片岡玲子(立正大学心理臨床センター顧問)
シンリンラボ 第29号(2025年8月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.29 (2025, Aug.)
1.なりたかったものは?
共同防空壕から外へ出たとたん,通りの向こうにオレンジ色に燃える炎が見えた。1945(昭和20)年5月,多分東京空襲の夜だったのだろう。幼児期の体験で最も鮮烈な場面である。間もなく終戦となり,翌年終戦後第1回の小学生となった。校舎は戦火で焼けており,教科書は大きな紙に印刷されたものをはさみで切って綴じた。それでも空襲警報はなくなり,オレンジ色に燃えたお屋敷の「焼けあと」は子どもたちの絶好の遊び場となり,思い切り遊んだ。
小学生の頃はバレリーナになりたくて,週3日バレエのレッスンに励んだが,その夢は中一で諦めた。父の仕事がうまくいかなくて,母が日本初の女性弁護士3人のうちの一人である久米愛先生(「虎に翼」のモデルのお一人)のお世話になることがあり,弁護士にあこがれた(久米先生のご息女はのちに臨床心理士になられている)。
高校から大学を選ぶとき,私学は経済的に難しく,公立の法科は浪人覚悟なしでは難しく,司法に近い仕事を探して家庭裁判所の調査官を見つけた。そこで初めて心理学を学んで,家裁を受けようと考えた。この時代,四大進学率は男13. 7%,女2. 5%(文部省,1960)。進学校にいても女子は高卒で就職する人が多く,浪人などよほどの環境と余裕がなければ……であった。
心理学については何の知識もなく,志望校出身の日本史の先生に心理学って文系ですか,理系ですか? と尋ねた。先生は「今は真ん中かな」といわれた。
そんな状態で心理学科に入り,家庭教師のアルバイトに精を出した。当時大学院生であった深谷和子先生からは,プレイセラピーを習い,幼稚園児の知能テストのアルバイトで田中ビネーを数多くこなした。
成瀬悟作先生の催眠研究会に参加し,友人が見事に催眠にかかるのをみて感動する。今思うと贅沢なことに,アメリカから戻られたばかりの土居健郎先生の精神分析の授業があった。
大学は60年安保で騒がしく,連日国会へのデモが続き,6月,東大生の樺美智子さんがデモの中で亡くなった。
2.都庁へ
1962年の卒業時,案の定大卒女子を募集するところは公務員以外ではほぼなかった。家裁と国家公務員心理技術職,都庁の心理職公募はなかったので一般事務,を受験。筆記試験はすべて合格したのだが,家裁は面接で落ちた。
「正直,女性はいらないんだよね」にこやかに言われた試験官のことばは,今でも耳に残る。でもそのおかげで私の都庁人生がはじまった。
最初の配属は東京都中央児童相談所措置課。児童福祉法に基づいて警察通告や施設入所などの措置事務を担当する。渡された警察からの通告書をめくっていると,突然被害者として自分の名前や自宅の図面が目にとびこんできた。
実は入都を控えた2月の深夜,枕元に人が立つ気配がした。「どなた!」と叫ぶと,黒い服の影が階段をかけ降りて逃げた。110番したあと,警察から不審者を確保したので面通ししてほしいといわれ,パトカーで警察署にいくと,学生服の小柄な少年がいた。見上げた時は大きくみえたが,中学生だという。私や妹の財布を持っていた。深い事情はわからないが,触法少年として児童相談所に送致するときいた。全くの偶然に,その調書を私が担当したわけである。あの時の少年のなげやりで反抗的な,でもどこか切ない態度が忘れられず,初めての非行少年との出会いは印象深いものになった。
児童相談所の一時保護所ではもう少し活きのよい非行少女たちにであった。13歳でやくざの彼女? となのり,「○○いのち」の入れ墨をみせてくれた。
措置課の隣には医師と心理判定員の所属する診断指導課があり,その中にのちに文教大学長になられた水島恵一先生,東京都初の女性副知事になられた金平輝子先生がおられた。
アメリカでの研修から帰国されて間もなかった水島先生は新米の面接員のレクチュアを買って出られた。今考えると先生から改めてカウンセリングの基本を教わったと思う。隣の課で心理判定員になりたい思いにかられた。あのような少年たちともっと関われるのではないかと思った。上司に申し出たところ,当時都庁には職種変更の制度がなく(役所では事務職が専門職になりたいなどありえない?)一旦退職して受け直すことになり,1年後めでたく心理判定員になった。これが私のシンリシへの第1歩である。
しばらくは水島先生の勉強会に参加させていただいた。後年大学でのカウンセリングの授業には水島恵一ほか編の『カウンセリングを学ぶ』(有斐閣)を教科書に使用している。
児童相談所は昔も今も忙しい福祉臨床の現場である。18歳未満のあらゆる相談が持ち込まれる。心理判定員(現在は児童心理司)2人で1年間に実ケース1, 000件を数えたこともあった。虐待や障害,養育困難,棄児,非行。心理検査,心理療法,教育委員会の就学相談,保健所の三歳児健診,地域の巡回相談まで何でも担当していた。男性は宿直,女性は日直があり,日曜に赤ん坊の長女とミルクとおしめを抱えて出勤した。
1964(昭和39)年から71(昭和46)年まで在籍した東京都杉並児童相談所では忘れられないケースが多い。隣のおじさんにレイプされ,13歳で出産した少女。当時ようやく課題となった自閉症の相談とセラピー,父親の女性関係を原因に不登校になった中学生,さまざまな課題を抱えた子どもや親たちとの関わりは力も使い,また多くの示唆を得た。嘱託医をしておられた児童精神科医の高橋恭子先生には相談者との丁寧な関わり方を学ばせていただいた。また高橋先生のご紹介で,東大病院精神科の上出弘之先生のところに,都からの研修生というかたちで週1回,行かせていただくことができた。上出先生は当時自閉症御三家といわれた児童精神科医のお一人,児童相談所で出会う課題のある子どもたちに贈ることができる何かを学びたかった。
当時の東大病院精神科は若手医師たちとの紛争中。ときにはカルテ箱がひっくり返っていた。午前は診察に同席,午後からは自閉症や知的障害のある子どもたちの「行動療法」を活用したデイケアに参加した。
上出先生は数年後,東京都児童相談センター所長として都にこられ,私も開所と同時に治療指導課のオープニングスタッフとなった。
3.都庁で管理職になる
児童相談所のケースに関わっているうちに,心理職が児童相談所の管理職になってもよいのではないかと考え,管理職試験を受けた。都庁は条件があえばだれでも昇任試験を受けることが出来る。それでも当時女性が管試を受けるのは珍しく,心理では10年以上前の金平さん以来とのことであった。
合格してから管理職任用までは4年の研修期間がある。1971年,合格後すぐに都精神衛生センターに転勤。ここでは,精神衛生相談員として精神科医,精神科ソーシャルワーカー(PSW―精神保健福祉士はまだなかった)と共に相談,カウンセリング,を担当。精神の患者さんや精神保健についてさまざまな経験を得,他職種との協働も体験した。
決心してその間に2人目の子を出産。育休の制度はまだなくて,保育ママ,保育園,近くの短大保育科の学生さんにベビーシッターのアルバイトをお願いするなど,子どもたちも大変だったと思う。
1975(昭和50)年11月,知的障害児通園施設の園長として管理職に。折から東京都が国に先駆けて障害児の希望者全員入学という制度をはじめたところで,通園施設にいた学齢児が初めて学校教育を受けられることになった。施設は地域に残されていた成人の障害者のための通所施設に転換。生まれて初めて集団に参加する利用者が笑顔で通所してこられた。
次には幼児対象の通園施設へ転勤,0歳からの母子通所を始めた。この間,改めて障害児・者を持つ保護者の方々の思いを知った。その後,品川区や都の福祉局,教育庁,保健所,病院経営など行政のなかでの仕事についた。大島の噴火による全島避難の避難所再編に関わったこともある。どれも心理職の専門性と直接関係はないのだが,逆に心理的な視点が役立つ場合の多いことも感じた。
都庁最後の仕事は東京都児童会館長。年間80万人が訪れる子どもの遊び場である。ここでは全館プレイルームとして職員とともに「子どもの自由な選択」をコンセプトとした。ソーシャルワークにはもともと関心があったので,社会福祉士の通信教育を受けて受験した。
1999(平成11)年からは大学に移り,臨床心理士の養成も行なうことになった。学生にはできるだけ臨床の現場を体験してもらうように実習先を選んだ。立正大学心理臨床センターでは地域に開かれた相談機関として,じっくり相談・カウンセリングに関わることが出来たと思う。
大学定年後の70歳で,社会福祉学の学びなおしと児童虐待の勉強を目指して社会事業大学専門職大学院に入学,宮島清先生のゼミに入れていただいた。
4.心理職の資格をつくろう!
心理職の国家資格について,1960年代の臨床心理学会で議論がはじまっていた。しかしその後学会は分裂。水島先生らは学会を離脱された。1982(昭和57)年日本心理臨床学会が設立され,再び資格への模索が始まった。中でも上智大教授小川捷之先生の影の力は大きかったと思う。彼とは大学の同級生だったので協力を求められた。私が戸惑っていると,人々にとって心理の公的資格がいかに必要であるかを電話で延々と説かれた覚えがある。ある日,河合隼雄先生らに厚生省の知人を紹介する場を設け,国家資格について相談すると「まず自分たちで資格を作ること」をアドバイスされた。
1988(昭和63)年,臨床心理士資格認定協会ができ,臨床心理士が誕生した。その後,1996(平成8)年に小川さんが亡くなられたことは本当に残念であった。
そこからさらに30年近く,山あり,谷ありの国の検討会などを経て,2015(平成27)年に公認心理師法が公布。2018(平成30)年に初の国家資格・公認心理師が誕生した。
国会へのロビー活動や,署名を集めて厚労省に提出もした。公認心理師は医療や教育,福祉などどの分野においてもサービス提供のできる汎用資格とすることができた。関わった人々の努力は大きかったと思う。
先駆者の努力に始まり,多くの人々の想いを結集してできた心理職の国家資格実現が,私にとってのシンリシ第2歩のように思う(国家資格受験は79歳になっていた)。今は福祉領域で働く若いシンリシさんたちとケースカンファレンスをする機会がある。臨床の現場からは社会に向けてもっと発信していくことも必要だと思う。
この資格が,世の人々の心の支援にとって役立つ資格として認められ,発展していくことをこころから願っている。
片岡玲子(かたおかれいこ)
立正大学心理臨床センター顧問。日本臨床心理士会監事,日本福祉心理学会常任理事,日本電話相談学会監事。
資格:臨床心理士,公認心理師,社会福祉士,福祉心理士
主な著書:『子育て電話相談の実際―聴くことからはじめよう』(共著,監修:東京臨床心理士会,創元社,2013),『公認心理師分野別テキスト 福祉分野―理論と支援の展開』(共編著,創元社,2019),「福祉臨床の領域」(分担執筆,『臨床心理学への招待 第2版』,ミネルヴァ書房,2020)「総論・生活を支える心理支援」(分担執筆,『福祉心理学 第2版』,遠見書房,2025)
趣味など:舞台鑑賞(バレエ・歌舞伎・クラシック音楽)






