永井 撤(原町田心理相談室主宰,東京都立大学名誉教授)
シンリンラボ 第33号(2025年12月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.33 (2025, Dec.)
はじめに
私は今年で古希70歳になりました。この3月で特任教授も辞めて自由の身になっています。2020年に臨床心理分野の教員を退職し,コロナで自粛を求められたこともきっかけにありましたが,個人の相談室を開設し,5年が過ぎ,ようやく自分なりのペースで心理相談の活動ができるようになりました。そういう意味では,今ようやく本来のシンリシになったと言えるかもしれません。
現役世代の方から見たら,半分リタイヤした身分で,と言われかねませんが,同世代の友人知人が鬼籍に入っている現状を見るに,この生活も,あと数年であろうかという覚悟も必要かと思っています。そういう立ち位置からみると,ようやくあまり力まないで臨床に取り組めるようになってきた気もしています。寛容というと聞こえはいいですが,本当は記憶力と身体機能の衰えによる対処法かもしれません。前置きはこのくらいにして,少し私の経験について,述べてみます。
1.心理学との出会いと臨床心理を学ぶまで
心理学を専攻しようと思ったきっかけは,高校生の頃,私自身が今思えば思春期特有の悶々とした悩みを抱えていました。その頃,特に心理学を知ったわけではありませんが,なにか解決の糸口を与えてくれるのではと期待しつつ学部で専攻しました。1973年のことです。ところが大学で初めて学んだ心理学は実証科学であると言われ,そのためには実験や調査の方法,統計は必修で学ぶ必要があると言われ,だいぶ学びたい心理学とのギャップがありました。興味を失いつつ社会に目を向けると,学園紛争の時代が終わり,若者にはしらけと無気力が蔓延し,モラトリアムやスチューデント・アパシー,自己実現や個性化などの言葉,つまりは「青年がどう生きるか」という課題について,フロイト,ユング,エリクソンなどの本が多く紹介されはじめていました。そのような本を読み,これぞ自分の学びたい心理学と思いつつ,しかしアカデミズムの心理学とは大きなギャップがあり,矛盾を抱えつつ学部を終えています。
2.実践に基づいた心理臨床への取り組み
大学を卒業したものの,将来のビジョンもないまま,学部時代の指導教官であった小川捷之先生の主宰している山王教育研究所 に関わるようになります。先生は,その頃30代前半で,ユングやエリクソンの本を翻訳しており,山王教育研究所を開設し,主に精神分析やユングなどの心理療法について海外で訓練を受けてきた先生の講演会や研修会を開催していました。研究所といっても,セミナーの企画や主催が主で,まだ臨床の相談機関としては根づいていませんでした。理想とは裏腹に,毎回人が集まるかどうか自転車操業の企画が続き,毎回胃が痛くなる思いで実施していました。このままでは自分が消耗するだけだと思い,大学院に入り,江戸川区教育研究所の心理相談員になっています。
この頃から全国的な心理臨床の集いが始まり,学会設立の動きも起きてきます。ようやく大学の心理学と,心理臨床の現場のギャップが少しずつ埋められるようになってきました。
江戸川に入る一応前の年から横浜市大の小児精神神経科で実習生となり,はじめて子どものプレイ・セラピーを体験しました。初めて担当した小学3年生の子に,二回目の面接の時「僕の病気,遊んでいるだけで治るの?」と言われ,硬直した経験は今でも思えています。その疑問を持ちつつ30回のプレイは続き,確かに私と一緒に遊ぶことで大きく変化し,プレイの意味も理解しないまま症状も解消します。この事例は,当時横浜の児童精神科医の先生方が月2回開催していた,関東中央病院の小倉清先生を招いての事例検討会で発表させてもらいました。小倉先生の徹底的に子ども目線に立った,子どもとのやり取りを検討し,真摯に理解しようとする姿勢には厳しさとその奥にある優しさを感じ身が引き締まる思いがしました。米国のメニンガークリニックで精神分析的な訓練を受けて帰国されたまだ40代の小柄な先生ですが,ずいぶん大きな存在に感じられました。この研究会には6年ほども参加しています。
3.クライエントと支援者の関わりからの学び
山王も80年代の半ばになると徐々に心理の専門家の養成コースの研修を始めるようになりました。私も都立大の大学院へ入り,臨床希望の院生も増えてきており,臨床の院生の研修の場として心理相談室を開設しようとする提案が,当時の教授であった詫摩武俊教授からなされました。その活動の中心にいたせいもあるかもしれませんが,84年に助手として採用され,研究と臨床の実践,それから後輩たちの指導もするようになりました。それは心理の職は得たものの,雑務に追われこれでシンリシの専門家と言えるのか,またしてもギャップに悩まされました。
山王にも相談員として関わっており,開業の相談機関としての活動も少しずつ活動が広がり,相談ケースも増えてきていました。そこで担当したある大学生のケースでしたが,彼は毎回夢を持ってきていました。その夢を検討する中で,私自身が彼の夢をいくつか見ています。その一つは「彼と面接をしているのであるが,研究所の建物が工事中であり,面接室の壁はカーテンで仕切られているだけ,隣の面接室には主宰者の小川先生が面接をしている,その間だけは分厚い壁になっている」という夢でした。彼との面接は,その後,私との関りに不信感を表明し,「主宰の先生は信頼できるが,先生は若いし,医者でもないし,信用できない」とはっきり言われました。その時,私自身が見た夢が支えとなり,「新しい医者に行くかどうか,自分で決めてほしい,今苦しいかもしれないが,それはいまこのカウンセリングで大事な時だと思うし,この苦しさを乗り切ることに意味があると思っている」と伝えることができました。結局継続することになり,ある程度納得した形で終結を迎えています。この体験は,シンリシとしての自覚と自信を少し持てた体験だったかと思います。
4.自分自身の分析体験から
支援者が自分の内面について振り返る体験,自身を一度来談者の立場に置いているのも,特に関係性を重視する全人格的な関りや,生き方などの支援を実践する場合には必要になるかと思います。きちっとした一つの理論的な体系に沿った訓練の中に組み込まれていますが,私は一つの立場を選択できずに,二度ほど立場の異なる先生に分析体験を受けています。一度は30代の頃,助手になり雑務が増え,逆に自分を振り返る機会だと思い,たまたま大学の近くにお住まいで,山王でも講師をお願いしていた近藤章久先生に受けることになります。その頃,すでに70代で,森田療法の伝統のある慈恵医大で学ばれ,カレン・ホーナイが主催していたニューヨーク精神分析研究所で1950年代の終わりから学ばれ,長く米国に滞在し,日本に戻られて開業しておられました。先生はあくまで受容的で,ゆっくり自分の生育史的な課題については振り返る良い機会なったと思います。先生の姿勢はあくまで受容的であり,時々はその対応をもどかしく感じ,疑念を表明した時もありましたが,私の今の臨床の姿勢に大きく影響を与えたかと思います。
もう一度は,1999年の末から,短期の海外研修でロンドンに行く機会があり,英語での分析体験でした。これは3か月ほどでしたので,最初からそんな深い体験は期待しておらず試行カウンセリングのつもりでした。しかし,自分の夢を素材とした分析家と話は,言葉の壁を越えて通じるものがあるように感じられました。自身の考えを上から解釈し,教える感じは全くなく,自分の感想をいいつつ,「でもよくわからない」,「これはいい夢で自分は好きだ」など語り,対等に話ができ,そのためか,2010年まで,毎年夏休みの頃2週間程度,ロンドンに行って,その一年に見た夢の印象的なものを検討する機会になりました。55歳になり,そろそろいいかなと思い終了しています。この経験によって海外へのあこがれや負い目の感じも少なくなり,自分はユング派の目指すところとは異なることも自覚するようになり,自分なりのシンリシの腰が据わってきたように思います。
まとめに
結局私自身は,ある一つの理論の道を究めるよりは,もちろん理論や技術も実践上必要ですが,最終的には,この仕事,自身とクライエントそして指導者との関わり,あとは同僚や仲間など,そのひととの人間関係によって,その核は作られていったという思いを,年を経てますます感じています。
永井撤(ながい・とおる)
1955年生まれ,原町田心理相談室主宰,東京都立大学(旧首都大学東京)名誉教授,臨床心理士,文学博士,横浜国立大学教育学部心理学科卒業,東京都立大学大学院人文科学研究科修了,
主な著書:『対人恐怖の心理―対人関係の悩みの分析』(サイエンス社,1996),『子どもの心理臨床入門』(金子書房,2005),『実践から学んだ心理臨床』(人文書院,2008),『心理臨床の親面接』(北大路書房,2021)ほか




