私の本棚(30)『ナラティヴ・セラピー―社会構成主義の実践』(McNamee, S. & Gergen, K. J. 編,野口裕二・野村直樹訳,遠見書房)|田中ひな子

田中ひな子(原宿カウンセリングセンター)
シンリンラボ 第30号(2025年9月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.30 (2025, Sep.)

私の本棚には,いくつか同じ本が複数並んでいる。たとえば『解決のための面接技法』は第4版までが全部揃い,『ナラティヴ・セラピー』は初版2冊に加え,出版社を変えて若干修正された復刊本が揃う。『心的外傷と回復』も最初の1冊が分解したために再度購入し,さらに増補新版を加えて3冊が並ぶ。同じように2冊ずつあるのは『物語としての家族』(新訳版)や,文庫化された信田さよ子氏の著作である。いずれも時代を超えて読み継がれる名著ばかりである。ここでは,その中でも最も思い入れの深い『ナラティヴ・セラピー―社会構成主義の実践』について記したい。

本書は心理療法を社会構成主義の実践としてとらえ,その理論的背景と具体的事例を紹介している。収録されているのは,リン・ホフマン,トム・アンデルセン,デービッド・エプストン&マイケル・ホワイト,ギアンフランコ・チキン,ハーレーン・アンダーソン&ハロルド・グーリシャンら,錚々たる家族療法家による論文である。そして,それらの意義をシーラ・マクナミーとケネス・ガーゲンがわかりやすく解説している。

1998年,初めて本書を手にしたとき,訳者の二人が臨床経験をもつ社会学者と文化人類学者であることに親近感を抱いた。当時,私はカウンセリングの傍ら,看護学校で社会学と文化人類学を,大学で精神保健を講義していたからである。読み始めると一気に引き込まれ,夢中で読了したことを覚えている。

私は1995年の設立時より心理職のみで運営される開業心理相談機関に勤務している。保険診療の対象とならないため,料金は高額にならざるを得ない。したがって,その分,医療とは異なるサービスを提供しなければ来談は得られない。臨床心理士の資格は有していたものの,医療と心理臨床の違いはどこにあるのか,その根拠を探し求めていた。すでに社会構成主義に基づく解決志向アプローチをはじめとするブリーフセラピーを実践していたが,本書との出会いによって「医療とは異なる対人援助職の存在意義」を確信できたのである。

思い返せば,1980年代から1990年代初頭はポストモダン思想がトレンドであった。大学で社会学を学んだ私は「現実は日常的な対話や相互作用によって構成される」という社会構成主義の考え方に出会い,さらに現象学を深めたいと思い大学院へ進んだ。そこで早坂泰次郎先生の研究室で学ぶことになる。

早坂先生は「一人ひとりの主観が対話を通じて相互主観化され,共同主観として構成されるのであって,主観や対話から切り離された客観は存在しない」と説かれた。伝統的心理学における「人間」とは白人男性をモデルとしたものであり,女性や子どもの世界は捨象されている,とも批判された。さらに「水はH₂Oではない。生きられた世界では“おいしい水”や“まずい水”といった『意味』を持ち,その『意味』は人間関係を通して浮かび上がる」と述べられ,人間関係学を提唱した。こうした主張は,当時の心理学界における客観主義信仰に対する「異議申し立て」であった。師は「早坂研は世界最先端だ!」と胸を張っていた。私は「さすがポストモダンだ」と感じたが,一抹の疑念がよぎったのも事実である。早坂先生の退官後は佐藤悦子先生に師事し,そのゼミではアンダーソンとグーリシャンの論文“Human systems as linguistic systems”(Family Process誌)の報告を任せられた。長い上に難解で訳しきれなかったが,悦子先生の熱意から論文の重要性はよく伝わってきた。その後,この論文が翻訳された『協働するナラティヴ』が刊行され,ようやく全貌を理解できた。

本書『ナラティヴ・セラピー』(この本はハロルド・グーリシャンに捧げられている)のなかで最も繰り返し読んでいるのは,アンダーソンとグーリシャンによる第2章「クライエントこそ専門家である―セラピーにおける無知のアプローチ」である。「無知の姿勢」とは「セラピストの純粋な好奇心がその振る舞いから伝わってくるような態度ないしスタンス」であり,セラピストはクライエントによって絶えず教えてもらう立場にあるという。1990年代,解決志向アプローチのインスー・キム・バーグの来日ワークショップでも,彼女が黒板に“Not-knowing”と書いた場面が思い出される。その後に刊行された『解決のための面接技法』第3章のタイトルに採用されており,解決志向アプローチの理解と実践には欠かせない概念である。

1999年,ミルウォーキーにあるBFTCでバーグらによる解決志向アプローチの短期研修会に参加した後,グーリシャンが設立したヒューストン・ガルヴェストン・インスティチュートを訪問する機会を得た。 アンダーソンは不在だったが,スタッフの案内で中を見学することができた。ハミングバードが舞う庭に囲まれた一軒家の静かな部屋で「無知の姿勢」が育まれたのだと思うと,胸に迫るものがあった。

『ナラティヴ・セラピー』を開くと,大学院時代の恩師たちやブリーフセラピーとの出会い,開業心理相談機関の設立といったさまざまな情景が甦る。私の本棚には,本書を中心に,アンダーソン,ホフマン,ホワイト,アンデルセンらの著作が仲良く並んでいる。刊行からすでに30年を経たが,本書は解決志向アプローチ,コラボレイティヴ・アプローチ,リフレクティング・プロセス,オープンダイアローグ,PTMF,社会正義アプローチなど,対話と協働を探求する実践の礎となっている。そして私にとっては,今なお原点であり続ける一冊である。

『ナラティヴ・セラピー―社会構成主義の実践』(Mcnamee, S. & Gergen, K. J. 編,野口裕二・野村直樹訳,遠見書房)
+ 記事

田中ひな子(たなか・ひなこ)
原宿カウンセリングセンター
資格:公認心理師・臨床心理士
主な著書:知られざる開業心理相談機関の経営.In:臨床心理学,25 (5). 開業論.金剛出版,2025.
新たなニードを掘り起こす. In:津川律子・遠藤裕乃編:まちにとけこむ公認心理師.日本評論社,2023.
解決志向アプローチにおけるケース・フォーミュレーション.In:下山晴彦編:事例検討会で学ぶケース・フォーミュレーションー新たな心理支援の発展に向けて.遠見書房,2023.
記憶と身体をほどく―トラウマケア.In:臨床心理学増刊第15号. あたらしいジェンダースタディーズ.金剛出版,2023.
虐待・DVサバイバーにおけるレジリエンス.In:臨床心理学,22(2). はじまりのレジリエンス. 金剛出版.2022.
未来から構成される現在-解決志向アプローチ.In:信田さよ子編:実践アディクションアプローチ,金剛出版.2019.

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