八巻甲一(日本・精神技術研究所)
シンリンラボ 第34号(2026年1月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.34 (2026, Jan.)
はじめに
近年,日本の企業で職場での「心理的安全性」という言葉が流行っているという。2012年のグーグル社の大規模な社内調査結果で生産性向上に寄与する要因として優秀な人材などを抑えて「心理的安全性」が最上位であったという事実は日本の企業にとっても衝撃的な出来事であった。社員の誰もが安心して自由にものが言えること,つまり「心理的安全性」が組織内風土として求められることは以前からもいわれていたことだ。企業の担当者もそこに向けてはさまざまな策を講じて来てもいる。にもかかわらずその実現はなかなか容易でないというのが実情だ。困難にさせる要因はいくつもある。変化の兆しが見えるとはいえ上意下達を良しとする企業風土は今だに根強いし,協調性を重んじる日本独自の文化や道徳観などが影響してなかなか誰もが自由にものが言える風土が形成しにくいのである。1990年代後半に急増したメンタルヘルス不調者と自殺者の急増にその対策として企業は職場のコミュニケーションの改善を目的にアサーションの研修を導入するようになった。ご存知のようにアサーションは「自他尊重の自己表現」を定義にお互いが自由にものが言えるような関係作りを可能とさせるものである。アサーティブな表現でコミュニケーションが活性化している職場は同時に「心理的安全性」が築かれているとも言える。
本稿では今日の職場が直面しているコミュニケーション上の課題を明らかにし,そうした課題を乗り越える21世紀に向けたアサーションの理念や考え方,また,そのスキルの実際を記すことにする。
1.職場内コミュニケーションの現状と課題
職場での課題を述べる前に現在の企業が置かれている環境を観ておきたい。今日の企業が直面している経営環境は21世に入ってグローバルな視点がますます問われる中で「VUCAワールド注1)」と言われるように変化が激しく予測できない状況に晒されている。一方で人権D.D注2)の拡がりにみられるように人権尊重の精神は世界的に高まりつつある。日本では法制化こそされていないが努力義務として人権尊重は重要な経営方針になりつつある。「心理的安全性」が生産性の向上に最も重要な要因であるなら,いわゆる風通しのよい職場つくり(=職場のコミュニケー ションの活性化)は,その土台となるものである。なぜなら,風通しのよい職場とはそこで働く人の人権が尊重されてはじめて成り立つからである。21世紀の企業にとって「心理的安全性」を感じる職場を目指す意味は 生産性向上と人権尊重の双方を叶えることになるであろう。
注1)VUCAは,Volatility(変動性),Uncertainty(不確実性),Complexity(複雑性),Ambiguity(曖昧性)の略で,VUCAワールドは予測困難で変化が激しい現代社会を表わす言葉として広まった。
注2)人権D.D(Human Rights Due Diligence)とは,企業や組織はその活動を通して自らの組織だけでなく関係する取引先なども含め人権侵害を防ぐための継続的なプロセスを指す。人権意識の高いEUでは法制化の動きがある一方,日本政府も「ビジネスと人権に関する行動計画(NAP)」を作成し,多くの企業が導入し始めている。
1)日本人のコミュニケーション文化と非主張的表現の問題
先に日本人の対人関係上での言動や態度は日本独自の文化に大きく影響されていると記した。例えば,「協調性は大事である」ほかにも「他者尊重は美徳だ」「利己的になるな」「控え目がよい」などは多くの日本人が抱いている考え方だ。こうした考えだと対立的な関係を避ける傾向を生み,会議などで違う意見を抱いても発言にブレーキが掛かってしまう。アサーションの考え方からすれば,他者尊重ではあるが,自分の気持ちや欲求は二の次にするという非主張的表現である。また,個人の問題として,他者からの評価を気にし過ぎるとか,人には良く思われたい,察してくれるだろうなどの意識が働くことで自己表現を抑えてしまうことにもなる。意外と多いのが自分の気持ちが分からない人たちである。常日頃から自分の気持ちよりも社会的評価や,べき論に価値をおくことを行動基準にしていると結果として自分の気持ちが分からなくなるのである。
こうした文化的要因や個人の考え方などが影響し,職場でのアサーティブな表現を困難にさせているのである。そこに組織内では階層による力関係も作用するするので,「心理的安全性」という場の確保が簡単でないことが分かるだろう。特に女性や階層の低い人たちにとっては,発言力が弱い立場も加わって一層自己表現に制限が掛かってしまう。こうした組織内での発言力の弱い人たちに向けて職場内コミュニケーションの活性化を目指してアサーションは導入されてきた。筆者は企業でのアサーション研修を多く担当して来たが研修後に寄せられる感想に不自由な想いをしている人の多さを実感せざるを得ない。「私たちにとってはいつ誰にでも自己表現していいんだという考え方とそれが権利だと知ることは生きる上でとても勇気づけられるものでした」。こうした感想は多くの女性社員に共通するものであった。弱い立場で窮屈な思いを抱いている人たちにとって,アサーションはコミュニケーションの改善に止まらず,自分らしい生き方の獲得に繋がることにもなっているのである。
2)中間管理職層の悩み
では部下を持つ中間管理職層(マネージャークラス)にとって,職場でのコミュニケーションはどうであろうか。中間管理職は経営方針や職場の課題を部下に要請する立場である一方,部下(現場)はそのように必ずしも動けないことが多く抵抗を受けがちだ。結果として板挟み状態になる。部下との信頼関係が築かれていても,仕事の負荷という利害関係が生じる縦関係なので,コミュニケーションそのものが難しさを伴う。こうした構造的な問題に今日では人権意識の高まりが影響し部下とのコミュニケーションの取り方を一層難しくさせている。その言動や態度が多少強引であっても問題になることはなかったことも今日ではパワーハラスメントとして見逃されなくなった。厚生労働省が発表した労災認定件数の中でパワーハラスメントによるものがこの数年急上昇している(表1参照)。いわば社会的な問題として職場での人権を無視した言動や態度は許されないこととなった。では部下に寄り添った優しい言動や態度はどうだろう。多分それでは役割が全うできない。求められるのは相手(部下)を尊重したコミュニケーションだ。アサーションの定義である「自他尊重」の意味は自分も相手もそれぞれの人権を尊重した自己表現とも言える。今や中間管理職層にとってこそアサーションが求められるということでもある。
表1 パワハラ要因による労災支給決定件数(厚労省発表)

2.協働を目指す21世紀のアサーション
これまでのアサーションは個人と個人との健全なコミュニケーションの習得を目指して開発され普及展開されて来た。その拡がりは組織のような集団内のコミュニケーションに活用され「リーダーシップなど,メンバーの役割・機能に応じたアサーションも必要になり,〜中略〜 個人的な自己表現の支援というだけでなく,人々が共に生きるためにも必要になっている(平木,2021)」。つまり,「アサーティブな自己表現ができるだけでなく,互いが自分らしさを活かし,メンバーと共に働きかけ合って役割・機能を果たし,かつ創造的な仕事をしていくことにアサーションが貢献できる(平木,同)」のである。平木はそのためにアサーションの目的も「個人の自己表現」から「ともに意味を創る」ということを目指すこととし,近年よく聞かれるようになった「協働」という言葉をキー概念に21世紀に向けたトレーニングとして「協働のためのアサーション・トレーニング(Collaborative Approach in Assertion Training=CAAT)を開発した。
CAATが目指すのは,個人として自分らしく生きることだけでなく,組織自体がその機能を十分に活かせるようになることにある。別の言葉で言えば,「協働とは,二人以上の人々が共通の目的に向かって主体的な意欲と力を合わせて働き,成果を共有すること(平木,2021)」でありトレーニングに「協働」を目指すことを柱にして構成した。そして「複数の人が協働を意識してアサーティブな自己表現を大切にし合うことであたらしい関わり方,生き方の意味が生まれること(共生成)が期待できる(平木,2022)」ことを21世紀のアサーションとして位置付けた。
以下にトレーニングの特徴としてこれまでのアサーションを活かしながらCAATに取り入れた二つの概念について簡単に紹介することにする。
1)TMI理論(TMIはTask Maintenance Individual Behaviorの略)は組織論の一つで組織の機能を3つに分類したもので注3),I機能を組織の調和を乱す可能性があるとした。平木はこれを「Individual need=個人の欲求」と概念化し,I機能にアサーティブな表現を求めた。こうすることで,T機能もM機能もアサーティブな表現の中でコミュニケーションが交わされることになるので組織内の関係性に良好な変化をもたらし,協働というプロセスを可能とさせることが出来ると考えた。ただ,このことを可能とさせるには,I機能が組織の活動目的にそった有意義なものであると判断出来ることが必要だが,その判断基準は意外と難しくない。こうして,個々の欲求が組織の目的に沿った価値あるものと取り上げられるなら発言者にとっては「私はこの組織にいる価値がある」という組織内アイデンティティを自覚出来ることになる。それが発言の多様化を促し意見交換の活性化をもたらすのは明らかだ。
2)リフレクティング(=RF)注4)は新しい自己表現の手法として考えられるものだ。フィードバック(FB)は相手に直接伝える方法として効果的だが負の側面として直接言われる当人にとってはきつい感じでも逃れられなかった。ところが,RFは相手に伝えることは意識するのであるが,その伝えたいことを相手がどう受け取るかは相手の主体性に委ねられている。また,伝えようとする時の作法(態度)がいくつかある。その主なものを紹介する。①否定や批判はしない ②決めつけた言い方をしない ③言葉にはしないでいろいろ感じているこころのつぶやき(内的会話という)を独り言のように言葉にしてみる ④あれかこれかではなく,こういうこともありかもという姿勢で言ってみる等々である。
受け取る側は,直接言われたと思わなくていいし,自分にとって意味がありそうだと思えることを受け取ればいいのである。RFがもたらすコミュニケーションのは激しくもないし,対立も生じない。穏やかなものである。従ってそこに生まれる関係性もこれまでと違ってくる。RFが安全で安心な場を作ることに貢献できるのはこうした穏やかなコミュニケーションだからである。実際,このトレーニングの受講者は「自分の発言に否定・批判が出るかもしれないと不安を抱えることなく,対話に集中できる」という感想を語る人が多い。
注3)3つの機能とは,主に意見・情報,方法,取り組み,アイディアなどの提供でグループの課題達成を目指したTask機能と,言動や行動,態度などでメンバー間の関係性に影響を及ぼしグループの形成や維持に働くMaintenance機能,それにグループ内の動きに対する自分の気持ちや欲求など個人のニーズを満たすIndividual Behavior機能を表す。それぞれの頭文字をとってTMI理論と呼ばれる。
注4)リフレクティング(reflecting, reflection)とは,省察,あるいは「会話についての会話」と呼ばれるコミュニケーションの方法。その起源はアンデルセン,T.(ノルウェー,1985)の家族療法のこころみから誕生した。
おわりに
「心理的安全性」が求められる職場にアサーションが活かせる可能性を述べてみた。今日の職場は「モザイク職場」(中村,2015)と言われるように働く人も働き方も多様性に満ちている。一方でICT(Information and Communication Technology 情報通信技術の略で,情報や通信に関連する技術の総称を表す)などはますます広まっていくことを思うと,対面コミュニケーションそのものが減少しコミュニケーションのあり方も大きく変わらざるを得ないだろう。しかし,コミュニケーションの形態がどのようなものであれ,自分も他者もその人らしい自己表現が大切にされる相互交流の職場であって欲しい。CAATはそこに向かうトレーニングとして期待できると思われる。
文 献
- 平木典子(2021)三訂版 アサーション・トレーニング―さわやかな<自己表現>のために.日本・精神技術研究所.
- 平木典子(2021)精神療法 増刊第8号 アサーション・トレーニング活用術.金剛出版.
- 平木典子(2022)アサーション<自己表現>トレーニング40周年記念基調講演.日本・精神技術研究所主催.
- 中村和彦(2015)入門 組織開発―活き活きと働ける職場をつくる.光文社.
- 矢原隆行(2016)リフレクティングー会話についての会話という方法.ナカニシヤ出版.
- 矢原隆行(2022)トム・アンデルセン 会話哲学の軌跡—リフレクティング・チームからリフレクティング・プロセスへ.金剛出版.
- 矢原隆行(2024)矯正職員のためのリフレクティング・プロセス.矯正協会.
◇アサーション・トレーニング,及びトレーナー養成開催機関
「日本アサーション協会」 https://www.japan-assertion.jp
「日本・精神技術研究所」 https://www.nsgk.co.jp/kojin/at
八巻甲一(やまき・こういち)
所属:(株)日本・精神技術研究所(相談役)
資格:アサーション認定トレーナー/キャリア開発カウンセラー ほか
主な著書:
「キャリア開発/キャリア・カウンセリング」生産性出版(共著)
「精神療法 増刊第8号 アサーション・トレーニングの新たな展開(活用術)」金剛出版(共著)
「公認心理師 実践ガイダンス』木立ての文庫(共著)
「職業研究」(一社)雇用問題研究会(寄稿) ほか




