臨床家への問いかけ(12)あなたは,どこへ向かっているのか|富樫公一

富樫公一(甲南大学
シンリンラボ 第24号(2025年月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.24 (2025, Mar.)

最終回である。

ここまで,臨床的出会いの原点を問うてきた。最終回の問いは,あなたはどこへ向かっているのか,である。

私の答えは明確だ。連載の書籍化にあたり,「倫理的転回」をタイトルに入れる。それが向かう先だ。

第一回を思い出してほしい。私は以下のように書いた。

編集者はこう言った。「その際には『倫理的転回』をぜひ副タイトルに入れましょう」と。言質はとった。メールは保存してある。あとは無事に12回の連載をこなすだけである。

富樫(2025,冒頭の部分)

一年間いろいろあったが,12回こなした。穴をあけそうになったことは何度もあった。「いいね♡」が増えず,早く押せと,周りにプレッシャーをかけて回った1

シンリンラボを運営する遠見書房は,「各記事に『ハート』がついていますが,これは『イイネ2』のボタンです。連打はできませんが,興味深いものがありましたら,ポチッと押してください」(原文のママ)と,定期的に著者宛にメールしてくる。一番興味深いのは,自分の書いたものだ。自分で押せばいいのかと,やってみたが反応しない。丁度この期間,海外に住んでいたためだろう。何とかならないかと長押ししたら,「♡」の数が一つ減った3

その悩みもこれで最後だ。あとは書籍化だ。

「倫理的転回」の話ばかり書いているのに,私の本のタイトルに,これが入ったものがない。10年以上にわたる悲願だ。

担当編集者に,そっと聞いてみた。

「そろそろ,書籍化を考えないといけませんね。どんな感じで行きましょうか」

「『臨床家への問いかけ』を書籍化するにあたって,少し加筆していただいたり,書籍限定特典をつけたりするなど,多くの方に読んでもらうために,どのようなものがあればよいかなと思案しております」と,すぐに返事があった。

「倫理的転回についての連載ですから,それがわかるタイトルがいいですよね!」

「そうですね。書籍の『臨床家への問いかけ』では,主人公のその後のお話があったりすると面白いかもしれません」

タイトルは,どうしても『臨床家への問いかけ』のままだ。

しかし,勝負はまだ終わっていない。最終回公開後に,しつこくメールするしかない。何かの間違いで,主タイトルにしてくれるかもしれない。

「倫理的転回」は,一切の心理学的言説の手前の人と人との出会いを問うものだ。私たちは常に,臨床的出会いの原点に立ち戻って考えた。

では,私たちは,どこに向かっているのか。

同じ臨床家でも,向かう先はそれぞれだ。

臨床だけやれればいい,という人もいるだろう。勉強と訓練を続けて,腕を磨きたい人もいるだろう。自分の考えを世に広めたい人もいるかもしれない。臨床実践はあくまでも仕事で,プライベートを充実させたい人もいるだろう。後進の育成に力を入れたい人もいるだろうし,臨床コミュニティを改革したい人もいるだろう。

でも,実際のところ,どうだろうか。そこまで見えている人の方が少ないかもしれない。

今,できる勉強をして腕を磨いているが,どこに向かうのかと尋ねられても,先のことはわからないといった人も多いはずだ。

専門家と言っても,みんなが腕を極めたいわけではない。全員が意識高く,国内外の臨床心理学を改革していこうと思うわけでもない。

私だってそうだ。考えが浮かんできて止まらないから,それを表現しているだけだ。何かを変えようとか,何かのテーマを突き詰めようとか,業界をまとめていこうとか,そんな思いは全然ない

「センセイは,これからどこに向かっていくのですか」と,しばしば聞かれるが,この問いが一番困る。自分でもよくわからないからだ。

わかっているのは,臨床実践の中で患者に問いかけられ,それに応えようともがいているうちに,何かしら表現したくなるということだけだ。

その意味では,私が向かう先は,患者との毎日の出会いの中で自律的に決まる。これまでもそうだったし,これからもそうだろう。

どんな出会いが待っているのか,誰にもわからない。臨床的出会いに同じものは一つもない。同じ患者でも,同じセッションは一つもない。毎回,いつも新しく問いかけられ,そのたびに考え,悩み,その瞬間に最も妥当だと思われる理解や意味を作る。私の向かう先も,専門家としての目標や理念といった言説の手前の出会いの瞬間にある。


脚 注

1. これで,5人くらい友人を失った。

2. カタカナだとは知らなかった。

3. 本当に減る。増えることはない。これで「いいね♡」を5個くらい失った。


原点を見失うとき

それでも,自分の向かう先が明確に見える気がすることはある。

たとえば,病理や疾患,障害のメカニズムや,健康に関する理論を学んだときだ(連載第三回から第五回)。専門的コミュニティが正しいと考える方向を知ったときもそうだ(第六回)。訓練システムも,向かう先を明確に示してくれるように感じる(第七回から第八回)。臨床心理学や精神医学,精神分析の政治運動に共鳴したときもそうだ。

そうしたものは,私を方向づけてくれる。それが,悪いわけではない。世界を解釈するうえで,一定の方向性や考え方の軸は必要だ。基準がなければ何も見えない。

しかし,そういったときにこそ,向かう先は見えなくなっているのかもしれない。

一つの診断や技法,理論を身につけても,次に会う患者に全く通用しないこともある。それに対応するために別の考えを学べば,それでは太刀打ちできないものが持ちこまれる。

古い考えや態度に縛られているのは良くないと,新たな考えや態度を推し進めるのも同じだ。やがて,その考えや態度自体が権威になり,自分が戦ってきた相手と同じ立場にいる自分を知る。

どんな技術や考えも,積み重ねだ。それがなければ,革新や進展はない。だから,そうしたことは否定されるべきものでもない。

ただ,私たちは臨床家である。目の前のその人の訴えに取り組む。臨床家の中には,自分は同時に科学者であり,思想家であり,あるいは,政治家だという人もいるだろう。しかし,思想的,科学的,政治的にどれほど優れた考えを打ち立てても,目の前の人がそれに意味を感じるかはわからない。

臨床家にとって明確で適切な方向が,目の前の患者にとっても,明確で,適切な方向なわけではない。だから私たちは悩み,考え,苦悩し,様々な考えや方法を求める。しかし,向かう先が見えたと思った瞬間,それは見えなくなる。

理論は増え続ける

私がここで表現してきたのも,一つの正しい考えではない。臨床家はこうあるべきだとか,こう考えなければならないと主張するつもりもない。これは,目の前の患者との出会いを意味づけようとする私の語りだ。

しかしそれは,書かれた途端,一つの正しい理論のようになる。書いた本人もまた,それがあるべき姿だとどこかで思ってしまう。この患者とのこの出会いのこの瞬間においてのみ意味を持つものだ(Bacal, 2010)と主張しながら,どんな患者に対してもそう考えるべきだと思ってしまう。

臨床心理学や精神分析は,思想でもあり,科学でもある。あるいは,社会運動である。どのような呼び方でもいい。重要なのは,この業界の理論や考えは,一つの真実が否定され,次の真実が提唱されるといったように,一つの真理を目指して積み重ねられるものではないことだ。

人は,文化的,歴史的,社会的文脈の中にある。中世の人間関係や精神生活は,現代の私たちのものとまったく同じではない。現代でも,違う土地で,違う言語で,違う文化の中で生まれ育った人の心のあり方は,この土地で生まれ,この言語を使い,この文化の中で生きてきた人のものと同じではない。

120年前のフロイト(Freud)の考えが,目の前の患者やクライエントにすぐに役に立たなかったとしても,間違いだというわけではない。それぞれの時代や社会,文化の中で,それぞれの患者にそれぞれの異なる考え方や理論が生まれる。一つ前の患者の心を理解するのに役に立たなかった考えが,次の患者にぴったりくることもある。

理論や考えは永遠に増える。100人臨床家がいれば,100以上の考えがあり,それぞれが100人の患者に会えば,その数だけ理論が生まれる。

私たちは,不安を覚えるかもしれない。あまりにも不確かだからだ。一つの正しい方法があると考えるほうがずっと安心する。しかし,そのとき私たちは,目の前の患者を見失い,自分の信じる理論の有用性を確認するために仕事をすることになる。

記述と処方の問題

精神分析家のグリーンバーグ(Greenberg, 1981)は,以下のように述べる。

表面的には,記述とは単に起こったことを書いただけのものにすぎない。しかし,物語作家,文芸評論家,歴史家,精神分析家なら誰でも知っているように,記述は選択的である。サリバン(Sullivan)は,「The illusion of personal individuality」(1950)をはじめとする著作全体で,科学者である限り,自分の言説世界以外の現象について語ることはできない,と主張する。つまり,特定の選択基準を決定する枠組みが,その人の理論だということである。記述という行為は,物事を見る根本的な方法に基づいてデータを整理していることを認めることを意味する。特定の記述は常にそれと相対的である。しかし,精神分析の技法は,指示や処方箋として,命令形で提示されることが多い。

(Greenberg, 1981, p.242)

フロイトもその他の高名な理論家も,彼らが書いているのは,それぞれの患者と体験したことや,観察したことを記述しただけのものだ。しかし,それを読む者は,それを処方箋として読む。「このようにすると患者は良くなる」と読んでしまう。

読み手だけの問題ではない。患者との作業について記述する者は,自分の言説と思想の文脈を越えて記述することはない。彼らもまた,「このようにすると治る」というニュアンスで記述することから逃れられない。

臨床家は,患者をよくしたい生き物だ。目の前の人の訴えに対して,何かをしたい人である。心を理解したいだけの人は,臨床家になろうとはしない。何かをしたい者が先人の知恵に触れると,どのようなものでも,「こうしたらよい」という処方箋になってしまう。

では,私たちは「こうしたらよい」がない世界で生きられるのか。

私に関する限り,それはとても難しい。

それでも,そこにとらわれていない瞬間はたくさんある。それは,目の前の患者の訴えにただ身を委ねているときだ。そのとき,自分が向かう先も,自分がすることも,しないことも,その出会いから自律的に生まれる。私はそれに導かれるまま先に進む。

戻ってきた

久しぶりの日本は,とにかく街がきれいだった。ゴミがほとんど落ちていない。大きな駅周辺の歓楽街さえ,そうだ。そのくせ,街にはゴミ箱がない。

数年間,アメリカに住んだ。臨床心理学や精神分析のさまざまな考えを学んだ。

みんな,ディスカッションが好きに見えた。小さな研究会でも,大きな学会でも,みんな違う意見や考え方を楽しんでいるように見えた。どんなに珍しい意見でも,面白いと言いながら,互いに批判したり,賞賛したりしていた。

何を話しても,みんな「Good!(イイネ♡!4)。Great!(最高だね!)」と褒めてくれるのはさすがにどうかと思ったが,何を話しても「ここがおかしい」と,あら捜しをされるよりは,ずっと心地よかった。

自分の考えも言葉になり始めたので,久しぶりに日本の人たちの前で語ってみようと,「日本○○○○学会」で発表することにした。

臨床心理系の人たちのほとんどが所属する妙に大きな学会だ。あまりにも大きすぎるので,大会はいつも同じ会場だ。大量の参加者を一度にさばける場所が他にないらしい。大会も二回に分けて行われる。しかも,対面とオンラインの併用だ。大会運営委員長なんて,やるものじゃないなと,同情心が湧いた。

会場入り口には,「日本○○○○学会 第○回大会会場(秋季大会)」の仰々しい看板が立っていた。

発表時間に合わせて来たので,すでに昼下がりだ。傾き始めた西日が,看板の下半分に斜めに当たっている。

日本の学会で発表するのは初めてだ。どきどきする。日本人ばかりの場所で話をするのも,修論発表会以来だ。

会場入り口の自動ドアをくぐると,中は大きなホールになっていた。いくつかの台に,名札を入れる首掛けのネームタグが大量に置いてあった。

ネームタグに名札を押し込む人,いそいそとエスカレーターに向かう人,立ち止まって学会抄録をのぞき込む人,知り合い同士で挨拶をする人と,ホールはなんとなく気ぜわしい。

リクルートスーツで参加している人たちは,学生か,新人だろうか。自動販売機の横にあるベンチには,焦点の定まらない目で前を見たままの中年男性や,ケイタイを忙しく触る若い女性が座っている。

受付台はあるが,あまり人はいない。午後だからかもしれないが,最近はオンライン登録なので,受付する人自体が少ないのだろう。

「ちょっといいかね」初老の男性が受付に話しかけていた。「事前登録を忘れたんだが,ここでできるかな? 年会費もしばらく払っていないのだが5

キョウジュだ。

登壇予定でもあるのか,スーツ姿だ。大学院時代にはほとんど見たことがない。

「二年分払っておられないようですね。お支払いいただかないと,参加することができません6」と,受付の女性が無表情で対応する。

大学院時代から不思議に思っていたが,受付の人がほとんど女性なのは何故だろう。

「参加できない? 私は,メイン企画のシンポジウムの登壇者だぞ」

「払っていただければ,参加できます」と,受付の女性はドライだ。

日本に帰ってきたことを実感した。

「久しぶり!」

だしぬけに声をかけられて振り向くと,大学院時代気になっていたあの同級生が笑顔で立っていた。

大学院の修了式以来だ。子どもっぽさが抜けて,大人になっていた。

「久しぶり! びっくりしたよ。よくわかったね。元気だった?」

「うん。そっちこそ。LINEにも返事くれないし,心配していたんだよ。まだアメリカにいるの?」

「ごめん」小さな咳払いをした。「うん。まだ向こうに住んでる」

「海外暮らしはどう?」

「うん。修論発表会のあと,キョウジュに日本に縛られるなと言われて,その気になって渡米したけど,最初はかなり苦労したかな。LINEに返事する余裕もなかった。でも,今は正解だったと思ってる」

「いろいろ経験したんだね。なんだか,随分大人になった」

「こっちもさっき,同じことを思ったよ。大人になったなって」

「一緒だ!」と,同時に口に出して互いに笑った。

どちらから声をかけるわけでもなく,二人でエスカレーターに向かい,二階に上がった。

心理学系の出版社が書籍販売ブースを並べている。人が集まっているところもあれば,閑散としているところもある。スーツにネクタイ姿で販売しているのは,出版社の編集者たちだろうか。

一番右のブースでは,本を並べた机の前に『【学部生・大学院生・初心者必携】7ステップですぐに身につく初心者のためのカウンセリング技法超簡単入門上級編~公認心理師国家資格・臨床心理士資格受験はこれ一冊できまり』の宣伝用ポスターが垂れていた。

一番左のブースの横では,たくさんの人に囲まれ,求められるままに本にサインをしている二人がいた。最近,名前をよく見る有名な若手の先生だ。

「サイン会になっちゃってる!」と,また同時に声を上げて,目を合わせて笑った。

「有名人も大変だね。どんな領域も同じかもしれないけど,有名人が出て,その人について行く人が集まり,やがて色褪せ,また次の有名人が出る。これをずっと繰り返しているんだろうね。最近,この業界の歴史自体も考察の対象ではないかと,調べてるんだ。国や地域によって全然違うからびっくりだよ」

「頑張ってるんだね」と,以前と変わらない笑顔で髪をかき上げるその人の指には,指輪が光っていた。

「あ,結婚した? もしかして」

「うん。去年ね」

「そうなんだ。……おめでとう」

少し,胸が痛んだ。

「誰かさんが,アメリカ行っちゃったからね。自分も人生を決めないとと思って。何かを突き詰めるより,平凡に暮らしたいと思ったんだ。臨床は好きだから続けるけど」

「それも一つの人生だよね。お相手は? どんな方か聞いてもいい?」

「普通の人。会社員で,臨床とは関係のない人」

「それが一番健康かもね。業界でくっつく人も多いけど,不健康どうしは大変そうだ」と,笑って見せた。

こんな冗談を言えるようになったのも,余裕が出てきたからかもしれない。大学院時代はとにかく余裕がなかった。いつも何かに必死で,そして,批判されることを恐れていた。

「発表するんでしょ? 抄録で名前見たよ」

「見てくれたんだ。大学院時代と同じ話だよ。でも,あの頃よりもう少し言葉にできるようになったから,日本でぶつけてみようと思ったんだ」

「『倫理的転回7』だったよね」

「うん。いろいろ語り合ったね」

サインを求める人だかりの横を通り抜け,自動販売機で,二人で飲み物を買った。

「日本の自動販売機はすごいよね。ちゃんとお金の計算もするし,お釣りも出てくるし,商品もちゃんと出てくるし」

「えっ。アメリカは違うの?」

「大抵,壊れているよ。自動販売機自体,そんなに見ないけどね」

「アメリカの最新の考えを日本にぶつけるんだね」

「そんなつもりはないんだ。アメリカが最新で,日本が遅れているとは思っていない。どこで臨床をしていようと,この時代にそれぞれの土地で仕事をしているというだけで,みんな最先端だよ。それぞれの土地に特有のテーマはあるけど,どこにいても,みんな同時代に生きる臨床家どうしだよ」

「そういうところは変わらないね」と,その人はからかうような笑顔を見せた。

「まあね」と,肩をすくめた。「世界は広いと思ったよ。日本を除いた外国という意味じゃなくて。日本も含めて,それぞれの土地でそれぞれの言葉で臨床をしている人たちがたくさんいる。いろんな考え方や文化,歴史がある。向こうで出会うクライエントは,本当にもう,人種も言葉も,文化も,歴史もばらばらで,彼らに会っていると大学院時代にあんなにセンセイたちの視線や批判を気にしていたのは何だったんだろうと,改めて思ったよ」

「そうか……大きなものを見ているんだね」

「もがいているだけなのかもしれない。でも,自由に好きなことを勉強し,好きな意見を言っても許される場所にいたいんだ。その意味では,やっぱり,日本は窮屈かもしれない。そっちはどう?」

「こっちは結婚して,生活を一生懸命作っているところかな。二人の生活にも最近ようやく慣れてきた。臨床心理士の資格更新ポイントは維持できるくらいに勉強して,あとは,楽しく遊んだりしてる」

「いいね8

「ありがとう」

「じゃ,そろそろ,発表に行くよ」

「うん。今から夫婦でデートなんだ。聞きに行けないけど,頑張って」と,その人は右手を小さく上げて振った。

「うん。楽しんで」

さわやかな風を起こして去る背中に手を振った。

大学院は,もう昔なんだな。二人が,別々の人生を生きるしかなかったのかどうかはわからない。ただ,自分は,言葉にしようとした想いを表現しなかった。それだけのことだ。

心の奥が少しひんやりした。

さて。発表だ。

飲み終えたコーヒー缶を穴の開いたゴミ箱に勢いをつけて投げ入れ,気持ちを切り替えた。

そういえば,日本では,街に普通のゴミ箱はないのに,ペットボトルや缶を捨てるゴミ箱はやたらにあるな。

発表の部屋に入ると,司会者らしき女性のセンセイがすでに座っていた。

「よろしくお願いします」と,腰を下ろしつつ挨拶をした。

「発表者ですか?」司会者センセイが顔をあげた。「学会で発表するときは,事前に司会者の先生に連絡を取り,ご挨拶をして,発表原稿を送るものです。最近はやらない人もいますが,一応そんなルールになっていますので,覚えておいてください」

いきなりこれか。

「申し訳ありません。不勉強でした」と,少しだけ首をすくめて答えた。

「礼儀ですよ」

学会発表には,どこにも書かれていないルールがあるようだ。

それはそれとして,自分は自分の考えを話すだけだ。

原稿とPC,久しぶりに買ったアルフォートの個装包みを2つ机の上に出した。準備完了だ。顔をあげると,ちょうどキョウジュとミニキョウジュが入ってくるところだった。

日本人同士,こういうときは互いに声を掛けたりしない。知り合いが前にいても,おとなしく会場に座る。郷に入っては郷に従えだ。こちらも,声を掛けないままにした。

さて,彼らはどんな反応をするかな。

大学院の頃のようにおびえる気持ちはなかった。

彼らがどんな顔をするのか楽しみだ。もう,アルフォートを食べられたころの自分とは違うんだ。

「では,時間になりましたので,始めたいと思います」

司会者が,iPhoneのアラームをタップした。


脚 注

4. 連打はできませんが,興味深いものがありましたら,ポチッと押してください(編集部)。

5. 私は毎回これをやる。事前登録を無事に済ませた年は,届いた名札を持参し忘れる。

6. 今まで,これを3回くらい聞いた。

7. タイトルに入るかどうかが問題だ。

8. 連打はできませんが,興味深いものがありましたら,ポチッと押してください(編集部)。


文  献
  • Bacal, A. H.(2010)The power of specificity in psychotherapy: When therapy works-and when it doesn’t. Jason Aronson.
  • Greenberg, J. R.(1981)Prescription or description: The therapeutic action of psychoanalysis. Contemporary Psychoanalysis 17; 239-257.
  • Mitchell, S. A.(2000)You’ve got to suffer if you want to sing the blues: Psychoanalytic reflections on guilt and self-pity. Psychoanalytic Dialogues, 10; 713-733.
  • Sullivan, H. S.(1950)The illusion of personal individuality. Psychiatry, 13; 317-332.
  • 富樫公一(2025)臨床家への問いかけ(1)はじめに:精神分析の倫理的転回と問いかけ。シンリンラボ,13. https://shinrinlab.com/toikake01/
富樫公一先生の連載「臨床家への問いかけ」は全12回をもって終了となります。ご愛読いただきありがとうございました。
本連載はこのあと書籍化される予定です。お楽しみにお待ちください。
(シンリンラボ編集部)
+ 記事

富樫公一(とがし・こういち)
資格:公認心理師・臨床心理士・NY州精神分析家ライセンス・NAAP認定精神分析家
所属:甲南大学・TRISP自己心理学研究所(NY)・栄橋心理相談室・JFPSP心理相談室
著書:『精神分析が⽣まれるところ─間主観性理論が導く出会いの原点』『当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望』『社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか』(以上,岩崎学術出版社),『Kohut's Twinship Across Cultures: The Psychology of Being Human』『The Psychoanalytic Zero』(以上,Routledge)など

目  次

1コメント

  1. 12回の連載お疲れ様でした。最終回を飾るにふさわしいなあと感じながら読ませていただきました。我々臨床家はどこへと向かうのでしょうね。「行く先を決められずに彷徨い続けた」と若いころのことを振り返りました。(これは新曲の歌詞にも使えそう)今は彷徨う感は減っておりますが、「行く先を決めずにさすらう」ことは大好きです。午後の予定も決めておりませんし。(ただし、週末のライブツアーは決まっている)あ、そうそう農協にも連絡しないといけない。縛られることなくさすらいたいものです。1年間ありがとうございました。

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