と教えて下さいました。秋に豊かな実りをもたらす土に,悪いガスが溜まっているとは思いもせず驚きました。悪いガスとはいったい何だろう。私は頭をひねりました。

何かが実るということは,負の何かが裏に溜まることでもあるようです。再び実りを得るには,その負のものを解放させてあげる必要があるようです。自然の知恵に私は感心しながら,心のことにも通じる何かを感じていました。子どもも先生方も保護者と地域の皆さんも一緒になって,その日,田んぼの土をこんもりと柔らかに仕上げることができました。

以来,私がこの小学校に勤務する日にはなぜか,田んぼ作業の予定がよく組まれていました。代掻きや除草なども手伝うことになり,秋には収穫祭を兼ねた学習発表会に参加しました。お雑煮と餅とが地域の方々に振る舞われ,子どもたちは郷土芸能の鶏舞で祭を盛り上げてくれました。自ら育てたお米は最高に美味しく,心に残るお祭りとなりました。

すると,その頃から私のもとに相談がよく来るようになったのです。子どもの登校渋りやそだちの相談,中には地震や津波の体験に根差した心身の悩みの相談もありました。私はカウンセリングやプレイセラピーなどの心理療法を,そこから少しずつ始めたのです。

2.出会い,学び,共に生きる──3つの時間をめぐって

このエピソードは,私の災害支援のはじまりであり,その後も幾度となく思い出される体験の一つです。以下,この「個人的な体験」を基に,災害支援における心理臨床の意義を探っていきます。また心理臨床が社会とどうつながっていくのか,そのことを合わせて考えるためにも,「時間」に関わる3つの軸を補助線に引いてみます。

1)時期 phase/period

被災地は今,どういう頃だろう。人々は何に困り,いったい何を求めているのだろう。こちらにはどんな用意と覚悟が必要だろう。支援者は誰しも,まず自身にそう問うはずです。

私が被災地を訪れた頃は,震災の瓦礫が概ね撤去されて,更地がどこまでも広がっていました。その静けさを引き裂くかのように,道路を行き交う大型トラックの音が響き渡っていました。これから生活をどう建て直していけばよいか,失われたものと先々の課題の大きさに圧倒され,復旧作業の遅れにやきもきしたり,途方に暮れたりしていた頃でしょう。

災害支援では,急性期(acute phase)のストレス,ハネムーン期(honeymoon period)や幻滅期の気分の変調や人間関係の変化などが,しばしば話題となります。発災から72時間,1カ月や1年など,刻々と移りゆく時間と状況のなかで,いかに被災者の命と生活の安全を第一に確保して,心身の位相的な変化をアセスメントし,臨機応変に関わっていくかが肝要とされます(私が訪れたのは,幻滅期から再建期のあいだと言えるでしょうか)。

こうして時計の針やカレンダーを目で追うように時間とその位相を捉える軸を,私は「時期(phase/period)」と呼ぶことにします。そこには意図と目的,計画と方法が伴います。支援者は予測を立てながら,客観的に事象を掴もうとし,集団一般に対して科学的に根拠のある方法を講じていくでしょう。サイコロジカル・ファーストエイドはその典型です。

ただ,ここで大切なことは,支援者もまた傷つき,ストレスや緊張を体験するという理解です。つねに客観的で,完全無欠な存在などではいられません。私も身体がとても緊張し,途方に暮れた感じを抱いていました。被災地の人々への支援は,支援者自身への支援と,同時に行われる必要があります。でも,それはいかにして可能でしょうか。

その時,私が出会ったのは意図しない出来事であり,また新しい方法だったのです。

2)時機 chance

震災による大地の傷跡を目の当たりにして,身体を強張らせ茫然としていた私は,学校で「タオコシ」という聞いたことのない作業に誘われました。まったく意図しなかったことでしたが,私はその求めに応じてみました。その先には,もう一つの大地が広がっていました。

田起こしとは,大地を掘り起こし,再びそこから実りを得るための方法でした。子どもの真似をして稲株が抜けたとき,私の緊張もすっと抜けました。田起こしは心身の回復にも関係していそうです。また「土の中に悪いガスが溜まっている」という話は,自然の光と影の両面を物語っているようでした。地震も津波も,自然そのものです。同時に,それは心についての話のようにも聞こえました。心にもガスは溜まるのではないでしょうか。心の復興支援の知恵は,今この足で立っている土に見出せるかもしれない。私はそう直観しました。

「時期 phase/period」の災害支援では,意図と目的,計画と方法が先行すると上に述べました。しかし,先走った意図と目的は操作的に,臨機応変を失した計画と方法は侵襲的にはたらきかねません。そうならないように,心理臨床では,相手との出会いにおける偶然性と関係性を大事にします。こちらの計画や方法を持ち込む前に,相手の声に耳を傾けます。より正確に言えば,私と相手との関係性が,その時に必要な方法をおのずと決めていくのです。こうした時間の捉えを,私は「時機 chance」と呼ぼうと思います。

もちろん,無計画で何でもあり,相手の言うまま,でよい訳ではありません。山を登るのに地図とコンパスが必要なように,ある程度の展望と方法を持ち合わせつつ,「発見的」な態度に開かれていることが大切です。相手(個)との関係性を重んじ,偶然そこに立ち現れるものを活かす。私とこの学校のあいだでは,たまたま「田起こし」が選ばれたのでしょう。

3)時季 season  

田起こしから収穫祭まで,私は一連の農作業を共にしました。岩手県の特に沿岸部の学校では,どこも郷土芸能が盛んです。剣舞,七つ舞,鹿踊り,虎舞,さんさ,太鼓など,どの学校にも必ずと言ってよいほど,長く受け継がれている芸能とその行事があります。農業や漁業など自然との付き合いのなかで生業を営み,学校も地域と共に五穀豊穣や大漁祈願を祝ってきました。児童たちが私に披露してくれた鶏舞も,その一つです。

しかし,東日本大震災はそのような郷土芸能と生業にも,打撃を与えました。津波は田畑に深刻な塩害をもたらし,多くの人命と共に郷土芸能の道具類さえ奪い去っています。

四季の営み,農作業や祭りなどは,「コスモロジー」の次元に関わるものです。災害支援は,時期(phase/period)に合わせて集団一般に講じられるだけでなく,また時機(chance)を捉えて個人を尊重することはもとより,社会とそのコスモロジーにも目を向けねばならないと私は考えます。そのためには支援者もまた四季を味わい,その営みに参画していく必要があるでしょう。これを私は3つ目の時間として,「時季(season)」と呼ぼうと思うのです。

田起こしとは,自然の光と影,死と再生を深く理解し,大地を再び実らせることです。それは一人では決してできません。子どもも大人も「総出」で行うものでした。コスモロジーのケアは,社会が総出で行うものではないでしょうか。私は田起こしと祭りを通して,コスモロジーの傷に触れ,その回復への道を共に体験していったように思います。

表:災害支援における3つの時間軸とその要点

時期 Phase/Period時機 Chance時季 Season
時間意識因果的共時的反復的(円環的)
生きられる時間外的・経時的変化内的・啐啄同時四季,死と再生
アプローチからだの見立てカウンセリング参画(祭り/遊び)
対象集団一般 個人社会(共同体)
相対する事象ストレス・トラウマ全人的な悩みコスモロジーの傷
支援者のスタンス意図的介入/連携出会い/待つこもり/無心
要諦臨機応変発見的身を委ねること
盲点操作的・侵襲的無意識の破壊性支援終結の難しさ

3.スクールカウンセラーと災害支援 

ところで,私はスクールカウンセラー(以下,SC)として復興支援に従事してきました。SC(学校臨床)と災害支援がどう結びつくのか,その意義を少し考えてみます。

東日本大震災だけでなく,その後の熊本地震(2016年)や能登半島地震(2024年)でも,SCは被災地に派遣されており,災害支援に定着しつつあります。その理由は,子どもが災害弱者であり,誰よりも早く,手厚く守られねばならない存在だからでしょうか。

災害時に避難所となり,子どもや地域の人を守る場の一つが「学校」です。学校は,日常も,災害の非常時も,再び日常を取り戻した後もずっと,子どもを守る社会の一角を成します。ゆえに,災害時には学校という社会が機能し続けられるように,力を合わせて支えなければなりません。具体的には,教師たちとの協働です。そのためのSCだと私は考えます。

かつて河合(1995)は,知識や技能を子どもに「教える」教師に対して,SCは子どもが「育つ」ことを重んじる専門家だと述べました。現象のなかに自らを置いて,発見的な態度でいる。そして余計な手を出さず,子どもの成長可能性を信じて待つことに心のエネルギーを注ぐのが,SCの役割だというのです。

これは教師とSCの専門性の違いを強調するためだけではなく,むしろ両者の協働によって,子どもの教育はより豊かになる,という発想が含意されていると私は思います。

田起こしは,農家の方が教えるところの「お米がよく育つ」ための,自然の知恵に根差した方法でした。植物の稲が育つさまは,「子どもが育つ」イメージと重なります。SCである私の災害支援は,子どもに何かを「教える」ことではなく,その土地から知恵を学び,子どもが「育つ」のに,教師と共にそれらを生かすことにあったと思います。

写真②「三陸を歩く」(著者撮影)

さいごに 

ここで田起こしの一場面に戻ります。土に溜まった悪いガスとは何だろう,お米が育つためにそのガスを抜くとはどういうことだろう,と頭をひねっていたときです。私と農家の方のやりとりを傍らで聞いていた小さな男の子が,ふと顔を上げてこちらをじっと見つめています。そして,にっこりして,こうツッコミを入れたのです。

「じゃあ,田んぼのおならだね」

田んぼじゅうが笑いに包まれました。私もつい大笑いしてしまいました。まるで心の奥に溜まったガスが,すっと抜けていくかのようでした。なんということでしょう。その子どもは,私を含むその場にいた人々の「心に溜まったガス」を,「いま,ここ」で,たったのひと言で解放させてしまったのです。これに勝る心の復興支援は他にあるでしょうか。柔らかくほぐされた田んぼには,頬を優しく撫でるように,暖かな春の風が吹き渡っていきました。

東日本大震災からの復興支援に携わって,あの田起こしの日から10年以上の歳月が経ちました。今,私は思います。子どもは単にケアされるべき災害弱者ではなく,復興の主人公であると。それは心理臨床において,クライエント自身がその心の回復の担い手であることと同じでしょう。災害支援はその点で,特別ではなく,心理臨床に普遍的です。

鶏舞を披露してくれた子どもたちは,その後,厳しい雨風にもよく耐え,稲穂のようにすくすくと育ち,学び舎を巣立っていきました。街は高く盛り土をされ,新しい道路がその上を通り,家々が建ち並び,新たな賑わいが生まれ,当時とは見違えるほどです。しかし,ここで何が起こったのか,外見上は分かりにくくなりました。それゆえ,より想像力を深め,防災への意識を高める努力が今求められています。

これからも災害は必ずやってきます。今もなお続く災害もあります。私たち心理士は,災害が襲ったとき,3つの時間すなわち「時期」「時機」「時季」を生きながら,その土地に眠る自然の知恵を発見し,人々や子どもたちの心が「育つ」のを待つ専門家です。その心の力は,傷ついた社会がケアの主体として生まれ変わっていくための,原動力になるに違いありません。心の奥底からその力が生まれ育つのを信じて,「臨床の語り」に耳を傾けながら,そばに居続ける。それは心理士だからこそ,できることなのです。

いかがでしょう。あなたも田起こしから,始めてみませんか。

謝辞

このたび原稿執筆の許可を頂きました岩手県教育委員会・宮古教育事務所に感謝致します。また共に復興支援に携わってきた岩手県スクールカウンセラーの皆さま,いわて子どものこころのサポートチームの皆さま,岩手県臨床心理士会の皆さまに感謝致します。 

そして最後に,これまでご縁を頂きました岩手県内の小中学校・高等学校・特別支援学校の児童生徒の皆さま,保護者と地域の皆さま,教職員の皆さまに心より深謝致します。

文  献
+ 記事

富松良介(とまつ・りょうすけ)
臨床心理士
京都大学大学院 教育学研究科 博士後期課程 単位取得退学・卒業
現在,岩手県教育委員会 宮古教育事務所 エリア型カウンセラー
いわて子どものこころのサポートチーム委員,岩手県臨床心理士会 理事

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