平井美佳(聖心女子大学)
シンリンラボ 第27号(2025年6月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.27 (2025, Jun.)
1.はじめに
どの本を紹介しようかと迷った。ご依頼をいただいた時,「これぞ」という1冊はすぐには思い浮かばなかったが,大変お世話になっている先生からのご依頼ということもあり引き受けることにした。
その時々で知的好奇心をかき立てられ,夢中になって読み進め,線を引いたり付箋を貼ったりする本は何冊もある。しかし,あまり覚えていられないのである。我ながら残念な人である。どうしようかと考えあぐねながら,研究室の「私の本棚」を眺めてみた。
2年前,思い切って転職し,研究室の引っ越しをした。その際,何十冊かの本を処分し,自分の中でこの先も持っておきたい本と,もう手放してもいいかなと思う本とを分けた。新しい環境で研究と臨床にじっくり取り組もうという期待をしたが,そうはならなかった。加えて,前と同じように本を並べたはずなのに,なぜか目当ての本を探している時間が増えた。いわゆる「積読」も増えた。本当は1日中,寝転がって本を読んでいたいのに……(夜はおいしいご飯を食べますが)と本棚を眺めながら思った。
こうして雑然とした自分の書棚を眺め,読書三昧の怠惰な生活を夢みながら,私が今回紹介することにしたのは,ケネス・J・ガーゲン(Kenneth J. Gergen)の『関係からはじまる:社会構成主義がひらく人間観(Relational being: Beyond self and community)』である。
2.選んだ本:ガーゲン『関係からはじまる』
心理学が誇るべき社会構成主義の第一人者,ガーゲンが書いたこの分厚い本は,私がここ数年で読んだ本の中で最もワクワクしながら読んだ1冊である(それならば原著を読んだらよいのであるが,やはり,残念な人である)。
心理学,社会学,哲学などの学問の歴史と知見,また,日常生活のさまざまな例を縦横無尽に紹介しながら,すべては「関係からはじまる」こと,そして,この「関係」という視点をいかに専門的実践(学問・教育・セラピー・組織運営)に活かすことができるかについて論じられている。いわゆる個人主義的なものの考え方の基本となっている,個別的で独立した自己の概念(本書ではこれを「境界画定的」な自己や存在と呼ぶ)は,私たちの日常生活のありとあらゆるところに入り込んでいる。しかし,実際にはそれらは関係のプロセスの産物,もっといえば派生物なのであり,他者と関係の中で協応的・言語的につくられていく。人間(being)は「関係規定的」で「変幻自在的」な存在なのである。この本では,この「関係」の視点から「対話」をすることが,あらゆる実践を豊かにし,対立を解消し,グローバルな未来にとって決定的に重要であると論じている。
この本の目指すところについて,日本語版への序文を引用しよう。
本書で試みたのは,関係的なプロセスの充実こそが私たちの心の中にあるという視点に立った社会生活の理解のしかたを示すことである。私たちにとって意味あるものはすべてこのプロセスから生まれる。だからこそ,個人であれ,家族,組織,コミュニティ,国であれ,いかなる境界の主張も乗り越えて,このプロセスをよりよいものにしていかなければならない。関係的なプロセスを第一に考えることで,学校や医療機関,企業,政府,さらには一人ひとりの生活の中で,関係を結ぶ新たな実践を創造し,発展させていくこともまた可能になる。新しい実践を作り上げていく際に,多様な歴史の力を借りることもあるだろう。しかし,私たちがいま直面している課題は,伝統を乗り越え,地球上で,この地球とともに,調和のとれた新しい生き方を生み出していくことである。未来は私たちの手にかかっているのだから(p. i-ii)
3.心理援助職やそれを目指す人へ
この本のエッセンスは,その後,『関係の世界へ:危機に瀕する私たちが生き延びる方法(The relational Imperative: Resources for a World on Edge)』として,より平易な言葉で一般向けにまとめられている。入門的に理解するには,こちらの方が手に取りやすいだろう。とりわけVUCA(Volatility:変動性,Uncertainty:不確実性,Complexity:複雑性,Ambiguity:曖昧性)の時代とも呼ばれる現代において,これからの個人の生き方や世界について考える道筋を得るには,こちらでも十分であろうと思われる。
しかし,心理援助職に携わる人やそれを目指す心理学徒の方々には,ぜひとも上述のメイン本『関係からはじまる』の中の「第9章 関係の回復としてのセラピー」も含めてご一読されることをお勧めしたい。
「重要なのは,心の修復ではなく,関係の変容」であり,「メンタルヘルスの専門職は,苦悩を生じさせている社会状況にもっと関心を示すべき」(p.343-244)という主張には深く共感する。関係のプロセスや意味の創造に敏感なシステミック・セラピーやナラティヴ・セラピーの考え方もガーゲン流にふんだんに紹介されており,心理的援助に興味のある方には,きっと読み応えがあるに違いない。
「セラピーがうまくいくとは,関係の回復を促すこと」(p.370)なのであるから。
4.「対話」の実践としてのゼミ
ここまで書いてみて,私がこの本を好きな理由は,その内容だけによるものではないと気がついた。この本は,大学教員である私にとって,何度か学生らとともに読み,議論した思い出の本でもある。
心理学の卒論や修論を書くためのゼミでは各自がこなすべきタスクが多く,じっくりと本を輪読し議論するのは難しい。そのため,卒論準備に入る前の大学1~2年生のゼミや,大学院の授業,学生主体の勉強会(ゼミ合宿など)において,1冊の本を取り上げて議論する時間を大切にしてきた。候補の中から学生に選んでもらった1冊について,各章の担当者を決めて発表してもらい,学生が選んだテーマについて議論する。
この翻訳が出版された翌年の2021年はコロナ禍でゼミ合宿は叶わなかったが,代わりに広い教室で距離を取り,この本について濃厚なディスカッションをした。それは,彼らがコロナ禍によってしばし奪われた,貴重な対面による「対話」の機会であった。マスク姿で目を輝かせながら真剣に話し合う彼らを,今でも鮮やかに思い出すことができる。
これだけ堅牢な本を一人で読むということは若い人にはなかなかできないことらしい。また,仲間とともに読み,対話することで,さまざまなアイディアが浮かんだり,思考が深まったりする体験こそが,貴重な青春の思い出となるらしい。
私にとっても,若者の肌感覚で受け取られる著者の考え,そこから彼らが議論するこれからの自分,理想の社会,そして,それらを自分たちでつくっていこうとする熱い思いに触れ,未来への夢と希望に心ときめく時間となる。
5.おわりに
現代における新自由主義的で能力主義的な価値観,民主主義の危機,自己責任論の強調と人々の生きづらさ,環境問題,戦争……。これらはすべて人間が生み出したものであるといえる。だからこそ,関係の視点から捉え直し,再構築することができると信じたい。
本書の関係のプロセスについての視点を持つことで,我々の社会が「関係」や「ケア」(これについては本書ではあまり述べられていないのであるが)を軽視してきたことの問題を明確にし,自由で平和な世界を目指す道筋をイメージすることができる。
この本は,私にとって「教育」や「対話」にこそ未来があることを,改めて思い起こさせてくれる一冊である。
文 献
- Gergen, K. J.(2009)Relational being: Beyond self and community. Oxford University Press.(鮫島輝美・東村知子訳(2020)関係からはじまる:社会構成主義がひらく人間観.ナカニシヤ出版.)
- Gergen, K. J.(2021)The relational imperative: Resources for a World on Edge. Taos Institute Publication.(鮫島輝美・東村知子・久保田賢一訳(2023)関係の世界へ:危機に瀕する私たちが生き延びる方法.ナカニシヤ出版.)
平井 美佳(ひらい・みか)
公認心理師・臨床心理士。博士(心理学)。
横浜市立大学国際教養学部を経て,2023年度より聖心女子大学現代教養学部心理学科・教授。
専門は,臨床心理学,発達心理学,家族心理学。事例論文「対人過敏性のある事例における自律性と関係性の相互作用と自己分化への支援」(心理臨床学研究,2022年)の中でこの本を引用した。