熊谷珠美(HEARTカウンセリングセンターConnect)
シンリンラボ 第36号(2026年3月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.36 (2026, Mar.)
1.なぜ「身体」の視点が必要なのか
先日,父の手術に際して心臓外科医と話す機会があった。医師は「心臓が元気になっても,連動している肺や腎臓といった他の臓器も元気に機能していなければ,システム全体は働かない。むしろ心臓だけが元気になると,弱っている肺や腎臓などに過度な負担をかけて困ったことになってしまう」と教えてくれた。だからこそ,バイタルサインをモニターしながら全体のバランスを見て治療を進めることが重要なのだという。
私は,心の回復も同様であると感じた。思考や感情,そして身体は密接に連動しているが,心理職は時として身体を「置いてきぼり」にしやすいのではないだろうか。たとえば職場復帰を目指す人がいたとする。面接の場では理路整然と語り,深い洞察も得ている。しかし相談後にはなぜか強い疲労に見舞われ,数日動けなくなることを繰り返すクライエントもいる。よく観察すると,語りながら両膝の上で拳を強く握りしめ,呼吸は浅く,肩は首元まで上がっていることがある。思考や感情の整理が進んでも,身体は別の「物語」を訴えていたかもしれない。
性被害臨床では「身体」の視点を切り離して考えることは難しい。性被害とは,身体そのものが「被害の現場」となる出来事だからである。被害後に表れる反応も,強い緊張が続く状態(過覚醒)や,現実感が薄れる感覚(解離),意図せず体験がその時の身体感覚ごと蘇る反応(侵入症状/フラッシュバック)など,身体反応を伴うものが多い。また,頭と身体がずれているような体験も少なくない(斎藤,2022)。声を上げたいのに声が出なかった,といった経験は,まるで自分の身体が裏切ったように感じられ,混乱や自罰の感情につながりやすい。
このように,性被害臨床で「身体」の視点を回復の取り組みの中心に据える必要性は明らかであるが,一方で,性被害を体験した当事者にとって,身体を感じること自体が恐怖で避けたいことであったりする。また,感じようとすると凍りつき反応が出てしまい,そもそも身体にアクセスしづらいことも多い。
こで重要なのは,単に症状に対処するだけでなく,性被害によって奪われる「自分の身体が自分のものである」という感覚を取り戻し,自分の身体に安心して居られるようになることも回復の主要な目標に据える視点である。では,そうした「身体の声」を,支援者はいかに関わりに生かしていけるだろうか。
2.支援者が手にする神経系の「バイタルモニター」
性被害臨床は複雑であり,単純なマニュアル化が難しい領域である。「あなたは悪くない」という,支援でよく使われるメッセージでさえ,強い恥の中にいる人には逆に辛さを増幅させる可能性がある。ここで重要なのは「何を言うか」ではなく,「いつ,何を,どう言うか」だ。
ポリヴェーガル理論は,この見極めを「自律神経の状態」という枠組みで可視化した(Porges, 2017;津田,2017)。私は便宜的にこれを「ポリヴェーガル・バイタルモニター」と呼ぶことがあるが,外科医がバイタルモニターを見ずに手術しないように,私たち心理臨床家も,クライエントの身体が発するサインに気づきながら,「急ぎすぎていないか」,「刺激が強すぎていないか」など,確認しつつ進めていけば,臨床の安全性は高まっていくはずだ。
このモニターにはもちろん特別な機械は必要ない。呼吸の深さ,声のトーン,顔色,姿勢の変化,視線の動きなどのサインに気づいていくことが出発点となる。「いまこの瞬間に,この人の身体はどのモードにいるのか」と意識を向けること自体が,バイタルモニターを立ち上げる。また,クライエントだけではなく,支援者自身の身体反応にも気づくことも大切だ。支援者の緊張や焦りなどが,相談の場の安全に影響しうるからである。
もし,被害体験を語り始めたクライエントの応答が鈍くなり,ぼんやりしてきたら,身体が背側迷走神経の方向へ移行し始めたサインの可能性がある。それに気づいたら,一旦話を止め,周囲を見渡して「いまここ」の安全を一緒に確かめたりするなど,介入を切り替えると良いだろう。このように,神経系の状態に合わせて適切に対応を調整できるようになる。
このような相手の状態を読み取る技は,これまで,いわゆる力量のある臨床家たちが,経験や訓練から培われた「勘」などで自然に行ってきた領域のものだ。ポリヴェーガル理論はそれを,学習と共有が可能なモデルとして誰でも使えるようにしてくれた。その功績は大きい。それは,身体志向の心理療法を使わない人でも,安全な臨床の基盤を築くのに役立つ。アメリカのワシントン州では,性暴力被害者対応を行う警察官は,事情聴取を被害者と警官双方が安全に実施できるように,神経系の知識や,安定化のためのスキルの研修を受けるのだという(Wallace, 2023)。
3.被害当事者が自分の身体と出会い直すとき——和解と自責からの解放
ポリヴェーガル理論は,性被害を経験した人にとってはどんな恩恵をもたらすのだろう。第一には,自分の身体反応を「病理」ではなく「生き延びるための最善の戦略」として捉え直せる点が挙げられる。
身体が動かなくなる「凍りつき反応」や,身を守るために加害側に従順にふるまう「迎合反応」を経験した場合,当事者は自分も「共犯」であったかのように感じやすくなる(Walker, 2013;;Lodrick, 2007)。強い罪悪感や恥の意識は,それが本人の意志ではなく,神経系が生き延びるために懸命に選んだ「生存戦略」であったと理解することで,和らぎ始めることが多い。
たとえば,被害当時に声を出せなかったことを「情けない」と繰り返し語られる場合,声を出せなかったときの身体感覚にやさしく注意を向けてもらうと,喉のあたりがきゅっと締まる感覚が出てくることがある。声を出さないことが実は生存可能性を高める身体の知恵だという視点を共有すると,喉の緊張がゆっくり緩み,落ち着きが戻ることがある。このように「責める対象」だった身体が,「一緒に生き延びてきた存在」として再定義されていくことも珍しくない。
第二に,被害後も長く続くさまざまな症状に対しても,やさしい視線を向けられるようになる点である。通常,危機が去ると身体は防衛モードから抜け出ていくが,身体が「まだ危険が続いている」と誤って判断し,防衛モードから抜け出せなくなることがある。私はこれを,戦争が終わった後もそれを知らず,長く身を潜めて警戒を続けた兵士の姿に重ねることがある。症状が続くのは,まだ危険が続いていると思いこんで,なんとか当事者を守ろうと懸命に頑張っているだけなのだと理解できると,嫌悪よりも,自分の身体へのねぎらいや感謝に変化し始めることがある。
さらに,神経系の状態を意識的に変化させられるという知識は,当事者を力づける。たとえば,ミラー・カラスMiller-Karas(2023)らのコミュニティ・レジリエンシー・モデルというプログラムでは,「自分が大丈夫でいられる範囲(大丈夫ゾーン)」という考え方や,その範囲から飛び出たときに戻るための具体的なスキルを教えているが,失われた主体性の回復に直結しうるものだ。性被害は,身体も状況もコントロールできなかったという無力感を伴いやすい。そのため,呼吸や感覚に働きかけ,「自分で自分の状態を戻せる」という体験は,人生のハンドルを握り直すような確かな力になるだろう。こうした小さな体験の積み重ねで,自分の身体と共にいることが少しずつ可能になっていく。ポリヴェーガル理論は,そのプロセスを支える地図として,当事者や支援者を支えている。
4.これからの性被害臨床——協働とウェルビーイング
最後に,これからの性被害臨床の展望と,私たち臨床家に求められる姿勢をまとめておきたい。
1)「全体を見る」——トラウマを身体全体の文脈で捉える
冒頭の心臓外科医を思い出してみたい。心臓外科医は高度な技術を持ちながらも,心臓だけをよくすればよいのではなく,他の臓器や全身状態を含めて治療していく視点を大切にしていた。十分な準備を行い,手術中もバイタルモニターで状態を確かめながら,患者の身体と対話するように治療を進めていく。その根底には,何より,回復の主体は患者本人であるという揺るがない敬意が流れていた。
ポリヴェーガル理論がもたらした重要な転換も,これと同じ世界線にあると言える。身体の状態を理解する共通言語を手がかりに,トラウマという「患部」だけを近視眼的に扱うのではなく,思考・感情・感覚・行動・記憶やイメージなど,その人を構成する全体を見ていくことの大切さを明確にしたのである。
2)「対等な協働」——治療関係のパラダイムシフト
もう1つの大きな変化は,治療関係を「対等な協働」へ,さらに進化させつつある点である。回復の主体は当事者であり,支援者の役割は回復させる人ではなく,当事者の回復力が引き出されやすい環境を共に構築するパートナーの位置づけが明確になりつつある。神経系の「バイタルモニター」を手がかりに,身体の言葉を共通言語として分かち合うことで,対話しながら回復の旅路を進めていけるのだ。
たとえば面接の中で「いま,どんな感じがするか」「どこに緊張を感じているか」を一緒に確かめながら,ペースやテーマを決めていく作業は,「自分の身体の声を聞き,その選択が尊重される」という新しい体験になっていく。なお,身体感覚に注意を向けることは,一部の当事者には却ってつらさを増幅させる場合もある。そのため,身体にアプローチするかどうかは,当事者自身の選択や準備状況を尊重しながら,一緒に検討していくことが欠かせない。このように,治療方針は専門家から指示されるものではなく,協働的に選びとり,回復の地図を一緒に描き進めていくものと今後ますますなっていくだろう。
3)「ウェルビーイング」—— トラウマ記憶処理は目的ではない
かつては「辛くてもトラウマ記憶を思い出し語りきることが回復に必要である」という前提が強調された時代もあった。その結果,準備が整わないまま過去に踏み込み,疲弊していくクライエントも少なくなかった。これからは,神経系の安定と安全を治療方針の一部として明確に尊重していく必要があるだろう。
また,回復の定義も広がってきている。記憶を取り戻したり言語化したりすることに固執しなくても良くなりつつある。例えば,記憶が断片化して思い出せなくても,身体の反応を手がかりに,身体が持つ記憶(潜在記憶)を扱うこともできることがわかってきた。トラウマ記憶を扱うかどうかも,当事者が選べるものである方が望ましい。記憶の処理は手段の一つであって,目的ではないからだ。回復や健康といったその人のウェルビーイングの向上が目指すゴールである。身体からアプローチする選択肢が加わったことで,認知的な記憶処理までいかなくても,相談を安心して卒業できる人も増えている。身体が十分に安定して「大丈夫ゾーン」が大きくなったことで,ウェルビーイングが改善したからだ。
そもそも,ウェルビーイングとは,症状が完全に消えることだけを指すのではない。ときにフラッシュバックや不安が顔を出しながらも,「その波から戻ってこられる」「助けを求められる」「好きなことや大切な人との時間を味わえる」など,色々あるけれど大丈夫なゾーンにとどまりやすくなる力が向上することと言えるかもしれない。性被害の経験は人生から消えないかもしれないが,それに人生の舵を奪われ続ける必要はない。自分のペースで,自分なりの豊かさを取り戻していくあり方こそが,ここで言うウェルビーイングの姿であり,これからの性被害臨床が目指していく方向性だ。
5.おわりに
性被害臨床で求められるのは,高度な専門性だけではない。クライエントの神経系と対話しながら,その人の大丈夫なペースで回復の道のりを共につくっていくことが重要である。それには,支援者が自分の「大丈夫ゾーン」を大切にしつつ,クライエントの身体と神経系への信頼のまなざしを携えて並走することは,被害者臨床をより安全なものにしていけるだろう。そうした実践が,性被害臨床のあり方を,より安全で敬意に満ちたものへと育てていくと私は信じている。
文 献
- 花丘ちぐさ・椹木京子・宮地尚子ほか(2021)なぜ私は凍りついたのか—ポリヴェーガル理論で読み解く性暴力と癒し.春秋社.
- Lodrick, Z.(2007)Psychological Trauma: What Every Trauma Worker Should Know.(オンライン資料)
- Miller-Karas, E.(2023)Building Resilience to Trauma: The Trauma and Community Resiliency Models, 2nd ed. Routledge.
- Porges, S. W.(2017)The Pocket Guide to the Polyvagal Theory: The Transformative Power of Feeling Safe. W. W. Norton & Company.(花丘ちぐさ訳(2018)ポリヴェーガル理論入門.春秋社.)
- 斎藤梓・岡本かおり(2022)性暴力被害の心理支援.金剛出版.
- 津田真人(2019)「ポリヴェーガル理論」を読む—からだ・こころ・社会.星和書店.
- van der Kolk, B. A.(2014)The Body Keeps the Score: Brain, Mind, and Body in the Healing of Trauma. Viking.(柴田裕之訳(2016)身体はトラウマを記録するー脳・心・体のつながりと回復のための手法.紀伊國屋書店.)
- Walker, P.(2013)Complex PTSD: From Surviving to Thriving. CreateSpace.(牧野有可里・池島良子訳(2023)複雑性PTSD生き残ることから生き抜くことへ.星和書店.)
- Wallace, J.(2023)The Community Resiliency Model (CRM) and Law Enforcement. In: Miller-Karas, E.(Ed.)Building Resilience to Trauma: The Trauma and Community Resiliency Models, 2nd ed. Routledge, pp.146-153.
熊谷 珠美(くまがい・たまみ)
Center for HEART/HEARTカウンセリングセンターConnect 代表。
資格:臨床心理士・公認心理師。
主な著書:『性虐待を生きる力に変えて』ガイドブックシリーズ(共編著,明石書店,2004-2005),『トラウマから恢復するためのPTSDワークブック』(共訳,明石書店,2009),『性暴力被害女性を対象としたサポートグループ—男女共同参画センターにおける実践から』(共著/分担執筆,日本トラウマティックストレス学会,2018),「男性の性被害はなぜ認知されにくいのか?」(分担執筆,『女も男も』No.134, 2019),「性虐待・性被害の心理支援—セクシュアルトラウマ・インフォームドケア(STIC)の提唱と試み」(分担執筆,『精神科治療学』第39巻7号,2024)ほか
趣味:納豆と卵と東京駅をこよなく愛しています






