堀 有伸(ほりメンタルクリニック)
シンリンラボ 第29号(2025年8月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.29 (2025, Aug.)
この本の中には現在の主流となっている実証的な精神医学が取りこぼしているような,臨床的な工夫が全体に散りばめられ,実際に患者にかかわる人々にとって,非常に有用な本となっている。全部で12章からなる本であるが,第1〜4章が方法論,第5から10章までが疾病論(気分障害,統合失調症,発達障害),第11・12章が治療論を中心とした補遺という構成である。
この本を若い心理士さんが読む時に,著者たちが期待するのはどのようなことだろうか。精神病理学は体系的な知だった。つまり,いくつかの前提が共有される。その前提を共有した上で,知識や経験が展開され,それらが蓄積されていく。この本で最初に取り上げられている「相手の心の内をまざまざと思い浮かべる」共感Einfühlungは,相手の存在の中に自分の感性・感情を重ね合わせていくようなニュアンスを含み,これが患者さんの心を知るための方法論として,精神病理学の知を支えるものになっている。
疾病論についての章では,それぞれの症状について説明されるのみならず,その病に苦しむ人が,この世界の中にどのようなあり方で存在しているのかに注意と関心が向けられる。たとえばうつ病に苦しむ人が,自分のちょっとした間違いや欠点をどれほど強く恥じて自責的になっているのか,そして「自分の悪」が引き起こす影響を不自然なまでに大きく見積もり,それが明確になってしまうことをどれほど強く恐れているのか。そういう観点からみると,「うつ病者」の行動の理解が深まる場合がある。
精神病理学と比較することで,エビデンスを重視した操作的診断基準などに準拠した実証的な精神医学とは何なのかについての理解が深まるだろう。現在主流の精神医学では,特殊な前提を共有した上での知の体系は構築しない。むしろ,他分野と共有可能な普通で常識的な判断の様式の中に,エビデンスの存在によって裏付けられた個々の知見を取り込み,それを応用するようになっている。そのことが,一昔前の精神病理学や精神分析が時々行っていた社会への批判的対話などから距離を取ることを可能にする。
本書の著者たちが強調するのは,統計処理を行わねばならないという現在の方法論上の要請から生じる,個別のそれぞれの臨床場面にある経験の要素を取りこぼしてしまうことの危険である。Einfühlungのような行為は,実際に治療者の側もその場に臨在して身体をその場で共有すること,自分の感情や情動も含めて能動的に患者の心に重ね合わせていく。しかし現在,そのようなスタイルは主観的すぎると退けられるかもしれない。
昨今,本書の著者たちのような「精神病理」の立場から行われる発信は貴重になっている。本書の読者は,ここに書かれている内容に加えて,精神医学が抱える葛藤についても知ることで,それぞれの臨床をさらに高める一助にすることができるだろう。
堀 有伸(ほり・ありのぶ)
ほりメンタルクリニック院長
資格:精神科医
日本精神病理学会評議員
主な著書:『日本的ナルシシズムの罪』(新潮新書,2016),『荒野の精神医学』(遠見書房,2019),『「ナルシシズム」から考える日本の近代と現在』(あけび書房,2022)ほか







