富樫公一(甲南大学)
シンリンラボ 第21号(2024年12月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.21 (2024, Dec.)
患者・クライエントとは何者か。
いよいよ,本題である。
連載も残すところ,あと四回だ。
毎月公開日になると,知りうる限りの人にメールやLINEを送りつけ,「読まなくてもいいから,いいね♡だけは押してね」と,お願いするのもあと数カ月かと思うと感慨深い。
今はもう,「必ず感想を送りますね!」と言っていたステキな友人さえ,何のコメントもくれない1。
臨床家になる動機を問い,治療行為を問い,専門教育を問うた。準備は整った。ここからは,患者やクライエントとの出会いを問うてみたい。
あらためて強調しておくが,この連載で扱っているのは「倫理的転回」であって,倫理綱領や臨床倫理ではない。まして,「正しい臨床家のあり方」や「正義」の話ではない。むしろ,臨床家が「正しい」とか「正義」とか言い出したら,背景を問い直した方がよいという話だ。初回に述べたように,倫理的転回は「自分がいつの間にか取り入れていた道徳的な見方から抜け出して,自分たちがやっていることを見直そうというムーヴメント」(富樫,2024,上から1/3辺り)である。臨床家が信じる倫理綱領や臨床倫理,正しさについても,問い直す。
だから,「倫理的な先生の姿に感銘を受けました」といった類のメッセージを頂くことがあるが,まったくの勘違いだ。考える視座が倫理というだけで,本人が倫理的なわけではない。もちろん,善人のはずもない。倫理的転回は第一心理学である。専門的な知識や正解,価値観を知る以前の患者との出会いを考えようと言っているだけだ。
脚 注
1. 送りすぎた。↩
目の前の人の呼びかけ
さて,目の前に,専門的支援を求める人がいる。一般には,患者,あるいはクライエントと呼ばれる人たちだ。あなたにとって,その人は誰だろうか。
ばかばかしく聞こえるかもしれないが,真剣に考えるとなかなか難しい問いだ。
彼らは,一定時間必要な場所と機材を貸し出すと料金を支払ってくれるカラオケ客とは,明らかに違う重みをもって私たちに迫る。
多くの場合,心理相談の専門家は,患者やクライエントのために時間を確保することで,その対価を得る。もちろん,心理師は,様々な現場で,様々な専門性を持って働いているので,すべてがそうだというわけではない。重要なのは,彼らを治すことで対価を得ているわけでも,専門的な手続きを行うことで対価を得ているわけでもないことだ。治すことの報酬のつもりならば,治らなかった患者には返金しなければならないし,手続きを提供することの報酬ならば,自分で意味を理解できないやり取りで終わったセッションに料金は請求できない。
では,私たちは時間の確保しか考えていないのかというと,それも違う。私たちは,患者の訴えに対して,それだけではない何かをしようとするし,したいと思う。それは,私たちが患者の訴えに動かされているからだ。商取引契約以前の話だ。カラオケ店の客の訴えとは違う次元で,彼らの訴えに応じようとしてしまう。
もちろん,カラオケ店も,場所や機材を提供することだけを考えているわけではないだろう。善いカラオケ店は,客が安心して楽しめるように心を砕く。石田梅岩(1739/2021)の思想でいえば,買手に忠実・親切・正直であろうとする商人の心だ。それでも,それは,苦しみを訴える患者を前にして動くあの切実な何かと同じではない。
私たちは,目の前の患者やクライエントに縛られているのだ。
「私,苦しいです。何とかならないですか」と訴える患者の顔を見れば,動かされてしまう。「何か応じなければ」といった,逃れられない切迫感のようなものが湧く。
なにも湧かないという人もいるかもしれないが,たぶんそういった人は臨床の世界にはいない2。そういった人は,わざわざこの世界に入ってこないからだ。
臨床家は,患者からの呼びかけを無視できないのだ。
いや,私はそうやって訴える患者やクライエントに会うと,大抵,「煩わしい」とか「また始まった」と思って,相手にしないですよ。
そんなことを言う人もいるかもしれない。しかし,ちょっと考えて欲しい。確かに,そう思う人もいるだろう。それを「逆転移」と呼んで,理屈をつけて学会発表する人もいる。しかし,治療者がそう感じるのは,すでに呼びかけられているからだ。何かしら応じないといけないと思っているから,煩わしいのである。呼びかけに応答していない人は,何も感じない。倫理的転回で議論する応答性は,逆転移以前の動きなのである。
患者は,私たちを縛り,私たちに応答を求める人である。
脚 注
2. 自分はすべての患者を治せると豪語する知人はちょっと怪しい。↩
家族や友人とも違う
自分を縛り,自分に応答を求める人ならよく知っているぞ。
「あんた,今は好きにしてもいいけど,お父さんと私が死んだら,お墓だけは守ってね」と,20年間言い続けているあれだろ。
まったく関係ないわけではないが,その人と同じではない。
それは,儒教的,歴史的,文化的価値観に基づく義務や責任を呼び覚ます人だ。あるいは,服従を求める人である。患者やクライエントは,そういったもので私たちを縛り,応答を求める人ではない。
患者は,家族やパートナーと同じ意味で,自分の人生を直接変えてしまう人ではない。私たちは,彼らの変化に応じて,転居や転職を考えたり,生き方を変えたりしない。それに近い影響力を持つ場合もあるが,本来的にそうだというわけではない。臨床心理学はむしろ,専門家がそこまでの影響を受けないための手段を模索し続ける(鶴田,2024)。
では,患者やクライエントが,友人や知人のようなものかというと,それも違う。友人や知人は,「インスタ見てね」とか「いいね♡だけ押してね」と,ときどき連絡してくるが,「何かしなければ」という強さで自分に迫るわけではない3。
職場が同じでなければ接点さえなかった大学の同僚センセイとも,もちろん違う。教授会で,「忙しすぎて寝る時間もない」と訴えるやつれた顔を見ても,「大変ですねww」とは言うものの,「何かしてあげないと」といった強い思いに拘束されることはない4。
患者やクライエントは,家族とも,友人や知人とも,同僚センセイとも違う迫力で私たちの気持ちを動かす人だ。彼らは誰なのか。
脚 注
3. もしそうなら,連載の「いいね♡」は,今頃450くらいになっている。↩
4. しかし,自分が忙しさを訴えても,何もしてくれなかった同僚センセイへの恨みや憎しみは,定年後になっても決して忘れない。↩
傷ついた世界は患者の姿で現れる
答えは,「苦悩し,傷ついた人」だ(Orange, 2011)。
何だ,それ。当たり前じゃないか。
拍子抜けしただろうか。
そりゃそうだ。だから,彼らは患者なのだ。それに,患者でなくても,傷ついた人には動かされるものだ。相手が誰であっても,傷つきを訴えられればそれに応じざるをえないと,前回自分で書いたじゃないか。そんなの答えじゃない。
そうだ。当たり前だ。そして,確かにそのように書いた。
注意して欲しいのは,ここで述べているのは,ひとりの人としての患者(patient)ではないことだ。これは,私に傷つきを訴える唯一の『患者』(Patient)だ。つまり,苦悩と傷つきを訴えるすべての声として私に全面的な応答を迫る何者かだ。
第二回で述べたように,私たちは,わざわざそのような人に出会う仕事を選んだのだ。銀行マンになれば,もっときらびやかな生活を送れることも知っていた。大学院受験前には,「儲からないよ」とさんざん聞かされてもいた。それでも,わざわざ苦悩や傷つきを語る人の前に出ていくことにしたのである。
私たちは,そういった『患者』たちに,会わざるを得なかったのだ。彼らの声を,無視できなかったのである。患者の愚痴を吐く治療者でさえ,彼らに呼びかけられ,彼らに会うことから逃れられなかったのだ。だから,愚痴をこぼしても,会い続ける。世界には傷ついた人たちが無限にいることを知りながら,終わりなき出会いに身を投じたのだ。私たちは,最初から,苦悩し,傷ついた世界に呼びかけられ,縛られているのである。
臨床家でない人にとっては,患者やクライエントは傷ついた個人かもしれない。しかし,臨床家にとって,目の前の患者はただの個人ではない。彼らは,傷ついた世界そのものだ。
彼らはもちろん,それぞれが,特別な,その人だけの傷つきを持って現れたひとりの人である。しかし,臨床家は,業界に入る前から,その呼びかけを知っていた。その意味で,目の前のその人は,患者の姿で現れた唯一の傷ついた世界なのである。
修士論文の中間発表会
「……では,最後のスライドです。他者に呼びかけられて,初めてそれに応じる『私』が生まれます。倫理的転回は,これを根源的倫理と考えます。これをもとに,臨床的出会いを捉えるわけです。しかし,これは,人の基本的応答性です。先に述べたように,臨床家の患者への応答は,それを超えた重みがあります。それは,目の前の人がただの患者ではなく,唯一の『患者』だからです。それこそが,臨床家を臨床家たらしめているものです。これまでの倫理的転回の議論では,そのあたりが十分に考察されていません。本研究で私は,『患者』に対する臨床家の応答とは何かを文献から明らかにしたいと思います。倫理的転回は,専門的理論や技法以前の患者との出会い方を重視します。そこで,臨床家が理論を持たずに患者に出会うとは何かを考察し,それが『患者』に対する応答性をどのように生み出すのかを検討します」
修士論文の中間発表のスライドを,こう締めくくった。
ようやく見つけた自分のテーマだ。傷ついた世界は,患者の姿をして現れるのはわかった。問題は,臨床家が,なぜその声を無視できないのかだ。
チンと,発表時間終了を告げるベルが一回鳴った。
発表時間は15分,質疑応答は15分だ。うちの大学院の伝統では,15分で一鈴,25分で二鈴,30分で三鈴となっている。
時間通りに発表を終えたのだ。完璧だ。
大きくはないが,階段状の教室だ。発表のM25生は前に並んで座る。順番が来たら,前に出て演台のPCでパワーポイントを操作して話をする。
センセイたちは,思い思いに座っている。そういえば,会議や作業場面での座席間の距離を測定する研究があったな(Batchelor & Goethals, 1972; Giesen & Hendrick, 1977)と,妙なことを思い出した。
今の距離を測定して,センセイたちの互いへの嫌悪感情を測定したら,そのまま結果に出るかもしれないと,心の中でくすりと笑った。
コメントも質問もでない。
わかっている。いつもこうだ。
明らかに他の学生とは違う発表だ。
一つ前の発表タイトルは,「日本語版青年期SNS孤独心性他者意識ふれ合い動機づけ尺度の成人への適用:因子的妥当性と内的整合性,因子不変性の検討」だし,その前は「スクールカウンセラーの心理特性がクライエントとの面接継続動機に与える影響:MCTプラス6による構造とプロセスの質的分析」だ。
「唯一の『患者』と治療者の出会いの意味:倫理的転回の視座から」なんてタイトルをつける学生は,誰もいない。
しかも,4時間にわたる中間発表会の最後の演題だ。
やる気も萎える。
「えーと,いいですか」と,仕方なさそうに若手の男性のセンセイが手を挙げた。
マイク係はM1の女子学生だ。黒のリクルートスーツで走る。うちではなぜか,論文発表会になると学生はみんなスーツを着る。
「スライドさ。文字が多いなあ」センセイの第一声だ。「結局これ,文献研究でしょ? 研究方法も,手続きという手続きはないよね。データもないし。悪いってわけじゃないよ。こういう研究もあるんだろうしね。ぼくは知らないけど。ただ,これ,心理学なのかなあ?」
口角を上げ,声を出さずに笑うミニキョウジュの顔が目に入った。キョウジュと並んでいる。二人とも,「BERLIN」と印字されたトレーナーを着ている。先月の国際学会で買ったようだ。
「私は,これも臨床心理学だと……」
「いや,いい,いい,いい,いい」センセイは大げさに手を振った。「いいんだ。答えを求めたわけじゃないんだ。いろんな考えがあるしね。まあでも,文学研究科に行った方がいいよね,これは」
発表を終えたM2生から,失笑が漏れた気がした。
キョウジュのゼミ生たちは,あからさまにくすくすと笑っている。
先月食事をした同級生は,下を向いたままだ。
どう思われているんだろう……。暗い気持ちになった。
そのまま,沈黙が続いた。
毎回,これだ。まともな議論をしてもらったことはない。
指導教員のジュンキョウジュは,自分のゼミ生の発表では何も言わないので,何を考えているのかわからない。ただ,最近はゼミでも,「特殊な研究だから」とほとんどコメントはくれない。
「じゃあ,私から」と,研究室の壁に学会発表のポスターを貼っている女性のセンセイが甲高い声を出した。
マイク係は,駆け出そうとして足を滑らせた。すぐに体勢を立て直してセンセイのもとにたどり着いた。
「セラピストの話をしているのはわかるんだけど,結局,セラピストがどうすればいいということかな。技法以前の向き合い方って言うけど,向き合ってからどうするの? 技法が変わるの? もしそうなら,その検証方法はどうなってるの? 聞いても分からないんだよね。分かるように話すのがコミュニケーションです」
このコメントも,3回目だ。
「申し訳ありません。そのご指摘は前回もいただいたと思います。繰り返しですが,私が述べているのは,臨床的介入の話でも,治療方法の話でもありません。臨床家の姿勢というか,あり方についての理論的探求です。臨床家が,臨床場面で専門的に考えてしまう自分を考えるための考え方の研究です(Bacal, 2010)」
「専門的に考えている自分を考えるための考え方? それでどうなるの。私はそれを聞いているのだけど」
「自分がどのように考えているのかが見えやすくなると思います」
「そのままじゃない!」ぷっと噴き出した。「だったら,それで臨床技法が変わるんじゃないの? 臨床心理学の研究と言いながら,臨床的な示唆がわからないんですよ」
「それですよ。センセイのその考え方ですよ。それを再検証しようということです」
黙っていればいいのに,こういうことを言ってしまう。
センセイは顔をしかめた。「どういうこと?」
「私たちは,臨床の話をするとすぐに方法論になります。どうしてそんなに,『どうするか』の話が好きなんでしょうか。もともとの患者と治療者との出会いはそういうものではないと思うのです。患者の訴えを聞き,治療者はただそれに応えようとする。それから,方法を探すのだと思うのです。その順番が逆転したとき,最初の出会いの意味が失われます。技法に患者を当てはめるからです」
「だったら,専門家なんていらないじゃない。一体何を研究するつもりなのかわかりません」
センセイは投げ捨てるように,マイク係にマイクを渡した。
同級生が心配そうにこちらを見ていた。
「私から少し質問しよう」と,キョウジュが手を挙げた。
修士論文の発表会では,彼は一度もこの研究にコメントしたことはない。
今日はどうしたことだろう。身体に力が入った。
マイク係は,走り出そうとして,階段につまずき,派手に転んだ。
「いたたた」膝をぶつけたようだ。
足を引きずりながら,キョウジュの席にたどり着き,マイクを渡した。
「きみは,臨床家が理論を持たずに患者に出会うとは何かを検討すると言ったな。それはどういう意味だ?」
パワーポイントのスライドを,その部分に戻した。
「はい。研究の目的は,『患者』に対する臨床家の応答の中核を明らかにすることです。倫理的転回では,臨床家は理論を参照する前に,患者に出会います。臨床家は,患者の心に出会って初めて心理学を考え始めます。その最初の出会いを検討するという意味です。臨床家が,最初に患者の心にどう惹かれるのかを考察するという意味です」
「それはおかしい」キョウジュの声はよく通る。「矛盾がある」
ここでも,難癖をつけるつもりだろうか。「どういうことでしょうか」
「他者に呼びかけられて,初めてそれに応じる『私』が生まれると言ったな?」
「はい。そうです」
「そうであれば,臨床家は患者の心に魅かれない。臨床家は他者である患者に呼びかけられた瞬間にはまだ,生まれていないからだ。臨床家は,何も感じないはずだ。もし,臨床家が患者の心に魅かれているならば,臨床家にはすでに『私』があることになる。そうだとすれば,臨床家はその私をまず捨てなければならない。しかし,その私を捨てるのは私の意志だ。結局,永遠に私を捨てられない」
「あ……」と,思わず声が漏れた。
その通りだ。
「きみの発表も同じだ。きみは,理論を持つ前に患者に応じることが大切だという。しかし,それはすでに一つの理論だ。結局きみは,倫理的転回とやらに自分が望む価値観と正しい方法を探し出そうとしているだけだ。理論以前の臨床家のあり方を探すならば,その理論さえないところに身を置かなければならない。そうでなければ,きみが探求してようとしている臨床家の応答の中核は明らかにならないのではないかね」
キョウジュの目は,完全にこちらを捉えていた。
キョウジュの顔から視線を逸らすこともできず,立ちつくしていた。「はい……」と,溜息のような声を出すのが精いっぱいだった。
「要するに,きみは倫理的転回がわかっていないんだ」
ぐうの音も出なかった。
完敗だ……。膝から力が抜けた。
チン,チンと,ベルが二度鳴った。
「私は,理論や技法から抜け出そうとは思わない。もちろん,理論や技法がいつも正しいわけじゃない。それでも,私たちはその不確実性を引き受け続けるしかないんだ。きみみたいに,理論や技法を捨てた状態を想定するのは,理想に囚われているか,超越者になって責任から逃れているだけだ。それは大変危険だ。きみの言うとおり,私たちは患者の心に惹きつけられるのだ。それがあまりにも魅力的だからだ。油断すると私たちは,常にそれをほじくり出し,解体しようとする」
キョウジュの声は,心の奥まで響く力があった。
足に張り付く黒パンツで寝ていたセンセイが目を覚まして,きょろきょろと辺りを見渡した。
「だから,私はエビデンスに基づく臨床心理学を取った。理論や技法も,人間である自分も信じていないからだ。犯す可能性のある最悪の倫理的リスクを回避するために,エビデンスを求めたのだ。プロは,大成功する必要はない。ただ,絶対やってはいけない失敗をしてはいけない。もちろん,私の選択が絶対ではない。他のやり方があってもいい。ただ言っておく。きみの今のやり方では,患者と治療者の出会いの本質は見えない。きみが一つの価値観に囚われているからだ。最初に患者の心があるんじゃない。患者の呼びかけがあるんだ。すべてを忘れ,呼びかけそのものに向き合わなければ,何も見つからないぞ」
チン,チン,チンと,ベルが三度鳴った。
KOを告げるゴングのようだった。
「終わったあ」
院生たちが口々に声を上げた。
「あとは,最終発表会を残すのみだぁ」
「解析やり直しだぁ。間に合うかなあ」
「今日の打ち上げどこだっけ?」
院生たちが立ち上がり,荷物をまとめて出ていく。自分に視線を向ける者さえいなかった。
演台から,動くこともできなかった。
同級生がそばに寄ってきた。
「大丈夫? キョウジュは,倫理的転回を知っていたみたいだね」
本当だ。おそらく彼は,一度この道を通ったのだ。
廊下では,ミニキョウジュが漏れ出る笑いをこらえながらキョウジュを追いかけていた。「これであいつも,しばらく偉そうな態度はできませんね」
「物が見える人間は大変だな……」
「え?」と,ミニキョウジュは立ち止まった。
「いや,独り言だ」
言い残して,キョウジュはそのまま一人研究室に入った。
「私は,この道を選んだ。ただそれだけのことだ」本棚の古びたフォトスタンドを手に取った。一人の女性の顔写真が入っている。「臨床家は完ぺきではないからな」
脚 注
5. 大学院では,修士課程一年生がM1,二年生はM2と呼ばれる。博士課程はそれぞれ,D1,D2,D3と呼ばれる。人文系では,教員より大学に詳しいD6生も珍しくない。↩
6. スイーツ好きの中高年に嬉しいブルボンの隠れた名ブランド↩
臨床家とは何者か
『患者』は,苦悩し,傷ついた者だ。
臨床家は最初から,それに呼びかけられ,縛られている。苦悩を訴える人から目をそらすことができないのだ。
なぜ,臨床家は,目をそらすことができないのだろうか。臨床家とは何者なのだろうか。
探求はまだ終わらない。
文 献
- Bacal, A. H.(2010)The power of specificity in psychotherapy: When therapy works-and when it doesn’t. Northvale, Jason Aronson.
- Batchelor. J. & Goethals, G, R.(1972)Spatial arrangements in freely formed groups.Sociometry, 35; 270-279.
- Giesen, M., & Hendrick, C.(1977)Physical distance and sex in moderated groups: Neglected factors in small group interaction. Memory & Cognition, 5; 79-83.
- 石田梅岩(1739)都鄙問答.(加藤周一(訳・解説)(2021)中央公論新社.)
- Orange, D. M.(2011)Suffering stranger: Hermeneutics for everyday clinical practice. New York: Routledge.
- 鶴田信子(2024)社会として心理支援者をケアする支援者支援モデル構築の試み─ケアの倫理の実践可能社会であるために─.日本心理臨床学会第43回大会会員企画シンポジウム5発表原稿.
- 富樫公一(2024)臨床家への問いかけ(1)はじめに:精神分析の倫理的転回と問いかけ.シンリンラボ,13. https://shinrinlab.com/toikake01/
富樫公一(とがし・こういち)
資格:公認心理師・臨床心理士・NY州精神分析家ライセンス・NAAP認定精神分析家
所属:甲南大学・TRISP自己心理学研究所(NY)・栄橋心理相談室・JFPSP心理相談室
著書:『精神分析が⽣まれるところ─間主観性理論が導く出会いの原点』『当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望』『社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか』(以上,岩崎学術出版社),『Kohut's Twinship Across Cultures: The Psychology of Being Human』『The Psychoanalytic Zero』(以上,Routledge)など