臨床家への問いかけ(8)応答の仕方をどのように身につけるのか|富樫公一

富樫公一(甲南大学
シンリンラボ 第20号(2024年11月号)
Clinical Psychology Laboratory, No.20 (2024, Nov.)

臨床家は,応答の仕方をどのように身につけるのか。

私たちはいつも,患者やクライエントに,コメントしたり,質問したりしている。黙ることもあるし,情緒で反応することもある。その方法をどうやって獲得するのか,という問いだ。

なんだ,そんなことか。答えは簡単だ。『心理面接は簡単!』の帯がついた入門書で学ぶんだ──そんな声が聞こえてきそうだ。

本当にそうだろうか。

なるほど,第一章「ラポールを作ろう」には,具体的な言動の例が載っている。

【ポイント☝】 クライエントに会ったら挨拶をして,「今日は暑いですね」と,気候などを話題にしながら,リラックスできる雰囲気を作る。
【ポイント☝】 クライエントの話のリズムに合わせながら,「あなたは~という気持ちになったのですね」と丁寧に映し返す。

これはすごい。

「初めてのデート会話術」かと思った。

こんなことは,気にしたことがない。挨拶するのは,人として当たり前のことだ。気候の話などわざわざしない。あまりにも暑すぎたり,寒すぎたりすれば,「今日の気温は耐えられないですね」くらいは言うだろう。しかし,そんなことは,大嫌いな同僚センセイと大学の廊下で鉢合わせしたときでさえ,口をついて出てくる。ただの感想だ。

「あなたは~という気持ちになったのですね」もそうだ。そんなセリフを吐くこともあるだろうが,意識してやることではない。普段から誰に対してもやっている。学会後の宴席で,同僚の愚痴を聞くときには,「まじすか。そこまで言うなんて,よほど,むかついたんすね」とほぼ毎回言っている。言い方は丁寧ではないが,同じことだ。

それは,人付き合いの会話法だ。ここで問う応答は,そういったことではない。

もちろん,入門書が言わんとすることもわかる。心理療法は人同士の信頼関係を基に成り立つとか,患者は情動を妥当化されたり,映し返されたりする環境の中で自分の体験を知り,情緒的に成長できるようになるとか,そういったことだろう。しかし,そこで知るのは,心理療法の基盤となる価値観や理念だ。

逐語千本ノック

スーパーヴィジョンはどうだろうか。

応答の仕方はそこで学ぶ。そうした意見もあるかもしれない。

確かに,そこでは,経験豊富な臨床家とともに自分の実践内容をチェックする。

臨床心理士のほとんどは,院生時代からこれをやっている。大学院によっては,学外のスーパーヴァイザーが用意されている。院生は,リストから気に入った人を選び,依頼する。

初めてのときは,緊張と不安,期待でいっぱいだ。「このセンセイは,すごい人だよ1」と,前評判は聞いている。

ドキドキしてオフィスに到着すると,スーパーヴァイザーは,ぴちぴちの黒の皮パンに,ドクロの黒Tシャツで登場する。髪にはシルバーのメッシュが入り,ベルトには鎖がついている2

「すごい」って,これだったのか?

大学院の臨床センターでは,クライエントの面接をする際に「臨床家としても,社会人としても,ふさわしい服装にしましょう」と,うるさいくらい指導されている。あの話はどこにいったのか。

報告の前に,クライエントとのやり取りを逐語的に書き起こした紙をスーパーヴァイザーに手渡す。A4用紙5枚くらいになることもある。全部読むだけで,スーパーヴィジョンのセッション時間半分くらいは費やしてしまうような代物だ。

この逐語起こし,いつ,どこから始まったのかわからないが多くの人がやる。友人Nはこれを千本ノックと呼んでいる。45分から50分のセッションのやり取りを,そのまま文字にする。

クライエントの発言は「」,セラピストの発言は〈〉で表現する。理由もルーツもわからないが,そういうことになっている3

「先生,私,前回のセッションからすごく気になることがあって……」
〈どうされたんですか?〉
「言ったら失礼かと思って言えなかったんですが……どうしようかな。こんなこと,言ってもいいのかな」
〈ここは,どんなことでも言っていただいて構わないんですよ〉
「じゃ,勇気を出して言いますけど」
〈はい〉
「どうして先週から,急にそんな皮パンに,ドクロの黒Tシャツを着るようになってしまったんですか?(涙)……先々週まで,とても爽やかな服装だったじゃないですか。あんなに素敵だったのに。ちょっとびっくりして。今日なんかもう,髪にシルバーのメッシュまで入れて……(泣)……先生をそんな風にさせた人は誰ですか」

こんな感じである。

私は,日本の逐語教育を受けたことがないので,一度しかやったことはないが4,一時間近いセッションをこの調子で書き起こすのは大変だ。大抵は面接の3倍以上の時間をかけてやる。

記憶を頼りに,できるだけ正確に起こすことを目指す。

今は,AI搭載の高性能逐語起こしアプリがある。研究でよく使うが,3時間近いインタビューを20分ほどでほぼ完ぺきに逐語化できる。

逐語が大事なら,許可を得て録音すればよいと思うが,この伝統の中ではだめだ。

〈自分で思い出し,想いを込めて一つひとつ逐語に起こすから意味があるのだ〉と,キョウジュはいう。

一文字一文字心をこめて書き上げろというわけだ。臨床心理道だ。

〈これをやらないと,臨床家として大成しない〉と,熱っぽくキョウジュは主張する。

「でも,記憶を頼りにしているわけですから,本当にそうしたやりとりだったのかはわからないですよね」

〈できるだけ正確に記憶することを心掛けて面接室に入る。その気で入れば,ぴんと張り詰めた中で真剣に話を聞くことができる。全力で思い出そうとするなら,逐語は必ずしも正確でなくてもよい。出てこなかったり,間違ったりしたとしても,その意味を探索すればよい。いずれにしても,面接中一瞬の気も抜くことなくその場にいれば,完全に忘れることはない〉

古武士の世界である。

スーパーヴァイザーは,気になった部分についてコメントをくれる。多くの場合,質問かダメ出し,クライエント理解や治療経過,関係性についての意見だが,たまに「自分なら,こんな風に伝える」とか,「こうやって言うといいよ」と教えてくれる。

しかし,やりとりのすべてを取り上げるわけではない。しかも,スーパーヴァイザーと話をするのはほとんど事後だ。あとから振り返って,この言い方が良かったかもねと言われるだけだ。「ステキな言い方を教えてもらった。一年間高いカネを払ってきたが,初めてダメ出し以外の役に立つ話を聞いた。同じ場面が来たら,こいつを使ってやろう」と待ち構えても,その瞬間はまずやってこない5。刻々と変化する治療関係に同じ状況はない。彼らには使い勝手の良いセリフも,自分は合わないこともある。

スーパーヴァイザーから聞いたセリフが何の参考にもならなかったとは言わないが,少なくとも私の場合,聞かされたことのほとんどは記憶に残っていない。覚えているのは,彼らの注目するポイントとか,質問のタイミング,状況の捉え方,あるいは,やってはいけないと言われたことだ。

そこで知ったのは,やはり,心理療法の価値観や理念である。


脚 注

1. 何がすごいのかは語られないが,代々そう伝えられている。

2. 実話だ。

3. たぶん,あの大学のあの人たちがルーツだろうとは思っているが,ここには書かない。

4. 興味本位で見様見真似でやってみた。もう二度とやりたくない。

5. 「こんなの使えないじゃん」とあきらめた1年後に,別のケースで使えそうな場面に出くわすが,そのときには忘れている。結局使えない。


儀式的手続きは知っている

では,書籍やスーパーヴィジョンから,何のやり方も学ばなかったのかと言うと,そういったわけでもない。そこで学んだ価値観や理念は,儀式的手続きとして頭に入っている。むしろ,その手続きに組み込まれていると言った方が良いかもしれない。

私の場合は精神分析だから,患者や治療者の欲望の性質や自我機能,対象関係のパターン,自己感覚のあり方,対人関係の傾向などに自動的に目が行く。そうした要素の扱い方も脳に刷り込まれている。「相手を大切に思えば思うほど,相手から排除されると体験するパターンですね」など,現象を切り出すセリフは,幾通りも出てくる。

精神分析の介入方法も叩き込まれている。抵抗や転移といった形で関係に表れたものを,直面化,明確化,解釈,ワークスルーという流れで扱う作業だ。そのための言い回しはいくらでも知っている。最近,患者の活力が落ちているなと思えば,「この頃,元気がないですね。私と話していて感じていることはありますか」という問いは,すぐに頭に浮かぶ。

危機介入的な対応も知っている。患者や関係者の命や身体にかかわる危険や,心身状態の悪化を観察すれば,速やかに介入するし,その方法は頭の中にリスト化されている。その他,患者の発達水準や,発達特性,病態水準,能力の偏り,年齢や文化による特徴,トラウマの内容や性質など,診断やアセスメントにかかわる内容ごとに,注意すべき応答の性質や方向性の知識も,可能な限りアップデートしているつもりだ。

最終的には,状況を総合的に見て自分の言動を決定する。私の場合は,間主観的,関係論的な視座から見る。患者と自分の体験がどのように影響し合って協構築されているのか,関係の即興的リズムはどう生み出されているか(Knoblauch, 2018),関係は膠着していないか,支配-服従の関係になっていないか,権力関係の影響はどの程度かといった視座である。患者が組み込まれた家族やコミュニティの状況,社会的・歴史的・民俗的・宗教的背景,トラウマなども広く参照する。

では,そうした儀式的手続きがここでいう応答かというと,それも違う。

儀式的手続きがそのまま行われる状況を考えてみるとわかる。教科書で決められたことだけを臨床家が発言するような状況だ。それは,死んだ儀式であって,応答ではない。治療者は,患者に対して何も応じていないからだ。

応答とは,儀式的手続きと,それに縛られようのない自発性との間に浮かび上がるものだ(Hoffman, 1998)。

応答の怖さ

応答は,倫理的転回の原点である。

治療者の言動は,患者に何らかの影響を与える。患者はそれに,希望を見いだしたり,傷ついたり,悲しんだり,喜んだり,安心したりする。それによって,関係も変わるかもしれない。患者は私たちに服従するかもしれないし,敵対するかもしれない。

治療者の言動は,患者の人生を決定的に変えることもある。何気なく発した言葉のせいで,患者は誰かとの関係を終わらせるかもしれない。自分の言動は,患者にどのように捉えられるのかもわからない。共感的に発したつもりのコメントでも,患者は叱られたと体験するかもしれない。

考えてみれば,これほど怖いことはない。

心理療法は他者の心に影響を与える作業だから,当たり前と言えば当たり前だが,自分の言動が,相手の人生や価値観,道徳観を変えるかもしれないのである。しかも,それが意図したとおりに相手に受け止められる保証はない。

しかし,私たちはそれから逃れられない。治療者は,応答するためにそこにいるからだ。「先生,何とかしてください」と言われたら,専門的に何ができるのかを考えなければならない。それをしないなら,もはや治療者ではない。

人としてもそうだ。

他者は,避けようのない拘束力を持って,私たちに人として応じるように迫る(Lévinas, 1969)。「こんにちは」と顔を向けられれば,私たちはそれに応じるしかない。「そんなものは習慣的にやっているだけだ」という人もいるかもしれないが,その習慣は相手に縛られている。応答しないことを考えてみるとよくわかる。自分をまっすぐ見て「こんにちは」と微笑む人に対して,何も言わないのは相当な努力がいる。罪悪感や恥,疚しさがもやもやと湧く。相手の人間性を無視することになるからだ。

私たちは,専門家としての応答と,人としての応答との間で葛藤にも陥る。「先生,助けて。私を抱きしめて。このままだと私は壊れてしまう」と訴える患者を前にして,自分で自分を支える力を育むことを大切にする価値観と,今壊れそうな相手の欲求に応じることを大切にする価値観との間で迷う。どちらがより善いのか,画一的な答えはない。臨床家が応答するというのは,その怖さを背負うことだ。

問題は,その応答を私たちがどのように身につけたのかだ。

儀式的手続きを学ぶ倫理的問題

「ケースを担当するようになって一年経つけど,最近,思うんだ。クライエントに何かを言うって,本当に難しいなって」

お通しの小鉢に箸をつけながら,テーブルの向かいに座る同級生に語り掛けた。

「うん。最初は授業で聞いたこととか,ヴァイザーに言われたこととかそのまま使ってたけど,大体うまくいかなかったなぁ」

同級生は,ウーロンハイを大切そうに抱えて飲んだ。

やっとたどり着いた二人だけの食事の日だ。

先月,授業終わりに思い切って声をかけたら,オーケーしてくれたんだ。あれから,毎日この日のことばかり考えていた。

今日は,二人とも大学の臨床センターでケースだった。臨床には真剣なつもりだが,今日だけは早く夕方にならないかと思ったものだ。

最後のケースを終えて控室に戻ると,同級生は猛烈なスピードでキーボードをたたいていた。逐語起こしだ。

「あと10分待ってね。もう終わるから」

笑顔でこちらを振り向いたが,その指先が止まることがない。

……速い。「北斗百裂拳」とあだ名されるだけのことはある。

宣言通り10分で終わらせた同級生は,上着を掴んで立ち上がった。

「行こ!」

それから,この洋風居酒屋まで一緒に歩いてきた。学生がよく利用する店だ。

ネットでステキな店をたくさん見たが,結局ここに決めた。

初めての食事は,普段使いのところにしておけと,スーパーヴァイザーに言われたからだ。これまでで一番役に立った彼のアドバイスだ。

「キョウジュは国際学会に行ってるんだよね」

「うん。ミニキョウジュもついて行ったみたい。ベルリンまで12時間近くかかるらしいんだけど,ずっと一緒らしいよ。一生離れないね,あれは」と,同級生はおどけたように笑った。

やばい。どきっとした。笑顔がやっぱり魅力的だ。

ごまかすために,箸を取った。

鳥の唐揚げを一つほおばってから,梅酒サワーでのどに流し込んだ。

「この業界ってさ,儀式的手続きが多いと思うんだよね。センセイたちの話も,これはだめだとか,こうしないといけないとか,そんなことが多くない? これに結構悩むんだ。結局それって,道徳観やイデオロギーによる支配だと思うんだよ」

「どういうこと?」

「儀式的手続きの倫理問題と言ってもよいと思う。たとえばね,心理業界には,人は自立して生きるべきで,成熟した人は人に頼らないみたいな社会文化的発達論が基本的にあると思うんだよ。それはでも,現代のこの業界の道徳観でしょ? 千年前の日本人も同じように考えていたわけじゃないよね。でも,専門家はそれを疑わない。疑ったらさ,『先生,助けてください』と震えるクライエントを前にしても,『私が助けます』と言うべきではないと即答するような単純な教育はできないよ。扱っているのは,人の心だよ。これはだめだとか,こうすべきとか,そんなにはっきり言えるのは,人の心はこうあるべきとか,こうなってはいけないという結論があるからだよ。儀式的手続きの教育自体が,特定の道徳観による支配を導くというわけだ」

「なるほどね……。あ,これおいしい」酒蒸しのアサリを口にした同級生は,口元をほころばせた。「学生は『こうすべき』『これはだめ』は教えられるけど,背景の道徳観を内省する方法はあまり教えられないもんね。教えられたまま動く専門家は,教えられたままの道徳観を患者に植え付けるということだね」

「最近,『倫理的転回』とか言っている変なセンセイの本を読んだんだけど,その人はそれを,臨床家による植民地化の問題と言っていたよ(富樫,2021)」

「あー,その人,聞いたことある。中途半端な知識で,批判めいたことばかり言っている人だよね。去年学会で見たけど,ナルシストっぽかった」

「やっぱり? 研修会でちらっと見たけど,同じことを思った」

顔を見合わせ,同時にぷっと笑った。

やっぱり,話が合う。研究室もオリエンテーションも違うけど,同じ道徳観を共有している気がする。こんな人と付き合えたらステキだ。空想が膨らんだ。

自発性の倫理的問題

「もう一つ,倫理的問題があると思うんだ」酔いも回り,かっこつけ始めているのは自覚していたが,止まらなかった。「応答の自発性の問題だよ。儀式的手続きといっても,一対一対応じゃないでしょ? 専門家は常に,複数の選択肢の中から言動を決めていく。『私を助けてください』という訴えに対して,『それはどんな意味ですか』と聞くこともできるし,黙っていることもできる。『それはできません』もあるし,『落ち着いてください』もある。言葉だけでなく,涙を流すとか,手を差し伸べるとかもあるよね。専門家は,数限りない応答方法から一つを選択する。でもさ,どの方法を選択しても,それがベストだったかどうかは絶対に知ることができないんだよ。それ以外の選択肢は,すでに選ばれていないから。応答に関して,治療者はいつも不確実性と不可知性の中にいるんだ。治療者は何が最良なのか絶対にわからない中で,クライエントの訴えに応じるしかない。認識論と倫理の接点だね(Hoffman, 2001)」

「それって,かなり怖いことだよね。専門家なのに,確実なことがわからないまま仕事をしないといけない。そうなると,儀式的手続きだけに頼ったほうが安全だと思う人も出てくるよね……」

「うん。その方が安心だからね。でも,そうなると,結局儀式的手続きの倫理的問題に立ち戻る。だから,専門家は,儀式的手続きに引き寄せられる誘惑の中に身を置きながらも,不確実性を引き受け続けるしかないんだ。その怖さに耐えらないと,あっという間に自分が儀式化する。だけど,もっと怖いのは,臨床心理業界の教育システムが,不確実性に耐えられず,専門家養成自体が儀式化する可能性だよ。というか……」

「すでになりかけているかもしれない」と,二人の声がぴったり合った。

「怖いね」同級生が顔を曇らせた。「自分たちはもう,その教育の中にいるのかもしれない。気がつかないうちに,自分が教科書になっているかもしれないってことだよね」

「うん。だから,学生でも,おかしいと思ったらおかしいと言うべきなんだ。どんな教育を受けようが,結局大切なのは,目の前のクライエントの訴えに応えることだから」

かっこつけすぎかもしれないが,自分の決意を伝えたつもりだ。

頭には,いつかやってくるキョウジュとの対決が浮かんでいた。

何を大切にすることを学んできたか

専門的コミュニティは,道徳観とイデオロギーを背負って私たちに呼びかける(富樫,2023)。患者も治療者も,その道徳的達成を目指すべきではないか,と。目の前の患者は,その道徳観に引き寄せられながらも,それに従えないことに苦悩して私たちに助けを求めるかもしれない。私たちは,その間で応答する。

私たちは,その応答を見て,自分が何を⼤切にするように訓練されてきたのか,⾃分が何を⼤切にすることを学んできたのかを初めて知るのかもしれない。

文  献
  • Hoffman, I. Z.(1998)Ritual and spontaneity in the psychoanalytic process: A dialectical-constructivist view. Hillsdale, NJ: The Analytic Press.(岡野憲一郎・小林陵(訳)(2001)精神分析過程における儀式と自発性.金剛出版.)
  • Hoffman, I. Z.(2001)Reply to reviews by slavin, stein, and stern. Psychoanalytic Dialogues, 11; 469-497.
  • Knoblauch, S. H.(2018)Attention and narration to micro-moment registrations of embodied dialogue in the clinical interaction: How are we doing?. Psychoanalytic Inquiry, 38; 502-510.
  • Lévinas, E.(1969)Totality and infinity: An essay on exteriority. Pittsburgh: Duquesne University Press.(熊野純彦(訳)(2005)全体性と無限.岩波文庫.)
  • 富樫公一(2021)当事者としての治療者──差別と支配への恐れと欲望.岩崎学術出版社.
  • 富樫公一(2023)社会の中の治療者──対人援助の専門性は誰のためにあるのか.岩崎学術出版社.
+ 記事

富樫公一(とがし・こういち)
資格:公認心理師・臨床心理士・NY州精神分析家ライセンス・NAAP認定精神分析家
所属:甲南大学・TRISP自己心理学研究所(NY)・栄橋心理相談室・JFPSP心理相談室
著書:『精神分析が⽣まれるところ─間主観性理論が導く出会いの原点』『当事者としての治療者─差別と支配への恐れと欲望』『社会の中の治療者─対人援助の専門性は誰のためにあるのか』(以上,岩崎学術出版社),『Kohut's Twinship Across Cultures: The Psychology of Being Human』『The Psychoanalytic Zero』(以上,Routledge)など

目  次

1コメント

  1. では。この文章に臨床家としてどう応答するのか。ここではたと思考が止まりました。そもそもなぜ最初の問いが立ったのかとも思っています。富樫先生の御優しそうな表情の写真も頭をかすめましたし、先週末に取り行ったウィニコット・フォーラムで使用したスライド(遊ぶことってどんな経験をすること?って問いを立てた内容)のことも思い出してまいりました。そうそう。文中の同級生さんが同性なのかどうかも気になっております。富樫先生とお会いした時に、お尋ねしてみたいものです。彼はどう応答するのでしょうか。楽しみ。その応答によってワタクシの中になんらかの体験がもたらされ、その後の人生の選択にも関わっていくのかもしれません。関わらないかも、ですが。ではでは~。

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