高石恭子(甲南大学)
シンリンラボ 第31号(2025年10月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.31 (2025, Oct.)
還っていく場所としての「本」
心理臨床を学び,実践に携わって40年あまり。その過程で,出会ったクライエントの生きる不可思議な世界をどうすればもっと理解できるのか,クライエントとの関わりによって生起した自らの内なる情動やイメージ,そして圧倒される感覚をどうすれば「ことば」にして省察につなげられるのか,苦悶する局面は幾度もあった。そんなとき,納得のいく応えの手がかりを求め,あらゆるジャンルの本に手を伸ばしてきた歴史を,わが本棚を眺めてみて改めて感じる。
若い頃学んだ心理療法(分析心理学)の理論と個性化の思想は,今も根本隠喩としてこころの土台にあり揺らぐことはない。ただ,創始者や先達の多くが男性医師である心理療法や治療論の当時の専門書は,読み進むと,何かことばにならない違和感や欠落感(ときに怒り)が澱のように溜まっていくのが常であった。
心理臨床の1対1の関係,とりわけクライエントの困難な個性化の過程に長く付き添う営みにおいては,しばしばどちらが私でどちらがあなたかわからなくなるような,言語以前の融合的な体験が生じる。喜びや安寧の共有もあるが,そこにたどり着くまでには,息が止まり,心臓や胃が波打ち,肌が粟立ち,朦朧とするような緊張と混沌にも繰り返し晒される。私は訓練途上にあるときから,そこに「自分の身体を差し出している」という娼的な感覚を抱いていた。
シュヴィングSchwing, G.と入院患者の少女の例を挙げるまでもなく,身体をもった二人が「場」を共にするだけで,必然的に言語以前の次元のさまざまな相互作用は起きる。対話より前にすでにお互いに影響を与え合っていて,ことばは後からついてくるものなのだ。自らが妊娠・出産・子育てを経験して,さらにその確信は深まった。母性と娼性は,わが身体を差し出すという意味では通底していて,全く別個の女性の性質というわけではない(ユング派分析家クォールズ−コルベットQualls-Corbett, N.は,「聖娼」という概念を用いて,身体と不可分の女性のスピリチュアリティを表現している)。30歳を過ぎた頃,私は近代自我が生んだ心理療法の先達の文献に最も欠けているのは,この体験へのまなざしと記述なのだと理解するに至った。
そんな私に生きた「ことば」を与えてくれた本たちは今も,心理臨床家としての自分を確認したいときに還っていく場所である。今回は,コロナ禍で還ることになった1冊を取り上げてみたい。
こころは内臓感覚によってかたちづくられる
三木成夫は,多数のホルマリン漬け標本から,いわゆる十月十日のあいだに胎児が何億年にわたる生命の進化の過程を母胎内で再現することを発見した研究で知られる20世紀の解剖学者である。受胎32日目から38日目にかけて,胎児の顔は魚類から哺乳類(ミツユビナマケモノ)に変化していく。鰓呼吸から肺呼吸へ,1億年かかった生命の上陸ドラマを胎児はたった1週間でたどるという解説と標本の写真は,『胎児の世界 人類の生命記憶』(中公新書)を初めて読んだ若い頃の私の脳裏に強く刻み込まれた。
近代に生まれ発展した心理学も心理療法も,独立した個人のこころを前提としている。しかし,「こころ」についてわかっていることは本当に少ない。ユングJung, C. G.は,こころの構造として,無意識の下層に個人を超えた集合的無意識を仮定し,集合的無意識の層はさらに下層の動物的領域につながっていくと考えた。これは,後に隆盛した比較行動学や生態学とも通じる思想である。同様の遠視眼をもつなら,今ある個人のこころを,動物の進化の遥かな過程の連続体の末尾と考えることも理に適っているのではないか。連綿と引き継がれていく「何か」を,遺伝子と言うのか,いのちや魂と言うのか,生命記憶と言うのか,それは学問領域と文脈次第だとして。
三木は解剖学的発見とわが子の観察や子育ての体験を通して,人のこころが生まれ育っていく基礎には個体として生まれる以前から連続する体壁系や内臓系に刻まれた記憶(生命記憶)があると考えるに至った。とりわけ情動は,「内臓感覚」を養育者などとの間でどれだけ鍛錬できたかがその成熟を左右するという。三木は自らの使命を感じてか,40歳代後半で解剖学を離れ,東京藝術大学の保健センターで学生教育に携わり,晩年は幼児教育にも力を注いだ。ここで取り上げた『内臓とこころ』は,保育者に向けた連続講演を収録したもので,他の論集や随想に比べ,最も臨場感に満ちている。その解説で,同じく解剖学者の養老孟司は三木を「情が理を食い破った人」と評している。
たとえば一つの「丸いコップ」という物体を見たとき,私たちは誰一人として同じ体験しているわけではない。「丸い」という認知を支えているのは,幼い頃与えられ,何度も舐め回し,温かい飲み物を口に入れ,養育者の声を聴き,抱っこされた安心感の記憶全体である(そこには,舌を持つようになってからの動物の記憶も連なっている)。もし,そのような機会が剥奪されたまま生い立った人であれば,そのコップは無機質な物体としてしか体験されないかもしれない。この意味では,こころが生まれるのは,赤ん坊が何でも舐め回し尽くそうとする生後半年頃ということになる。
コロナ禍のあと
私は長く学生相談の現場にいるが,数年に及んだコロナ禍の活動制限が収束した後のキャンパスで顕わになったのは,親密な人間関係を回避しようとする上回生や,人が密集した教室で緊張のあまり倒れ,救急搬送される新入生の増加であった。後者に敢えて病名をつけるなら,パニック障害や過換気症候群,もしくは適応障害となるのであろうが,これらは個人の病理の問題というよりも,コロナ禍がもたらした育ちの困難の問題と捉えるのが適切だと私には感じられた。
冷静に考えて,教室の前後左右,手の届くところに座る見知らぬ人や顔見知り程度の学生が,いきなり自分に刃物を向けて襲いかかることは「100パーセントない」と言い切れる人は果たしているだろうか。なぜ根拠のない安心感を多くの人はもっていられるのだろうか。
私たちは生まれ育つ過程で,家族や友人や身近な人と抱き合い,組んず解れつする体験を繰り返しながら,内臓感覚を頼りに,他者と自分の安全な距離を体得したり,自分を守るための直感的な判断を身に着ける。いちいち意識することはなくても,その担保があるからこそ,閉鎖空間で他者と一緒に座っていることができるのだ。
コロナ禍は医学的安全(衛生)と引き換えに,幼い子どもだけでなく,思春期青年期の人々からもそのような鍛錬の機会を奪い去った。不意に倒れて保健室に運ばれ,傷つき,困惑し,ときに休学せざるを得ない状況に追い込まれる学生をどう理解すればよいか,何ができるのか。その新たな問いに対して,「感染のリスクをとってでも密接ななまの体験の回復が高等教育現場に求められている」と大学に向けて訴える私を支えてくれたのは,三木の一連の本たちであった。
コロナ禍後の学生たちは,こころが痛むと生成AIを上手に活用して安心を手に入れるようになっている。Chat GPTの優れたところは,慰めに徹し,叱咤激励や,善意の助言をしないことだと学生は教えてくれる。しかし,人のこころの痛みに共感できるようになるには,それだけでは足りない。まず自らのこころの痛みを身体で実感し,その主観的体験をことばで語って他者と共有し,理解される過程が必要だ。そのためには,生身の他者と場を同じくして,緊張と収縮の内臓感覚を鍛えることが不可欠ではないか。
ちなみに,内臓というと普通は五臓六腑をイメージするが,解剖学においては「顔」は内臓の前端露出部であり,精巧無比の「内臓の触覚」だと譬えられる。心理臨床家の未来のアイデンティティを考えるうえでも,この本は私にとって何度でも還っていきたい場所である。
高石 恭子(たかいし・きょうこ)
甲南大学文学部教授/学生相談室専任カウンセラー
臨床心理士,大学カウンセラー,公認心理師,京都大学博士(教育学)
精神科病院の心理士,母子療育教室のセラピスト等を経て1989年より学生相談に従事。乳幼児期から学生期に至る子どもと親の関係や子育て支援についての研究も行ってきた。2019年5月~2023年5月 日本学生相談学会理事長。
著書に『自我体験とは何か─私が〈私〉に出会うということ』(創元社,2020年),『子育ての常識から自由になるレッスン─おかあさんのミカタ』(世界思想社,2021年)など。





