富樫公一(甲南大学)
シンリンラボ 第33号(2025年12月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.33 (2025, Dec.)
役職とは何か。
「問いかけ」風に始めてみよう。わからない人は,前の連載を読んでほしい1。
大学教員になると,これが回ってくる。学部長や研究科長,ガッカチョー,専攻長が代表例だ。教務委員長や学生委員長,入試委員長,倫理審査委員長などもある。実直な教員ほどやりたがらない2。彼らがやりたいのは研究や臨床だ。
役職に対する感覚は,一般企業のビジネスマンと違うかもしれない。課長の次は部長と,島耕作のように上を目指すものではない。
大学教員が上を目指すとき,考えるのは研究者としての立場だ。具体的には,キョウジュやジュンキョウジュの職階を考える。
役職は職階ではない。組織運営のための立場にすぎない。通常任期制で,2,3年サイクルで交代する。任期が終われば,解放される3。
役職は構成員の互選で決まるが,暗黙の順番がある。今年はあの人だったから,次はこの人だろうと,みんな同じ人を思い浮かべる。
そこで攻防戦が始まる。
次年度の体制を決めるころになると,会議は緊張感を帯びてくる。「あの人に投票しましょう」と,会議室前の廊下で本人抜きのひそひそ話が交わされる。
噂の本人も必死だ。
会議が休憩に入ると,「うちには要介護の親がいて,なかなか時間が取れないんですよ」「健康診断でLDLコレステロールが異常に高くて,家族には仕事を控えるように言われてるんです」と,聞いてもいない個人事情を教えてくれる。
外からはエラい人に見えても,持ち回りの地域の班長と大差ない。
それでも,役職についた教員は,理念と誇りをもって大学運営に当たる(一部を除く)。責任感は強い(一部を除く)。学生と社会貢献のため,理想の教育と研究組織を作ろうと必死に働く。
あんなに嫌なのに,シンリン系教員を駆り立てる役職とは何なのか。
脚注
1. 読んだら「いいね♡」を押してほしい。↩
2. すごくやりたがる人は、たいていやらせられない。↩
3. 実際には、次のもっと大変な役職につかされる。↩
役職をなぜ嫌がるのか
役職につけばすぐわかる。
時間割を決めてください。実習希望者が多すぎるから,どこで線を引くのか決めてください。イベントの内容と日取りを決めてください。学生がトラブルを起こしました。受験業者からの問い合わせに回答してください。文科省に出す文書を書いてください。ハラスメントの相談があります。
毎日何十通ものメールがくる。
上からの指示は,教員たちが嫌がるものばかりだ。自分も不満なのに,意見をまとめるために頭を下げる。下からの要望は,上が認めないものばかりだ。無駄足になるのをわかって,上申する。
大学フェスタでは,大学代表として高校生の前に出る。「うちの大学を受験してね」とお願いする。営業部長だ。保護者会で「うちの子,大学行かずにずっとバイトしてるんですが,大丈夫でしょうか」という相談があれば,「私はもっと大学に行ってませんでした」とは言えず,丁寧に耳を傾ける。
組織改革の年度にあたれば,会議は夜まで続く。
どんな組織でもそんなものだ。そう言われるかもしれない。
確かにそうだ。違うのは,教員のアイデンティティが研究や臨床にあることだ。その先に教育がある。アイデンティティをなくしたら,自分を見失う。そうならないために,寝る時間を削って研究や臨床に向かう。
自分は何のために大学で働いているのか。この雑用は,本当に日本の研究の発展に寄与しているのか。これは,未来を創る人を育てるのにふさわしい苦労なのか。
細かすぎて見えないエクセルの表や,官庁が求める矛盾だらけの文書を作成していると,そんな想いも湧く。
それで給料をもらっているのだから,黙々と働くしかない。そんな声もよく聞く。
確かに,それで生計を立てている。しかし,給料をもらうためだけに働くのなら,専門家である必要はない。臨床家は,人の心が社会システムの中でどのように形作られるのかをよく知っている。自分たちが組み込まれた大学制度を問い直せないのであれば,社会に向き合う臨床家を育てられない。
そう考えている間に,またメールが届く。明日までに執行部に提出しなければならない資料を忘れていたのだ。そしてまた,執筆中の論文を閉じて作業にかかる。
役職につけば,頑張ってしまう
それでも,教員は役職につけば頑張る(一部を除く)。
「どうせやらなければならないなら,理念を持て」
今は亡き業界の重鎮に言われたことがある。雑務に音を上げていたときだ。
「君は,本当に日本のリンショウシンリガクはこれでいいと思うのか。臨床家を育てるのに,このシステムを十分だと思うのか。そう思うなら大学を去れ。君は何も作れない。そう思わないなら,作りたいものを作れ。役職につけるのはぜいたくなことだ。どんな仕事でも,敵はいる。目指したいものを目指せ。そのための役職だ」
リンショウシンリガクの黎明期を生きた大御所の言葉は重かった。重すぎて,ますます嫌になった。
うんざりして研究室に戻ると,学生がアルフォートを持ってやってきた。
「センセイも疲れているみたいだし,今日はみんなでチョコレートでもつまみながらゼミをしませんか」
これだ。
「あなたがこれを持ってこようと思った理由は何ですか」と,臨床家お決まりのセリフを吹き飛ばすインパクトがあった。
この学生のために,教育や組織があるのだ。学生の向こうに患者やクライエントが見える。彼らの顔に呼びかけられ,自分がここにいることを知る。
重鎮はこれを言っていたのかと,言葉の意味を初めて知る4。
臨床と通じるところがあるかもしれない。
傷ついた人たちが目の前に現れる。彼らの顔を見れば,その声に応じたくなる。理論の型にはめ込んでしまわないように注意しながら,彼らの願う健康と生き方をともに探す。臨床の原点だ。
組織運営は,個々の声に応えるものではないかもしれない。しかし,臨床家になりたいと願う学生が目の前にいる。彼らの顔を見れば,その声に応じたくなる。自分の信じるリンショウシンリガクに染めすぎないように注意しながら,理想とする研究や教育を提供したくなる。
学生には,基礎理論をしっかり学んでほしいが,形式にとらわれてほしくはない。
教員は自分の好むオリエンテーションを教えたがる。こうあるべきだという正解を伝える。学生は,理想とするセンセイを探す。間主観的交流の中で,彼らはセンセイの言うことをすべて正しいと信じるかもしれない。
しかし,決まった方法だけで対応できる患者はいない。センセイの考えは,すべての患者に合うわけではない。社会や歴史,文化は変化し続ける。センセイの経験知は,今の患者を苦しめるかもしれない。患者を前にした彼らは,自分の頭で考えなければならない。教員の言葉さえ,一から問い直す力をつけてほしい。
しかし,そのように学生に伝えれば,それもまた一つの正解や権威となる。そうならないための教育課程を作りたい。
学生に現場を見せてあげたい。そこで臨床の空気を感じ取ってほしい。
実習に出れば,緊張で行動できない学生もいる。社会経験がなく,実習施設で失礼な態度を取る学生もいる。
「あの学生はひどい」
ぼやく教員もいるが,わが身を振り返ったらいい。学生のころ,自分はもっとひどい失礼を重ねてこなかったか。
それを許容してくれる実習先を見つけ,そこで働く実践家たちと話し合い続ける。ここに学生を連れてきたら,学生は臨床の楽しさを感じてくれるだろうか。患者やクライエント,利用者の傷つきを感じ取ってくれるだろうか。ほのかな不安とともに,学生が何を感じて帰ってくるのかと待ち望む気持ちがふくらむ。
そうした教育システムを作るには,確かに役職は必要だ。
理想通りのものが作れるわけではない。反対する人は必ずいる。協力しない人もいる。大学も企業だ。限りある予算と人的資源の中で,できることしかできない。入学してくる学生の能力や力も,それぞれ違う。限界を知りながら,夢や理想を追う。
役職についたからといって,研究や臨床,教育から切り離されるわけではない。学生や臨床現場で出会う人たちの顔を探せばよい。かえって表情がよく見えることもある。その顔を見れば,役職の苦労も(一瞬だけ)素敵なものに感じられるかもしれない。
脚注
4. 遅い。↩
ガッカチョーに呼び出された
正門を抜けて,右手にある駐車場に車を停めた。
すぐ車を降りる気になれなかった。疲れた体をシートに預け,横の窓からまつたけ山を見た。正門前に一本だけ据えられた街灯が,「まつたけ狩り 一人6,000円」の看板をぼんやりと照らしていた。
山は,闇の中で黙って黒い姿を見せていた。
今日は,研究日だった。クリニックで二人のセッションを終えて携帯を見ると,ガッカチョーから連絡が来ていた。
「伺いたいことがあります。できるだけ早く会いたいのですが,時間はあるでしょうか」
一瞬のうちに体に緊張が走った。何の話かは予想がついた。
仕事が終わったらすぐに大学に向かうことを伝えた。
眠れない日々が続いてた。
どこを探しても,パソコンは出てこない。二週間以上,助教室の物品をひっくり返して探し続けた。キャビネットを引きずり出し,壁の隙間までスマホのフラッシュライトをあてた。アメリカを離れるとき教授にもらった盾が,棚から落ちて欠けた。デルカリの出品者に問い合わせたが,なしのつぶてだった。
自分は被害者だ――そう思っていても,うしろめたさがぬぐえなかった。犯罪者のような気がした。
車を降りて,校舎に向かう途中,建物の裏手から大きな音が何度も聞こえた。大きな鋼管杭を打ち込む音であることは知っていた。
工事はこんな時間もやってるんだな。
校舎入口の自動ドアをくぐろうとすると,ライフジャケットが出てきた。
「あ。こんばんは」
「どうも」
愛想のない声を出して,ライフジャケットは足早に去っていった。
帰宅を急いでいるのかもしれない。それとも,こいつにはかかわらないでおこうと,離れたのかもしれない。学科のセンセイたちは,どこまで知っているのかと,怖くなった。
研究室のある3階でエレベーターが開くと,廊下は真っ暗だった。
足を2,3歩踏み出すと,天井の蛍光灯がすべて灯り,まっすぐな廊下を照らした。センサーが働いたようだ。刑場までの道案内のようだった。
研究室のドアはガラス張りだった。シンリン大学の研究室はどこもこうなっている。ハラスメント対策とのことだ。
研究室の奥は見えない。ドアのすぐ向こうに,背を向けた書棚が並んで立っている。丸見えになるのを嫌う教員はこうすることが多い。
ノックをしようと右手をあげたところで,ガッカチョーが出てきた。
「今来たんですね。丁度飲み物を買いに行こうと思っていたところでした。中に入って待っていてください」
「はい」
「何か飲みますか」ガッカチョーは数歩歩いて振り返った。
「いえ,大丈夫です」
こういうとき,「大丈夫」と答えるようになったのは,いつごろからなんだろう。余計なことが頭に浮かんだ。
ドアを開け,書棚を回り込むようにして奥に入った。研究室は,整然としていた。組織的な仕事ができる人なんだろうな,と思った。自分の知る臨床家の部屋はたいていごちゃごちゃだ。
壁三面の書棚に囲まれて,応接室のようなソファセットがあった。こちら向きに置かれた奥のデスクには,モニター二台の背中が並んでいた。
さすがにソファに座って待つのはまずいだろうと,立ったまま待った。
テーブルの上を見ると,デルカリの販売画面を印刷した紙が置かれてあった。背中に汗が流れた。
「お待たせしました」と,ペットボトルを二本手にしたガッカチョーが戻った。「まあ,座ってください」
「はい。失礼します」
「回りくどいことは嫌いなので,そのままお話しします。君の研究費使用が監査部で問題になっています」
ガッカチョーはペットボトルを一本差し出して,そう切り出した。
「見覚えはありますね?」デルカリの紙を指で押し出した。
「はい。そこに映っているパソコンは,おそらく私のものです。先日,ある方に見せられました」
「三日月さんですね」
「そうです。……しかし,私は研究費で購入したパソコンを売ったりしません。盗まれたんです」
ガッカチョーは何も言わず,まっすぐこちらを見ていた。
「助教室の鍵のかかるキャビネットに保管しておりました。鍵を紛失した覚えもありません。確かに私は,物忘れがひどいですが,さすがにこんな重要なものはなくしません」
ガッカチョーの眼光は鋭い。
「私には,本当に身に覚えがありません」
「では,なぜすぐに報告しなかったのでしょう」
「それは……何が起こっているのかわからず,調べなければと思っていたからです」
「では,これはどうですか」と,数枚の紙を取り出した。「君の名前と印鑑のある旅費支給票です。先々月,君は学会出張に行ったことになっている。旅費その他で10万円,君は大学に請求しています」
初めて見るものだった。体が硬くなり,額の奥が熱くなった。
「こんなもの,知りません。作成したことも,請求したこともありません」
絞り出すようにして,なんとか声を出した。
「これだけではありません。学科予算で他にもパソコン二台,プリンターなどが購入されています。これは学科で使う予算で,君が使ってよいものではありません。しかも,このパソコンもプリンターもどこにもない。君が売りさばいた……」
「私はそんなことはしません!」
「監査部はすでに疑っています。事実なら,懲戒です。まもなく,監査部の聴取があるはずです。ガッカチョーとしても,責任を問われるかもしれません」
「私は着任したばかりです。学科予算の使い方もわからないし,パソコンの購入だって,事務方に聞いてようやく分かったくらいです。こんなことはできません。旅費予算だって,最初の説明でなんとなく聞いただけで,使ったことすらありません」
「君が経済的に苦しいことは,お父さんから聞いています」
「確かにそうですが,実家は数十万のお金に困る状況ではありません。本当に困れば,父親に頼ります」
ガッカチョーは目をつぶった。
「信じていただきたいです」
ちょっとした間があいた。
「面接で君を見て,私が欲しいと思って君を入れました。学科会議で反論する人もいましたが,私が取りまとめたんです。理事長にも,君は見込みがある人だと報告しています」ガッカチョーは,少し表情を緩めた。
「理事長センセイにですか?」
理事長は,財界にも顔の効く大物のはずだ。
「信じましょう。着任早々ここまで派手にやる人間もいないでしょう。しかし,このままでは君は懲戒です。君が被害者であることを証明しないと,クビになるでしょう。懲戒がついたら,この先,どこでも仕事はできません。それでは私も困ります」
その気もなかった大学教員職だ。すぐに懲戒になったら,目も当てられない。人生も壊れてしまう。
「しばらく休みましょう。体調不良と言えばいい。監査部から呼び出されたら,責任を問われるのは明らかです。私は,懲戒委員会にもいたことがあります。監査が終われば,学科会議や教授会にも名前が出ます。大学からのメールにもしばらく反応しない方が良いでしょう。私の立場で,監査部に君の休みを報告しておきます。来週には大阪から理事長が来ます。リムジンの手配や接待の準備で忙しくなるから,事務方の通常業務はしばらくストップします」
「はい。しかし,何とかなるんでしょうか」
どこまで信じてもらえたのか心もとないが,今はガッカチョーに頼るしかない。
「君には,私のそばで働いてもらう必要があります。大きなプロジェクトも始まる。何とかするしかありません」
ドンっと,研究室の窓の外から大きな音が聞こえた。
そうか,この研究室はキャンパスの裏側を向いているんだ。
重機が忙しそうに動く音が響く。
「よろしくお願いします」気を持ち直して頭を下げた。
「とりあえず,自宅に戻ってください」
ガッカチョーは立ち上がって,デスクに回り込んだ。
「君は,学生に慕われているようです。臨床実習の悩みをよく聞いてくれると,院生が言っていました。数か月でそんな評価が耳に入ってくるのも珍しい。組織は人で動きます。君みたいな人をこの大学にそろえるのが,私の仕事だと思っています。学生は人を見て育ちます。臨床だって結局は人だと思いませんか。私は臨床ができる人間をそろえて,ちゃんとした訓練ができる場所を学生に提供したい……どんな方法でも」
「はい。よろしくお願いします」
立ち上がったが,ガッカチョーの顔はモニターに隠れて見えなかった。
深く頭を下げ,ドアに向かった。
しかし,なぜ領収書がこんなに作られたんだろう。
領収書……? 衝立がわりの書棚の端まで歩いたところで,足を止めた。
「関係ないかもしれませんが,私は数週間前に三日月キョウジュに書類を預けられたんです。そこにかなりの高額の領収書がありました。関係があるかわかりませんが,あれを返してすぐに,パソコンが消えました」
「領収書?」ガッカチョーが顔を出した。「もう手元にないんですか?」
「はい。よくわからなかったので,そのまま返しました。助教は余計なことを聞くなとも言われました。でも……あのときの書類は全部PDFにして保管することになっていたので,領収書も一緒にクラウドに入れたかもしれません」
「今,出せますか」
ソファに戻り,カバンからパソコンを出して起動させた。立ち上がりの時間がもどかしく感じた。
「ここから入れます」
ブラウザを立ち上げ,タッチパットで指を忙しく動かした。
「このクラウドです」
横に来ていたガッカチョーが,画面を覗き込んだ。
「ない。消えてます。ここに入れたのに……。全部消えている」
指を止めた。ガッカチョーも何も言わない。
電話が鳴った。
「はい」ガッカチョーは立ち上がって,電話を取った。「わかりました。すぐ行きます」
「君はとにかく帰ってください。理事長来学の件で,今から会議です」
頭だけが熱かった。体が冷えているのがわかった。
ドアを開けると,キャンパス裏の工事の音は廊下にも響いていた。
富樫公一(とがし‧こういち)
資格:公認心理師‧臨床心理士‧NY州精神分析家ライセンス‧NAAP認定精神分析家
所属:甲南大学‧TRISP自己心理学研究所(NY)‧栄橋心理相談室
著書:『精神分析が生まれるところ─間主観性理論が導く出会いの原点』『当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望』『社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか』(以上,岩崎学術出版社),『Kohut's Twinship Across Cultures: The Psychology of Being Human』『The Psychoanalytic Zero』(以上,Routledge)など






