富樫公一(甲南大学)
シンリンラボ 第29号(2025年8月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.29 (2025, Aug.)
再び,連載させてもらえることになった。
また,お前か。
ため息をついた人もいるかもしれない。
安心してほしい。今度は「倫理的転回」ではない。心理学でさえない。もともと私の話はあまり心理学ではないが,今度はもっと心理学ではない。タイトルに心理学を入れたのは,編集者が「シンリガクでないと載せませんよ」と,渋い顔をしたからだ。
他の記事を見ると,みんな立派な臨床心理学だ。認知行動療法とか,災害支援とか,発達特性とか,役に立ちそうな話が並ぶ。クライエントや患者にどうアプローチするのか,社会は心にどんな影響を与えるのか,どう考えると心の動きを理解できるのかと,ふさわしい内容ばかりだ。
残念ながら,私の関心はそちらに行かない。今回書きたいのは,大学教員のことだ。大して臨床をやってきたように見えないのに,誰よりも臨床を知っているかのように発言できるあれは何者なのかと,気になって仕方がない。
心理師と大学教員の関係は切っても切り離せない。シンリンラボだって,かなりの執筆者が大学教員だ。公認心理師になるには,学部から心理学を学ばないといけないし,臨床心理士だって大学院で勉強しなければならない。中身があるとは思えないキョウジュの意見に,素直に耳を傾けているふりをしなければならない。
「現場に出たらもうあの人たちは関係ないよ」
そう思う人もいるかもしれない。
残念ながら,そうでもない。心理職の多くは大学院教育を受けている。日本で大学院を出た者には,一生,出身ゼミがついてまわる。幼稚園時代のおもらしを,50歳過ぎても親戚のおばさんに話題にされるように,どんなに時間が経ってもその汚点は消えない。学会後の宴席や新しく入った研究会では,「どこのゼミだったんですか」「どのセンセイについていたんですか」と聞かれ,口にしたくなかった指導教員の名前を無理やり白状させられる。聞かれなかったとしても,学会や研修会では,ヤツと鉢合わせしないように細心の注意を払い続けなければならない。
精神分析系の臨床家は,そういったとき,「○○センセイのゼミでした。大失敗でした……」とため息をつく。「○○ゼミ出身ですけど,先生が今でも憧れです」という人もいるが,それは私の友だちではない。私の周りにいるのは,2年間で指導教員の本性に気づき,かかわりのないグループに逃げた人ばかりだ1。精神分析ではこれを「脱錯覚」とか「幻滅」とか呼ぶ。認知行動系には,指導教員を尊敬している方が多い気がする。
ゼミだけではない。目に見えないところでも,心理師は大学教員に縛られている。公認心理師制度だの,臨床心理士制度だのを作った人たちを見てみるといい。「公認○○○○協議会」とか,「一般社団法人○○○○連盟」とか,「公益財団法人○○○○の会」の委員は,ほとんどが大学の教員だ。
その人たちが決めた制度やルールの中で,心理職は翻弄される。今まであの資格でやって来たのに,新しい資格のためにまた受験勉強するはめになったとか,その資格を取るために何万円も払わされたとか,新しい資格が定着したと思ったら,また別の資格を取るように促されたとか,次々と変わる制度に適応しないといけない。作った人の大半は大学教員,または元教員だ。
キョウジュたちは,崇高な理念を掲げて議論する。話が進むほど分裂が拡大し,団体は増え,制度は複雑になり,資格が増える。各団体が開く似たような研修会が家計を圧迫する。その中で心理師たちは生き抜く。大学教員は何を考えているのかと,気になる。
自分だって大学キョウジュではないか。同じ穴のムジナだろう。
そんな声が聞こえてくる。
その通りだ。友だちがいないので,制度を左右する立派な会議には呼ばれないが,その端の端にいるのは間違いない。
だからこそ,問いたいのだ。キョウジュとは何者なのか。研究室の札はいつも「帰宅」か「会議中」で,それほど出勤しているとは思えないのに,「忙しい」とぼやく彼らがどこで何をしているのか。キョウジュ会や学科会議ではあんなに憎しみ合っているのに,なぜ年に一回の懇親会では仲良く話ができるのか。
心理学的な問いを行う者は,自らの心理を問いに付さなければならない。そうでなければ,その問いの意味は失われる(富樫,2023)。前回の連載では,臨床家としての自身に問いかけた。今回は,私たちを訓練し,私たちをこの世界に組み込んだ原点に問いかける。心理的な問いを行う者は,大学コミュニティの中で産声を上げる。自分たちを訓練したキョウジュを問いに付さなければ,自らを問えない。
それは,私自身をも問うことになるだろう。
脚 注
1. 私のゼミ生もそうだ。↩
なぜ,キョウジュになるのか
なぜ,臨床家の中にキョウジュになる人がいるのか。
大きな問いだ。
いわゆる「基礎系」の心理学者なら,キョウジュになるのは当然だろう。彼らはまっとうな研究者だ。大学に勤めれば,心理学の研究を続けられる。
問題は臨床系の人たちだ。彼らにとって,この道は本当に魅力的なのか。
大学教員にも種類があるが,シンリン系大学の標準ポストは学科専任教員だ。授業やゼミを受け持つ普通のセンセイである。主な業務は,会議,高校訪問,試験監督,オープンキャンパス,授業,ゼミ,研究だ。基本的に,臨床は業務に含まれない。
業務割合を見てみよう。
大学教員は,業務時間配分を「エフォート2」というカタカナで呼ぶ。「研究者の全仕事時間100%に対する当該研究の実施に必要とする時間の配分割合(%)」と,文部科学省(2020)がわざわざ定義している。仕事全体が週100時間で,準備等を含め授業のために働く時間が14時間だとすると,授業のエフォートは14(%)になる。
しかし,エフォートの算出は容易ではない。キョウジュの仕事はぐちゃぐちゃだ。病院時代は,病棟担当,外来担当,デイケア担当,会議など,わかりやすく分けられていた。キョウジュの場合,前期,後期,夏冬春休みと,時期によって動きは違うし,オープンキャンパスで高校生相手に模擬講義をしたり,入試の監督をしたりもする。自分が今,何の仕事をしているのかわからないこともある。エフォートは,モノゴトの定義と測定方法に異常なこだわりを見せる研究者によって,何となく雰囲気で決められる。
推測統計学に基づかない私の周囲だけの調査による臨床系教員の各業務の平均エフォートは,表1と図1の通りだ。ご覧のように,まともにやっていたら学科教員はほとんど臨床ができない。週一回の研究日に,スクールカウンセラーやクリニックのアルバイトをするくらいだ。


これしかできないのに,なぜ大学教員になるのか。臨床系というくらいだから,基本的に現場が好きなはずだ。もちろん,臨床心理学者全員が現場に出るわけではない。今話しているのは,資格を持った現場系教員のことである。彼らは,公認心理師や臨床心理士養成の大学院があるところでは,ケースカンファレンスやインテークカンファレンス,臨床実習のコメントやスーパーヴィジョンを求められる。自分が臨床に出ているからこそ,適切なコメントもできるというものだ。
それなのに,大学教員になるというのはどういうことか。
カネのためか。
多少はあるかもしれない。確かに,それなりにもらえる。しかし,それも微妙だ。平均給与が低い心理職の中で相対的に高いだけで,みんなが思うほどではない。私立もピンキリだし,国公立はなおさらだ。最近では,銀行とか,IT企業とか,コンサル業とか,給与水準が高い業種はいくらでもある。起業家や投資家の道もある。カネのためだけにいる場所ではない。自己主張を譲らないか,自分の好きなことにしか興味がない不適応者が集まる場所だ。それに耐えるのに見合う給与かというと,評価が分かれるだろう。
それでも大学で働くのは,臨床だけでなく,研究と教育にも関心があるからだ。
キョウジュは,世の課題や問題に取り組み,社会に貢献したいのだ。個人の心に取り組む人もいれば,社会や環境,制度に挑戦する人もいる。どちらにしても,心の健康のために探求すべきものがあると信じている。
教育だってそうだ。研究も臨床実践も,次の世代の成長なくしてはあり得ない。だから,教育する。自分の色に染めたいからではない。自分の考えも含めて既存のものを問いに付し,視座を見直し続けられる未来を望むのだ。そのために,一生懸命に自分の考えや見方を伝える。次の世代にも,心の問題を探求し続けてほしいと願う。
理念があるのだ。理念と理念がぶつかり合うから,分裂する。シンリン系教員の性格が悪く,社会性がないからぶつかり合うのではない。キョウジュたちの議論は,子どもの喧嘩にしか見えない。しかし,みんな,心の傷や苦悩を抱える人や社会には自分が信じる制度が必要だと確信しているから,50歳を過ぎても「そんなの,後出しじゃんけん3じゃないですか! ズルいですよ」と会議で激突する。考えの違う団体を政治的につぶしてでも自分の考えを通そうとするのは,そうした信念があるからだ。社会に貢献するつもりも次の世代に伝えたいこともないなら,わざわざキョウジュでいる必要はない。
あとは本人次第だ。臨床のエフォートが少なければ,腕が鈍るし,結局は研究と教育ができないと考えるキョウジュは,技を駆使して,臨床の時間を十分に確保する。そういった人たちの授業や研究は,実に実践的だ。臨床は,症例数と時間数が勝負だ。自分が絶対的に確保すべき週当たりの最低臨床時間数を決めておくことは重要だと思っている。
脚 注
2. 「アルフォート」ではない。↩
3. このセリフは月に2回くらい聞く。↩
臨床の多い教員職もある
「会議と研究と教育に時間を割かれて,なお臨床をできる自信はない。興味はあるけど,キョウジュは無理だ」
そう,がっかりした人もいるかもしれない。
がっかりするのは早い。大学教員の中には,臨床のエフォートが80%を超えるポジションもある4。代表例は,学生相談室の相談員だ。
彼らは,学科教員と違い,ほとんどの時間を学生相談に費やす。まさに実践家だ。学科教員が座っているだけの会議で白い目をしている時間,彼らは学生の苦悩や喜びに真剣に向き合う。
しかし,この立場を得るのは簡単ではない。
教員待遇の相談員常勤ポジションは非常に少ない。それに,相談員の募集には「任期付き」が多い。
大学教員には,「任期付き」と「任期なし5」がある。学科教員でも同じだ。「任期なし」は定年まで雇用される正社員,「任期付き」は期間契約社員みたいなものだ。学生相談室勤務の任期なし教員に採用されれば,ずっと臨床に携わることができるが,道は険しい。
知ってほしいのは,キョウジュだからといって,全員が臨床経験に乏しいわけではないことだ。要はその人が,どれだけ真剣に臨床の時間を確保しているかだ。
たしかに,研究しかしてこなかったのに,いつの間にか臨床家の顔をしている人もいる。週一回しか臨床に出ない人もいる。しかし,みんながそうではない。よく見れば,臨床実践にどっぷりつかっている教員はわかる。
それは,臨床現場にいる心理師も同じだ。現場にも,実践に時間を割いていない人もいるし,実践のことしか考えていない人もいる。
重要なのはむしろ,その人が何を見て仕事をしているのかということだ。
脚 注
4. 残りの20%は,「意見の通らない会議」「意味のない会議」「座っているだけの会議」「憎しみの交差する会議」である。↩
5. 「人気なし」ではない。↩
一本釣り
「お前,大学で働け」
電話の向こうで父親が言い放った。眉間にしわを寄せたあの顔が浮かぶ。
平日の昼下がりだ。
一年前に開業したオフィスに朝からいるが,やることはなかった。『フロイト全集』をだらだらと読み直していたところに,電話がかかって来た。
ブラインドの隙間からは,西に少し傾いた陽の光が差し込んでいた。
「いやだよ。大学で働く気はないよ」
「お前,そんなこと言える立場か? 臨床の訓練を受けたいとか言って,アメリカで好きなように暮らせたのは,誰のおかげだと思っている」
「だから,帰国して開業したじゃないか。これでも働いてるんだ」
「開業したって,誰も来ないじゃないか。患者っていうのか? クライエントっていうのか? この一年で何人来た?」
心をえぐる質問だ。
「……二人だよ」
「いくら稼いだ?」
二人といっても,冷やかしみたいなインテークだけだ。稼いだ額は,一カ月の光熱費にもならない。とても口にできなかった。
父親に追加の借金を頼んで,何とか一年間オフィスを維持した。でも,問い合わせはほとんどなかった。そろそろ,仕事を探さなければならないことはわかっていた。
最近は,資格を取ってすぐに開業する人もいる。私設相談の心理師はけっこうな数だ。場所によっては,クライエントの奪い合いのようだ。価格破壊も起こっていると聞く。一方で,有名人のところには,高額でもクライエントは集まる。
アメリカで訓練を受けたのも,むしろ不利だ。日本のコネがないから,自力で一から営業をするしかない。いくら人より高度な訓練を受けたと叫んでも,名もない若手心理師の声に耳を傾ける人はいない。
「とにかく,親が死ぬ前に借金は返せ」父親の声が耳に刺さった。「自分が今できることをやれ。助教でも大学の仕事があるんだから,幸せだぞ」
正論だ。
父親は去年退職するまで,大学キョウジュだった。専門は心理学ではないが,大学に顔が利く。シンリン大学のキョウジュから,助教を探してくれと頼まれたらしい。
助教は,大学教員の職階の一つだ。上から順に「教授」「准教授」「講師」「助教」と並ぶ。昔は「助手」と呼ばれた職種だ。20年くらい前に学校教育法が改正され,教育研究を行う者は「助教」と呼ばれるようになった。「助手」の呼称も残るが,それは,授業をやらない純粋なアシスタントだ。助教は授業担当になれる。担当すれば,履歴書の教歴に記載できる。
とはいっても,やらされることの多くは雑用だ。学生のレポート集めから,グループの振り分け,不安定な学生の対応,成績管理,出欠管理,物品管理と,手間のかかる仕事は全部回ってくる。ときには,キョウジュの愚痴を聞き,仲の悪いキョウジュとジュンキョウジュの間に入って伝言役をする。
給料も当然安い。
臨床の時間が取れなくなるのは,目に見えていた。
大学の仕事に良い印象はない。いかに会議がばかばかしいか,そんな話ばかり父親から聞かされてきた。
「どうせ,採用されないよ。何の業績もないし,いろんな人が応募するよ」
「アメリカで博士号みたいなのを取って来たんだろ?」
確かに取って来た。PsyDというやつだ。日本流に言えば「臨床博士」になるだろうか。博士論文を書くPh. D.の博士号ではなく,臨床心理の実務訓練を受けて取る博士号だ。日本にはない。
「そうだけど……」
「それで十分だ。応募すれば採用される。結果はすでに決まっている」と,父親は言い切った。
一本釣りというやつだ。よさそうな相手に直接声をかけて採用する。形式的な公募は行うが,よほどの人が応募してこない限り,声をかけた人をとる。それに対して,完全公募は純粋に応募者の競争の中で欲しい人材をとる。
「今からいう電話番号に電話しろ。シンリン大学のキョウジュだ。丁寧にご挨拶して,指示を仰げ。キョウジュは,業績はどうでもいいから,とにかく人柄重視だ6と,何度もおっしゃっておられた」
「業績はどうでもいいんだ?」
「そうだ。どうでもいい。そんなのは問題ではない。大切なのは人柄だ。わかるか? お前には,わかるまい。大学で勤めたことがあれば,キョウジュの気持ちは痛いほどわかる。これはな,一種のキョウジュの悲鳴なんだ」父親は,電話の向こうで声を震わせた。「大学は業績で審査する。業績ってのは,論文とか本のことだ。しかし,業績がいい人がいつもいい人なわけではない。おかしな人をとれば,仕事は3倍にでも,4倍にでもなる。対策会議は夜中まで続く。学科教員全体の人間関係は破壊される。……いろいろあった。本当にいろいろあった」
父親の声は沈鬱だった。
沈黙が続いた。
「よくわからないけど,元気出してよ」と,とりあえず慰めた。
「いいんだ。すまん。やがて,お前にもわかることだ。とにかく,業績は立派でも,面倒くさい人はこりごりだそうだ。素直で,こだわりがなく,トラブルを起こさず,もくもくと事務仕事を進めてくれる人が欲しいと言っていた。お前がそれに当てはまるかはわからないが,そういう人材だと言っておいたから,そうやって振る舞え」
ますます行きたくなくなった。
シンリン大学は数年前にできたばかりの私立大学だ。地方都市郊外の山奥にある。公認心理師法の施行に合わせて作られた。シンリン学部シンリン学科だけの小規模大学だが,学校法人としては大手大学の傘下にある。抜群とまではいかないが,学生はそれなりに優秀だ。新設の際,財力を活かし,入試部門に有名なコンサルタントをつけたという。
しかし,教員が定着しないらしい。ほとんどの教員が2年程度でいなくなるそうだ。一体,何が起こっているのか。
遠くで,ごろごろと雷が鳴り始めた。
ケイタイを耳に当てたままブラインドを上げると,さっきまで晴れていた空には,真っ黒な雨雲が広がっていた。
ザーっと雨が降り始めた。大粒の雨だ。
道路をのぞき込むと,慌てて走りだす人が何人か見えた。
「どうせ任期付きだ」と,父親が続ける。「5年働いて少し借金を返して,自分で食べていく道を探せ。そうしたら,あとは好きにしていい」
「わかったよ」
観念して電話を切った。
大学教員など,考えたこともなかった。
大学自体,嫌いだった。学部も大学院も必死で勉強はしたが,独学みたいなものだった。キョウジュたちの話はなるべく聞かないようにしていた。型にはめられ,自分を奪われる気がしたからだ。大学だけではない。幼稚園からずっと,教育や教員に良いイメージを持ったことがない。中学時代,「教育はいかに人の主体を殺すか」という作文を書いて,母親と一緒に呼び出されたこともあった。
自分がやりたいのは臨床であって,教育ではない。そう強く思っている。教育によって殺された主体の回復を助けるのが仕事だ,くらいの思いがある。
しかし,助教とはいえ,こうして教員の話が来ると考えてしまう。
臨床実践家も教育のないところには育たない。こうやるものなんだよ,とある程度教えられるから,臨床的にものが見えるようになる。自分だって,教育を受けてここまで来た。
臨床と教育の境界も,考えてみればあいまいだ。
スーパーヴィジョンや講師を依頼されたら,自分はたぶん喜んでやるだろう。目の前に臨床に迷う初心者がいれば,自分の考えを伝えようとするだろう。それは教育ではないのか。
臨床実践家に夢を抱く人たちが,それを学びたくて大学に集まってくる。彼らの成長を見守るのは,臨床的ではないのか。
とはいえ,学生と患者は違う。臨床家は,患者に対して成績をつけたりしない。教育者は,学生の心の不健康さをアセスメントしたりしない。どう考えたらよいのか。
難しい問いが次々と浮かぶ。
この先,どんな世界が待っているのだろうか。
脚 注
6. このセリフを何度聞いたことだろうか。↩
文 献
- 文部科学省(2020)エフォート管理の運用統一について.資金配分機関及び所管関係府省申し合わせ.
- 富樫公一(2023)社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか.岩崎学術出版社.
富樫公一(とがし‧こういち)
資格:公認心理師‧臨床心理士‧NY州精神分析家ライセンス‧NAAP認定精神分析家
所属:甲南大学‧TRISP自己心理学研究所(NY)‧栄橋心理相談室
著書:『精神分析が生まれるところ─間主観性理論が導く出会いの原点』『当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望』『社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか』(以上,岩崎学術出版社),『Kohut's Twinship Across Cultures: The Psychology of Being Human』『The Psychoanalytic Zero』(以上,Routledge)など




