キョウジュの心理学(7)臨床家,会議に出る|富樫公一

富樫公一(甲南大学
シンリンラボ 第35号(2026年月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.35 (2026, Feb.)

シンリシも,組織で働けば会議がある。

あなたの職場にも,2つや3つ,参加しなければならないものがあるはずだ。

自分は個人開業だし,シンリシ会や学会の役員でもないから関係ないよ。

そう思った人もいるかもしれない。

それでも,毎日靴下を脱ぎっぱなしのあなたに業を煮やす家族がいれば,家族会議の招集がかかるはずだ。

人が集まれば,決めごとが必要になる。

集団は,方向性を持った人の集まりだ。現実に即して課題を考え,協力し,行動する。

あなたが読む本に出てくるシンリシは,患者との一対一の真剣勝負に身を投じる孤高の人に見えるかもしれない。しかし,彼らも集団に揉まれて過ごしている。

ところが,シンリシは仲良くできない生き物だ

どんな集団にも,利害対立や意見衝突はある。それにしても,シンリシはよく揉める。「こころの専門家」の対立の現れ方はなかなかに印象的だ。

SNSには,専門用語をまとった感情的応酬が展開するが,みんな自分が被害者だ。学会やシンリシ会では,いつも誰かが怒っている


脚注

1. 精神分析系はとくにそうみえる。
2. 疲れないのだろうか。


大学は会議が多い

シンリン系大学は,心理学者が集まる場所だ。ややこしいことにならないはずがない

爽やかな教員関係はめったに見ない。まれにそんな大学があるらしいと聞くと,身構えてしまう。中に入ったら,すごいことになっているはずだと,疑いは尽きない

その人たちが集まって決めごとをする。考えただけでぞくぞくする。

しかも大学は,会議がやたらと多い。

ヒラ教員でも,週に3つや4つの会議は入る。役職がつくと,もっと増える。一日に4つの会議,週に合計7つの会議が入ることも珍しくない。

人間関係が一番素直に現れるのは,学科会議や専攻会議だ。

学科や専攻の教育内容や学生対応,各種試験やイベントなど,現場の実務を取り扱う。

購入図書や翌年度の時間割,授業担当教員,ゼミの割り振り,実習の運営,試験監督やオープンキャンパス,高校訪問の担当者は,ここで決められる。内容は煩雑で,きりがない。

割り振られる業務の大半は,研究や臨床と直接関係がない。学生にかかわることならやる気もでるが,大学行事の割り振りや時間割の調整はただ疲弊する。教員関係の真の姿はそこに現れる。

ポストの空いた授業の非常勤講師に人を推薦すると,自分の息のかかった人を入れたい教員が無理やり割り込んでくる。

時間割の都合で授業の曜日と時間を変えて欲しいと頼むと,担当教員はあらゆる理由をつけて抵抗する。変更先が朝9時からの一限だったら,大騒ぎだ

学科会議では,教員に人格が宿る。

1.逃避型人格:できる限り仕事をやらないことに全力を注ぐ
2.権威型人格:自分の思うように話を進めることに力を注ぐ
3.業務集中型人格:気がつくと,人がやりたがらない仕事を持たされている
4.閉会志向型人格:早く会議が終わることだけ考えている
5.そもそも型人格:議題自体の問題を見つけ,ひっくり返そうとする
6.遠目型人格:会議中は,意識が切れている

会議が始まるとすぐ,「あとどれくらいで終わるんですかね」と,閉会志向型が隣の教員に囁く。「次の予定があるんですよね……」

願いもむなしく,会議は予定時刻を30分過ぎても続く。最後の議題は一番面倒な話だ。誰もやりたがらない業務の分担を決めなければならない。ガッカチョーがリストを示し,どなたにやってもらいましょうかと尋ねる。もちろん,誰も発言しない。

沈黙ののち,権威型が発言する。

「私が決めましょう」

権威型はテキトーに業務を割り振っていく。ややこしい仕事は業務集中型に行く。みなが安堵の表情を浮かべる。権威型本人の仕事は一番少ない。

そもそも型が口を出す。

「しかし,これ,そもそも教員がやるべき仕事なんですかね」

みんな一様にうなずく。予定はすでに一時間超過している。

権威型はあからさまに嫌な顔をする。「私の案がまずいのなら,代案はありますか」

「案がまずいと言っているのではなく,これは私たちの仕事かという問いを投げているのです。上に差し戻したらいい」

「それだそうだ。そうすべきだ」

ここで一番盛り上がる。遠目型だけ,ぼんやりしている。

しかし,そんな時間はない。ガッカチョーは,決定内容を明日までに提出するように言われている

「とはいっても,今日中には決めないと……」

「さっき決めたやつでいいじゃないですか」

ややこしい仕事が回ってこなかった逃避型は,逃げ切りを狙う。

「そんなこと言っているから,教員の負担が増えるのです。そもそも,私たちの本分は教育と研究のはずだ。言うべきことは言わないといけない」そもそも型は態度を崩さない。

「私の案ではだめだというエビデンスはあるのか」権威型は声を大きくする。

「だったら,この割り振りに合理的理由はあるのか。自分は負担の軽いものしかやらないじゃないか」

「私は4年前にくじ引きで負けて,一番負担の重いものをやった」

結局会議は3時間超過して,ガッカチョー一任となる。3時間の話し合いはいらなかったのではないかと,遠目型がぼんやりと思う。

ガッカチョーは会議後,他の会議資料に目を通しながら,21頁に渡るエクセルの業務分担表に教員の名前を打ち込む。気が付くと外は真っ暗だ。

こうした会議の進行をするのが,ガッカチョーだ。

会議をスムーズに運営したいなら,どの教員にどの人格が宿るのかをよく知ることだ。

日本型学科会議人格目録(Japanese Academic Leadership and Faculty Organizational Response Types Inventory:略称J-ALFORT)が役に立つ。

「そう思う」「まあまあそう思う」「どちらでもない」「あまりそう思わない」「そう思わない」の5件法で,40の質問項目からなる質問紙だ。信頼性と妥当性は全く検証されていない。項目例は以下のようなものだ。

1.アイツが発言したら,全部反対してやろうと思う。
2.議題リストを見たら,終了時間の予測を立てる。
3.最終的には誰かが決めてくれると思う。
4.ややこしい議論をまとめられるのは,自分だけだ。
5.会議中の記憶がない。
6.会議は,普段できない雑務をこなすための時間だ。
7.「センセイが一番適任だから」と言われることがよくある。
8.自分のゼミの希望者数が減ると,その日の夕食はのどを通らない。
9.自分は問題教員ではない。
10.自分が担当になりそうな業務については発言しない。
11.出勤前に,「今日は会議が早く終わりますように」と願をかける。
12.議題はいつも教員が議論すべき内容ではない。

重要なのは,これは人格診断のためのものではなく,会議運営向上のためのものであることだ。

人格は文脈に組み込まれている。

どんなに厄介な人でも,それは,その人の固定された人格ではない(たぶん)。会議の中で,その主体に人格が宿るだけだ。


脚注

3. (編集者註)そんなことはない。
4. (編集者註)ひねくれすぎだ。仲良し教員の大学も地方ブロックに一つくらいはある。
5. 一限の授業は専任教員に人気がない。その証拠にあなたの大学の一限の授業の多くは非常勤講師だ。
6. その指示を受けたのは昨日だ。


集団の宿命

どうせまた,「いいね♡」欲しさに,誇張して書いているだけだろう。

そう思う読者もいるかもしれない。シンリシは,グループも上手に扱うじゃないかと。

しかし,「グループ・アプローチ」と会議は違う。

遠見書房の『臨床心理学概論』を見ると,グループ・アプローチのエッセンスは,「希望をもたらす」「愛他主義」,「社会適応技術(ソーシャルスキル)の発達」「カタルシス」などだ(坂中,pp.141-142)。

シンリシの会議のエッセンスは,「徒労感をもたらす」「利己主義」,「社会適応技術(ソーシャルスキル)の崩壊」「フラストレーション」だ。まるで違う。

会議が悪いわけではない。

集団とはそういったものだ。違う意見の人間が集まり,一つの方向を探す。簡単にまとまるはずがない。

話し合いの核心は,決定ではない。その空間に,人々の語りと行為が現れることだ。

異なる視点をもつ複数の人間が共存すること自体が,会議の条件であり価値だ。

だから,ずっと揉めてればいい。

怖いのは,決定はしたものの,それを担保するのが手続きと形式になっている場合だ。議事要件を満たしたかとか,規程に沿っているかとか,省庁にあらかじめ決められているとかだ。そうなると,教員は「意思の主体」というより選択的承認者になり,会議は意思決定の場というより正当化の場になる。

さらに怖いのは,議論になっていないことを知りながら,知らないふりをする人が現れることだ。おかしいと知りながら,手続きと形式を理由にして何も言わない。

シンリシに出番があるとすれば,そこかもしれない。

こうした現象を発見し,言葉を与え,膠着した交流を揺さぶるのがシンリシだ。仲が悪いように見えるのは,おかしいと思ったら黙っていられないからだ

コウニンシンリシを目指す学生は,さまざまな現場で実習をする。ケースカンファレンスや事例判定会議など,臨床の会議に出席することもあるだろう。

しかし,日常の組織会議に参加する機会は与えられない。

実際の現場はそんな会議ばかりだ。大学だけでない。病院や福祉施設,教育現場,どこも同じだ。組織は,臨床実践だけで成り立っているわけではない。

集団の膠着を扱えるのは,シンリシだ。

大学の学科会議を,一度実習先にしてみたらどうか。あれだって,シンリシの職域の一つだ。

実習生は「あれ,不思議ですね。いつも厄介な仕事はOセンセイに回るんですね。これって決まっているんですか?」と,無邪気に質問するかもしれない。

素朴な介入が,膠着した交流を動かす。


脚注

7. あるいは、社会的スキルがないからだ。


パソコンはどこにある

夕焼けが差し込む薄暗い部屋の隅でケイタイを見ると,もう小一時間が過ぎていた。遠くで,カアカアとカラスが鳴いている。

まもなく,学科会議が始まる。

こんなところに潜んで,何をやってるんだろう。

小部屋には,操作盤とモニターがはめ込まれた機材があるだけだ。

隣の会議室は,かつてグループ実験に使われていた部屋だ。ここは,学生が観察するための部屋だったらしい。

帰国してから今日までのことが,頭をよぎる。

こんなことのために勉強してきたわけじゃない。

しゃがみ込んだ足元を見ると,靴がひどく汚れていた。

お天気さんに言われた手順を,もう一度頭の中でなぞる。

時間になれば,教員は会議室に集まる。カメラは起動済みだ。全員集まったのを確認して,部屋を出る。三つ下の階で鍵をとり,そのまま三日月研究室に上がる。

本当にやるのか。それでいいのか

ポケットの中で,IDを握りしめた。

迷いはある。しかし,これは誤りを正すためだ。濡れ衣を着せられている。ルールを破っても,裁かれる覚悟を引き受けるのが責任ある行為だという考えもある。

コールバーグのハインツのジレンマ(Kohlberg, 1963)を思いだした。社会契約志向的な論理だ。

……やめるべきじゃないのか。

「今日は,何時に終わるんですかねぇ」

廊下の向こうで足音がした。ライフジャケットの声だ。

「長くなりますよ。理事長報告のプレゼン資料の確認ですからね。失敗したら予算カットです」

唐草模様の声だろう。

「ガッカチョー一任でいいですけどね。理事長の儀式に付き合うのも楽じゃないですね」

「しっ。誰に聞かれているかわかりませんよ」

声が遠ざかったところでモニターを見ると,ライフジャケットと唐草模様がいつもの席に座るところだった。

「シンリンラボ読みました? 〇〇大学のあのセンセイ,また大学のこと茶化してましたよ」

廊下からは,次々と声が飛んでくる。

「下手なくせに,へんなエッセイ書いてる人ですよね。恥ずかしくないんですかね」

「友だちいないから気にしないんじゃないですか。いいね♡も,大してついてないし」

声が途切れた。

モニターには教員がそろっていた。三日月の姿もあった。

議長席のガッカチョーが口を動かしている。学科会議が始まった。

本当にこれを使っていいのか。

右手の甲を口に当て,歯を立てる。目を閉じた。

……うん。やるしかない。

音が出ないように扉を開け,薄暗い階段へ足音を忍ばせた。

階段に踏み入れると,ぱっと電気がついた。センサーだ。

一瞬足が止まる。そのまま二つ下の階まで駆け下りた。

「あっ,おるで。誰かおるわ。そこの人,ちょっと待ってや」

身体が凍りついた。

振り返ると,トラ柄の上着を羽織った清掃員が二人,三日月研究室の前に立っている。

「なんでしょうか」

「すんませんなあ。今日な,年に二回の研究室の掃除の日やねんけど,誰もおらへんのですわ。何か聞いてへんですか?」

「学科会議で,みなさんいないです」

喉が詰まり,声がうまく出なかった。

「ほかで手間取ってしもてな,遅れてもうたんですわ。研究室の掃除な,大学の人おらんと勝手に入ったらあかん言われてて」

二人は顔を見合わせた。「参ったなぁ」

「センセイ,会議行かんでええんですか?」掃除機を持った清掃員が身を乗り出した。

「私はちょっと……」

「ほなもう,センセイ立ち会ってもろてええですか。今日やっとかんと,あとがうるさいんですわ」

「いや,しかし……私の部屋じゃないですし」

「ええってええって。誰かおったらそれでええねん。ちょっと見といてもろたら,すぐ終わりますよって」

返事を待たずに,清掃員は三日月の部屋のカギをがちゃがちゃと回した。

二人は,掃除機とモップを無造作に運び入れる。

がらん。がらん。何かが崩れる音がした。

「なんやこれ,消毒薬ばっかりやないか」

「あの。私,行かないといけないんですけど」

研究室の中から業務用掃除機の音がうねるように立ち上がり,声をかき消した。

「え? なんか言うてましたぁ?」

「わ,た,し,ここにいられないんですー」

二人が手を止める様子はない。

視線が,ふと応接セットのテーブルに落ちた。

パソコンが乗っている。

「あれか」思わず声が出た。

心臓が強く脈打つ。

ふっと,あたりが暗くなった。振り向くと,階段の電気が消えていた。

「機械もんはな,一回ぜんぶ外出しますでー」

「出しとこ出しとこ。こんなん落としたら,あとで絶対モメるからな」

「了解や」清掃員がパソコンをつかみ,入口まで運んできた。「これな,センセイ。ちょっと持っといてもらえます?」

目が釘付けになる。

「センセイ,はよ持って。重いねん,これ」

「あ,すいません」

差し出した手にパソコンがポンと置かれた。

――鍵を使わずに済んだ。

胸の奥にたまっていた息を,ようやく吐いた。

しかしこれ,本当に,自分のものなのか?

パソコンを裏返した。あったはずの備品シールはない。汚れ具合を見ても,あのパソコンのようでもあり,違うようでもある。

起動すれば,わかるはずだ。

指先を横の電源ボタンにあてた。

押せば,中を見れる。だが,いいのか。所有者が自分だという確信はない。

力を入れようとした瞬間,ぱっと階段の電気がついた。足音が段を飛ばすように迫った。

「何をしている」

顔を上げると,三日月の無表情があった。

「とうとう,やらかしましたね。人の部屋に無断で入り,モノを持ちだす。犯罪ですよ」

「いや,これは,あの。業者の人たちに立ち会うように言われて」

研究室の中を振り返ったが,清掃員たちは忙しく動くばかりだ。

「あ,ヤバいわ。消毒薬こぼしてもうた」

「せやから言うたやろ。この部屋,消毒薬多すぎやねん。火ぃついたら一気やで」

ちらりと中を見た三日月は,一瞬眉間にしわを寄せた。

「私のパソコンをどうするつもりですか」

「持っているように言われただけです」

「さっき,電源入れようとしましたよね。所有者の了解なく,中を見ようとした。しかも,あなたは体調不良で休んでいたはずだ。嘘をついていたなら,職務規程違反です」

「いや,それは……」

「言い訳は会議でしてもらいましょう。このまま来てください」

拒否を想定していない歩き方だった。

腹をくくるしかない。

会議室は,蒸れた空気で淀んでいた。

全員の視線が,一斉にこちらへ向く。

パソコンを抱えたまま,いつもの席に座った。

「センセイ,大学来れたんですね。もう体調は大丈夫なんですか」

襟だけ赤の青の縦縞シャツの男性講師が,資料を差し出しながら,声をひそめた。何となく人をからかうような言い方はいつもと同じだ。

小さく,うなずいた。

「プレゼン資料について,他にご意見はありませんか」

ガッカチョーは,たんたんと進める。

「なければ,理事長発表はこの内容でよろしいですね」

「あ,すいません。一つだけ」唐草模様が身をのりだした。「スライドの3枚目,教授がカタカナのキョウジュになってます。あと,ここだけタイトルのフォントが違います」

「ご指摘ありがとうございます。修正します」

ガッカチョーは,資料に目を下ろし,指で議事を確認した。

「私が用意した議事はこれで終わりです。その他,何か審議事項はありますか」

「私から一つ」三日月の声が会議室に通った。

「えー,まだあるんですか」ライフジャケットがうんざりした声を出した。

「重大案件です。場合によっては,刑事的問題になります」

ざわり,と空気が動いた。全員が三日月を見る。

ガッカチョーだけが,下を向いている。

「先ほど,私が研究室に戻った際,助教が無断で研究室に侵入し,私のパソコンを持ち出しているのを目撃しました。窃盗の現行犯です」

視線が,一斉にこちらへ刺さる。

「事実ではありません」机に手をついて立ち上がった。「掃除業者の方が部屋の掃除に立ち合いがいるというので,廊下で見ていただけです」

「現にそれを持っているじゃないですか」

三日月がパソコンを指さした。

「持っていてほしいと言われただけです。私が研究室に入っているところを,センセイは見ていないはずです」

「では,なぜ学科会議に出席することもなく,あんな場所いたのですか。しかも,体調不良と嘘までついてる。不正の臭いは十分にある」

言葉が出ない。

ライフジャケットは,時計を見てため息をつく。

唐草模様は,パソコンをのぞき込んでマウスをカチカチと鳴らしている。

「この助教は大学の備品などを盗み,売却していました。学科の不祥事です。皆さんのご判断を仰ぎたい」

「待ってください」声が震えた。「私は,何もしていません。私こそ,被害者です。このパソコン,私のものじゃないんですか。センセイは,私が売り払ったとデルカリのスクショを見せましたが,ここにそのパソコンがある」

「それがあなたのものだという証拠は?」

「立ち上げれば,わかります」

深呼吸をして,電源ボタンを押した。

ファンの音が部屋に響いた。誰も,声を出さない。

初期画面が浮かび上がり,パスワード入力欄がポップアップした。

「パスワードを入れます」

alfort

震えた指で打ち込んだ。

〈パスワードが違います〉

何度打っても,同じだった。

「どうしましたか」三日月が勝ち誇った声を出した。「立ち上がらないのは当然です。それは私のものです。パスワードは,takenoko_no_satoです」

言われるままに,入力した。

「……立ち上がりました」

「あなたは,今度は私のものを奪って売却しようとしたわけだ」

誰も,口をはさまない。

「していないものはしていません」

「では,証拠をお見せしましょう」

三日月は,タブレットをプロジェクターにつないだ。

スクリーンには,デルカリの写真と何枚かの領収書が映し出された。

「あなたが売却した証拠です。ガッカチョーもご存じのはずです。にもかかわらず,問題にしないのは,何か理由があるのですか?」

全員がガッカチョーを見た。

ガッカチョーは,すぐには顔を上げない。

机の上で,指先がわずかに動く。

会議室は,しんと静まり返っている。空調の低い音だけが,やけに大きい。

やがて,ガッカチョーが,ゆっくりと顔を上げる。

誰も,息をしなかった。

バーン。

会議室の扉が開いた。

「あ,おったおった」清掃員だ。「えろう,すんません。ちょっとえらいことになりまして。さっき掃除してた研究室なんですけどな,キャビネットに掃除機ぶつけてしもて,鍵がビョーン飛んで,中のもんが全部出てもうたんですわ。なんや見た感じ大事そうなもんがごっそり出てきてしもて……」

両手いっぱいの物を机にぶちまけた。見慣れたパソコンや領収書,請求書の束だ。

「せやから言うたやないですか。センセイに立ち会ってもろわな,あかんって。急におらんようなって,慌てて追いかけようとして,掃除機にコード引っかかってしもたんですわ」

「おまけにこれですわ。全身,消毒薬びしゃびしゃです」

窓の外はすっかり暗くなっている。工事用の光が点々と浮かんでいる。

重機の音が,ガラスにも低く響いた。


脚注

8. (編集者註)編集部では,この状況に置かれた個人がカギを使用するかどうかについて独自の調査を行った。全50名の回答のうち,「使用する」と回答した者は32名(64%),「使用しない」と回答した者は18名(36%)であった。この分布について,両選択肢が等確率(p = .50)で生起するという帰無仮説に基づき,二項検定(両側)を行った結果,有意差は認められなかった(p = .065)。なお,参考としてχ²適合度検定(補正なし)を行った場合には,回答分布は等確率分布から有意に逸脱していた(χ²(1) = 3.92, p = .048)。


文  献
  • Kohlberg, L.(1963)The Development of Children’s Orientations Toward a Moral Order. I. Sequence in the Development of Moral Thought. Vita humana, 6; 11-33.
  • 坂中正義(2023)グループ・アプローチ.In:野島一彦,岡村達也編:臨床心理学概論 第2版.遠見書房,pp.139-152.
謝辞
関西弁のネイティヴチェックは複数の方にお願いした。この場を借りて感謝したい。
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富樫公一(とがし‧こういち)
資格:公認心理師‧臨床心理士‧NY州精神分析家ライセンス‧NAAP認定精神分析家
所属:甲南大学‧TRISP自己心理学研究所(NY)‧栄橋心理相談室
著書:『精神分析が生まれるところ─間主観性理論が導く出会いの原点』『当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望』『社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか』『分断の中の治療者―当事者性と倫理的転回』(以上,岩崎学術出版社),『Kohut's Twinship Across Cultures: The Psychology of Being Human』『The Psychoanalytic Zero』(以上,Routledge)など

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