【追悼 村瀬嘉代子先生】村瀬嘉代子先生を偲んで──祈り,捧ぐ人|並木 桂

並木 桂(千葉県・千葉市スクールカウンセラー)
シンリンラボ 第29号(2025年8月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.29 (2025, Aug.)

出会い

「先生の集中講義を受けている間,ずっと自分の中に海のイメージがありました。果てなく広がる大海原。寄せては返す波。私は波打ち際にいて,海から打ち上げられる貝殻や石を拾わせていただく……そこに何を見つけ,何を手にするのかは自分次第。自分の手のひらに受け取れる分だけを受け取らせていただきました。今の自分に受け取れるものはほんの少しですが,まずは自分なりに今回学ばせていただいたことを大切にしたいと思います。」

これは当時在籍していた大学院の「児童学特別講義」に村瀬先生が外部講師としていらした際,提出したレポートに添えた一文です。ちょうどその頃,出版されたばかりの『子どもと大人の心の架け橋』(金剛出版,1995)と『子どもの心に出会うとき』(金剛出版,1996)がテキストだったことを覚えています。臨床心理学の初学者であった自分にとって,この二冊の書籍と著者である村瀬嘉代子先生との出会いは人生の大きな転機となりました。人の心に触れることの覚悟を問われ,一旦自分が積み上げたものが一瞬のうちになぎ倒されるような感覚と同時に,新たな気づきと豊かな学びが得られる非常に濃密な時間でした。先生から伝わってくる圧倒的な知性と品格,紡ぎ出される言葉の柔らかさと迫力,その全てに心を奪われたことを30年近く経った今でもありありと思い出せます。レポートを提出してしばらく経った頃,「至急お電話ください。深夜でも可。」との電報が届き,畏れおののきながら連絡を取ったところ,大正大学で働く御縁をいただくこととなりました。

入職した1997(平成9)度は,ちょうど臨床心理学専攻の大学院一期生が入学するタイミングでもありました。学部・大学院の諸先生方もカウンセリング研究所スタッフも,新たなスタートを切るのだというエネルギーに満ち溢れていました。村瀬先生が時代の要請に応えるかのように臨床及び研究を幅広く展開されていた時期でもあります。研究所の外来相談では,全国各地(時には海外)から村瀬先生に相談したいという方々が訪ねて来られていました。

私はたまさか,村瀬先生と関係する先生方・スタッフの方々が築いてこられた臨床・教育・研究のバトンをわずかばかりの期間受け取り,またお返ししたに過ぎませんが,求める声にはまるでその身を捧げるように応えておられた先生のお姿を知る一人として,この原稿を書かせていただきます。

日常の所作に込められたメッセージ

私が入職した年の春から夏にかけて,当時学習院大学教授であられた村瀬孝雄先生の学会記念講演準備のためのお手伝いをさせていただきました(おそらく仙台で開催された日本心理臨床学会第16回大会であったかと思われます)。御自宅の地下にある書斎で,孝雄先生が呼吸を整えながらゆっくりと静かに語られるフォーカシングと内観療法についての内容を,聞き漏らしのないよう全身全霊で聴き文章に起こす作業でした。その頃既に孝雄先生は間質性肺炎を患い呼吸器が手放せない状態で,日常の行動ひとつひとつに時間をかけておられる状況でしたが,研究にかける熱意,情熱とはここまでなのかという畏れに似た感覚を覚え,それを支える嘉代子先生の覚悟と献身を肌で感じました。お互いがお互いの研究や仕事に最大限の敬意を払い,命の瀬戸際で見守り見守られる姿を通して,何か崇高な魂に触れるような,厳かな心持ちになっていたことが思い出されます。嘉代子先生が孝雄先生の様子をそっと見に来られるタイミング,声をかけ飲み物を提供する所作,その行為ひとつひとつに「ありがとう」と返す孝雄先生の佇まい……書斎に流れている時間は静謐で,同時に命を削るような,鬼気迫るような,時間の有限さと対峙する緊迫した場であったように思います。

在職中は先生の御自宅を訪ねてこられる児童養護施設のお子さんや,出版社の編集者の方々,先生と交流のある様々な領域のお客様に飲み物やお料理をお出しする機会も多くあり(もちろん,お料理を作るのは先生です),おもてなしの心遣い(食器の選び方,季節やお客様の年齢・体調に合わせた味付けや盛り付けの創意工夫)やマナーを自然と学ばせていただきました。日常の中のありとあらゆる所作に相手への心遣いやメッセージを込めることが出来得るのだということを目のあたりにさせていただけたことは私にとっての財産であり,臨床場面に限らず子育てや地域での活動にも活かさせていただいております。日本画家で文化勲章受章者でもある小倉遊亀画伯が葉っぱ一枚に仏を見ていたという,全ての事物・事象に仏性や宇宙を見るようなありよう,先生はおそらくそういう境地におられたように思います。よく御著書や御講演で「日常生活と仕事の連動」「専門性と人間性がショートするような瞬間が意味を持つ」とおっしゃっておられましたが,まさに先生御自身がそれを公私にわたりあらゆる場面で体現しておられたのです。

重複聴覚障害者施設での心理的援助

1999年,先生に重複聴覚障害者の入所施設から心理的援助の要請があり,施設に同行するスタッフとしてご一緒させていただくことになりました。施設入所者は重度の聴覚障害を持ち,その他の重複する障害(知的障害,肢体不自由,精神障害等)のために就労や社会生活に困難を持つ人々でした。当時,手話を使える方は全体の2割程度で,8割の方々は限られた手話や指文字,独自の身振り,筆談,手のひらでの筆談で,聴覚障害の程度や重複する障害の状況によって一人一人のコミュニケーション手段が全く異なりました。心理的援助以前に,コミュニケーションをどう取るのかという大前提から考えなければならない事態に対して,手探りで試行錯誤を続ける日々が始まりました。詳細は「重複聴覚障害者への心理的援助」(心理臨床学研究Vol.20 NO.6, 2003),『聴覚障害者への統合的アプローチーコミュニケーションの糸口を求めて』(日本評論社,2005)にありますのでここでは割愛しますが,出張の際には東武東上線の電車の中で昼食を取りながら(すぐに食べられるおにぎりやサンドイッチを,車両の一番隅っこに陣取り二人で頬張っていました。出発前ギリギリまでそれぞれの仕事をこなし,出張後また仕事の続きに戻るという状況で,体力を消耗する実践に備えてマナーやお行儀の優先順位を下げるしかありませんでした。コロナ禍以前とはいえ,人様の視線が気にならないと言えば嘘になるのですが,そのあたりの「背に腹は代えられぬ」という先生の割り切り方は非常にリアリスティックでした),打ち合わせをして現地に向かい,到着後,先生は入所者との相互似顔絵法,入所者御家族の支援と施設職員へのコンサルテーション,私は入所者の個別面接及びグループ活動と,二手に別れて実践を行っておりました。五感を研ぎ澄まし,全身を受信機とし,アンテナの感度を最大限に引き上げて臨む実践でしたので,帰りの電車の中では力尽き二人でよく船を漕いでいたものです。

ある時,施設の作業棟の門が閉まっていて中に入れないという事態に遭遇したのですが,「わざわざ多忙な職員の方を呼び出すのもしのびない」ということで,粗大ゴミとして出されていたストーブを動かし足がかりを作って一緒に門を飛び越えたことがあります。先生は御年60代半ば。身のこなしも軽やかに,ひらりと飛び越えておられました(何という身体能力の高さ!)。その時,一瞬村瀬先生の後ろ姿に10歳前後の少女が重なって見えた気がしました。後日『柔らかなこころ,静かな想い』(創元社,2000)で中井久夫先生が描かれたトロッコ遊びに興じる少女(本文中では小学校4年生と記載)の挿絵を見て,「まさにこの少女だ!」と腑に落ちたものです。「飛び越えるわよ!」と,いたずらっ子のようにこちらに目配せして門を飛び越えた先生の後ろ姿は,今でも何かの拍子に脳裏によみがえることがあります。

後にこの実践を研究論文という形でまとめたのですが,考察における以下の6点は,当時の自分がかろうじて言語化できた,先生がこの実践を通して示された要諦であり,先生の臨床の通奏低音ともいえるものであろうかと思います。①柔軟性をもって個別化したコミュニケーション・チャンネルを探す。②「表現すれば呼応する対象があるということ」「人は交流できる存在である」という実感を贈る。③着手出来ることから生活体験を拡げ,より健康で豊かな生活を目指す。④柔らかな受容と確かな現実原則という一見矛盾した課題をバランス良く,個別に即応して適用する。⑤聞こえの障害によってコミュニケーションが阻害され内面の歴史が寸断されている場合,それを意味ある個人史として本人の中で繋ぐ。⑥施設との連携の重要性。(なお,論文中では先生をTh1,私をTh2と記載していますが,村瀬家の愛猫マーゴ嬢がTh2であり,私はTh3のポジションであったことを,ここに打ち明けさせていただきます。)

求める声あれば……

先生は求める声(弱き立場の人,支援が得られにくい状況に置かれている人,当事者の為に身を挺しておられる人)があれば,その声を聴くために自ら足を運んでおられました。鹿児島県徳之島での保育士・保健師の方々とのカンファレンス及び講演に同行した際は,その出張前後のスケジュールも超過密であったにも関わらず先生の滞在期間中の動きに一切無駄がなく,加えて空き時間を全て保育参観と子どもへのインタビューに充てておられました。この件に限らないのですが,面接場面においても他の場面においても,同じ場にいて同じ情報を受け取っている筈であるのに,先生がキャッチする情報量(インプット)も,先生がこなす作業量,仕事量(アウトプット)も桁違いであることに圧倒され,時空が歪むような感覚に襲われたものです。と同時に,これ程の解像度で世界が見えてしまっていたら先生が抱える孤独というものは一体どれ程のものであろうか……と,自分には到底想像が追いつかないことを考えてしまっておりました。

先生は相談者を理解するにあたり,時代背景という縦軸と国・社会・地域という横軸の交わるところを一瞬で捉え(この時点で先生の博覧強記ぶりが存分に発揮されるのですが),相談者がまだ語らないこと,語り尽くせぬことを非常に精度の高い想像力で補った上で,観察事実に基づく精緻な人物像とリンクさせ,潜在可能性(ほんの少し良い方向に進んだ,少し先の未来の姿。まだ表には現れていないけれど,その人が持っている力を存分に発揮できたら……という方向性)を見い出すということを瞬時に行っておられました。

また,先生があまりに膨大で次元の異なる業務──当時,大学組織内での学部長及び研究所長としてのお立場,日本臨床心理士会副会長職(当時。後に会長職。),心理職国家資格化の牽引役──を同時進行で抱えているにも関わらず,そのどれをも軽々とこなしておられるように見えるので,どれ程の負荷がかかっているのかが周囲には見えにくいのですが,実際のところ御自分の為の時間を極限まで削っていたと思います。

先生はよく「(臨床家として)自分を括弧に入れて考えるように」とおっしゃっていましたが,実際どこまでも自分を脇に置いておられました。自らに課しておられることが非常に厳しくストイックで,まるで殉教者のようであると当時の自分には感じられていたものです。それは自己放棄でも自己犠牲でもなく,私の語彙では表現できない「何か」なのですが……強いて言うならば「人智を超えた大いなる意思,見えざる神にその身を委ねておられる印象」と言いましょうか。「何故私たちではなくあなたが?」(「癩者に」(1943),『うつわの歌』みすず書房,1989所収)」という神谷美恵子氏の詩に表わされるありようや,中井久夫氏が「だれでも病人でありうる。たまたま何かの恵みによっていまは病気ではないのだ」(『看護のための精神医学』中井久夫・山口直彦,医学書院,2001)と表現する「謙虚さ(「いつわりのへりくだり」の対極にあるもの)」に通じるようにも感じられたことでした。

ある年,過労と重症の気管支炎が重なり,先生の声が全く出なくなったことがあります。その際,周りの者が皆で,カウンセリングもゼミも休まれるよう説得を試みたのですが頑として受け付けず,予定通りのスケジュールをこなされました(コロナ禍以降であれば休むという選択肢を選べたのでしょうけれど……)。高熱もあり倒れる寸前だったかと思うのですが,声が出ないということを逆に活かし,「コミュニケーションの本質とは何か?」ということをゼミ生に問いかけ,重複聴覚障害者施設での心理的援助とも絡めて,皆で議論を交わしたのです。この件はたまたま,ご病気をおして責務を果たされたという形で先生のありようが分かりやすく表に現れただけであって,どのような状況であっても自らの責務を果たさんとする責任と覚悟は,先生の中に常に揺るぎなくあったのでしょう。

静かな祈り

「ご無理を申して原稿をお願いしたこと申し訳なく思っていました。でも,貴女の原稿が送られてきて驚嘆し,そして感謝の気持ちを始めとして言葉に尽くしがたい思いで一杯になりました。私は平素,仕事をする時,こうありたいと考えることを口に出したことはなく,内心自分にそっと言い聞かせてきたつもりでしたが,それを本人以上に的確に言葉にして表現してくださったことに驚嘆したのです。(内心の想いの半分も実行できていませんでしたが……)—中略— 研究所を始め,いろいろ,零というか,マイナスから出発する機会を与えられたことを私は静かに感謝しています。こういう気持ちで自然に居られることはなんという幸せでしょう。そして何と多くの方々に助けて戴いたことか,人の力で活かされてきた,という意味では私は普通ではなく破格の好意に活かされてきたのです。貴女が声の出ない私を教室で代わって進めて下さった院の授業のこと,東武線での昼食,その他思い出は尽きません。 —後略—」

これは2006年,出産を機に退職した私に先生が下さったお手紙からの抜粋です。文中の原稿とは,村瀬先生の退官を前に御縁のあった方々が文章を寄せた書籍の原稿(「静かな祈り」,『こころに気づく』日本評論社,2007所収)のことです。先生は「破格の好意に活かされてきた」と書かれていますが,それはまず,出会う人々に対しての先生のありよう──例えば大学内では,関係する諸先生方はもちろんのこと他部署の方々や受付の方,守衛の方……あらゆる職種の方々にさり気なくお心を配り,相手の方から「自分の立場でお役に立てることがあれば……」と自然に心を寄せていただいていたこと──を抜きにしては語れないものでした。先生は生かされている,活かされていることへの感謝と,それを世に還さなければという想いとを,静かに,祈るように,胸の内に灯し続けておられたのだと思います。

おわりに

今でも生活の色々な場面でふっと村瀬先生の言葉や所作を思い出すことがあります。きっと関わってこられた多くの人の中にそっと気配をのこしてくださっており,一人一人の中に「内なる人」として存在し続けて下さるのでしょう。まるで,読む時の年齢によって何度でも新たな発見が得られる名著のように。

「静かに暮らしたい」とずっとおっしゃっておられました。どうか孝雄先生と共に,安寧の地で静かな時をお過ごし下さい。

文 献
  • 神谷美恵子(1989)うつわの歌.みすず書房.
  • 村瀬嘉代子(1995)子どもと大人の心の架け橋.金剛出版.
  • 村瀬嘉代子(1996)子どもの心に出会うとき.金剛出版.
  • 村瀬嘉代子(2000)柔らかなこころ,静かな想い.創元社.
  • 村瀬嘉代子(2005)聴覚障害者への統合的アプローチーコミュニケーションの糸口を求めて.日本評論社.
  • 中井久夫・山口直彦(2001)看護のための精神医学.医学書院.
  • 滝川一廣・伊藤直文編(2007)こころに気づく.日本評論社.
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並木 桂(なみき・かつら)
千葉県・千葉市スクールカウンセラー
資格:公認心理師・臨床心理士

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