前田 潤(室蘭工業大学)
シンリンラボ 第34号(2026年1月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.34 (2026, Jan.)
決してあきらめない──国際赤十字・赤月社連盟のパビリオン
大阪万博の国際赤十字連盟のパビリオンで,「決してあきらめない」,という言葉に触れた。
「一緒に働いている医師のもとに子どもが運ばれて来た。その子はその医師の子どもで重体。そして次に運ばれてきた子どもがまたその医師の子どもで,もう死んでいたんです。そんなことが起きるなんて,なんということか」と看護師がこわばった顔で述べる。
画面が進み,戦禍の中で故郷を追われ,難民として彼の地に向かわざるを得なくなった少女。「私の身にこんなことが起きるなんて」とカメラに視線を向け「生きてたくさん勉強する」「そして大きくなって必ずここに帰ってくる」と涙を流し声を震わせながらも自らを奮い立たせて述べる少女。
「今までいっぱい私にしてくれた祖母。次は私がしてあげるはずだった。当たり前に来ると思っていた未来が当たり前じゃなかった。」津波に飲まれて流された祖母を思い「相手の気持ちを思って声をかけることができるのは人間だけだと思う。そんな看護師になりたい」と若い看護師が述べる。
そして「人間を救うのは人間だ」というメッセージが続き,それを見る私の胸の奥底にも強く深く届いていく。
そして「決してあきらめない」という言葉に「そうだ。自分もあきらめない」と思おうとした。その時に「私は何をあきらめないでいれば良いのか」「私は何をあきらめずに頑張るのか?」という疑問が同時にやってきて,決してあきらめない,というまっすぐな気持ちに「そうだ」っと強く同調しようとする自分を塞いだのであった。
2000年有珠山噴火
私が災害支援に携わることになったのは2000年有珠山噴火災害であった。
伊達赤十字病院の心理判定員として勤めていた私は,赤十字職員であったが,だからといって自分からは何もできなかった。
伊達赤十字病院は偶然にも精神科病棟を半分にしていて,その空きベットと体育館に近隣病院の入院患者が3月28日の避難予知に伴って大勢転院してきた。しかし職員であっても個人として何かできるわけでなくせいぜい様子を覗きに行くくらいであった。
ところが,噴火してすぐ日本赤十字社(日赤)医療センター槙島敏治外科・救急部長が日赤北海道支部を通じてやってきた。そこで状況は一変した。「日赤は被災者にこころのケアを行う。ついてはあなたは心理学の専門家だからあなたが担当です」と私が指名されたのである。二つ返事ですぐに応じ,伊達赤十字病院からも本社の指示ということで,業務に支障なきよう,と制約付きの業務命令が出された。
私はこの時嬉しかった。何かしたいと思っても,何もできないで数日過ごしていたので業務として何かできる,ということが有難いと思ったのである。
それが4月の初めで,この日から私は,看護学校教員,リハビリテーション科職員,精神科医師,地域ボランティア,近隣の心理学専門家と協力し,多くの関係者対応をしながら被災者に対する「こころのケア」活動を8月半ばまで継続したのである。
もちろん「こころのケア」とは何か,何をするのか全く手探りであった。最初に槙島部長は基本的なこころのケア活動の考え方をピラミッド図で示してくれた。ピラミッド底部をMass Care(集団対応),中段をPrivate Care(個人対応),最上段をSpecial Care(専門対応)と位置付け,それら各段階の活動を組織化していったのである。Mass Care としては避難所での看護学生たちによる子どもとの遊び,お年寄りへの寄り添い,理学療法士による健康教室。作業療法士による「遊びリテーション」。ボランティアによるレクリエーション教室。地域臨床心理士の避難所茶話会。炊き出しボランティアの応援など,避難所のニーズ調査,活動を計画し実施した。各地から来る日赤医療救護班の活動をPrivate Careに位置付けオリエンテーションと情報交換を行い,さらに心理職による電話相談を開設した。Special Careは精神科医に対応してもらいリファー先としてMass Care,Private Careの支えとなった。行政機関とも連絡を行いながらこうした様々な活動を関係者と協力してニーズ調査,活動計画,活動実施を行ったのである。槙島部長のピラミッド図は,国際赤十字・赤新月社連盟(International Federation of Red Cross and Red Crescent:IFRC)が進めていたこころのケア(Psychological Support 後にPsychosocial Support:PS)の考え方がもとになっていた。
避難所が徐々に閉じられ終わりのタイミングを見計らった。現地災害対策本部の終了とともに私たちの活動も地元団体へ引き継ぎ,その終了式を取材してもらって8月中旬に閉じた。
効果判定もできず,活動は全体から見てわずかなことなので焦燥感こそあれ達成感が得られるものではなかった。関わった人たちに報酬も残業手当もなく,地域が平時に徐々に戻っていくと病院業務とのはざまの中で難しさを覚えるようになった。災害時のこころのケアは必要な活動であることはわかったが,何がケアになるのか,どのような活動が適切かとの問いが常に離れなかった。
こころのケア活動によって,ニーズ調査をしてから活動を計画して実施する時にはすでにニーズが変化している現実を知った。またこころのケアとは決してカウンセリングや治療ではなく,被災者が今まさに経験しているストレッサーを少しでも軽減することであること。そして身体活動・集団活動(ラジオ体操やレクリエーションなど)が有効であることもわかった。日赤は病院組織,医療救護班・各種奉仕団・各種ボランティアなど多様かつ重厚な組織的資源があり,円滑な連絡調整が課題であった。
その年,私は現職の室蘭工業大学に転職した。
こころのケア活動に邁進する
有珠山のこころのケア活動は,日赤の初めての組織的こころのケア活動だと言われた。そのため私は1年かかったが,詳細な活動報告書をまとめ本社や槙島部長に送った。責務と思ったからである。日赤本社はちょうど日赤救護員へのこころのケア研修を始めるところであり,IFRCのPSトレイナーと共に私は講師の一人に招かれ,日赤のこころのケア研修に携わるようになった。2003年のことであった。
今思えば地方の一心理判定員だった私が,日赤本社主導の基幹事業に推進者として加わることは考えられないことだったのかもしれない。しかし,私は,有珠山噴火でこころのケア活動に注力。報告書にまとめることに心血を注いだせいもあって,こころのケアとは何であるか。そもそもの基本概念とそれに基づく活動内容。日赤職員による組織的支援体制の構築などは自分の課題でもあると思って当然のように加わった。
年2回富士山麓の日赤山荘で5泊6日の研修があり,そのIFRCテキスト翻訳や日本版マニュアルの作成に取り組み,研修講師も務めた。東京出張が当たり前となった。
2003年宮城県北部連続地震,2003年イランのバム地震に日本赤十字秋田看護大学の齋藤和樹先生と赴いた。その後,2004年新潟県豪雨災害,新潟中越地震,2005年福岡県西方沖地震,スマトラ地震津波,2006年ハリケーンカトリーナ・リタ,内モンゴル干ばつ被害,2007年能登半島地震,新潟中越沖地震,2008年中国四川大地震,岩手・宮城内陸地震,2009年イタリア中部地震と国内外の災害支援活動に加わり,こころのケアの観点から調査,支援協力を行った。これら災害の間に日赤本社と日赤看護大学でこころのケア研修講師を務め,日赤各都道府県6つのブロックの災害救護訓練の視察,ここでもこころのケア研修講師を務めた。科学研究費補助金や大学の研究資金の支えもあった。2007年には国の短期派遣制度でIFRCのPSセンターがあるデンマーク・コペンハーゲンに2カ月,米国サウスダコタ大学災害メンタルヘルス研究所に1カ月滞在もできた。
災害時のこころのケアとしてわかってきたことは以下のようなことであった。災害は喪失を伴うストレス事態であり,直後に人々が示すトラウマ反応は異常な事態における正常反応である。まず必要なことは安全安心の確保と基本的サービス(衣食住トイレ清潔保持など)を整える。発災から2−3日で避難所では感染症が蔓延する。早期介入・他職種連携の必要性と重要性。地元支援者は被災者で,支援者支援・地元ファーストが重要である。何か具体的関わり(医療者であれば血圧測定,心理職は心理教育プリント配布)が被災者との垣根を下げる。継続支援のない調査活動はしない等,これら一つ一つが新しい実践知で,現実的に共有すべき学術情報でもあった。今では日赤にはマニュアルがあり,サイコロジカル・ファースト・エイド(PFA)も常識になった。しかし,日赤職員であっても何度も実際に災害支援を経験する人は少なく,同じ災害もないので,いつも経験者も未経験者も初めから支援体制を組んでいかねばならない。ただ,何度も経験すると先々の見通しが持てるようになることも知った。
東日本大震災
そして2011年2月22日にニュージランドのクライストチャーチで地震が発生。富山県から語学留学に来ていた学生30有余名が巻き込まれた。日赤は家族支援のために槙島部長をリーダーとするこころのケアチームを派遣した。3月。ご家族との悲しい対面を控え,日赤は専門家の派遣を決定。私と秋田の齋藤先生が派遣されることになった。3月10日に上京。3月11日午前,日赤国際部でブリーフィングを受け,成田空港に向かうリムジンバスの中で私たちは14時46分を迎えた。
リムジンバスのラジオは東北で大きな地震があったことを伝えた。成田空港は閉鎖。ニュージランドに電話すると,来なくて良いから日本を頼むと槙島部長。私たちはバスから降ろされ,ともかく日赤本社に引き換えそうと,防災センター地下から上がってきたワゴン車を止めた。公共交通は止まっていると思ったからである。女性ドライバーに日赤本社に送って欲しいと頼んだ。いいですよ,とすぐに快諾され,開けられた後部ドアには小さな女の子3人が座っていた。ちょうど防災センターに見学に来ていたのだと言う。女の子たちに席を詰めてもらって乗り込み,大勢の人が歩道を歩いているのを横目に港区の本社に着いた。慌てて,要らないですよ,と言ってくれたのにダッシュボードに3千円置いて国際部に上がった。
本社は2階の大会議室を災害対策本部に設営。こころのケアブースも置かれ,担当者が揃い始めていた。その夜は本社地下室の床に安眠セットを使って寝転び,派遣を待った。日赤社長が被災現場に向かうとき同乗を願ったが,車両スペースがなく,本社近くのホテルにもう一泊。その間連絡調整を行い日本臨床心理士会と日赤とのコラボを図った。3月13日やっと日赤神奈川県支部車両に同乗。齋藤先生と石巻赤十字病院に向かう。午前に出た車両が病院に着いたのは夜8時を回ってであった。
周囲は街灯も点かず,真っ暗で,石巻日赤だけが煌々と輝いていた。携帯電話が通じず,電気も通らず,病院は石巻市では石巻日赤のみが稼働しているという。石巻日赤では,医療救護活動が熱気をもって展開されていた。院長以下,医療救護のGM(General Maneger:統括官)が定められ,さらに職員が普段から決められた役割を割り当てられている。次々訪れる日赤医療救護班とのミーティングが朝7時と夕方6時に二回行われ,情報共有と役割分担,仕事内容の割り振りが行われた。医療救護班の集結と被災者で病院はあふれ,水・食料など基本物資は不足。安否確認も進まず,石巻日赤の職員も被災した中で支援業務に追われ被災者同様疲弊しつつあるのを認めた。日赤本社は石巻日赤スタッフ総入れ替えための人材投入と多数のこころのケア要員の派遣を準備していた。
そして私たちは「黒」エリア,つまり遺体安置所の担当者として医師(緩和ケア病棟担当医),看護師,事務職に加え,心理職職員が配置されていることを知った。
私たちが,滞在中に行ったことは以下であった。①この石巻日赤の心理職職員をこころのケアGMとSubGMとして日赤こころのケアセンターを立ち上げる。そして有珠山噴火で槙島部長が行ったように役割のオリエンテーションを行い,これ以降,次々に派遣されるこころのケア要員は,彼らの調整の下に動くこととする。②院長室横の応接室を石巻日赤職員のためのリフレッシュルームとし,派遣されるこころのケア要員が運営。③同様に派遣こころのケア要員が黒エリアを担当。④避難所巡回の医療救護班とこころのケア要員をつなぐため,こころのケア対象被災者カルテに赤丸をつける。⑤石巻日赤職員の心理教育のためセルフチェックとストレスマネジメント法のプリントをトイレに掲示。⑥避難所巡回時,避難所に石巻日赤看護者に会った。被災者を置いたまま出勤できないと言うのである。一方,医薬品も人手も足りず困ってもいる。そこで医薬品確保のため一時石巻日赤に行くことを提案。一緒に石巻日赤に行くと,同僚に囲まれ安堵の表情を見せ,窮状を聞いた医療GM は,その避難所に救護所設置することを直ちに決定。孤軍奮闘から解放されたのであった。⑦石巻日赤も物資・食料の不足に陥った。報道を通じて窮状を訴えると,すぐに様々な生鮮食料品が届き始め,食料は充実を見せた。備蓄倉庫があふれ,こころのケアチームも避難所巡回で粉ミルクや缶詰,紙おむつなどを運び物資の支援を行った。⑧日赤以外のこころのケアチームに石巻日赤医療チームミーティングで情報を得るよう促し,また地域保健師と日赤こころのケアチームの合同ミーティングも毎日行うこととなった。
これに5日間を要したが,それでも日赤のこころのケアの組織体制をこのように整えられたのは,2003年から日赤本社や支部主催のこころのケア研修・災害救護訓練で日本全国の多くの日赤救護担当者と面識があったことと,本社派遣だったからである。通信遮断で本社や支部決済ができない中,現地対策本部責任で判断してくれた。
石巻日赤を離れ私たちは東京本社に戻り,数日の東京滞在で本社報告と文部科学省で資金調達交渉に出向いた。私は次に日赤本社職員と日本臨床心理士会災害支援担当者と岩手県支部に向かった。ここでは岩手県での取り組みを詳述しないが,日赤が日本臨床心理士会とボランティア協定を初めて交わし,日赤こころのケアチームと臨床心理士がコラボを組んで一緒に活動したことが一つのトピックであった。
これまで日赤では心理社会的支援(Psycho-Social Support)と述べてきたが,東日本大震災では,心理社会身体的支援(Psycho-Social-Physical Support)と名付けるのがふさわしいくらい身体的な支援(手浴,足浴,ハンドケア,肩もみ)が多用され有効性も認められた。
これは日赤のこころのケア要員は多くが看護職だったこともある。日赤のこころのケアチームは心理社会的支援チームで,看護職を中心とする医師不在のチームであった。一方,行政やその他こころのケアチームは,こころのケアと言っても精神科医がチームリーダーの精神科医療チームであった。そのため現場サイドでさまざまな混乱が起きた。日赤のこころのケアチーム自身も看護職が中心のチームなので,チームに医師がいない心許なさを感じる訴えがあった。国際的には国連を中心に2007年にまとめられたガイドラインは,緊急事態における精神保健及び心理社会的支援(Mental Health and Psycho Social Support:MHPSS)で日赤は医療チームとPSSチームにそれぞれGMを置いて組織立てようとした。
また,災害では各種専門団体・ボランティア団体,地元の行政・支援団体との協調は大きな実際的課題であったし,現在的課題でもあると思われる。
日赤こころのケアチームの派遣は,石巻日赤も岩手県支部も8月で終え,その後は地元日赤や行政・各種団体の仮設住宅支援へと活動の力点が移る。日赤としては長期にわたる派遣支援であったが,その後長く続く被災者の困難から見ると日赤の派遣支援は早期撤収であった。私自身も4月からは岩手県支部でこころのケアマネージャーに任ぜられ陸前高田市と釜石市の担当となって10月まで毎週所属大学のある室蘭に3日,担当となった岩手に3日滞在し,ひと月に一回石巻に行くスタイルで被災地に赴いたが,そのような被災地との関わりは1年も満たずに終わった。
被災地支援の実感
それでも私個人は力を尽くし限界を超える支援活動であったと思われる。しかし何かできたと思えるような実感はなかった。確かに動き回ってはいた。東日本大震災は,被災地域が広く,私は発災当初から石巻,東京,岩手県,北海道と動き回り,車で片道2時間半から3時間はかかる盛岡から沿岸部までの道を1日に2往復半運転したこともあった。
石巻では被災地に日赤こころのケアセンターがあって,GMがいて外部支援を受け入れ被災地で調整を行ったが,岩手では内陸にセンターがあって支援者を被災地に送り後方支援として調整する方式だった。受援調整,後方支援,連絡調整に苦慮しており,同一組織内でも支援活動を行う前の様々な部門や機関,人々の連絡と調整に明け暮れていた。日赤も同じで(災害)組織ストレスという用語を私は生み出した。
目の前に広がる惨状と,被災した多くの方々の中で,私はウロウロとあちこちに足を運ぶだけだったと思えてたのでる。
その後
東日本大震災の年,取材・講演・報告会・原稿・学会シンポジウムなどの依頼があり,さらに自分からも様々な学会で発表を行なった。2011年末近く,国際集団精神療法・集団過程学会(International Association for Group Psychotherapy and Group Process:IAGP)の理事に推挙するという話がきた。
若い頃からサイコドラマに縁があって1996年からオーストラリアのMax ClaytonやSue Danielを毎年のように北海道に招いてサイコドラマワークショップを企画していた私は,IAGPの理事が何をするのかも考えず,二つ返事で応諾した。何かしたかったのである。選挙の後理事になった。私自身は無名だったが,日本,ということで票が入ったと思われる。
2012年コロンビアのカルタヘナでIAGP学会があり,そこで初めて理事会に出席した。せめて国際資格を取ろうとサイコドラマ資格取得を目指すことにして2012年からメルボルンにトレーニングに通い,レポートと論文を提出。受験資格を得て,2015年2月資格試験に合格。モレノサイコドラマ協会(Moreno Psychodrama Society:MPS)認定サイコドラマティストとなった。
2012年と2013年にSueを招聘し,日赤語学奉仕団の協力の下,被災地で支援者対象のサイコドラマワークショップを主催。また日赤と医薬品会社のこころのケア活動に不定期に関わって沿岸部に身を置いた。機会を見つけては沿岸部に行き,サイコドラマによるグループトラウマワークの方法の開発に取り組み,IAGPの地域学会や本大会で専門家と議論するためにイタリア,中国,クロアチアで発表を行った。IAGP理事として米国,スペイン,ドイツ,ポルトガルにも足を運んだ。
一方で日赤のこころのケア指導者養成研修の講師も継続的に務めていた。
槙島部長が退職となったその年,ちょうど東京にいた2016年4月熊本地震が起きた。地震は二度続いて,2回目が本震で最初は前震だとなった。2回目直後向かった日赤本社では情報収集と支援計画と先遣隊の派遣を準備しているところであった。私はそれに加わり,ともかく現地へと便乗を申し出,その足で熊本に向かった。熊本空港から日赤先遣隊と一緒の車両に乗せてもらい熊本日赤に到着した。
すでにDMATやDPAT,日赤救護班が到着しており,次々に日赤の病院支援チームも到着して,災害救護体制が整いつつあった。私は本社派遣ではなかったけれど,当たり前のように熊本日赤に日赤こころのケアセンターの開設準備に動き,病院内や支部を見学調査。リフレッシュルームの設置場所確認(すでに最上階に普段から準備されていた),トイレに心理教育のチラシ掲示などを進めた。その日のうちに,後続のこころのケア担当者と打ち合せ,引き継いだ。日赤社長が次の日視察に来るということだったので日赤支援者が一堂に会する現地災害対策本部会議で,シャワーが使えるという案内があったので,社長が帰ってから浴びた方が良いと思います,と言うと笑いが起きた。必死な時にジョークは必要である。次の週戻ることを約して三日目で帰還した。
北海道で熊本に戻る準備を進めていると,来ないように,という制止が入った。現場が混乱するからと。私が混乱した。派遣SCとして熊本には行ったが,その後,2017年に一度こころのケア研修の講師を務めて以来,日赤の災害救護に携わることは無くなった。
しかし,2018年に北海道胆振東部地震が起きて,私は,地元の専門家として北海道教育委員会から被災地の学校支援に招聘され,支援活動を主導する立場にあったので北海道臨床心理士会としての被災地支援活動を組織し,行政機関と共同支援にあたった。考えると初めて民間団体の一員としての組織的心理支援活動だった。
一支援者として
地元民間団体の支援者として被災地で,久しぶりに石巻日赤,日赤岩手県支部の懐かしい面々,日赤北海道支部の方々とも会うことができた。そこで,東日本で行ったように,日赤と臨床心理士会の共同を計画,北海道支部で打合せという段になって日赤の撤収が決まった。9月6日の発災でまだ9月のうちの撤収であった。あまりに早い。が,考えると,2004年新潟中越地震でも10月23日発災。11月21日に撤収だった。たった1ヶ月に3回中越に合計10日間ほど行ったが,そのあとはほぼ知らない。私は,日赤が去ってから,本格的に被災地支援が始まるのだと知った。
2018年は公認心理師の国家試験があり,あれだけ国家資格試験の開催地で揉めて実現した北海道資格試験開催が,北海道だけ地震で延期。さらに北海道臨床心理士会自体の組織的動揺があって,2019年私は北海道臨床心理士会会長となった。
北海道臨床心理士会は,行政機関からの国の災害支援後の自殺対策補助事業の委託要請を受け入れ,行政機関と正式に共同支援活動を展開した。これは我が国では初めての試みと聞いた。この補助事業をめぐって組織内外の活動に腐心するうち2020年コロナが世界を覆い,支援活動が滞った。
行政機関も多くの医療機関も死力の限りの限りを超えたコロナ対応があった。北海道臨床心理士会はその支援者支援を試みようとあがいた。対面からオンラインへと会議やミーティング,学会やカウンセリングやサイコドラマというグループワークさえ交流シフトが起きた。コロナ専門家会議が消毒,マスク,三密回避,ソーシャルディスタンス,外出制限,移動制限,ワクチン接種,新しい生活様式と次々に子どもたちにも強いる一方で,観光業を救う補助事業,オリンピック開催など社会に矛盾と欺瞞が満ちた。コロナの間に私は北海道臨床心理士会の会長職を解かれた。
IAGPの理事会も全てオンラインとなり,2018年のIAGPスウェーデン・マルメ大会の次に予定された2021年カナダ・トロント大会は流れ,これに伴って開催される予定だった2020年札幌IAGP理事会も流れた。ようやく暗黒の日々が終わりかけ久しぶりの対面による国際学会となった2022年IAGPイタリア・ペスカーラ大会に出席するためワクチンを3回接種。イタリアでコロナとなった。年が明けて2023年2月24日ロシアのウクライナ軍事侵攻が勃発した。
4月IAGPのメーリングリストにウクライナの会員から,ウクライナで戦争被害者たちを救うために支援活動をしているウクライナの心理学専門家たちを支援して欲しいとの要請があって,これに応募。一人では難しいので北海道臨床心理士会の会員に呼びかけ,関心のある会員から協力を得られた。当初世界で35のグループが組織されたが徐々に減少しIAGPは2025年3月で区切りをつけた。しかし数個のグループは継続を決定,私たちも月に2回のオンラインサポートミーティングを2025年12月現在続けている。2023年10月7日のガザの攻撃後のイスラエルの反撃,そして2024年1月1日能登半島が起きた。
何をあきらめないのか?
私は,2015年認定サイコドラマティストの資格を得てから街や病院,学校,大学でサイコドラマを積極的に行い,2016年からは台湾,クロアチア,中国,オーストラリア,イタリア,チュニジア,ブラジル,マレーシアと海外でも積極的にサイコドラマセッションを行うようになった。2021年には,サイコドラマTEP(Trainer・Educator・Practitioner)の称号を得てますますサイコドラマの普及と発展に力を入れるようになっていた。2025年IAGP札幌大会の地域組織委員会委員長も引き受けたのは,海外のサイコドラマ専門家,IAGP会員と日本の専門家の交流を図りたかったからである。
2024年1月1日私は,実家で孫家族と過ごしていた。テレビを見て一瞬行かねばと思って立ちあがろうとしてすぐ,いや行かない,行けないと腰を下ろした。日赤の災害支援から離れて7年と長く,現地に行ってもほぼ誰も知らず,私の役割はそこにはないと思った。それからしばらくして,私はもう選ばれなくなったのだと思えた。
私は災害支援をしたかったわけではない。有珠山が噴火して私は災害支援に関わらざるを得なくなり,義務を果たそうとするうちに,日赤の支援活動の流れに乗ることになっただけでその流れを私が作ったわけではない。なので,私は,有珠山に選ばれたのだ,と嘯いていた。いや,東日本大震災に身を投じた時,私は,大切な我が子を亡くし「津波はどうしようもない。誰のせいでもない。でもどうして今なんだ。どうしてあの子なんだ」と嘆くのを前に,そうだ。誰がこの災害を望んだか? 選んだか? 望んでも選んだのでなければ選ばれたのだ。そうだ。誰もが奇跡の一本松だ,と思った。その時私は私も有珠山に選ばれたのだ,という確信的思いが湧いたのであった。このリレーエッセイを紡いできた他の筆者の方々もまた,それぞれの災害や役割に「選ばれ」て活動されてきたことの,一つの呼応ではないかと思うのである。
そして7年を経て,やっと私は選ばれなくなった。終わったのだ,と思えた。もしもあの時制止されなければ私はまだ続けていただろう。私は,日赤職員ではないので自分では終われなかった。そして私は,私が望んでやめたことではないから,私には一切責任がない。そのことにも気がついた。だからと言って誰かに感謝を持つ必要はない。なぜなら私に関係のないそれぞれの都合と望みがそうさせたのであろうから。いや感謝したい。それまで私の個人的都合や流れによって出会った多くの人々に。
私は元に戻った。無理矢理にではあったが,本当は大切な身近な多くの人たちに寂しさや我慢や心配を与え巻き込みながら元に戻ったのである。私は,有珠山噴火で支援者になる,という形で被災(affected)して長く影響を受け,同時に多くの人を被災させ(to be affected)てきた。スクリーンで「決してあきらめない」との振り絞る言葉の先には決して戻ることのない日々を取り戻そうとの心からの願いがあった。それでは私は一体何を決してあきらめない,とこころの底から振り絞るように願うことがふさわしいのか? それが私の自問だった。私は,決して戻ることはなく,取り戻せないことを知っている。それを知っている私がこころから願うこと。それは,そんな私であっても生きていくこと。それでも生きていこう。この先に何があるのかわからないけれどどんな形であっても,少しでも楽しくみんなと共に生き抜いていこう,ということである。
前田 潤(まえだ・じゅん)
室蘭工業大学大学院教授
資格:サイコドラマTEP,臨床心理士,公認心理師。
主な著書: “Cultural Diversity, Groups & Social Challenges”(共著,IAGP,2025),『心理劇入門―理論と実践から学ぶ』(共著,慶應義塾大学出版会,2020),『総合病院の心理臨床―赤十字の実践』(共著,勁草書房,2013)
趣味:サイコドラマ,オペラ鑑賞




