村山尚子(心理教育研究所赤坂主宰 福岡人間関係研究会事務局
福岡市立学校教職員互助組合カウンセリングルーム顧問)
シンリンラボ 第34号(2026年1月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.34 (2026, Jan.)
プロローグ
2025年7月で私は88歳になった。2025年は戦後80年に当たるので,私が小学2年時8歳の夏に終戦を迎えたことになる。その頃大阪市内に住んでいたが,あの恐ろしい50回以上にわたるB29の空爆には爆心地から少し北方に家があったので,直接の被害を被ることはなかった。しかし小学2年の新学期には市内の小学校が閉鎖になり,親元から離れ郊外の小学校に疎開をさせられることになった。その後も市内への爆撃が凄まじい状態であったので,この様子では親子は死別してしまうと親は考え,私を疎開先の学校から自主退学させて共に暮らそうと内々の話がついていた。その矢先の8月に終戦となった。しかし,それからは世の中の価値観が一変し,教科書も新しい価値観にふさわしくない部分は担任の指示で黒塗りにさせられた。「何が正しい」のか戸惑う日々が続いた。
高校時代の部活メンバーとの出会い
高等学校への進学の時期が来た。高校を選ぶ時,電車通学で便利な府立高校を選んで進学した。戦後は旧制中学から新制高校へと学校制度が変わった。当初男子高,女子高は別だったが,私が受験する頃には男女共学の府立高校になっていた。深く考えずに自分で選んだ高校が伝統のある旧制中学から移行した新制高校だった。入学時に登校してみると,女子の机は教室端の縦一列しかなかったのには驚いた。有名大学への進学を重視する指導が行われていた。2学年で実施される修学旅行も,男子は社会に入ると旅の機会は多いが女子は家庭に入るとその機会が少ないだろうとの配慮から,女子のみで修学旅行が実施されることになっていた。これにも驚いたが,私はここではあまり深く考えないで女子友と大いに楽しんだ覚えがある。行先は九州で福岡,長崎,熊本の阿蘇山,別府温泉への旅だった。その時点で将来の夫の赴任先が福岡になるとは夢にも思っていなかった。
華麗なる決断
成績優秀な生徒たちの多い高校に入ってしまった私は,低空飛行の自分をどう生きるか? 自分が生き生きする道はないか?と思惑した。そして華麗なる決断をした。その決断が私の高校生活を救ったのだった。それは私の一つの関心分野であった絵画に導かれて「美術部」に入部したことだった。正解だった。そこでは部員のみんなが学業成績や善悪の基準はなく,男女は対等に,自分の感じている気持ちや興味関心を表現し,分かち合って,たくさんの時間を過ごすことができたからである。この環境の中で,自分自身のからだや気持ちの中から産まれる創造物を制作することができた。私はこの「場」に魅せられていた。高校展での成果もあった。
進路に迷い,次の決断の時が来た
高校生活は満足だったが美大への進学は経済的に無理だった。当時は高卒後は女子の半数以上は就職か家事見習い,言葉通り花嫁修業に入るのが進む路だった。私も高3の夏に父親のコネで,ある企業に就職が決まり,いわゆるOLになるコースを歩むことになった。ところがその頃から自分のからだの感じがだるく力が出なくなって,よろこびの感じが薄れていった。抑うつ状態になったのだった。
仲良しの女子友何人かに付き合ってもらって,阪急梅田あたりで大阪名物のお好み焼きを焼きながら,悩みを聴いてもらうことが何度もあった。銀行に就職しようとしている友,美大に進もうとしている友,国立大に行きたいという友,それぞれが夢を語った。しかし私は自分についてのモヤモヤが続いていた。「泣きべそをかく私」に友達は何度も付き合ってくれた。もちろん友達のSOSにも私は随分付き合った。友達が私に言った言葉に「ハッ!」としたことを覚えている。「小さい時,何になりたいと思ってた?」と問われ,私は自分に問いかけた。明確になってきた。「叔父がシベリア抑留から帰国後も地元で開業医を続けた」「看護師さんは私が病気の時に優しかった」「幼児のころ母親と未来の姿を想像して話した」ことを思い出した。そして“対人援助職”が浮かび上がってきたのだった。
安心して迷える「場」
随分後年の話になるが,ロジャーズ理論を基盤として心理臨床現場で働いている私のもとに,ゲシュタルト療法で有名な倉戸ヨシヤ先生から執筆依頼があった。『学校嫌い』(教育フォーラム11,金子書房,1993)への分担執筆であった。この本の中で「学校嫌いになっている子どもへの対応」に関して何人かの先生方が提言をされている。 “自分自身でいられる「場」づくりを”と私は述べている。それは臨床現場でクライエントから学んだ体験に加えて,自分の高校時代の迷いの体験が源となっている。あの時の友人たちのおかげで充分に自分自身になって迷うことが出来,方向が見いだせたと感じている。
シンリシに向けて
方向が決まった。急いで受験体制に入らなくてはならず担任に相談した。担任は私の気持ちをよく聴いてくださった。大阪市立大学(現大阪公立大学)の生活科学部に心理,福祉の対人援助者向けの講座があること,その上,当時のことだが,大阪市内の住民は授業料が割安になることを教えてくださった。私が苦手な理数系科目を併せて全6教科を受験に向けて勉強をし始め,何とか入試までこぎつけた。結果は幸い合格点に達した。
そして新しい出会い
学部で学んだ学問と実践は臨床心理学・社会福祉学であった。関心は「コミュニティ・ケア」「コミュニティ・オーガニゼーション」「臨床心理学」であった。臨床心理学では,私にとって大きな影響を与えたロジャーズ初期の著書『カウンセリング』(1956 友田不二男訳)を授業で学び,また精神分析のアンナ・フロイド著『自我と防衛』(1936/外林大作訳,誠信書房,1958)も授業で学習した。アンナ・フロイドは父親から精神分析を受け精神分析家になり,既成の概念に加え「昇華」を新しく加えた。臨床心理学的理解も深い人と記憶している。また,ロジャーズ派の遊戯療法,音楽療法の草分けと称せられていた山松質文先生の実践をワンサイドミラーを通して受ける授業もあった。卒論は北海道開拓村(10家族が自主運営)に2泊3日の短期間仲間に入れてもらい「自ら育てる新しい組織化」の現場を体験した。「合同集会」「保育」を体験して論文にさせてもらった。
現場の心理臨床家として
卒業年度に大学院が新設され推薦されたが,同年新設の大阪府立精神衛生研究所がスタッフを募集したので公務員試験を受け現場の臨床家になる決心をした。一年間の研修を受けた。次の年に偶然にも京大大学院博士課程でロジャーズ派の研究・実践家を目指していた村山正治が非常勤相談員として加わることになった。出会いに感謝し共に臨床体験を積むことになった。2年後に結婚。
当時日本ではロジャーズのカウンセリングブームが巻き起こっており,1961年にご本人が招待され来日し,京都,大阪でも講演会が開催された。村山は京都から大阪会場へ案内をし,大阪会場では精神衛生協議会が主催だったので私は受付を任された。講演は1961年の著作『On Becoming a person』に関連して「This is me」(私を語る)だったと記憶している。
その後のこと
1972,73年,サンディエゴのロジャーズ研究所に留学。「クライエント中心療法」に次いで「エンカウンターグループ」「コミュニティ・アプローチ」が日本でも受け容れられてきた。帰国後それらの活動で忙しくなった。3人の子たちを抱えて福岡県精神衛生センター非常勤セラピスト,短大非常勤講師2か所,県・市児童福祉審議会委員を務め,講演やエンカウンターグループのファシリテーター依頼が増え,臨床論文『自閉症児を育てる親に対するグループアプローチの試み』が機関誌『精神衛生』に研究助成掲載(1978)。1985年「心理教育研究所赤坂」を立ち上げ,他機関と連携しながらカウンセリングやSVの委託を受け入れて人々との出会いを大切にしてきた。ここは福岡人間関係研究会(村山正治代表)の月例会や心理臨床研究の場としても活用してきている。
1988年に臨床心理士になった。現在においても,健康に恵まれ,多くの方々のご支援に恵まれて,心理的援助活動を展開し続けてきている。
村山尚子(むらやま・なおこ)
心理教育研究所赤坂主宰 福岡人間関係研究会事務局
福岡市立学校教職員互助組合カウンセリングルーム顧問
資格:臨床心理士
主な著書:『ロジャーズの中核三条件 受容』(分担執筆,創元社,2015),『ロジャーズ選集(上)』(分担執筆,誠信書房,2001),『ヒューマニスティック・サイコセラピー ケースブック1』(分担執筆,ナカニシヤ出版,2008),『パーソンセンタード・アプローチとオープンダイアローグ』(分担執筆,遠見書房,2023),『PCAGIP法の実践』(分担執筆,創元社,2024),「パーソンセンタードコミュニティの変化生成のプロセス」(人間性心理学研究,15 (1); 30-38. 1997. ほか






