亀口憲治(東京大学名誉教授)
シンリンラボ 第32号(2025年11月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.32 (2025, Nov.)
幼児期のUFO?目撃体験
幼児期からの私の言動を振り返ると,かなり天邪鬼的な性格傾向があることを認めざるを得ません。今の時代なら,おそらく「発達に特性がある」と見なされる子どもだったのではないかと思われます。確かに,周囲の人々の空気を読んで,賢く立ち回ることは苦手でした。親や大人から見れば,「気の利かない」子どもだったのかもしれません。それもあってか,外遊びは大好きで,自宅近くの野山や川の土手などで昆虫探しに夢中になっていました。良く言えば,好奇心旺盛で活発な子どもだったと思います。
戦後の物不足でテレビ等の娯楽設備はもちろん,食べるものすら乏しい時代,子どもの目に映る野外の自然は,不思議に満ちた魅力的な世界でした。生まれ育った北九州市(旧八幡市)の町は,谷あいに位置していました。自宅近くを流れる川の土手や工業用の貯水池の周囲の草むらには季節ごとに色とりどりの草花が咲き誇り,蝶やトンボが群れ飛ぶ様子に見とれていました。その間は,陶然とした感情にひたっていられたように思います。
しかし,終戦直後の混乱した現実のただ中に生れ落ちた幼児期の私の心中は,漠然とした不安に満ちていました。それを象徴するような早期の記憶は,頭上を飛ぶ異様な物体の姿でした。それまで,鳥以外に大きな物体が空を飛ぶ様子を見たことはなかったからです。後に分かったことですが,3歳ころの幼い私が目撃した空中の飛行物体(今でいうUFO?)の正体は,米軍の輸送機だったのです。1950年に朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発し,共産軍と対峙した米軍側にも多数の死傷者が出ていました。当時の北九州には,終戦後に占領軍が設置した米軍基地があり,朝鮮半島で戦死した米兵の遺体の入った袋を,大型輸送機で米国本土に輸送する中継地となっていました。
私の生家はたまたま,その航路の真下にあったのです。幼児だった私が,ある日突然に頭上を飛ぶ物体(UFO?)を目撃し,心底驚き,言い知れぬ「不安」を感じた衝撃は,いまだに忘れることはできません。その時から,すでに70年余の長い年月が経っています。ごく最近まで,この幼児期の記憶は夢見がちだった私の幻覚かもしれないとも思い,誰にも打ち明けたことはありませんでした。しかし,自身が後期高齢者となり,自らの人生を振り返る機会が増えたこともあって,この幼児期の目撃体験の真偽を確かめようと思い立ったのです。その結果,3歳前後の私の目撃体験は「幻覚」などではなく,まぎれもなく朝鮮戦争を巡る史実と一致することが判明したのです。
朝鮮戦争の戦死者は総計5万人とも推定され,その遺体は遺族に引き渡すために米国本土に空輸されました。その輸送に使われたのが,双胴の輸送機(フェアチャイルド社製C-119型機)だったことを,当時の基地の写真によって,今回初めて確認しました。しかし,その特徴的な双胴の機影は,幼児の私には正体不明の「怪物」にしか見えなかったのです。
UFO体験と無意識
UFO目撃体験は,そもそも非科学的ともされて賛否の分かれるものですが,最近では,NASA等の米国の政府機関が公式な調査部門を設置する動きもあり,科学的研究の対象になりつつあるようです。超常現象を扱う心理学との関連で見れば,深層心理学の分野で独自にユング心理学を創設したユングの業績が思い出されます。その秘書の証言によれば,精神科医のユングは晩年に至るまで特別のUFO文庫を設立し,世界中からの目撃記事を掲載した書物,専門雑誌,新聞の切り抜きを集めていたとのことです。これらの資料のいくつかは,ユングの著書『現代の神話』に収録され,「無意識はその内容を叙述するのに,UFO現象と比較できる一定の空間要素を用いる」と記されています。
私自身は,UFOに格別の関心を持っているわけではありません。しかし,幼かった私が,自宅上空を飛ぶ物体を目撃して名状しがたい不安にかられ,その記憶が70年以上の年月を経ても決して色あせることがなかったことは,まぎれもない事実です。しかも,後年に知りえたことではありますが,その飛行物体には多数の戦死者の遺体が搭載されていたのです。それは,東西冷戦の深刻な対立がもたらした悲劇の結末でもありました。私が偶然に見た上空の物体は,あやしげなUFOなどではなく,空飛ぶ巨大な「棺桶」だったのです。遠く朝鮮半島で繰り広げられていた戦争のことなど,幼児の私が知る由はなかったのですが,無意識のうちに「死」にまつわる体験をしていたのかもしれません。
不安体験の記憶と進路選択
皮肉なことに,私のUFOまがいの目撃体験の遠因であった朝鮮戦争の悲劇は,同時に,敗戦から立ち直ろうとする日本に戦争特需の好景気をもたらしていました。軍備増強を支える鉄鋼需要に応えるために,八幡製鉄所では高炉が次々に建設され,昼夜を分かたずに鉄鋼が生産されていました。工場で働く職工が九州各地から集められて人口は急増し,ベビーブームをもたらしていました。主要な工業地帯となった北九州はブームタウンとなり,休日のデパートは大繁盛していました。
ベビーブーマーの一員であった私も,休日には両親に連れられてデパートでの買い物に出かけることがありました。店内は買い物客であふれかえり,普段は目にしないきらびやかな商品に目を奪われているうちに,両親からはぐれて迷子になったことが幾度かありました。館内放送の後で両親と再会するまでの間に感じた恐怖感や不安感は,とても強かったことを覚えています。身を守る術を持たない子どもにとっては,PTSDにも等しい体験として私の心に刻み込まれたように思います。
この幼児期の外傷体験と直接に結びついてはいないのですが,高校生になって進路選択をあれこれ悩むようになった頃,熾烈な受験戦争のあおりで揺れ動く私の内心では,不安や無意識といった心理的事象への関心が日増しに強くなっていました。何かのきっかけで,フロイトという精神科医が夢解釈を特徴とする精神分析という斬新な治療法を編み出したという話題を耳にしました。その頃までは医学部受験を考えていたこともあって,学校の図書館で借りた『日常生活の精神病理学』(1901)を読むことにしました。
その読後感は,とりわけ新鮮なものでした。なにしろ,日常生活で人が特に意識していない内心の動き(無意識)によって,実はさまざまな影響を受けていることや,何気ない言い間違いやしくじり行為も,単なる偶然によるものではなく,それなりに説明できる心の仕組みが潜んでいるとする主張が,具体例と共に説得力を持って示されていたからです。書名に「精神病理学」と銘打ちながら,神経症や精神病の患者の心理を対象に論述するのではなく,フロイト自身を含む人間の平凡な日常生活の中にも「精神病理学」が成立しうるとする,その発想の斬新さに心底驚きました。
フロイトが切り開いたアプローチの独創性は,今なお,色あせていないのではないかと感じられてなりません。彼がなぜ,人類史に残るような業績を達成できたのか,その原動力を探ってみると,その源は幼児期から抱えていた強い不安感情にあるように思われます。最近の研究では,彼の母親アマーリアはフロイトの弟の出産後にうつ状態に陥り,2歳前後だったフロイトに十分な愛情を注ぐ余裕もなく,彼が愛着障害に伴う不安感を抱くようになったと主張する学説も浮上しているからです。
フロイト自身が,心に悩みをかかえて苦悩した「当事者」でもあったことは,逆説的ですが独創性の源となっていたのかもしれません。彼は,若き日に優れた神経学者としての業績があったにもかかわらず,ユダヤ系であることを理由に教授職に就くことを阻まれ,開業せざるを得なかった不運やナチス迫害による亡命も体験しています。晩年も,30回を超えるがん手術の苦痛の中で執筆を続け,亡命先の英国で亡くなる直前まで,愛娘アンナの助けを得て診療を続けたのです。
私は,高校時代にフロイトの独創的な発想に出会ったことを契機に,心理職の道に進むことを決意しました。その後,九州大学教育学部に入学以来,大学院を経て福岡教育大学や東京大学等の心理学教員として約60年の人生を送ってきました。その原点には,やはり天邪鬼的な心性があったと思われます。シェークスピアや漱石の作品世界と同じく,心理職の深層でも悲劇と喜劇が同時進行していくのかもしれません。
亀口憲治(かめぐち・けんじ)
東京大学名誉教授,システム心理研究所所長
資格:臨床心理士,家族心理士,博士(教育心理学)
主要著書:『家族臨床心理学』(東京大学出版会)






