こうしてシンリシになった(27)|野村れいか

野村れいか(九州大学)
シンリンラボ 第27号(2025年6月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.27 (2025, Jun.)

“こうしてシンリシになった”というタイトルをみて,荷が重いな,と率直に思った。私はまだシンリシとして発展途上の身であり,“こうしてシンリシとなった”というのは何だかシンリシとして完結,完成しているように感じたからだ。しかし,編集者からいただいた本コーナーのねらい・目的を読み,それなら何か書けるかもしれないと思い,書いてみることにした。

1.高校生,“シンリシ”という仕事を知る

将来外国語大学への進学を視野に入れ,高校を選択した。しかし高校入学後は,勉強よりも部活に没頭し,部活動中心の生活を送っていた。高校2年のある日,部活中にケガをしてしまい,入院することになった。整形外科病棟6人部屋での入院生活。私以外の5人は“おばぁ”であった。沖縄のおばぁを表す言葉の1つに「かめーかめー攻撃(食べ物を“食べろ,食べろ”と勧めてくること)」がある。飲食に制限がない病棟だったため,私は入院中5人のおばぁから“かめーかめー攻撃”を受けた。脚以外は元気だったので,あれこれ食べながらおばぁたちといろいろな話をした。入院生活は思ったよりも楽しかったが,退院して外の空気を吸った時,涙が出る程うれしくて,自分が思っていたよりも入院生活が実はストレスだったことを実感した。それと同時に,私があの部屋からいなくなった後,誰がおばぁたちの話を聴くのだろうと思った。おばぁ同士はあまり話をせず,私を媒介に交流していたからだ。そこから「病室やベッドサイドで話を聴く仕事ってないのかな」と思い,あれこれ調べているうちにシンリシという仕事があるらしいと知った。この入院がきっかけとなり,進路変更することになった。

2.はづき会・心理リハビリテイションとの出会い

地元の琉球大学に進学し,アウトドアサークルに入った私は海や離島でのキャンプ,登山など,高校時代と同様に本来の目的を忘れてサークル活動に没頭していた。学部3年次に動作法キャンプに参加した友人が私に向いていると思うからと動作法を紹介してくれた。それがはづき会との出会いであった。はづき会は障害児者の親の会で,動作法の月例会やキャンプを運営していた。友人の勧めもあり,訳も分からぬまま,月例会やキャンプに参加した。1週間キャンプで初めて担当したのは座位を取ることも難しく,発語もない脳性まひのAさんだった。キャンプ中私がうまくタテの姿勢をつくることができず,Aさんに長らく同じ体勢をとらせてしまい,気が付くとAさんの足が赤くなっていた。Aさんの身体が少しでも動きやすく,楽になればと思い関わっていたはずが,当時の私はAさんとのやりとり(身体を通した対話)よりも,いつの間にか“私”が動作課題を遂行することばかりに目が向き,Aさんときちんと関わることができていなかったのである。Aさんのお母さんにお詫びすると「れいかさんとAが頑張ったからだね」と赤くなった足をAさんと私の頑張った証であると返して下さった。自分の不甲斐なさといつか本当にお役に立てるトレーナーになりたいと思い,泣きそうになったのを今でも覚えている。学部3年時から現在まで約30年近く関わっているはづき会のトレーニーはもちろん,未熟な私を常に励まし見守って下さった母ちゃんたちにシンリシとして育ててもらったと言っても過言ではない。

はづき会との出会いから始まった心理リハビリテイション(以下,心理リハ)との関わりは私の臨床の原点であり,今なお学ばせてもらっている。九州大学大学院に進学し,引き続き心理リハに関わったが,院生時代はよく先輩から怒られ,成瀬先生をはじめ先生方から厳しくご指導いただいた。時には逆ギレしたり,納得がいかないと質問したりすることも多々あったが,先輩も先生方も正面から向き合って下さり,対話や実践を通して根気強く教えて下さった。

3.非常勤勤務を通しての学び

沖縄に帰りたくないという不純な動機で博士後期課程に進学した。その間,スクールカウンセラー,学生相談,保健所の健診・親子教室担当などで非常勤シンリシとして勤務した。最近ではスクールカウンセラーも病院で働く心理職もすっかり定着しているが,当時は既存のシステム,集団に新たに参入する未知の職種=シンリシであった。スクールカウンセラーも総合病院も私が“最初”の心理職であった。修士を終えたばかりの若者がシンリシとして学校や医療現場に参入した際の風当たりは強かったように思う。もうちょっと歳を取っていて貫禄があれば違っていたかなと考えたが,年齢も貫禄も足りないものは仕方がないので,“シンリシを知ってもらう”ために,職員室で積極的に話かけたり,全学級回って給食を食べに行ったりした。

総合病院では心理リハの集団療法を基に集団プログラムを考案し,実施した。当時は「工作やレク活動は子どもっぽい」と反対されたが,企画書を書き,根回しや下準備をして実施したところ好評であり,その後も年に数回実施した。病院では当時から他職種が自身の活動を評価するシステムがあり,集団プログラムやシンリシの面接についても患者・家族とスタッフにアンケートを実施し,評価および改善点について報告することが求められた。シンリシとしての取り組みを患者さんや関わったスタッフに評価してもらい,さらにより良いものに改善していく,より良い支援を考えていくという視点が当時の私には抜け落ちていたため,耳の痛い内容もあったが,アンケートの実施は大きな学びであった。

4.精神科病院での学び

総合病院で働く中で,精神疾患の知識や支援についてきちんと学び,実践できるようになりたいと思うようになった。そのタイミングでご縁があり,地元沖縄の精神科病院へ就職した。当時琉球病院には2人の先輩シンリシがいたが,それぞれデイケアと医療観察法病棟の専従であり,本館には出入りがあまりなかったようで,心理室もなく,入職して案内されたのは窓もない倉庫の一角のような部屋であった。入職後,病棟をうろうろしたり他職種のビーチパーティーの誘いにはほぼすべて参加したりと,顔を覚えてもらうことに努めた。おかげですぐに他職種と親しくなることができ,検査技師長が検査科の使用していない部屋を心理室として使用できるよう交渉,整備して下さり,着任して半年で大きな部屋を心理室として利用できるようになった。

琉球病院ではアルコール依存症病棟や医療観察法病棟におけるプログラムや心理面接,強度行動障害者への関わりなど多くのことを患者さんやご家族,他職種から教わったが,特に子ども心療科の立ち上げと災害支援は私にとって大きな転機であった。

当時沖縄で児童思春期の診療を行う病院がなくなってしまい,村上院長(現ペシャワール会会長)から県内の児童思春期の精神科ニーズを把握するよう言われ,診療圏域にある複数の地域で健診や親子教室運営に関わった。子どもの心の診療に対するニーズは大きいことを院長に伝えると,シンリシを中心に子ども心療科を立ち上げると言われ,他職種とともに子ども心療科外来や入院ユニットを整備した。また,東日本大震災ではこころのケアチームとして岩手県へ支援に入り,熊本地震ではDPAT先遣隊として4月14日に熊本入りし,4月16日に熊本県庁で本震にあうという体験をした。子ども心療科の立ち上げや災害支援を通して,診療するための環境や人をどう整備するのか,避難所や被災者の自宅へ訪問し話を聴くための配慮や工夫,地域支援など,“地域で求められる支援を適切なタイミングで届ける”ためにシンリシとして何ができるのか,何をして何を控えるのかを考えるようになり,それまでのシンリシとしてのスタンスを変える機会となった。

こうして振り返ってみると,いろいろなことが繋がっていて,当時はよくわからずにやっていたこともすべてに意味があり,どれも臨床に活かされていることに気づく。アウトドアサークルでの体験は災害支援の際役立ったし,心理リハキャンプの運営はプログラムやこども心療科の立ち上げに役立った。また,これまで出会ったクライエントに多くのことを教えてもらい,恩師や同期,先輩や後輩,シンリシとなってから出会った多職種も含め多くの仲間たちとのつながりがずっと私を支えてくれていると改めて感じた。

これからシンリシを目指す皆さまに向けてということで書いてみたが,私自身もシンリシとして歩みを進めている最中である。シンリシとなった皆さまとお会いする日を楽しみにこれからも日々精進していきたいと思う。

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野村れいか(のむら・れいか)
所属:九州大学大学院人間環境学研究院講師
資格:公認心理師 臨床心理士
主な著書:『病院で働く心理職:現場から伝えたいこと(編著,日本評論社,2017)

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