臨床家への問いかけ(11)臨床家は,『患者』の訴えをなぜ無視できないのか|富樫公一

富樫公一(甲南大学
シンリンラボ 第23号(2025年月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.23 (2025, Feb.)

臨床家は,『患者』の訴えをなぜ無視できないのか。

今回の問いはこれだ。

とうとうネタに詰まったな。その問いは,前回すでに答えたではないか。

そう突っ込まれそうだ。

たしかに,前回この話をした。上から1/5くらいのところにこう書いた。

私たちは,なぜ,苦しみを訴える人から目をそらすことができないのか……相手を不憫に思うからだろうか。おそらくそれは違う。……相手が弱く,傷つきやすいからか。あるいは,社会的に低い立場にいるからか。残念ながら,それも違う。……それは,その訴えが自分のものだったかもしれないからだ。

富樫(2025)

ここを覚えている人がいたら,感激だ。

前回公開のあと,いつになく多くのコメントを頂いた。

「キョウジュに何があったんですか?」
「これってドラマにならないんですか?」
「感動的なラストでした。連載ご苦労様でした1

理論部分にコメントをくれた人はいなかった2。わけがわからないからと,みんな読んでいないのだ。それでも,この問いを覚えている人がいたら,その人はかなりやばい3

たしかに,この問いには,前回すでに答えている。しかし,あれは十分なものではない。患者の訴えが自分のものだったかもしれないとすると,なぜ無視できないのか。その説明がないからだ。

実際,私たちは,他者の苦悩を簡単に無視することができる。SNSでは,毎日誰かが袋叩きにされている。それでも,私たちはどこかで傍観者だ。自分だったかもしれないと思うどころか,大抵のことは,ケータイを閉じたとたん忘れる。

しかし,臨床に出た私たちは違う。私たちは,永遠に患者の苦悩を無視できない。苦悩が人知を超えたものでも,不道徳なものでも,人を傷つけるものでも,正面から向き合わなければならない。私たちは,それを知ってこの仕事をしている。私たちはわざわざ,そのようなところに身を置いているのだ。

私たちをそうさせているのは何か。ここでは,それを改めて問いたいのだ。当事者性を成り立たせているものは何かという問いでもある。


脚 注

1. まだ終わっていない。

2. 担当編集者も,ドラマのことしか気にしていなかった。

3. 私と同じで,幸せには生きられないと思う。


根元的罪悪感

私の答えは,根元的罪悪感(radical guilt)である(富樫,2024a, b, Togashi, 2024)。根元的罪悪感こそが,私たちを患者の苦悩に向き合わせているのではないかということだ。

また,変なことを言いだした。

そう思った人は少なくないはずだ。否定してもわかる。みんな,「言い回しに誤魔化されるが,この人の言うことはどこかおかしい」と,思っているに決まっている。本人がそう思っているのだから,間違いない。

根元的罪悪感は,通常の罪悪感とは違う。他人への加害意識のような,対人関係上に表れる罪悪感でもなく,神に対する裏切りのような,超越者との間に生じる罪悪感でもない。他者に対する加害性や欲望,裏切りから自立した罪悪感である。道徳的善悪や,意思や主導性の感覚と結びつかない罪悪感だ(富樫,2024a, b)。

一般に,罪悪感は,道徳的善悪を背景に,行為者が自分の意志や主体のあり方を問うときに生じる。道徳的にあるべき姿と,自分の意志や主体のあり方が比較される。

神に対する裏切りも,友人に対する裏切りもそうだ。フロイト(Freud)のエディプス的罪悪感も,クライン(Klein)の前エディプス的罪悪感もその構図の中にある。亡くなった者への裏切りの感覚を想定した「サバイバーズ・ギルト」(Niederland, 1961)も同様だ。それは,あるべき運命や期待に応えられなかったことへ後悔を伴う感情である(Li, et. al, 2014)。自分の意志で裏切りを回避できたかもしれないという空想も含まれる。

根元的罪悪感は,それとは違う。

善と関係しない悪

道徳的善悪や,行為者の意思や主導性と結びつかない罪悪感などありえるのか。それを理解するには,「善意志とは関係しない悪」を考えるとわかりやすい。

ナベール(Nabert, 1955)は,悪そのものを探求したフランスの哲学者である。彼は,カント(Kant)ら西洋哲学者の探求する根元悪の議論は,十分に悪を論じていないと主張する。彼らの議論は,それを悪だと認識する規範や道徳的善を想定しているからである。それでは,どれだけ悪の根元性を突き詰めても,結局は悪の探求ではなく,善の探求に終わる。

ナベールはこのように語る。

ひとりの人生が死によってあまりにも早く断ち切られた場合,そのことに驚愕させられたり,あるいはそれが精神の高い志の代償のように見えたりすることがある。その場合,私たちがこの出来事にそうした評価を下すのは,不正という観念に基づいてのことであろうか。むしろ,正当化できないという感情を通して,規範が描く対立からは独立したより根源的な矛盾が私たちに暴露される場合がある。それは……規範を遵守しているだけでは満足させられないような正当化〔義認〕の要求との間の矛盾である。

(Nabert, 1995, 邦訳,p.2)

なかなか難しい文章だ。

しかし,私はこれに惚れた。私が彼を知ったのは,2024年の夏だ。フランス語は「ラ・ムー(L’amour)4」以外知らないので,わずかな邦訳と英訳を入手し,原著と照らし合わせながら考えをたどった。ちゃんと理解できているのかは甚だ怪しいが,読めば読むほど,自分が探求するものの先を照らしているように思えた。

ナベールの悪は,規範に照らして判断されない悪である。その悪は,合理化したり説明しようとしたりする試みがかなうようなものではない。「それはおかしい。正当化できない」という強烈な感情体験を丁寧に自省することで,ようやくたどり着くことができる悪だ。それは,「直接的にせよ間接的にせよ,あるいは相対的にせよ絶対的にせよ,精神的な次元の合目的性を何らかの仕方で妨げるにもかかわらず,何らかの規範に基づいて,あってはならないこととして裁くことはできない」(邦訳,p.31)感情である。


脚 注

4. 大黒天物産株式会社の運営する「ラ・ムー」は,関西以西に展開する格安スーパーだ。フランス語がもとになっているのかと思ったが,「LAMU」と表記するので違うようだ。大黒天が何故「ラ・ムー」なのかはわからない。


正当化できないもの

規範に基づいて,あってはならないこととして裁くことはできないものとは何だろうか。その一つは,偶然に割り当てられた私たちのあり方ではないか。

テロリストが飛行機をビルに突っ込ませたことで,無関係の人たちが多数死ぬ。空爆により,隣の家族が全滅する。目の前の患者は幼少期からレイプされていた。

この状況で,テロや戦争,犯罪を行う者の意志や主体性を悪と評するのは,ナベールの説く悪ではない。それは,道徳的基準や善性に照らして評価された悪だ。そこで論じられているのは,悪ではなく善である。

しかし,目の前の人はテロで死んだが,私はそうではない。友人は空爆で死にかけたが,私はそうではない。患者はレイプされたが,私はそうではない。そうした世の中のあり様は,道徳的規準や善性から評価できるものではない。しかしこれは,どうしようもなく不当だという感覚を私たちにもたらす。

目の前の患者はレイプされていたが,私はそうではないのだ。そのように割り当てられたことに,なんの理由もない。患者はそうなるだけの理由があって生まれたわけではなく,私はそうならないだけの理由を持って生まれたわけでもない。患者がそうで,私がそうでないのは,ただの偶然である。私だって,その人でありえたのに,そうではないのだ。これほど正当化できないことはあるだろうか。

私はこのように書いた。

私が「どうしようもなく正当化できなかった」のは,そういったトラウマがあり,誰かがその被害に遭うしかなく,誰かがその傍観者にならざるを得ないそうした世の中のあり様そのものである。それは,私の正義観や道徳心に照らして判断されるものでも,糾弾されるものでもない。それは,誰もあらがうことができない世の中のあり方そのものである。患者がそれだけの苦しみを持ち,私がそうした苦しみを持たなかったことに何の理由もない。ただの偶然である。私だって,別の世界では患者だったかもしれないのである。その偶然のために,患者はこんなに苦しむ。

(Togashi, 2024, 本人による邦訳)

私たちはここで,「同じであってしかるべきものが,私が私であるために,他者が他者にならざるをえなくなったことの責任」(Togashi, 2024)に直面する。私があちら側にいれば,その人はこちら側だったかもしれないからだ。それは,他者に対する私の加害性や欲望,裏切りから自立したものだ。私たちの意志や主体が生まれる前のあり方だからである。

患者に呼びかけられた私たちが,患者に応答しようとするのは,これがあるからだ。これがあるから,私たちは,患者と同じトラウマを体験していなくても,苦悩に満ちた話に強いインパクトを覚え,目を離せなくなる。

患者の呼びかけは,根元的罪悪感を呼び覚ます。業界にいようとするのも,臨床理論や技法を学ぼうとするのも同じだ。この感覚があるからこそ,私たちは,必死になって患者の苦悩に耳を傾け,何かしようとするのだ。

修士論文を提出した

「では,最後のまとめです。臨床家は,根元的罪悪感に向き合い続けています。しかし,彼らはときにそれを否認し,回避します。自分だったかもしれないクライエントが,ひどく違う人生を送っていることの不当性に耐えられないのです。クライエントと同じ苦しみを体験していないのに,自分がセラピストでいいのかと,うしろめたさを感じるのがよい例です。そんなことを考えるくらいなら,その苦悩に必死について行けばよいのに,それができないのです」

チンチンと,ここで発表時間終了のベルが鳴った。スライド一枚分,まだ残っていた。

就職先が決まらぬまま迎えた修士論文の最終発表会だ。

どうも調子が悪い。気合を入れるため,発表直前に食べようと,院生室に一つだけおいておいたアルフォートがなくなっていたからだ5。あれを食べないと力が出ない。

臨床センターのセッションは残しているが,カリキュラム上の課題はこれで最後だ。審査に通れば,修士課程を修了できる。何とか力を出さないといけない。

「……精神分析家のスティーブン・ミッチェル(Stephen Michell, 2000)は,罪悪感(guilt)とうしろめたさ(guiltiness)を分類しました。前者は,人を応答へと駆り立てます。ここでいう応答とは,他者への責任のことです。後者は,罪悪感の否認や回避につながります。『うしろめたい』と思う人は,具体的に応答しないのです。自分を責めたり,恥じたりするだけです。そのような人は,専門性に閉じこもったり,無分別な同情心をクライエントに抱いたり,安易な正義感を募らせたりするかもしれませんが,呼びかけに直接応じることはありません。臨床家にとって重要なのは,自分の態度が根元的罪悪感に基づく応答なのか,うしろめたさに基づく応答の回避なのかを考え続けることではないでしょうか。ご清聴ありがとうございました」

パチ…パチ…パチ…。

M1生たちが,機械的に拍手をしたが,雰囲気を察して手を止めた。両手を合わせる直前で手を止め,辺りをきょろきょろ見渡す学生もいた。

センセイたちは例によって頭を掻いている。

キョウジュは下を向いたままだ。トレーナーには,「in Berlin」と印字されている。隣のミニキョウジュには「Die Mauer」と印字されている。二人合わせて「ベルリンの壁」だ。

鉄壁に見えた分断の壁が,政治家のちょっとした発言からあっという間に崩れたのは,1989年だったはずだ。世界史の教科書の一ページが,頭に浮かんだ。

沈黙の時間が過ぎた。

「ではまあ,一つだけ質問を」と,若手の男性のセンセイが口を開いた6。「罪悪感のために臨床活動をしているなら,自己愛的な補償というか,自己憐憫というか,要するに,独りよがりじゃないですか?」

「専門家としてどうなんですかね」と,かぶせてきたのは,研究ポスターを壁に貼るセンセイだ。「罪悪感のために仕事されたら,クライエントもたまったものじゃないです。それに,罪悪感は,責任を果たせないときに感じるものでしょ? 罪悪感のために何かをするのは,責任じゃないんじゃないですか?」

要するに,考えがおかしいと言っているのだ。

「これって,修士論文としてどうなんですかねぇ」

前に座るジョキョウ7のセンセイが,ひそひそと隣のジュンキョウジュに話しかけた。

ジュンキョウジュは,この論文の指導教員だ。

「そうなんですよね。やめた方が良いと言ったんですが,本人がどうしてもというので」と,苦笑いしている。

指導教員が発表時に手のひら返しをすることがあるというのは,先輩から聞いたことがあった。それにしても,四面楚歌とはこのことだ。

これは落ちたかもしない。背中に汗が一筋流れたのがわかった。

「あの」と,iPadを片手に張り付けたセンセイが,空いている方の手を挙げた。「スライド3枚目と9枚目,誤字があります。文字が多すぎで,行間詰めすぎです。あと,発表時間42秒超過です。以上です」

バン!

机を叩いて,立ち上がったのはキョウジュだった。

「もう少し何か言えないのか!」

皆が目を丸くして,キョウジュに顔を向けた。

熟睡していた黒パンツのセンセイが,はっと,顔をあげた。

「この罪悪感は,人が人に出会ったときに,必然的に直面する世界の不条理の中で,目の前の人のあり方に自分のあり方の意味を見いだすときの感情だ。人が人とかかわる原動力のことだ。治療者が患者と出会ったとき,その出会いの哀しさと不当さを前にして,当たり前のように湧き上がり,私たちを臨床活動へと駆り立てる感情だ。この論文は,臨床実践の根幹とは何かを,われわれに問うているんだ!」

隣のミニキョウジュは,白い目で呆然とキョウジュを見上げている。

動く者は誰もいない。みな,目を大きく開いたままだ。

黒パンツのセンセイだけ,再び眠りについた。

「……失礼」キョウジュは,軽く咳払いをして,正面を向いた。「私が答えるところではなかった。発表者に申しわけない」

「いえ……。あの。ありがとうございました」

キョウジュは,静かに席に着いた。

若手の男性のセンセイは,首をすくめて,資料に落書きを始めた。学会ポスターのセンセイは下を向いた。iPadのセンセイは,画面をひたすらスクロールしている。

誰も声を発しない時間が過ぎた。

チンチンチンと,持ち時間終了を告げるベルが鳴る。

司会の院生がマイクをとった。

「それでは,2024年度修士論文発表会を終わりたいと思います。皆さん,お疲れさまでした」

「みんなすごい発表だった。よかったよかったよかった。いいねえ,みんなすごいよ。立派だよ」と,黒パンツが飛び起きて,甲高い声を出した。

「おー,終わったー」
「打ち上げだー」
「次は,公認心理師試験だぁ」

M2生は背伸びをしたり,両手を広げたりして,開放感を表現している。

身動きできないのは,自分だけだ。

キョウジュは何も言わず立ち上がり,教室後方のドアに向かって歩き始めた。

ミニキョウジュは,白い目のまま座っている。

「お疲れさま!」と,気になる同級生が笑顔で近寄ってきた。「これで終わったね!」

「ごめん。行かなきゃ!」

廊下に出ていたキョウジュの背中を追いかけた。

「センセイ!8 どうして……?」

キョウジュが振り返った。「何のことだ?」

「私のことは,嫌いだったはずでは……」

「学生に対して,好きも嫌いもない。そんなばかばかしい見方をしたことはない。私はいつも,議論の中に身を置いているだけだ。他の教員がまるで理解していなかったので,言いたくなっただけだ」

キョウジュは踵を返し,さっと研究室に入った。

「待ってください」と,追いかけた。

キョウジュは,二台並んだデータ解析用の大型モニターの前に立っていた。

「まだ,何かあるのか?」

「センセイは,私の考えがわかったんですね」

「きみの発表が良かった。それだけのことだ」キョウジュは,キーボードのキーを二度軽くたたいた。「私は病院時代,幼少期にひどい虐待を受けた患者の担当をしていたんだ。彼女は,アイロンを押し付けられ,山に捨てられ,残飯を食べさせられて育った。親は,彼女が小学校に入るころに蒸発した。セラピーは大変だったが,PTSD症状は軽快し,終結した。彼女は,私にだけ心を開くようになった」

キョウジュは,ちらと本棚の古びたフォトスタンドに目をやった。

「しばらくして,彼女は私に電話をくれた。癌で入院することになったと。私に保証人になってくれないかという依頼だった。ステージ4だった。天涯孤独の彼女は,『誰でもよいわけではない。先生にサインして欲しい』と言った。私は断った。臨床家としての倫理に反すると判断したんだ。多重関係になるからな。亡くなった彼女は,私に写真を一枚だけ残した。裏には,『先生,私は,少しでも人として生きられたかな?』と,書いてあった」

キョウジュの目に,うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。

「きみの発表が気づかせてくれた。私は,彼女と自分との境遇の違いに圧倒されたんだ。自分には何もできることがないし,何もすべきではないと思った。私の判断は,専門的には間違っていなかっただろう。しかし,人としてはどうか。今でも,わからない」キョウジュの目は遠くを見ていた。「やがて私は,臨床実践のエビデンス研究にのめり込んだ。きみからすれば,それもうしろめたさからなのかもしれないがね」

「そんなことはないと思います」

「どうかな。いずれにしても,私は彼女の問いかけにずっと応えようとしてきたし,ずっと逃げようとしてきた」

キョウジュの苦笑いは,爽やかに感じられた。

小さいころ,母親の自死に巻き込まれて亡くなった友人を思い出した。

「しかし,私はこの道に来たことを後悔していない。すべての人間的出会いは,個別的なものだ。我々は,すべての患者から専門性以前のものを求められるわけではない。基準を個別に変える心理療法もあろう。だが,個別性の追求は失敗のリスクをともなう。私は,臨床家が仕事の範囲を専門的内容に限定し,それ以上のことを考えないこと,限りなく一般化できる方法を探求することが,臨床家を守る方法だと思っている。きみとは違うかもしれないが,そう信じている」

「あの……」言葉が出なかった。「ありがとうございました」

一礼して部屋を出ようとした。

「待ちなさい」

振り返るのを待って,キョウジュは口を開いた。

「大学院ももう終わりだろう。外の世界を見ることだ。世の中は広い。今,この国で,正しいとか,間違っているとか,小さく議論されていることだけにとらわれないことだ。自分の道を探したらいい」

「……はい」

「おい。何してる。早く入りなさい!」

キョウジュは急にいつもの声に戻り,後ろの誰かに声をかけた。

「はい!」と,ミニキョウジュが横をすり抜けて研究室に駆け込んだ。彼を追うように,ひらひらとアルフォートの青い個装用袋が床に舞った。

PCに向かった二人の背中には,「Die Mauer in Berlin」が完成していた。


脚 注

5. 「アルフォートパーティパック業務用大袋」には,水色(リッチミルクチョコ)と青色(ミルクチョコ)の二種の個装がたくさん入っている。「ラ・ムー」でもよく販売されている。大好きな青色を一つだけ残しておいた。

6. (担当編集者註)またこのパターンか。

7. 「助教」と書く。以前は「助手」と呼ばれた。大学教員になりたい博士課程修了の新卒者が通る道である。あまりにもブラックな扱いに,授業を担当させるなら教員だからと「助教」と名前を変えるように文部科学省が通達した。しかし,扱いは大して変わりない。

8. ここまで来ても,カタカナだ。


    文  献
    • Li, J., Stroebe, M., Chan, C. L., & Chow, A. Y.(2014)Guilt in bereavement: A review and conceptual framework. Death Studies, 38(3); 165-171.
    • Mitchell, S. A.(2000)You’ve got to suffer if you want to sing the blues: Psychoanalytic reflections on guilt and self-pity. Psychoanalytic Dialogues, 10; 713-733.
    • Nabert, J.(1955)Essai sur le mal. Aubier.(杉村靖彦訳(2014)悪についての試論.法政大学出版局.)
    • Niederland, W. G.(1961)The problem of the survivor. Journal of the Hillside Hospital, 10(3-4); 233-247.
    • Togashi, K.(2024)A surprise of impermanence and radical unjustifiability. Paper presented at the 45th Annual Conference of International Association for Psychoanalytic Self Psychology, Rome, Italy.
    • 富樫公一(2024a)トラウマと当事者性,根元的罪悪感.2024年日本精神分析学会第70回大会教育研修セミナー発表原稿.
    • 富樫公一(2024b)治療関係における分断:当事者性と偶然性,根源的罪悪感.精神療法,50(6); 854-856.
    • 富樫公一(2025)臨床家への問いかけ(10)臨床家とは何者か.シンリンラボ,22. https://shinrinlab.com/toikake10/
    + 記事

    富樫公一(とがし・こういち)
    資格:公認心理師・臨床心理士・NY州精神分析家ライセンス・NAAP認定精神分析家
    所属:甲南大学・TRISP自己心理学研究所(NY)・栄橋心理相談室・JFPSP心理相談室
    著書:『精神分析が⽣まれるところ─間主観性理論が導く出会いの原点』『当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望』『社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか』(以上,岩崎学術出版社),『Kohut's Twinship Across Cultures: The Psychology of Being Human』『The Psychoanalytic Zero』(以上,Routledge)など

    目  次

    1コメント

    1. 物理学第一原理と格闘する仕事から転身し院を出てこの1年、「臨床家の仕事なんて存在しない」「臨床家なんてどこにもいない」と感じ、「どこにあるのか」と嘆いていましたが、先生の記事を読んで、自分や患者の中にある、もしくは自分や患者を通して浮かび上がるものを探そうと、こころを改めました。

    コメントを書く

    あなたのコメントを入力してください。
    ここにあなたの名前を入力してください

    過去記事

    イベント案内

    新着記事