【追悼 村瀬嘉代子先生】追悼文|相場幸子

相場幸子(北海道解決のための面接研究会 副代表,北星学園大学名誉教授)
シンリンラボ 第29号(2025年8月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.29 (2025, Aug.)

村瀬嘉代子さん

まだまだお元気で,あと何冊も本を出されるのだろうなと思って居ましたのに,突然の訃報に驚き,残念でなりません。でも一方でこんな,いさぎよいお別れの仕方も貴女らしいのかな?と思ったりもしています。

貴女とのお付き合いは昭和36年,今から64年前に始まりました。家庭裁判所調査官研修所の第5期生として,10か月間ご一緒に学んだ日々を懐かしく思い出します。当時の研修所の所長は「家庭裁判所の父」と呼ばれた宇田川潤四郎さんでした。2024年のNHK朝ドラ「虎に翼」では,その宇田川さん(ドラマでは多岐川幸四郎)が,主人公のモデルである三淵嘉子さん(ドラマでは佐田(猪爪)寅子)や,法曹界の他の人々と共に,昭和24年に家庭裁判所を設立された経緯が詳しく描かれました。その中ではあまり触れられていなかったようですが,宇田川さんは新しい制度の担い手として,家庭裁判所調査官の養成にも熱心で,昭和32年に調査官研修所を設立されたのです。

研修生は全国の家裁から集められ,第5期は42人(うち女性は8名)でした。発足後間もないその頃は,年代も,経験もいろいろな人が混ざり合って,面白い構成でしたね。その中の若い方のメンバーとして,比較的近しくさせて頂いた事は幸運でした。

研修所での貴女(当時はまだ礒貝嘉代子さんでした)は,物静かで決して目立つ存在ではないのですが,何となく誰もが認める優等生という雰囲気でした。心理学,社会学,精神医学,法学その他多彩なカリキュラムが組まれ,その外に任意の課外プログラムとして,当時アメリカから一時帰国中だった心理学者,我妻洋氏のTAT研究会があり,そこでもご一緒させて頂きましたね。

最も印象に残っているのは,夏休みに七尾のご実家にお邪魔した時のことです。もう一人の友人(後に神戸家裁などで首席調査官となった北原君子さん)と,夏休みに能登半島巡りをしようと話していたら,「アラ,それなら我が家に是非寄って下さいよ」と言ってくださいました。遠慮を知らない私達は,旅の第一日に七尾の駅に降り立ちました。迎えに出て下さった貴女はタクシーを捕まえて「〇〇(地名)の礒貝までお願いします」と軽やかに告げられました。運転手さんが「本家ですか?分家ですか?」と聞くと「本家の方へ」と答えられ,私達は「ああ,有名な旧家なんだ」と密かに感じ入ったのでした。

磯貝家は特別目立つようなお屋敷ではないけれど,ゆったりした静かなたたずまいのお宅でした。お母様にもお会いしましたが,上品な,控え目な方で,ご挨拶の後は姿を見せず,私達が3人だけで遠慮なく過ごせるよう食事を運ばせ,そっと配慮して下さいました。その晩は楽しくおしゃべりし,翌朝私たち二人は奥能登へと出発したのでした。

昨年の地震のニュースで七尾という地名が出るたびにこの時のことを思い出します。ご親戚が今もお住まいなのだろうか?被害は?などと気になってお見舞いの便りを出そうと思いつつ果たさなかったことが悔やまれます。

その年の12月末に研修は終了しました。修了論文の題材に期せずして二人とも非行少年のTAT検査を選んでいましたね。でも,取り組み方も出来栄えも大違いで,貴女は精密な数量的処理を行い,かっちりとした論文に仕上げて居られました。統計が苦手だった私にはとても真似のできない事でした。それでもその年に刊行が始まった「調研紀要」の創刊号に,他の数本と共に並んで掲載された事を光栄に思って居ます。

研修終了の迫った頃,貴女が留学なさるという話が流れてきました。貴女の人柄と優秀な成績に惚れ込んだ宇田川所長から直々に,「アメリカで最新の知識を学んで来て,帰国後は研修所で後進の指導に当たってほしい」と要請があったと聞いて居ます。1ドルが360円だった時代で,留学はかなり大きな負担だったと思いますが,貴女はその期待に応え翌37年(1962年)の春,渡米されました。  

行先はカリフォルニア大学バークレイ校の大学院でした。アメリカの事情に詳しい我妻氏の助言だったと,どこかで書いて居られましたね。当時我妻氏はその大学で, George DeVos 教授と共同で「日米非行比較研究」というプロジェクトに携わって居られました。(DeVos 教授はロールシャッハ,TATなど投影法検査の力動的解釈で有名でした。大変な親日家で,何回か来日もされています。) 同じプロジェクトの一員として,既にバークレイに滞在していたのが村瀬孝雄氏でした。我妻氏からの連絡を受けて,大学への手続き,部屋探し等に孝雄さんが張り切ってお手伝いされたと聞いて居ます。運命的出会い……そしてお二人の出発点だったのですね。

やがて我妻氏も帰米され,そのプロジェクトに助手のはしくれとして参加する事になった私も夏に合流しました。氏の研究室を訪ねて来られた貴女に久しぶりにお会いした時,貴女の第一声は “How have you been?” でした。私は何と答えていいか分からず,日本的微笑でその場をごまかしました。

あとで我妻氏が感心していました。How have you been? は,お馴染みのありふれた挨拶 How are you? の原在完了形で,いかがお過ごしでしたか?という意味になる訳ですが,日本人にはあまりなじみのない表現です。ちょっと洗練された現地風のそんな英語を貴女は既に獲得して居られたのです。

私達の研究所と,院生さんたちの勉強している場所とは少し離れていたので,その後学内でお会いする機会はあまりありませんでしたが,我妻さんのご自宅に一緒に招かれたり,ご夫妻がパーティーに出席されるので二人でベビーシッターをつとめた事もありましたね。どこか身構えてしまう私と違って,貴女は小さい子どもの扱い方がとても自然で,事も無げなのに感心しました。

我妻氏とは時々,学業の報告や相談をされていたようで,氏を通じていくつかのエピソードをお聞きしました。氏の第一の感想は「やっぱり大したもんだ。こっちへ来てから勉強したことは全て消化され,整頓されて頭の中に入っている」でした。

また,「彼女に一寸の間タイプライターを貸してあげたら,隅々まで,実にきれいに掃除されて戻って来た。あれは誰にも真似できないね。」 とも。

こんな話もありました。「車に同乗させてあげた折,何かが飛び出してきたので急停止した。その弾みでフロントガラスに額をぶつけた彼女が何と言ったと思う?化粧品の跡がちょっぴりガラスについて居たのを目ざとくみつけて『お車を汚してしまい申し訳ありません』と言ったんだ!」なんと奥床しい発言でしょう?! 私なら『危ないじゃないですか!』と運転の仕方をなじったかもしれません。ガラスの汚れになど気づかないか,気付いても自分の落度とは露ほども考えないでしょう。貴女にしか言えないコトバです。(尚,当時まだ一般の車にシートベルトはついて居ませんでしたものね。)

バークレイ時代の思い出はこれ位ですが,たまに交わした会話の中で,周囲の学生や教授陣をよく観察して居られました。「そこは一寸複雑なんよ」と含み笑いをされ,裏側を見通す力もお持ちなのだと感心したこともありました。

もう一つ,私が貴女に負っている大きな負債(お世話になった事)があります。恥をさらすようですが,翌1963年の5月頃,私は突然の個人的事情で東海岸に飛び,そのままそこに移り住む事になりました。そこまで考えずに間借りした部屋に残してきた荷物を,取りに戻る余裕がなかった私は,図々しくも貴女に後始末をお願いしてしまいました。家主との連絡は誰がどう取ったのか記憶が無いのですが,貴女は私の部屋に赴き,すべての私物を私のトランクに収めて送って下さいました。一日がかり(或いはそれ以上?)の大仕事だったと思います。文句ひとつ言わずに貴女は貴重なお時間を割いてそんな事までやって下さったのです。どんなに感謝しても感謝しきれるものではありません。その当時の私がどんな言葉で感謝を述べたか,どうやってお礼をしたかの記憶も定かではありません。もう間に合わなくなってしまったお礼とお詫びを改めてここで述べさせて頂きます。

そしてその年の秋,貴女は帰国されて調査官研修所教官補佐となり,宇田川所長との約束をきちんと果たされたのですね。

研修所第5期生の集まりは結束が固くて,研修終了後も,退官者を含めて毎年のように集まりが持たれていましたが,お忙しくなられた貴女も遠方に住む私もあまり出席は出来ませんでしたね。平成14年に編まれた機関誌第2号(五季:あれから40年)の近況報告で,貴女はその頃関心を持たれていた聴覚障碍者への臨床的援助の必要性を,熱く語って居られます。

村瀬嘉代子さんとなられてからの貴女のご活動については,私は語る資格を持ちません。調査官を退官されて大正大学に移られ,幅広い領域での臨床,大学での教育,学会活動(そして後年の資格問題への取り組み)等々目覚ましいご活躍は,私から見ると雲の上の人になってしまわれたようで,遠くから仰ぎ見るばかりでした。そんな中で,学会でのお姿で一つ忘れられないシーンがあります。昭和の終わり頃でしょうか,心理臨床学会のシンポジウムで,大御所と言われるような先生方に混じって貴女も壇上に並んで居られました。その中で何か大胆な発言をなさった後,大きな舌をペロッと出されたのです。会場から笑いも漏れていました。私はただただその勇気に感心してしまいました。普段のお淑やかな言動の一方で,そんなお茶目な,人を食ったような行動も貴女は取れる方でした。

たくさんの論文と数多く出版されたご著書のうち,不勉強な私は半分も読んでいませんが,その中で心を打たれるのは,臨床家としての貴女の類い稀な資質です。幼児から学童,思春期の男女,それらのご両親,成人のクライエント,出会ったすべての人が,何故かすぐに貴女に信頼を寄せ,心を開いてしまう。人嫌いの猫さえ貴女の膝には乗ってくる。その秘密は何なのでしょう?

常にクライエントの利益を考え,その成長を信じ,身を惜しまない援助の提供,それでいてのめりこまず,巻き込まれず,冷静な判断に基づいた静かで揺るぎのないたたずまい,そう言った不断の努力が,天性の資質の上に載っているからこそなのだと思います。非行少年の家庭訪問で,温かい食事を何日もしていないと聞くとその場でうどんを茹でてふるまう,施設の子どもたちを順番に自宅に宿泊させる,不登校の子を休日に自宅に招待し,ご自分の息子さんと一緒に釣り堀に連れて行く,生活のメドの立たない母親を自宅の家事手伝いに雇ってしまう等々,貴女の臨床の記述は驚くような話に満ちています。それほど「常識破り」ではなくとも,プレイルームの枠を飛び出して,テニスコートで打ち合うとか,自然林の散策に連れ出すとか,自由自在なその臨床の在り方は,的確な見通しに基づき,道を踏み外していないので,すべてクライエントの回復につながって行きます。林の中でヘビを捕まえてしまった少女に,たじろぐこと無く賞賛を贈れる豪胆さまで持ち合わせて居られました。

子どもの臨床で,ともすれば犯人(悪役)扱いされがちだった親への援助の必要性も早い時期から説き,且つ実践して居られました。また,内観療法は村瀬孝雄氏の領域とばかり思って居ましたが,貴女がご自宅を提供して,心を込めた手づくりの昼食付で集中内観をなさっていた事も最近知りました。

いずれも,誰にも真似のできない「村瀬嘉代子(のみ)の臨床」です。

非行臨床に始まり,精神科,カウンセリング研究所,学校臨床,児童施設,障害児・者への支援等,幅広い臨床経験をすべて取り込み,各種の理論に精通されながらどの理論,どの技法にも囚われず,必要な人,必要な時に最も適切な方法を用いる——まさに「統合的心理療法」を実践し,身をもって示されたのですね。貴女の真似は誰にもできませんが,その精神はそれぞれの場所で薫陶を受けたたくさんの方々の中に少しずつ取り込まれ,受け継がれ,今後の我が国の心理臨床の力となっていくと信じています。

「悲しまないでね。やるべき事は大体やったから,ちょうどいい時期だったのよ」天国からそんなお声が聞こえてくるような気もします。でも,その後で「だけどあと1,2年生きていたら,もう一つ何かいい仕事ができたかもネ」とおっしゃって,ペロッと舌を出されるかもしれません。

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相場幸子(あいば・さちこ)
北海道解決のための面接研究会 副代表,北星学園大学名誉教授。
臨床心理士(2026年3月まで)
1998~2023年 相談室「みみずく」主宰,カウンセラー
主な著書:『劣等感―自我との闘い』実日新書カルチュア16(共著,実業之日本社,1967),『みんな元気になる 対人援助のための面接法』(共著,金剛出版,2006),『読んでわかる やって身につく 解決志向リハーサルブック』(共著,遠見書房,2017),「ママたちの本音とグループによる子育て支援―「子どもがカワイイと思えない」と言える場をつくる」(遠見書房,2021)など

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