山川裕樹(成安造形大学)
シンリンラボ 第30号(2025年9月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.30 (2025, Sep.)
1.結節点としての幹先端
1)「研究目的」と幹先端処理
現在,私の研究関心の中心は「事例研究法研究」にあり,その流れから事例研究論文のまとめ方について最近一冊の本を書きあげたのだが(山川,2025),その中でこっそり「研究目的の重要性は,バウムテストの幹先端処理と同様」と記述した。
事例研究論文を書くときに押さえるべき勘所をまとめたこの本において私は,くり返し研究目的の重要性に触れている。研究論文では,先行研究をもとに問題意識が形成され,そこから自分の研究が実施される。自分自身の研究の本体が「結果」や「考察」にあるとするならば,自分自身の研究を成立せしめる源が先行研究からなる「問題」にあり,その結節点にあるのが「研究目的」である。図式化して言えば,「過去」(=先行研究)と「未来」(=これから行う自身の研究)を結びつける,重要なポイントが「研究目的」である。「幹先端処理」も,そうした結節点としての性質を持つ。
2)バウムにおける結節点=幹先端
バウムは,根っこで大地から栄養を吸い上げ,幹においてエネルギーを把持し,それを枝や葉に細分化させ,実を付けていく。描かれたバウムにおいて,幹本体と,枝あるいは樹冠部をどう結びつけるのかというのはなかなか難しい課題であり,そこに着目して行ったのが,私を含めた研究班で行っていた「幹先端処理」に関する研究(奥田ら,2005)である。幹・枝・樹冠部の,やや異質な要素をどう結びつけ,どう処理しようとするのか,その結節点を見ることが,バウムを見る上でのクリティカルなポイントである,というのが研究班の提言であった。
3)バウム理解の「首根っこ」
私はこの幹先端処理を,バウムの研修会講師を務めたときに「バウム理解の首根っこ」と表現した。辞書によると「首根っこ」とは首筋のことであり,そこから転じて急所や要点の意味も持っているとのことである。
それを聴いていた友人から感心するように「確かに形的にも首根っこだ」と言われたが,自分としてはその形態的類似性には意識していなかったように思う。確かに,もし(あり得ないことは承知の上で)描かれているバウムを物理的につかもうとするならば,幹先端の部分をわしづかみにしそうに思えるし,まさにそれがバウムの「首根っこ=急所」なのである。
4)本稿の目的
やや比喩が混線してきたが,本稿では,幹先端処理を通してバウム画を見ることがどのようなことなのかを,少しでも読者の方に知ってもらうために,大学院時代の研究班の取り組みの概略を研究の背景を踏まえて紹介してみよう。なお,幹先端処理の研究は,研究班メンバーに多くを負っており,詳細については奥田ら(2005)をご参照いただきたい。
2.バウムテストと幹先端処理
1)山中康裕の「メビウスの木」
我々研究班に幹先端処理の重要性を説いたのは山中康裕であった。山中は統合失調症のバウム画における一つの特徴として,漏斗状幹上開を挙げた(山中,1976)。
漏斗状幹上開とは,幹の上部が漏斗,つまりはトランペットのベル状に拡がっていき,それが開いたままになっているバウムを指す。そのうち,幹を描出していた線が上部では枝の線として描出されてしまったバウムを山中(1976)は「メビウスの木」と名付けた。メビウスの木では,幹において内空間を形成するために用いられていた描線(輪郭としての線)が,バウム上部において一線枝として機能してしまっている(実体としての線)。山中は漏斗状幹上開を含め,「自我境界が破れて,内界と外界が勝手に連絡してしまったという状態」(山中,1976)が表れているとの見方を示している。
2)藤岡喜愛の幹先端処理の分類
その山中が着目していたのが,文化人類学者藤岡喜愛による幹先端処理の研究であった(藤岡・吉川,1971)。藤岡・吉川(1971)は,コッホKochらのバウムの指標は多岐に渡り,そうした指標を集めたとしても「元のバウムの姿は,必ずしも再現されない」として,「バウム全姿から概括的に直観できる」特徴を持つバウムテストらしい,「すべてのバウムを一貫した態度で眺められるような,大ざっぱな視点」の必要性を説く。
そして藤岡らはバウム画の成長過程に着目する。小さい子どもは,よく長方形で木の幹を描いている。電柱のよう,という喩えでご理解いただけるだろうか。この,木としては実際にはありえない長方形の幹が,成長するにつれてどう変化するのか,という観点から「幹先端処理」の考え方を提言している。
電柱状の幹は,どのように木らしい描写へと変化していくのか。その類型として藤岡・吉川(1971)は,冠型(幹の先端処理を放棄して,樹冠の輪郭を描くことで輪郭を閉じる),人型(冠型の亜型で,冠の下に少しだけ人の手のように枝が残っている),放散型(幹の先端で枝を放射状に枝分かれさせていく),基本型(幹先端がだんだん細くなっていき,幹の上部には枝が伸びているもの)を四類型として抽出した。
3)もし「メビウスの木」に包冠線があったら?
こうした藤岡らの分類を手がかりに,我々もバウムの形態分類に取り組んだのであるが,藤岡らの分類をそのまま踏襲するわけにはいかなかった。例外となるバウムに多く出会ったからである。そうしたバウムに出会うたびに議論を重ねた。
そうした議論の中で,私において非常に印象に残っているテーマの一つに,「もし,『メビウスの木』に包冠線が描かれていたらどのような印象を受けるか?」というものがあった。上述したように山中の「メビウスの木」は,幹の輪郭線がそのまま枝となり,内の空間が無防備に曝されているような印象をこちらに与えているバウムを指す。
しかしそのメビウスの木に,包冠線が描かれていたとしたらどうだろう。読者の方もこころの中で想像していただきたい。守りの薄さは,相当程度軽減された印象になるのではないだろうか。幹の輪郭線が枝となっている不思議さは残るものの,包冠線を一本描いただけで,「一見普通のバウム」のような,というと言いすぎかもしれないが,メビウスの木に感じる圧倒的な危うさは,さほど感じずにいられるのではないだろうか。
4)「分化」と「包冠」という視点
研究班では,一枚のバウム画を元に,自分たちが感じる感覚と,そのもととなるバウム画の根拠を照合させ,「その描かれたバウム自身にとってどうなのか」(これを研究班では「バウムの論理」(奥田ら,2005)と呼んでいた)という観点から討議した。その結果,藤岡らの幹先端処理の分類には二つの異なる方向性が混在しているのではないか,という結論になった。その一つが「分化」であり,もう一つが「包冠」である。
「分化」とは,二線で描かれた幹の先端を処理するにあたって,枝を分ける方向で対処しようとするあり方を指す。藤岡らの「放散型」も「基本型」も,異なる分化の形態として理解できる。幹の先端を,等しく分けていくことで枝を形成したのが「放散型」であり,少しずつエネルギーを減らしていって最終的に閉じようとしたのが「基本型」だ,となる。
一方「包冠」は,幹の先端に対して,何かしらで包もうとする働きを指す。端的には包冠線が意図する作用だと考えていただいていい。藤岡らの分類でいう「冠型」がまさにそうである。
しかし我々の意図する「包冠」は,単なる包冠線の描出のみに限らない。例えば,幹先端が開放され,包冠線が描かれたバウムにおいて,樹冠に浮かぶように実が描出されることがある。この実も,開きっぱなしになっている幹先端に,何かしら守りを与えようとして描かれていることが想定されるため,「包冠」としての働きを持っていると考えられる。包む機能を持つものを「包冠」として理解したのである。
5)「分化」と「包冠」の定義とその性質
こうした考え方に基づき,「分化」を「幹の内実・エネルギーを何らかの方向付けをして処理すること」,「包冠」を「一定のエリアを形成することで先端を包んで処理すること」と定義した(奥田,2005)。
こうした理解に基づいて幹先端処理を考えると,分化が持つ方向付けの性質から,「より素朴に言葉にすれば,幹先端に取り組むときには『これまでの幹(引用者註:ルビで「わたし」)からつながるまだ未決定なままの,しかしそこから伸びていくであろう私の未分化なエネルギーを,どのようにしていこうか』とでも表現されるような逡巡が生じうるし,それが同一性獲得への姿勢と重なる」(奥田,2005)ことから,幹先端処理がアイデンティティ決定に関連するとの解釈も納得がいくものとなるし,また包冠は,「バウムにとって外界となる樹冠外の周囲の空間との間に何らかの境界領域(線)を作ること」(奥田,2005)に重点があり,そうした性質から,包冠の領域が社会性や対人関係を象徴するとされる解釈もまた理解可能なものとなっていく。
我々の研究は,元が藤岡・吉川(1971)の分類から始まったこともあり,いくつかの分化のパターンを抽出していたが,我々の行っていた研究は,形態だけを見ることに力点はなく,その形態に潜んでいる機能・働きを見ようとしていた。このように分化させることで,このバウムはどうあろうとしているのか,このような包むあり方は,幹先端にどう機能しているのか。幹と枝や包冠部の結節点にある幹先端は,そうした複雑なからみ合いが生むダイナミズムをこちらに想像させるのに,まさにうってつけの箇所なのである。
3.身体化された「バウムの論理」
1)動態としてバウム画を見る
最後に,私自身のバウムの学びについて触れることで,この稿をおわりとしたい。私は本質的に絵が描けない。脳内はそれなりに視覚的な映像はあるし,活字よりもマンガを好む人間だ。しかし,どうにもアウトプットがままならず,絵を描くことには苦手意識しかない。そうした人間が,なんだか面白そうという理由で大学院の描画研究会に参加し,研究班での議論を重ねる中で,自分自身にバウムの見方が「身に付いた」感覚が生まれた。
最初の段階は,描かれたバウムは静的なものとして理解されていたのだと思う。しかしある時,幹先端処理を考えていく中で,バウムを動態として見られるようになった。根っこは大地から栄養をもらい,幹がそれを樹冠部に伝えようとして,樹冠では枝葉や実が蓄えられ,そこでは光合成したり周りの生きものを呼び寄せたりする,という動きの中でバウムを捉えるようになったのである。
バウム画はそれらの絡み合った姿を一時留めたものであり,逆にいえばバウム画からそうしたダイナミズムを呼び起こそうとするこころの中のプロセスが生じるように私の中で変化した。バウムの理解とはそうした「共感的理解」なのだ,と私の中で腑に落ちたのである。そのパラダイムシフトが研究班の議論の中で起きた瞬間は「あ,そういうことか!」とユリイカの叫びをあげたし,ようやく体得した私に向ける周りのメンバーからのゆるやかなまなざしを今も漠然と記憶している。
2)生きた知識としてのバウム理解
いったんそれが身に付くと,あとはそれを使いこなせるようになる。しかしそれが身に付くまでは,どうしても指標的な理解に留まってしまいがちだ。だがそうした受身的な姿勢では絵から何かを受け取ることはできない。必要なのは,こちらから身を乗り出して絵に関わること,あるいは絵とともに過ごしその時に生起する自分の中の感覚に耳をすますことだったのだろう。
私の場合それが可能になったのは,研究班での徹底した話し合いに身を置くことを通してであった。2時間ほどのミーティングで検討していたのはバウム画数枚程度であった(1枚だけのこともあったかもしれない)。ゆっくり時間をかけてメンバーそれぞれが自身の感覚に潜り,感じるところと実際のバウム画とをことばにしてすり合わせ,それらをメンバー同士で確認していくプロセスが,私にとっては何よりも学びの時間であった。
幹と枝,包冠部の結節点である幹先端においては,描く側にとっても見る側にとってもそのダイナミズムを意識せざるを得ない。それゆえそこが理解のための「首根っこ」になり,そこを見ようとすることで,指標的なバウム理解を生きた知識として集約しうるだろう。「知識を身体化できるのは学び手のみ」と今井(2024)は書いているが,我々臨床家の実践知は,身体化しておかないと使い物にならない。幹先端処理への着目は,バウムの理解を生きた知識にするものだと私は考えている。
文 献
- 今井むつみ(2024)学力喪失.岩波書店.
- 藤岡喜愛・吉川公雄(1971)人類学的に見た,バウムによるイメージの表現.季刊人類学,2 (3); 3-28.
- 奥田亮(2005)幹先端処理において体験されうること.In:山中康裕・皆藤亮・角野善宏編:バウムの心理臨床.創元社,pp.182-197.
- 奥田亮・鶴田英也・中野祐子・山川裕樹(2005)第2章 バウムの基礎研究.In 山中康裕・皆藤章・角野善宏編:バウムの心理臨床.創元社,pp.143-243.
- 山川裕樹(2025)心理臨床家のための事例研究論文のつくりかた.遠見書房.
- 山中康裕(1976)精神分裂病におけるバウムテストの研究.心理測定ジャーナル,12; 18-23.
山川 裕樹(やまかわ・ひろき)
成安造形大学教授。臨床心理士,大学カウンセラー。専門は学生相談,事例研究法研究,描画検査など。
主な著書に『心理臨床家のための事例研究論文のつくりかた』(単著,遠見書房,2025年),『バウムの心理臨床』(共著,創元社,2005年)など。趣味はおいしいご飯を食べたり作ったりすること,マンガを読むこと。今好きなマンガは『川は海に向かって流れる』(田島列島)と『ルリドラゴン』(眞藤雅興)と『ずっと青春ぽいですよ』(矢寺圭太)。






